賢い大人たち
学生作家志望
はい、どうぞっ。
朝の3時30分には飯を食べ、目覚ましの風呂を済ませて家を出た。波の揺れる音の心地よさがほどよい風情を形作る沿岸の町で、いつもの通り大量の便箋を背中に保った僕は、少々のデコボコと砂利の道とを、自転車で一生懸命に進んでいった。
ギラギラと、僕の目の前を通り過ぎていくのは月の光の粒子たちだろうか。わからない。僕は今適当なことばかりを大人風に並べているだけだ。出来た大人とは、こういう難しそうな言葉をなんでも上手に使うのだそう。でも、今の僕には粒子のことはもちろんのごとく、そこらへんに転がる石の正体すらも分からない。
だけど、わからないから面白いとも言える。
だって、一度覚えてしまえばそれまでの世界でも、覚えなければ一生答えを探すことが出来るだろう?歴史の人物の死に方も生き方も、実はこんなんでした。なんて言ったって別にいいじゃないか。僕は僕なりの解釈があって、そこに正解なんて邪魔くさい世界はいらないのさ。
まあそういう意味で言えば、バカでいることは意外とお利口な分類なのかもしれない。人生というか、自分たちの世界を自由に謳歌できるならそれで本望だ。これ以上望む夢があったことか。いいや、ない。
僕はそれが人間だと思う。馬鹿であることこそ、人間だ。
「そろそろか。」
ある一軒家の前の道で、さっきまで全力疾走で漕いでいたペダルを急に緩めて止まった。そのときに鳴り響いたブレーキの音を気にすると、小さく自転車を降りる。わずかに光を宿した電灯の下で、僕はその家を泥棒の覗き見のような気持ちでじっくりと観察していた。
紅色を水で薄めたような色をした屋根に、割れ目の入った白壁。今すぐ倒れてもおかしくないほど古い家であるのに、2階建てであるという物々しさが僕には果てしなく怖かった。馬鹿であるが故、説明の出来ない事象、理解が追い付かない現象などにはいくらでも招かれやすかった。
今みたいなときは、少しばかり、いや、もうめちゃくちゃ天才になりたいと懇願する。馬鹿には馬鹿なりの葛藤があるということをお忘れなく。
ああでも、しょうがない。今日も頑張って突っ込むしかない。
実を言うと、背中に保った便箋などはもう片っ端から無くなっていた後だった。今手元に残っているのは一通の便箋のみ。そう、この家というわけだ。とりわけ、心霊的恐怖に巻き付かれているだけと言ってしまえばそうなる。これだけ聞けば、ただの臆病に聞こえるだろう。
でも僕はその、ただの臆病なんかとは違うんだよ。桁違いの臆病なんだ。だってほら、こうしている間にも最悪の天災をいとも簡単に想像できてしまうんだもん。
例えばその1、黒い番犬に噛まれて死ぬかもしれない。てことは木の棒を持っておいた方がいいな。だけど、例えばその2、もし相手がバチクソなツッパリだったら事は変わってしまう。その場合は拳銃。いや、拳銃なんて持ってねえだろうがYO。
ああああもう何考えてんだ。こんなんなるんだったら、やっぱり昨日のうちに木の棒の一つくらいは作っておくべきだった。せめてそうすれば、幽霊かツッパリ以外は倒せたのに。馬鹿だ。やっぱり僕は馬鹿だ。馬鹿と言うのはやっぱり苦労するようにできているらしい。
「一瞬だ。ポストに投げ入れるだけ・・・・・・。」
ただ、考えているだけでは時間が過ぎていくのを待っている愚かな「考える人」に成り下がるのみ。そうなるよりかは、さっさと済ましたほうが身のためだろう。
出来損ないの意気込みに背中を押された僕は、チャリにもう一度跨った。
喉をゆっくりと動かす心臓の高鳴り。ポキポキと骨を鳴らす腕。全てを受け流すように息を大きく吸って、ペダルを思いっきり前へと踏み込んだ。
「今だっ!」
声を合図にして、勢いよく砂利をかき分け進んでいく自転車。ここまで散々悩んでいたいというのに、何をもってして今なのかは自分にも分からない。
それから、ボコボコ、ボコボコと何度も跳ねたけど、僕の体と自転車は、なんとかポストの目の前へと辿り着いた。不安定な体勢になりながらも、短い腕を必死に伸ばしたことが功を奏したというのか、便箋はポストの中へと届いた。タッチアウト。いや、ストライクか。ソロホームランだろうか。
曖昧だが、間違いなく快挙は達成したよ。もうみんな褒めてくれ。僕を褒めて。誇らしげにニヤリと口角を緩める僕の顔はいわゆる、ドヤ顔になっていることだろうと思う。ただ、今くらいは自慢をしても許してほしい。だって実際、ある種一つの壁を超えたのだからね。
片腕を掲げた空の色は特段いつもよりも明るい色をしているように見えた。本当はまだ上り切っていない太陽でさえ、僕の腕を照らすためだけに早起きをしたんじゃないかって、本気で考えていた。
「はあー疲れた。でも、終わった。さって、帰ろっと。」
「・・・・・・あのー。」
「え。」
帰ろうとしていた僕の後ろから、水の滴るような静かな声がした。
僕は気取られないくらい小さく首を横に振って考える。
違う。今ではない。褒めてとは言ったが今はわけが違うだろう。幽霊から褒められたってちっとも嬉しいことなんてない。せっかくなら生きてる奴が褒めてくれよって思うもん。
いや待て、わかんない。まだ後ろにいる奴の体が透明かどうかなんて見てもいない。もしかしたら実体がある人間で、カツアゲかも。そしたら、せっかく今日頑張ったのも水の泡になってしまう。それだけはやめてくれ。
確か、いつぞやのテレビで、こういうような状況のことを心臓に悪いと、絵に描いたような笑顔をしたリアクション芸人が揃えて言っていたっけ。心臓に悪いどころか、もしや怖すぎて脈止まっていやしないだろうな。背中をなぞっている汗はやけに冷たく、その汗の出どころが不思議となった。
「君、偉いね。」
正対すらしていない僕に、その人はまだ優しそうに声を出している。失礼だとは思わないのだろうか。確かにバイトは頑張っているが、所詮はガキンチョだ。
あれ。僕は思わず思考停止状態になる。そうだよな。もしこの人が幽霊でもなく、実体はあるがカツアゲでもなかったとしたら?それも物凄いくらいの人生の先輩で、高齢者の優しいお爺さんだったら?
それって、とんでもないくらいの失礼じゃないのか?
突然頭によぎったのは、ある意味冷静沈着な答え。あるゲームで、もっとも納得のいくエンディングに辿り着いたくらいの正当性を感じる。ただ今の場合はその正当性こそが怖い。違うベクトルで、僕は再び汗を垂らす。だが、汗の量は先ほどよりも半端じゃなく、背中よりも胸、顔から額までをびしょびしょにした。
青ざめたような顔で、僕はとにかく失礼のないよう、謙虚にしておくべきだと考えて言った。
「ありがとうございます。でも。そんなことないですよ。」
僕がその言葉を発したのと同時に、後ろを振り返ってその人の目を必死に探した。話しているときは目を合わせた方がいい。あと、謙虚で。
まあこれも賢い大人のすることだと、なんとなく知っていたのだ。ちなみに、その事が嘘かもということは、先ほどの全てのことから何も考えていない。いざ、間違っていると怒られようとも、大人に教わったで済むので困らないのだ。
「いやいや、本当にすごいよ。だって僕なんて、ただの引きこもりなんだからっさ。」
その人は、あんまり幸せじゃなさそうな不幸風なことを、本当にそのまま風に流すかのような勢いで、淡々と言葉に出していく。優しい目をしていて、目尻の方にシワもあるけど、思っていたよりも若い。というか、かなり若い。もはや中年もいっていないかもしれない。
こういうエンディングのパターンもあるのか。僕はやけに関心がって、その人につい、軽い気持ちで質問を投げかけた。
「引きこもりって、普段は何をされてるんですか?」
あ、僕は今、おかしいことを言った。馬鹿でも分かる。そもそも、引きこもりという言葉をいち早く出して僕を褒めてきたのは、自分が何もしていないということをアピールしている表現でもあったのではないか。つまり、自虐で皮肉。僕は頭ではそれを踏み越えていたはずなのに、また後ろに舞い戻って口を走らせてしまった。
「何もしていないよ。」
やっぱり。心の中で無意識につぶやいた。
昨日の夜に家族で見たミステリードラマを思い出したのだ。昨日は珍しいことに、主人公が推理をして当てるよりも先に、犯人を言い当てることが出来た。あの時僕は「やっぱり」と言った。あたかも最初から分かっていた感を出すことで、僕は天才なんだと言われるまでもなく周囲の人間に分からせることができる。ゆうべの僕の狙いはたったのそれだけ。
だけど、今の僕の狙い、いや、やるべきこと、するべきこととしては、勘づいたりはしてはいけなかった。もちろん、やっぱりなどとは言ってはいけないのだ。なぜならば失礼だから。この人が殺人を犯したとかなら、言い当ててしまえることが何よりもベストで、失礼などと言う壁はないのだが。
「でも、毎日海を見てるよ。」
「え?」
さっきまで黙りこくっていた太陽が、そのころ丁度上りはじめた。白い光が、すぐそばに揺れ動く波の細やかなところまでを、鮮明に光で照らし出す。その人は、その光の一粒一粒を、瞳の中で抱きしめるように大切に仕舞い込んでいる。光の粒子とは、もしかしてこういうことか。
「海はね、僕に希望をくれる。どうやったって突き詰められないような奥の深いところを、僕に永遠と教えてくれる。全部が新しいんだ。」
分からない。これは僕がまだ学習が浅いということだろうか?馬鹿だから?でも、自称いい大学卒業という経歴を語る父にも、突然こんなことを言われてしまったら、僕と同じように地面を見て黙ることしかできないのではないだろうか。だって、僕とこの人では、感覚も世界もすべて違うように思える。僕と似た父なら、僕と同じく困るのは目に見えて分かるんだ。
この人は生きている世界が違う。胸のあたりがずきっとする。痛みのような、不快感のようなものに一瞬体がうなされる。僕はたまらなくなって、再び声を出した。
「そんなに海が好きなら、どうして漁師とか、ほら、そういう仕事あるじゃないですか?なんで、ならないんですか?」
質問をしながら、どこか恐ろしいような、考えたくもないような予感が、言葉が詰みあがるたびに現実を増していくような気がした。いや、やっぱりなんて、もう言いたくも、考えたくもないのに。
「両親は、海で死んだんだ。流されちゃってね。」
なぜこうも、悪い勘だけは的中してしまうのだろう。この人は殺人なんか犯しちゃいなかったんだ。むしろ大切な人を、あの世へさらわれた。僕は全てに後悔した。賢い大人のことも恨んだし、それを馬鹿みたいに信じ切った僕のことも恨んだ。
でもその人は、そんな僕を見て、ははっと少しだけ笑った。
「そんなに気負わなくていいんだよ。僕のことなんてわざわざ想う必要はないんだから。君はまだ小さいのに、便箋配達をしている。それだけで凄いことだし、僕とは全く生きる世界が違うってこと。だからね、僕のことは気にしないで。僕なんかは、ただの引きこもりの一人に過ぎないの。」
「分かり、ました。それじゃあ、そろそろ行きますね。」
分かりました。がこんなにも言いづらかったのは久しぶりだった。先生にこっぴどく説教を受けた後の、あの分かりましたも言いづらかったが、それとはまたどこか違うような気がした。
「うん。気をつけてね。」
その人が、手を振りながら目尻にシワを寄せて笑った。僕もその人に合わせて何とか笑ったが、多分ぎこちない笑顔だなあと思われてしまっただろう。作り笑いの即日配達が、本当に苦手だ。便箋は配達できんのに。
背中に保っていた大量の便箋は、もう手のひらにもどこにもなかった。今日も仕事を終えた。
ほのかに暖かい日の光に抱かれながら、僕はふと、大人になったような余韻に浸った。余韻というか利口というか。本当に利口なのはこういうことなのかもしれない。あの人は僕と生きる世界が違って、知っている世界も違う。
両親がいなくなったら、僕は恐らく、どうしようもなく彷徨うことばかりをして、野垂れ死んでしまう。でもあの人は、生きるってことを何も本気で諦めたりしているような気はしなかった。誰かに頼っているだけでは、正しいことを知ることも出来ないんだ。
お母さんにもお父さんにも、たまには何か好きなもの買って行ってあげよう。どれだけ考えても、結局はこういう誰でも思いつくようなことしか到着しないのが僕だ。
とりあえず、りんごとバナナでいいかなあ。喜んでくれるといいんだけど。
「うわっ!!お前、バナナなんて買ってきてくれたのか!!偉いなあ。」
頭を犬のようにわしゃわしゃと撫でまわされた。お父さんはやけに笑顔で、いつも食べているはずのバナナを、丁寧に美味しそうに食べてくれた。一口一口頬張っていくお父さんの口から、「大人になったなあ。」なんて言葉が出てきた。
普段なら、自画自賛が大好きなので絶対に父は僕にそんなこと言わなかった。せっかくの珍しいお言葉を頂いたのに、浮かんできたのは他人の、あの人の顔だった。
大人になったなあなんて、言われるだけ幸せなんじゃないかな。あの人には、こんなこと言ってくれる人、いたのかな。
どうしようもなく悲しくなった僕の目の前で、父はまた嬉しそうにバナナを噛んだ。
賢い大人たち 学生作家志望 @kokoa555
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