第7話
「……おい、気づいてるか」
帽子の中から、トリハシルの低く尖った声が響いた。
「……ああ。面倒だな」
テネシアは足を止めない。背後の気配を皮膚で感じながら、意識の片隅でその性質を探る。夜のグレンデル。人通りの少ない通りを抜け、テネシアはあえて濃密な闇が沈む路地裏へと足を進めていた。石畳には薄い霧が流れ込み、ガス灯の頼りない光がゆらりと揺れている。
「随分と気配の殺し方が巧みだ。そこらのチンピラじゃねえな」
「魔力の流れも隠蔽している。厄介そうだな」
トリハシルの舌打ちが聞こえる。テネシアは黙ったまま、ゆっくりと曲がり角を折れ、暗がりの袋小路に誘い込んだ。背後で、追跡者の足音が慎重に止まる。
数秒の沈黙。テネシアは壁に背を預けると、自身の魔力はおろか、存在そのものの輪郭を闇に溶け込ませた。
「……っ?」
突如として目標の気配が消失し、追跡者が戸惑いの色を見せた、その刹那。背後に回り込んだテネシアの手が、寸分の狂いもなく彼女の背中に触れた。
「誰だ。目的は何だ」
まるで脳髄に直接響くような低い声。女は咄嗟に振り返ろうとするが、その首筋に硬質な何かが突きつけられる。
「動くな。次に魔力が僅かでも揺らげば、その首を刎ねる」
路地裏の灯りに照らされたそれは、テネシアの手から伸びる魔力で形成された、淡く青白い光を放つ半透明の刃。凝縮された魔力が、夜の空気をビリビリと震わせる。
「……やるわね。まさか、完全に看破されていたとは」
女の声は落ち着いていた。年若いが、厳しい訓練を窺わせる響きがある。テネシアは目を細め、フードの奥の顔を窺う。黒衣に身を包んだ、金色の髪。冷え切った青い瞳が、こちらを射抜くように見返してきた。
「警告はしたはずだ。もう一度聞く。誰だ。目的は何だ」
沈黙が答えだと判断し、テネシアは容赦なく光の刃を振るう。女は驚異的な反応速度で後ろに飛び退いたが、刃は彼女のローブの肩口を焼き裂き、露わになった肌に一条の赤い線を描いた。
「っ……!」
女は懐から黒曜石の杖を抜き放つと、その姿が陽炎のように揺らいだ。刹那、テネシアを取り囲むように三人の女が出現する。どれも寸分違わぬ姿、同じ魔力の反応。幻影魔法だ。
同時に、三人の足元から影が伸び、鋭利な刃となって無音でテネシアに襲いかかる。
「幻と影か。芸達者だな」
テネシアは目を閉じ、聴覚と肌で空気の微かな振動を探る。心臓の鼓動、呼吸、魔力が練り上げられる際の僅かな揺らぎ──。
「──そこだ」
呟きと共に放たれた魔力弾が、一直線に右奥の幻影の足元に着弾した。
「なっ……!?」
驚愕の声と共に、二人の幻影が掻き消える。本体を見抜かれた女は、咄嗟に後方へ跳び、路地裏の闇へとその身を溶け込ませた。今度は気配さえも完全に消える。光学迷彩と消音を併用した、完璧な潜伏。
「おい、完全に消えやがったぞ!どこだ!?」
トリハシルが焦った声を上げる。
だが、テネシアは動じない。ただ静かに刃を構え、神経を研ぎ澄ます。
死角である背後から、無音の殺気が迫る。しかしテネシアは振り返ることなく、背面に構えた手刀でそれを弾いた。キィン、と魔力がぶつかる甲高い音が響き、闇の中に火花が散る。
「隠れているつもりか?お前の心臓の音がうるさいぞ」
テネシアの挑発に、闇の奥で空気が揺れた。焦りか、怒りか。次の瞬間、女は最大の奇襲を仕掛ける。テネシア自身の足元から伸びる影。そこから、まるで沼から這い出るように女が実体化し、至近距離から杖を心臓めがけて突き出してきた。回避不可能な絶対の間合い。
だが、テネシアはそれすら読んでいた。
「お前の魔力の癖は、最初の一撃で覚えた」
女が影から完全に抜け出し、攻撃がテネシアに届く、その刹那よりも早く。反転したテネシアの青白い刃が、閃光のように煌めいた。
バシュッ、 という肉を断つ生々しい音と共に、女の右腕が肘から先を失い、杖ごと地面に転がった。
「――っ、あ……っ、ああああああああっ!」
女の絶叫が、夜の静寂を引き裂いた。テネシアは一歩、無感情な足取りで近づく。
「次は左腕だ。早く答えろ。何者で、何の目的で私を尾けていた」
「っ……ひ……ぅ……」
女は声にならない呼吸を繰り返し、それでも唇を固く結んでいた。歯を食いしばり、脂汗と涙に濡れた顔を伏せる。テネシアは光の刃をゆっくりと持ち上げ、その切断面に突きつけようともう一歩踏み出した。
「──アスト……ラル……セクト……それ以上は、言えな……っ」
その名を口にした瞬間、女の背中に刻まれた紋章が禍々しい光を放ち、彼女の体は激しく痙攣した。呪いか、あるいは強制力を持つ契約か。
「アストラル・セクト……?」
その名前に、テネシアの目が鋭く細められる。
(どこかで聞いた名だ……確か、表向きは『世界に豊かさをもたらす善良な魔女たちの連盟』……)
SNSのニュースフィードで見た理想論と、目の前で血を流す刺客の姿とが、まるで結びつかない。
「……何のつもりだ。世界の秩序とやらを掲げて、裏では人斬りをやっているのか?」
女は、もはや何も答えなかった。ただ震え、痛みに喘ぎながら、目を伏せるだけ。
その沈黙が、何より雄弁な肯定だった。
「なるほど。ならば、やるべきことは一つだ」
テネシアは、苦しむ女に背を向けて歩き出す。
「……おい魔法使いのボンボンのガキ」
トリハシルの声が、帽子の中から響いた。
「まさか、アストラル・セクトとやらを敵に回す気じゃ……」
「そうだ。十中八九、アイリスはこの組織に囚われているか、あるいは利用されている。調べるぞ」
「……やれやれ。お前、敵を作ることにかけては天才的だな」
「もう手段を選べるほど、私に余裕はない」
その声は低く、どこまでも冷静だったが、その奥には氷のような怒りが燃えていた。
帝国の闇、否、世界の闇が、静かに牙を剥き始めていた。
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