第5話


 ベスガルティア帝国の辺境都市、グレンデル。遠くの空は灰色の雲に覆われ、時折、冷たい風が町の路地をひゅうと駆け抜ける。帝国の厳格な管理下にあるこの町は、地方都市としては珍しく繁栄しており、魔法使いへの規制もまた厳しかった。高度や速度の制限、飛行魔法の禁止区域、テネシア・バレンタインはそれらすべてを遵守し、舗装された石畳の道に静かに降り立った。


「……ようやく着いたか」


 か細い息が、ひっそりとした路地裏の陰に吸い込まれていく。飛行に費やした魔力の残滓が、身体の奥でじんわりと疼いていた。トリハシルは疲れてしまったのか寝てしまった。テネシアは人目を避けるように深く帽子を被り直し、テネシアは夜の帳が降り始めた町を歩き出した。夕暮れの橙色が薄く差し込む石畳の道には、行き交う人々の影が長く伸び、喧騒の中に溶けていく。


(まずは、スマホの充電だ……)


 右手でそっとポケットを探ると、愛用のスマートフォンが掌に収まった。小さく梨のロゴが刻まれたその端末は、「PEAREX S-Pro」。(地球のiPhoneによく似た形状)魔力に干渉されない非魔力式の精密機械だ。しかし、画面の隅で、バッテリー残量が赤く点滅しているのが目に入った。


「充電切れそうだな……」


 視線の先に、町並みに溶け込むコンビニの看板が見えた。どこか見覚えのある、簡素ながらも洗練されたデザイン。テネシアは迷わず扉を押し、中へと足を踏み入れた。

 ちりんと、澄んだ鈴の音が耳に届く。店内は明るい照明に満たされ、心地よい冷房の風が頬を撫でた。テネシアは店内の奥、充電器が陳列された棚へと足を向けた。


(非魔力式端末用……これだな)


 手頃な充電器を手に取り、セルフレジへと向かう。ポケットのスマホをかざすと、軽快な電子音が店内に響き渡った。


《PEAREX Payでお支払いが完了しました》


 画面に表示された文字を一瞥し、テネシアは購入した商品をポケットにしまうと、再び夜のグレンデルの町へと踏み出した。

 彼の足が向かったのは、古びた木造の外観に、控えめなランプの明かりが灯る小さなカフェだった。こういう場所ならば、人の目を気にすることなく、少しは落ち着けるだろう。空いた席を見つけ、テネシアはそっと腰を下ろした。

 充電器をスマホに繋ぎ、ふっと安堵の息を漏らす。と、同時に、胸の奥に重く沈んでいたものが、再び鎌首をもたげた。スマホの画面に触れ、アルバムを開く。そこに映し出されたのは、花冠を被り、テネシアの肩に頭を寄せて微笑むアイリスの姿。二人で撮った、ごくありふれた一枚の写真だった。


「……」


 喉の奥が詰まり、うまく呼吸ができない。指先が震え、思わず画面を伏せてテーブルに置いた。


(駄目だ……今は……)


 テネシアは無理やり思考を切り替え、ブラウザを開いた。検索欄に指を走らせる。


《回復魔法 回復しない なぜ》


 幾つもの記事や掲示板の書き込みが画面に並ぶ。しかし、どれも断片的で、核心に触れるものはない。呪い、魔力干渉、体質、曖昧な言葉が羅列されているだけだった。


(あの魔女の仕業……? いや、それにしたって説明がつかない)


 テネシアは眉根を寄せ、さらにページをスクロールする。だが、求めている答えは見つからなかった。注文したコーヒーもすっかり冷めてしまっている。

 ふと、窓の外から楽しそうな笑い声が聞こえた。恋人同士らしい若い男女が肩を寄せ合い、通りを歩いていく。その光景が、再びテネシアの胸に鋭い痛みを走らせた。


「アイリス……」


 小さく、その名を呟く。だが、その声が届くはずもない。あの時、自分は無力だった。彼女を救うことができなかった。目の奥が熱くなる。けれど、涙はこぼれなかった。こぼすことなどできなかった。ここで立ち止まるわけにはいかない。あの魔女を、必ず倒すために。

 テネシアはそっとスマホを握り直し、画面の明かりを見つめた。赤く点滅していたバッテリーアイコンは、ようやく緑色に変わりつつある。


「おい……無理すんなよ」


 いつの間に起きたトリハシルの声が、頭の上から小さく響く。


「お前が潰れたら、俺様まで野晒しの帽子だ。それだけはごめんだからな」


 その軽口に、テネシアはほんの僅かだけ目元の強張りを緩めた。


(行くしかない……)


 心の奥で呟き、カフェを後にする覚悟を決めた。夜のグレンデルの町は、静かに灯りを増やし、闇をゆっくりと塗りつぶしていくようだった。

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