蒼穹の風に乗る追憶のメロディー

神崎 小太郎

全一話 残照のかなた


 朝、まぶたを開けると、家の中は、澄み渡る蒼穹が日曜日の到来を告げていた。軽く食事を済ませると、自然と心が浮き立ち、特に目的もなく、ただ気の向くままに外へと足を踏み出した。


「パパ、行ってらっしゃい」


 長年連れ添った妻は、気持ちよく笑顔で送り出してくれた。


 夫婦なんて、もとは血のつながらない他人同士なのに、彼女はいつも変わらず穏やかな優しさで接してくれる。


 長い人生には晴れの日もあれば、雨に打たれる夜もある。光あふれる朝も、暗闇の晩も、すべてが物語の一部だ。


 そんなときは無理に答えを探さなくてもいい。ただ心の奥に耳を澄ませ、足元に咲く花や風の優しさに気づくだけでいい。



 最近、職場の上司に気を使いすぎ、憂鬱な日々が続いている。いつしか心身ともに疲れきり、どこかで癒しを求める自分がいたのかもしれない。それは、人生や環境が大きく変わるタイミングを示しているのだろう。


 身体を動かしたくなり、一瞬、自転車も考えたが、人間ドックで指摘されたメタボを意識して歩くことにした。頬をなでる爽やかな風に背中を押されるように、親水公園のあぜ道をひとり歩く。


 ふと見上げると、桜の花が散り終わり、今度は赤や青のもみじが木洩れ日を浴びて揺れていた。色とりどりの葉がやわらかく溶け合い、行き交う人々の心を静かに包み込んでいるようだった。


 時計を見れば、いつの間にか十一時を過ぎていた。昨夜、昼食を共にする約束をした妻との待ち合わせまで、あと二時間。


 初夏を思わせる陽気に包まれ、自然の息吹を感じながら歩くこのひとときが、僕の心をやさしく潤していく。


 途中、広場の方へ目をやると、父親と小学生くらいの男の子が、ラジコンカーを操りながら楽しそうに遊んでいる姿が目に入った。


「パパ、見てて! 今度はもっと速く走らせるから!」


 男の子はコントローラーを真剣な眼差しで握りしめ、興奮した声をあげた。小さな指先がスティックを動かすと、赤いレーシングカーが地面を滑るように駆け出し、なめらかにカーブを描いてコースを疾走していく。


「おお、いいぞ、祐介! そのままカーブを突き抜けろ!」


 父親はにこやかな笑顔でコントローラーを握り、青いレーシングカーで応戦していた。二台のラジコンカーは、まるで本物のレースさながらに、抜きつ抜かれつの攻防を繰り広げていた。


「やった! 僕の勝ちだ!」


 男の子は嬉しそうに飛び跳ね、無邪気な笑顔を浮かべた。父親は肩をすくめ、苦笑しながら「今日は調子がいいな。でも、次は負けないぞ!」と語りかける。


 親子の笑い声が広場全体に和やかな空気を広げ、時間がゆったりと流れていく。それはまるで、父と子の心をつなぐ架け橋のように思えた。


 なぎさ橋に差しかかると、目に飛び込んできた光景に心が揺さぶられた。

 膝に一冊の本を乗せ、船を漕ぐようにうたた寝をしている初老の男性。

 その隣では、若者が川面をじっと見つめながら、物思いにふけっていた。


 時が止まったかのような二人の姿は、風景の一部となり、言葉にできない物語をひっそりと紡いでいるようだった。


 やがて、景色が刻々と移ろい、遠くに見えるリードなしで犬たちが自由気ままに駆け回るドッグランから、賑やかな笑い声や足音がのどかな空気に溶け込んでいく。

 芝生を駆け回る犬たちの息遣いや、飼い主たちの優しい呼びかけが混ざり合い、あたりにほのかな振動を響かせていた。


 そんな雰囲気に誘われるように、僕はさらに歩みを進めた。


「ママ、あれ何ていう鳥? 渡り鳥なの?」


 橋の下から、幼い女の子の声が聞こえてきた。母親が笑顔で応え、女の子の視線の先では、黒い羽を持つ鳥が、穏やかな水面に波紋を描きながら舞っていた。


 親子の微笑ましいやりとりは、日曜日の特別な時間の一コマだ。その光景を目にした瞬間、忘れていた幼少期の記憶が、胸の奥からそっと溢れ出してきた。


 足元では、赤やピンク、オレンジ、白──色とりどりのつつじが咲き誇り、甘い香りが風に乗って鼻をくすぐった。


 小学校低学年の頃、幼なじみの女の子と一緒に、つつじの花を引き抜いては、蜜を吸って遊んだ記憶がよみがえった。


「結子、どれどれ」


 お互いの花を交換して、甘い蜜を吸い合ったあの時。今思えば、それが僕にとって初めての“間接キス”だったのかもしれない。


 蝶が戯れる花は特に甘い蜜を楽しめたが、ときには虫に先を越されてがっかりすることもあった。


 それでも、彼女と顔を見合わせて「仕方ないよね」と笑い合ったひとときは、今も心の片隅で、小さな光のようにあたたかく残っている。


 そのような甘酸っぱい追憶に浸りながら、コンビニで買ったソフトクリームを舌先でゆっくりと味わった。


 蒼穹を見上げると、さっきまで真っ白だった雲が、いつしかうろこ雲のように黒く変わってきていた。春の空は移ろいやすい。晴れた空が、雲に覆われることもある。その変わりゆく空模様に、少し早めに家路を急ぐことに決めた。


 噴水広場では、虹色の光の輪が水しぶきにかかり、その下で母と娘が楽しげに戯れている姿が見えた。気持ちが沈みきる前に、この場所を折り返し地点にしよう。そう決めて、ゆっくりと来た道を引き返し始めた。


 ところが、帰り道、思いがけない場面に出会った。


 どこからともなく届く音楽に誘われ、足を進めると、平成和楽園の庭先に辿り着いた。

 そこでは、安らぎに満ちた笑みを浮かべるお年寄りたちが集い、まるで桃源郷に迷い込んだかのような幻想的なサンクチュアリ(聖域)の空気が漂っていた。


 優雅に咲き誇る花菖蒲の庭園から、明かりが漏れ、心を震わせる音色が、そっと施設の外にまで響いている。


 思わず足を止め、耳を澄ませた。


 胸の奥では懐かしさと切なさが静かにざわめく。この人生劇場に、あと何年立てるのだろう――。気づけば五十年余りを歩んできたが、積み重ねた日々の記憶が、夢物語のように広がる。


 願わくば、最期の瞬間には、笑顔で「ありがとう」と愛する妻や娘たちに伝え、苦しまずに旅立ちたい――。そんな思いを胸に、感慨深く辺りを見回すと、楽しげに笑うお年寄りたちの姿が目に留まった。


 異国の若者が奏でるシンセサイザーの音色に、彼らは心を奪われたように耳を傾けている。柔らかで深みのある曲が終わるたび、拍手が波のように広がり、会場は感動の歓声に包まれた。


 音楽は、過去から未来へと時空を超え、すべてを包み込む祈りのようだった。歓びや悲しみ、そして忘れかけていた情熱さえも、やわらかく心を灯す。頬を伝う涙もまた、その情景の一部となり、胸の奥で光り続けた。


 ハンカチでやんわりと目元をぬぐう女性の姿もあり、音楽が生み出す情感が、会場全体にしみわたっていた。


 つかの間の音楽会の心地よい余韻に浸りながら、胸の奥から、忘れかけていた情熱のような想いがふっと湧き上がってきた。


 きっと、高齢者たちも、幾多の喜びや悲しみを重ねながら、それぞれの人生を歩んできたのだろう。だからこそ、屋外で奏でられる音楽が、あれほど深く心に響くのかもしれないのだ。


 頬を伝った涙は、音楽が織りなす情景の一部となり、心の中でそっと輝き続けた。


 名残惜しさを胸に、和楽園をあとにする。


 家路につく並木道を歩いていると、春に新しい葉が芽吹く一本の楪(ユズリハ)の樹が目に留まった。古い葉が場所を譲るように落ち、新しい葉へと託していく──そんな命のリレーを伝える樹の下で、思わず歩みを止める。


 その場には、小さなテーブルと椅子が置かれ、年配の女性がひとり、手作りらしい絵葉書を丁寧に並べていた。


「よかったら、見ていってくださいな」


 柔らかな口調に導かれるように、僕は彼女のもとへと足を向けた。


 テーブルに整然と並べられた絵葉書には、四季折々の風景や、栗鼠や小鳥たちの無邪気な表情が、やさしいタッチの水彩画で描かれている。目に入るどの一枚にも、細やかな愛情と、時の流れを慈しむような筆遣いが込められていた。


「昔ね、旅先で撮った写真を、こうして絵に起こすのが楽しみだったんです。」


 彼女はほほえみながらそう語る。


 絵葉書の隅には、小さな手書きのメッセージも添えられていた。


 ――『出会いにありがとう』、『今を大切に』、『またどこかで』。


 どれも飾らない言葉だが、不思議と心の奥にすっと染み込んでくる。


 一枚、春のせせらぎを描いた葉書を手に取った。そこには、今日僕が歩いた親水公園の風景が、まるで記憶を映し取ったかのように描かれていた。澄み渡る蒼穹、舞う花びら、行き交う人々――。


「それはね、去年の春、長く苦楽を共にした夫と一緒にここを散歩したときに描いたものなんです。今はもう、空の上ですけど」


 穏やかに語る彼女の声に、胸がぎゅっと締めつけられた。何気ない日常が、かけがえのない記憶となり、こうして色をまとって、心静かに息づいている。


「どうぞ、持っていってください。出会ってくださった記念に」


 予想もしなかった言葉が返ってきた。受け取った葉書のぬくもりが、手のひらにじんわりと広がっていく。


「ありがとうございます」


 何度も心の中で繰り返しながら、僕は深く頭を下げた。ポケットにしまいながら、そっと空を見上げる。雲の切れ間から差し込んだ一筋の光が、まるで誰かの笑顔のように、僕の歩む道を、温かくそっと照らしていた。


 散策の時間は、寄り道のせいで少し遅くなってしまった。


 けれど、このひとときは、白昼夢でも夢物語でもない。僕にとって、かけがえのない現実の贈り物となった。


 耳元に届いた音色、人々の笑顔、心に染みる情景――。それらが織りなす刹那は、まるで時が止まったかのようだった。


 どこにでもありそうで、実際にはどこにもない日常の散策で、心に刻まれた思い出は、胸の奥で静かに温かく光り続けるだろう。未来へ向かう心を、そっと照らしてくれる、珠玉の宝物として。

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蒼穹の風に乗る追憶のメロディー 神崎 小太郎 @yoshi1449

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