第6話
カフェを後にしたテネシア・バレンタインの足音が、夜の石畳を淡く反響していた。肌を刺すような冷たい風がグレンデルの通りを吹き抜け、ランプの灯火を揺らす。
「……どこへ行く……?」
目的もなく歩いている自分に気づき、心の中で苦く笑った。その笑いは、自分への苛立ちと、どうすることもできない現状への空虚感を孕んでいた。
帝都の自宅に戻ることも、ふと考えた。しかし、すぐにその考えを振り払った。グレンデルと帝都の間には高速鉄道で半日以上かかる距離がある。いや、それ以前に──あの高台に聳え立つ、侯爵バレンタイン家の門前に立ち尽くし、己の無力さを突きつけられる自分の姿を思うだけで、胸が潰れそうだった。
侯爵家バレンタイン家。帝国に忠誠を誓い、代々名高い魔法使いや軍人を輩出してきた名門。豪奢な屋敷の門には、黒地に銀の双頭竜が刻まれた帝国の紋章が燦然と輝いていたはずだ。
「……今さら、何を言えばいい……? あの時、あんなにも家族の声を振り切って……」
ポケットの中で、スマートフォンが微かに震えた。着信があったことを告げる控えめな通知音。画面をのぞけば、父から、母から、兄から、家令から。次々に未読のメッセージが並んでいる。罪悪感に似た痛みが胸を締め付けたが、テネシアは無言のまま、スリープボタンを押した。画面が消えれば、その重みも消える気がした。
「……俺は……」
あのときの光景が蘇る。教室の窓の外に見えた空。突然届いた緊急メッセージ。
《助けて》
送られてきた座標データ。帝都の郊外、グレンデルの北に広がる《ノルドの森》。魔獣の目撃情報が絶えぬ、誰も近づかぬ森の奥だった。
ほんの刹那、授業中であることに足が止まりかけた。教師の怒声、クラスメイトの視線。それでもテネシアは、立ち上がり、すべてを振り切って教室を飛び出した。
だが、間に合わなかった。
小さな声が帽子の中から響いた。
「……坊っちゃん、そろそろ考えてはどうですか?」
トリハシルの声だ。いまはただの帽子のふりをして、彼の頭に収まっている悪魔の声。
「考える……だと……何を……」
「チッ、このまま彷徨って、どうなさるおつもりです? せめて次の手をお決めなさい。じゃなければ……坊っちゃんが壊れますよ」
その声は冷たくもあり、どこか不器用な優しさを滲ませていた。
夜風が帝国旗を揺らした。黒地に銀の双頭竜が、暗闇の中で誇り高くたなびく。風に絡まり、ばさりと音を立てた。
「トリハシル……俺は、どうすれば……」
帽子は沈黙したまま。テネシアの弱さを試すかのような沈黙だった。
「……幼なじみの敵討ち以外にあんのか?」
分かっている。だからこそ苦しいのだ。今の自分はあまりに無力だ。
テネシアは空を見上げた。雲が重く垂れ込め、星一つ見えない。
(なら……行くしかない)
スマホを見やる。未読のメッセージの山が心を締め付ける。けれど返信のボタンに指は伸びなかった。
(家に戻れば、私はきっと……ただの息子に戻るだけだ)
アイリスの笑顔が胸に焼き付いていた。花冠をかぶり、そっと寄り添ってきた、あの無邪気な微笑み。
あの笑顔を奪った魔女を許すわけにはいかない。
夜の街を歩き出す。石畳を踏みしめる足音だけが、彼の決意を夜に刻んでいた。
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