瓶詰の心臓
ビト
第1話
ミサから心臓を貰った。それは片手で辛うじて持てるくらいのガラス瓶に入っていて、瓶に満たされた透明な液体の中でプカプカと浮かんでいる。瓶の中の心臓は時々ピクピクと動くので、不思議と見ていて飽きない。お母さんは不気味だから捨てろというけれど、私はこれがミサからの信頼の証だと思っている。だから捨てる気はさらさらない。いつもはお母さんの言うことに唯々諾々と従うけれど、こればかりは従えない。友達への情と家族への情、思春期の子供がどちらに従うかは明白だろう。まぁ、他の言いつけには素直に応じているから、お母さんも別に文句はないはずだ。仮にあっても、これくらいは許してもらわないと。
私はミサの心臓を、自分の勉強机(学校のものと趣味のものとが雑多に置かれそれぞれが共存している)の上に大事に飾っている。タブレットと睨めっこして宿題をしている時も、趣味の小説を書いている時も、ずっと一緒だ。作業に疲れた時に動くそれを見て、今ミサはなにをしてるのかなぁ、少なくとも生きているのは確かだろう、なんて考える。それだけで気がまぎれるものだ。別に心臓が喋るわけじゃない。でもその鼓動が、ミサ本人よりも雄弁に私になにかを語りかけてくる。それは決して嘘じゃない、舌は嘘をつくが心臓は嘘をつかない。嘘がない関係というものは素晴らしいものだ。無駄な腹の探り合いほど胃が痛くなるものはないし、なにより嘘に嘘で応酬する醜い争いをせずにすむ。
夜寝る前、部屋の電気を消す直前、いつも机の上の瓶詰の心臓を見つめる。大抵その鼓動は日中と変わらない。それを見て私は、ミサが今日も何事もなく床についたのだな、と安心して電気を消す。そして暗闇の中、猫のように素早く、小学校からの付き合いの青いベッドにもぐりこむ。そしてしばらく目を閉じてから、今度は自分の心臓に手を当て、刻むリズムを感じる。このリズムは、悲しいことに、ミサの刻むリズムとは違う。みんな違ってみんないい、なんて簡単に大人は言うけれど、実際にはみんなと違うから生まれる悲劇が山ほどあることをみんな知っている。そう、みんな。
いるのなら神様、どうか私とミサの鼓動を同じにして下さい。もしそうなったなら、私もミサに胸をはってこの心臓を渡せます。私はいるはずもない神様にそう願いながら、今日も眠りについた。
「大事にしてくれてる?」
いつも通りでつまらないくらいの昼休み。ミサは私の机にやってきて、開口一番そう言った。相変わらず心地の良い声だ。なにを食べて飲んだら、こんな声になるのだろう。この声を聞くと、雑雑とした教室にいるのに、まるで世界にミサと二人っきりになったような感覚に陥る。
「うん、大事にしてるよ。机に置いて、疲れた時とか見て癒されてる」
それを聞いてミサは、細い目をさらに細くして満足げに微笑んだ。
「急かさないけどさ、待ってるからね。マユが私に心臓をくれるの」
ミサはほとんど毎日、私にそう言う。それって急かしているってこととほとんど同じだと思うけれど、私は別にそれをわざわざ口に出したりはしない。だってその言葉を聞くたびに、ミサが私を求めてくれていることを再確認できるのだから。
誰かが、顔は覚えているけれど名前は覚えていない誰かが、ミサを呼んでいる。ミサはその子にちょっと愛想をふりまいてから、私に、じゃあね、と言って離れていった。
そう、別に私はミサとお昼を一緒に食べるような関係じゃない。私はいつも一人、ジメジメとお昼を食べる。誰かと相席することなく、ジッと息をひそめて。たまに誰かに誘われるけど、それもお断りしている。気持ちは嬉しいけれど、誰かと食事するのは酷く疲れる。つきたくもない相槌や嘘をつかされるのもまっぴらごめんだ。学校で食べるお昼ご飯に味なんて求めない。ただただ、音がしなければいい。
ミサと私は、単なるクラスメイトだ。それにクラスだって去年は違った。今年のクラス替えで初めて会って、たまたま席が隣だっただけ。私のような日陰者には手が届くはずもない高嶺の花。それがミサ。なのに何故か、彼女は私に心臓をくれた。あの時ミサがなにを思っていたかは知らない。でもあの時、ミサが自分の心臓を私に渡して、あの細い目で私を見つめながら私の耳に囁いた言葉は今でも忘れられない。
「私の心臓をあげる。だからいつか、あなたの心臓を私にちょうだい」
私は学校が好きではなかった。いや、そもそも他人との社交というものが嫌いだった。それは苦手と言い換えられるかもしれないけれど、おそらく得意だったとしても好きにはなれなかっただろう。とにかく私は、嘘をつくこと、嘘をつかれることが好きにはなれないのだ。頭では分かっている。大なり小なりコミュニティーを築く上では、嘘というものがどこかで必要になってくるというのは。でも、いやだった。好意を持つ相手(なにも恋慕だけではない)を傷つけないために嘘をつく自分も、私を慮って優しい嘘をつく相手も、どうしても受け入れられない。嘘をつくたびに口の中に不快な甘さが広がるのも、嘘をつかれる度に耳が焼けるように熱くなるのもどうにも耐え難かった。だから私は極力人と関りを持たずにいた。かといっていじめられたいわけではないから、最低限のコミュニケーションは取るよう努力はしている。それに、運のいいことに、私の学校はいい子ちゃんが多く、いじめというものがそもそも私の周りには存在しなかった。ひょっとしたらあるのかもしれないけれど、少なくとも私はその標的にはなっていない。薄情かもしれないけれど、それでよかった。私は私の世界が平和であればそれだけでよかった。時々外との交流はあるけれど、基本的には自分の中で完結している嘘のない世界。そこの住人は私だけ。私はそこから出たいなんて微塵も思っていなかった。
それを打ち砕いたのはミサだ。
ミサは私の世界と向こうの世界の壁を楽々とぶち破った。最初は私も拒絶をしていたが、あの時、あの心臓を渡された時から、気づけば私はミサに夢中になってしまっていた。自己完結していた私の世界は、根底から覆されてしまった。いまだに意地になってミサ以外の誰かと交流をとろうとはしていないが、それでも自分以外の他者に注意を向けているというのが私にとっては異常事態だった。
その変化に最初に気づいたのはお母さんだった。ある日私がリビングのソファーで面白くもないテレビを見ていた時だ。
「あんた、最近明るくなったね」
思いもよらない言葉に、私はずいぶん間の抜けた返事をしたと思う。しかしお母さんから見て私は、ミサから心臓を貰って以来、笑顔が増えたらしい。それに、今まではお母さんの言葉には特に文句も言わず素直に従っていたのに、段々と自分の意見を主張するようになった。母親として複雑な気分だったけれど、それは存外に嬉しいものだった、と言った。そもそも過干渉気味だったお母さんがそんなことを言うなんてお笑い草だが、それでも客観的評価として、私の世界の変化はよいものだったようだ。何故だか私は、それがとても誇らしかった。
勉強机の瓶詰の心臓を見る。ドクドクと鼓動が聞こえてきそうだ。瓶にそっと耳を当てると、やはり聞こえる。ミサの鼓動だ。これを聞くことが出来るのは、世界で私だけなのだ。そのような醜い独占欲、以前までの私なら到底受け入れることが出来なかっただろう。しかし私は、完全に酔いしれてしまっていた。目に見えないはずのある種の愛を、こうして目に見えるものにしている私とミサは、やはり特別な関係だ。クラスでも人気者のミサだが、心臓をあずけているのは私なのだ。だから私は、教室で堂々とミサに話しかける取り巻き達に嫉妬することもない。彼女達は可哀想な人達だ、自分の目の前のミサの心臓がどこにあるかすら知らないのだから。
だから今夜も私は、寝る前にミサの心臓を見つめる。これが動き続ける限り、私とミサの関係は切れない。後は、私の心臓が同じリズムを刻むのを待つだけ。そうすれば私も、ミサに自分の心臓を捧げる。そうすれば私達は……、どうなる? どうなるのだろう、お互いに心臓を捧げあった二人はいったいどうなるのか。淫靡な妄想が少し頭をよぎってしまい、思わず頭を振る。顔が赤くなっているのを感じて、それ以上深くは考えないようにしながら、私は部屋の電気を消した。
ミサから心臓を貰ってから三か月が過ぎた。いよいよ夏休みも近づいている。私の心臓のリズムは、少しずつ、しかし確実に、ミサの心臓のリズムに近づいている。この調子でいけば、夏休みまでには、ミサに心臓を捧げられるかもしれない。
そう思っていたのに、いつもちょっとおかしい担任の先生が、とてもおかしいことを言った。
「サワムラミサさんが亡くなりました」
おかしなことを、本当におかしなことを言う先生だ。だって家を出る時に私はちゃんと確認していた。瓶詰のミサの心臓は確かに動いていたのだ、昨日の夜と同じリズムで。心臓が動いているのだから、ミサが死んでいるはずがないじゃないか。先生は続いて、ざわめく教室を鎮めながら、ミサは事故ではなく、誰かに殺されたのだと語った。そしてお通夜やお葬式については、ご家族の意向で参列できないと言い、代わりに黙とうをしようと提案した。クラスメイトは動揺するもの、泣くもの、唖然とするもの、様々いたが、先生のその提案には従うようだった。
先生は軽く咳払いをして、無感情に聞こえるいつもの声で、黙とう、と言った。
いつもうるさい教室が不気味に静まり返った。しかし私の頭の中はやかましい。今すぐ教室を飛び出して机の上の心臓を確かめたい、という衝動を抑えるのに酷く苦労した。何人かのすすり泣く声が、私を酷く苛立たせる。死ぬものか、心臓を動かしたまま死ぬものがいるものか。私は何度も自分にそう言い聞かせた。そうしなければ、気づきたくないことに気づいてしまいそうな気がして。
黙とうが、終わった。
その日の夜、パソコンとスマホでミサのことを調べる。信じたくないが、どうやらミサが殺されたことは確からしい。学校でも根も葉もない話から、妙に信ぴょう性のある話まで飛び交っている。犯人は、同じ学校の後輩の女子だとか、理由は痴情のもつれという説が一番濃厚、だとか。理由はともかく、学校にまで警察が来ていたから、ミサの死には事件性があったのは確かなのだろう。
しかし問題はそんなことではない。問題は、ミサが死んでいるのに、今でも私の目の前で動き続けているこの心臓だ。これは、ミサの心臓ではないのか? ミサは私に嘘をついていたのか。それは何故? 分からない。自分の心臓と偽って赤の他人の心臓を私に渡した意図が全く読めない。ミサはなにを考えていたのか。しかしこうは考えられないだろうか。ミサは確かに嘘をついたのかもしれない。でも目の前の心臓は嘘をつくことなど出来る筈もない。心臓は雄弁に、私はまだ生きている、と私に訴えかけてくる。つまりミサは、死んでいるが生きている。だからこの心臓は動き続けているのだ。そんな突拍子もない妄想にふけるくらいには私は動揺していた。
信じるべきものはどちらか一つ。生前のミサの舌か、死後なお動き続けるこの心臓か。考えるまでもない。私が信じるものは、いやもはや信奉していると言ってもいいかもしれないものは、この心臓だ。私は瓶詰の心臓を抱き寄せ、そっと口づけをする。心臓はそれに応えるかのように、ドクドクと動く。瓶は生温かい。なんだ、やっぱりそうだ。ミサはまだここで生きているじゃないか。真実などどうでもいい。これがどこかそこらの野良猫の心臓だろうが、どこか遠くの行方不明者の心臓だろうが、私はこれをミサの心臓だと信じているのだ。それだけが重要なのだ。これは私のミサへの信仰のロザリオ。たとえミサが死んでいようと、このミサの心臓が動いていればそれでいい。他になにが必要なのだ。
「ミサ、ミサ、ミサ。ここにいるのね」
ミサの心臓のリズムを感じる。そして、そのリズムに段々と私の心臓のリズムが重なってくるのを感じる。
そして時は来た。時計の針が十二時ちょうどを指すように、私とミサのリズムがひとつになる。
すると私は、目の前の景色が赤黒く変色していくのに気が付いた。私は自室にいたはずだが、段々と様変わりしていく。生臭い臭いが立ち込め、足を少し動かすと床と足との間にねばついた粘液の橋がかかる。青かったベッドも、今や真っ赤な肉塊と化している。壁にかけていた時計も、ドロリととろけてまるでダリの絵のようだ。愛しき勉強机は、今やなにか見たこともないようなおぞましい化け物のようになっている。それでも不思議なことに、私はひどく落ち着いていた。不快に感じるどころか、どこか心地よい、帰るべきところに帰ってきたような奇妙な心持ちだった。こんな景色をどこかで見たような気すらしてくる。ひょっとすると、私はここから生まれ落ちたのかもしれないな。そんな考えが頭をよぎり、思わず変な笑い声が零れる。私は抱えていたミサの心臓を改めて見る。心臓は、今も変わらず動いている。私の心臓と同じリズムで。
目の前の床だった場所から音がして、裂け目がはしった。ちょうど、水の底から勢いよく空気がのぼってくるような音だ。それは目の前の裂け目から聞こえてくる。するとそこから、生臭くて生温かい液体を引き連れて、人の形をした血まみれのなにかがせり出してきた。私にはそれがなにか、一目で分かった。ミサだ。死んだはずのミサが、今まさに目の前に現れようとしている。これは再誕である。この感動をどのようにあらわせばいいだろうか。敬虔なクリスチャンが、キリストの復活に立ち会ったような気持ちとでも言うべきだろうか。私は今、涙を流している。これはもちろん、喜びの涙だ。歓喜の涙だ。やはりミサは、他の誰でもない、私の前に姿を現してくれているのだ。今まで彼女と過ごした時間は短いかもしれない。しかし、この決定的瞬間に立ち会っているのは私だ。彼女の心臓を握っているのは私なのだ。
その血まみれのなにか、というよりも人型の肉塊は、ちょうどミサの背丈くらいのところで成長を止めた。そして小刻みに震えながら、首を斜めに傾けながら、ジッと一つだけの目玉で私を見つめている。残念なことに、言葉らしきものは発さなかった。ミサの声が好きだった私としては残念だったけれど、それも些細なことだろう。私はなにも言わず、ミサの目を見つめ返す。するとミサらしきものは、腕らしき(ほとんど触手と言ってもいいかもしれない)ものを私に差し出した。なんだろうか、この心臓を返して欲しいのかな? せっかくのミサの心臓を返すのは後ろ髪をひかれるが、元々ミサのものだ。私は努めて明るく、ミサらしきものにミサの心臓を差し出した。しかし、受け取らない。受け取るどころかゆっくりと首を振り、私につき返してくる。これではなかったのか。ではなんだろう、他には私はなにも持っていないのに。
するとミサらしきものは、人でいうとちょうど左の膝小僧あたりにある口に見えないこともない穴からヒューヒューという荒い息遣いとともにこう言った。
「ヤクソク、ヤクソク、ヤクソク」
その声は酷くかすれているが、まさしくミサの声だった。麗しのミサの声を聞けた喜びを感じながら、その約束という言葉の意味をしばし考える。そして思いだした。
「急かさないけどさ、待ってるからね。マユが私に心臓をくれるの」
そうだ、ミサが欲しているのは私の心臓だ。私は黙って、自分の心臓のあたりを指さし、ミサらしきものの反応を待つ。すると、ミサらしきものはブンブンと首を縦に振り、落ち着きなく震え出した。そうか、ミサはずっと待っていてくれたんだ。私が心臓をミサに捧げるのを。私はそれを忘れていたことを申し訳なく思いながら、ミサの心臓を床に置き、服を脱ぎ始める。その姿をミサらしきものはジッと見つめている。なんだかとても恥ずかしいけれど、誇らしい気持ちが勝つ。信じるものにこの身を捧げることほど、尊いおこないはないだろう。それも心臓を捧げるのだ。そしてそれは交換でもある。私にはミサの心臓が残り、ミサには私の心臓が残る。これほどの愛が果たしてこの世にどれほどあるだろうか。
私は服を脱ぎ終わり、すっかり生まれたままの姿でミサらしきものに向き合う。そして両手を広げる。私は今やまな板の上の鯉、祭壇の上の生贄だ。けれど恐怖も後悔もありはしない。
「お待たせミサ。あげるね、私の心臓」
それを聞くが早いか、ミサらしきものの手が大きく震えながら私の左胸を貫いた。大きく波打つそれは、さながら勢いある大縄のようだ。貫かれた時に衝撃は感じたが、不思議と痛みはない。むしろミサがその手で、私の体の中をまさぐる感触が、私をひどく興奮させた。愛しい人が自分の内臓をまさぐる。こんな気分を味わった人間なんて有史以来いるはずもあるまい。私は思わず微笑む。今私は、幸せの絶頂にいるのだ。
そしてついに、私の心臓が取り出された。活きのいい心臓だ。持ち主から離れても、元気に動いている。私はそれを見届けると、強烈な貧血からか、ベタベタとした床に倒れ伏す。薄れていく意識の中、ミサらしきものが私の心臓をかかげながら狂喜乱舞している様子が見える。嬉しいなぁ、そんなに喜んでくれて。大切にしてね、瓶に入れたりして。目の前を瓶が転がっていくのが見える。ミサの心臓の入った、私の宝物だ。私はそれに手を伸ばそうとして、気づいた。ミサの心臓が、止まっている。これは、どうしたことだろう。さっきまでは動いていたのに。私はもう休みたがっている頭をどうにかして動かそうとしたが、うまくいかない。まぁ、いいか。最後に、最後にもう一度ミサの声を聞きたい。目の前のミサらしきものに秋波を送る。しかし、駄目だ。ミサらしきものはこちらを見ていない。私に見えたのは、私の心臓を自分の胸にしまいこもうとする姿だけ。でも、これでいいのだ。ミサが喜ぶのなら、それで。私は最後まで、目の前のミサらしきものがミサではないかもしれない可能性に気づかないふりをして、瞳を閉じた。生温かい床が、冷たくなっていく私の体を受け入れてくれる。それはなんだかとってもくすぐったくて、私の人生全てが肯定されたような気がした。
「ありがとうね、マユ」
もうすっかりマユそっくりの姿になったミサが、元々マユだった、今や物言わぬ肉塊を撫でながらそう言った。肉塊はとても醜くひどい臭いをはなっていて、常人が見れば眉をひそめ、鼻をつまむだろう。しかし元ミサにはそれが愛おしくて仕方なかった。なにせマユは、自分に体を、その人生の全てを捧げてくれたのだから。元ミサ、いや、始めの名前すらもう思い出せないほど長く生きているその怪物は、いくつもの人間の心臓、そしてその人生を奪っては捨ててきたが、その度に感傷に浸るだけの感性は失わずにいた。それが世界の冷酷ないたずらだったのだとしても、怪物は世界に感謝している。むしろこの感傷があるからこそ、怪物はその生に充足感を得られるのだから。
理論上、怪物は人間が、正確には人間の女性が存在している限り、寿命で死ぬことはない。ただし、そのためには現在の自分の心臓を託す相手を探す必要がある。その相手は、社会的に孤立していたり、強く孤独を感じている相手であることが望ましい。入れ替わり後の手間を考えると、そのほうが都合がよいのだ。時には、自分が母となりその娘と入れ替わることもある。入れ替わりが成功すると元の体は死を迎えるため、元の体よりも若い体に移るほうが合理的だ。しかしこの怪物は、おせじにも合理的な生きかたをしているとは言えなかった。
愛する人とひとつになりたい。
そんな思春期の子供のような感傷を、この怪物は自らのアイデンティティとしているのだ。ゆえに今回のように、入れ替わりの前に元の体を失うようなアクシデントがよく発生する。ゆえに他の怪物達から見れば、この怪物のこうしたこだわりは非常に浅慮で、感傷的で、幼稚にうつるだろう。しかしその感傷ゆえにこの怪物は、他の怪物達のように、ただ種の存続のためだけに生きる、というひどく原始的な生き方をしないで済んでいるのだ。
ただ生きるだけの生に、どれだけの価値があるのか。
くしくもその考えは、怪物達が食い物にする人間と同じくらい、人間臭かった。
その怪物は、そっと心臓のあるあたりに触れる。丁度、マユの心臓が収まっている位置だ。
「マユ、私達は今ひとつになったんだよ。ミサだった私と、マユになった私。そう、今はもうひとつなんだ」
なんというエゴイズムだろうか。しかしこれも、マユの望んだ答えだったのかもしれない。瓶詰のミサの心臓と自分の心臓のリズムをひとつにしようとした、マユの真意は今となっては分からない。しかしマユがこの終わりを望んでいなかった、と断言できるだけの根拠を持っているものは、どこにもいないだろう。おそらく、この世のどこにも。それはマユにとってとても寂しいことかもしれないし、とても満ち足りたことかもしれない。
「マユ、あなたの分も、あなたと共に生きていく。これまで連綿と繋がってきた私のひとつに、あなたも入ったのよ。さぁこれから暫くは、私はマユ。また愛する人が出来るまで」
赤黒く染まった世界がその言葉を歓迎するかのように脈動する。この世界はひとつの大きな子宮だったのだろうか。怪物はまた元の世界に溶け込むように、滑り込むようにかえっていく。より正確に言うならば、生まれかえるのである。産声もなく、ただ密やかに。
怪物はまた世界に舞いもどった。次の入れ替わりはいつだろうか。次に愛する人に出会うのはいつだろうか。ひょっとすると誰にも出会えず、そのまま死んでしまうかもしれない。しかしそれもまた満足であろう。愛なき生に、価値などないのだから。
完
瓶詰の心臓 ビト @bito123
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