真夏の悪魔

写乱

真夏の悪魔

 世界が不意に音を立てて歪んだような気がした。いや、気のせいじゃない。真夏の午後の繁華街は、焼けたアスファルトが陽炎を立ち昇らせ、遠くのビルさえ蜃気楼みたいに揺らめかせている。

 耐え難いほどの熱気。額や首筋には、じっとりと汗が滲んでいた。車のクラクション、どこかの店から大音量で流れ出す、神経を逆撫でするような安っぽいダンスミュージック、そして意味があるのかないのか判然としない、無数の人々の話し声。それらがごちゃ混ぜになって、蒸し暑い空気の中で澱んでいる。不快なノイズの塊だ。


 そんな喧騒のまっただなかを、真奈美は歩いていた。頭には純白のカチューシャ。清楚さを演出するには、うってつけの小道具。ノースリーブの白いワンピースが、風もないのに汗ばんだ肌にまとわりつく。今日の彼女に、明確な目的地はない。ただ、この不快な熱気の中を歩いている。それだけだ。


 素足に履いているのは、エナメルの白いポインテッドトゥパンプス。新品のような輝きを放つそれは、彼女の装いの中で、どこか鋭利な凶器めいたアクセントになっていた。その靴だけが、周囲の熱気から切り離されたように冷たく光っている。靴底は薄めのゴム製で、元は柔らかなクリーム色だったはずだが、今はアスファルトの汚れで黒ずみ、薄汚れている。そこには細かい波形のギザギザがびっしりと刻まれており、泥や小石を掻き出すための、より深いV字の溝も数本走っていた。その凹凸が、これから起こることの、秘密の鍵であるかのように、彼女の意識の片隅で妙な存在感を放っている。


 そのときだった。視界の隅、アスファルトの上に転がる黒い塊。注意を向けずとも、それが何であるかはすぐに分かった。セミだ。夏の短い命を燃やし尽くし、今はただのゴミクズ同然に転がっている。じりじりと太陽に焼かれ、乾いて、ひっくり返ったまま動かない。


「…ちっ。汚い」


 真奈美の唇から、吐き捨てるような独り言が漏れた。周囲の誰も、そんな小さな虫には目もくれない。誰もが自分のことで精一杯だ。汗を拭い、スマートフォンに目を落とし、あるいは連れとどうでもいい会話を続けている。だが、真奈美の心臓は、その小さな存在に妙に引っかかった。虫けら同然の、取るに足りない存在。


 衝動。それは好奇心などという生易しいものではない。もっと暗く、粘つくような、腹の底から湧き上がってくる何か。彼女の白いパンプスの、鋭く尖った爪先が、まるでそれ自身の意志を持っているかのように、その黒い塊のすぐそばまで進む。いつもなら汚さないように避けるはずの距離。でも今は、その汚れた存在が、彼女を強く引きつけていた。


「邪魔なんだよ、おまえ」


 誰に聞かせるでもなく、低い声で呟く。この汚い靴底で——この黒ずんだクリーム色の、波形のギザギザが刻まれたゴム底で、この脆い命を潰したら、どんな音がして、どんな感触がするのだろう? 薄っぺらい罪悪感の膜を突き破って、未知の感覚への渇望が、じわじわと広がっていく。


 周囲の視線をさりげなく探る。大丈夫、誰も見ていない。誰もがこの蒸し暑さと自分の都合に夢中だ。真奈美は、息を詰めた。これから行う秘密の儀式のために。


 ゆっくりと、右足に力を込める。白いエナメルの爪先が、セミの体に触れた。その瞬間、死骸だと思っていた体が、微かに、本当に微かに痙攣した気がした。


「まだ生きてるの? しぶといわね」


 心の中で嘲笑いながら、さらに体重をかける。ほんの一瞬。


 ぐしゃり。足の裏に、今まで感じたことのない感触が伝わってきた。微かな抵抗、そしてすぐに崩れ去る、柔らかく、生温かい感触。熟れ過ぎた果実を踏み潰した時の、あの嫌な感触に似ている。いや、もっと生々しい。


「…へえ」


 何事もなかったかのように、すっと足を上げる。周囲に悟られないよう、あくまでも自然に。しかし、心臓は早鐘を打っている。足の裏に残る、あの奇妙な感触。罪悪感? いいや、違う。これは、もっと別のものだ。奇妙な、そして否定しがたい、微かな快感。自分の足で抵抗できないものを壊すという感覚。


 彼女は再び歩き出した。白いカチューシャとワンピース。しかし内面では、確実に何かが変わった。新しい、暗い衝動が芽生え、ゆっくりと育ち始めている。


 次第に、彼女の目は獲物を探すようになった。アスファルトに落ちているセミを。黒く乾いたやつ、まだ僅かに動いているやつ、仰向けになったままのやつ。


「あ、いた」


 人通りの少ない場所を選び、次のターゲットに近づく。白いパンプスが、静かに、しかし確実に迫る。そして、ためらいなく体重をかけた。


 ぐしゃっ!


 アスファルトに響く、湿った音。彼女だけの秘密の音。足の裏に伝わる、個体差のある感触。乾いたセミはパキッと音を立てて砕け、まだ新しいものはべちゃっと潰れる。クリーム色だったはずのゴム底、その波形のギザギザが、セミの体をアスファルトに擦り付ける。時折、パンプスの裏に緑色の体液や、黒っぽい内臓のようなものが付着するのが分かる。白いエナメルにも、黒い汚れが飛び散る。


「汚いわね、本当に。でも…悪くない。ふふっ」


 踏み潰すたびに、興奮が波のように押し寄せる。背徳感と快感が混じり合い、奇妙な高揚感を生み出す。自分の足で、何の抵抗もできないものを破壊する。その絶対的な支配感。それが、彼女の奥底に眠っていた倒錯した欲望を、容赦なく引きずり出したのだ。


 人通りが多い場所では、慎重になる。あくまで偶然を装い、足元のセミを踏む。すれ違う人々は、彼女の清楚な外見に、まさかそんな残酷な行為が行われているとは思いもしないだろう。

 白いカチューシャ、白いワンピース、白いパンプス。その完璧なまでの擬態。そのギャップが、スリルとなって彼女の興奮をさらに掻き立てる。額やうなじを伝う汗が、興奮の熱を物語っていた。


「ふふ…誰も気付かない」


 路地裏に入ると、彼女はさらに大胆になった。積極的にセミを探し、見つけると躊躇なく足を振り下ろす。


 …べしゃっ!

 …ぐちゃっ!

 …ばしっ!


 様々な破壊音が、彼女の耳を楽しませる。力を込めて踏みつけた時の、足の裏に伝わる確かな抵抗と、それが一瞬にして失われる感覚。それは、どんなものよりも甘美な刺激だった。波形のギザギザだけでなく、V字の深い溝にも、潰れたセミの破片が詰まっていくのが分かる。


 呼吸が早くなり、ワンピースの下の素肌が熱を帯びる。下腹部に、じりじりと熱いものが集まってくる。


「ああ…なんか、変な感じ…」


 アスファルトには、無残な残骸が点々と広がっていく。羽根は砕け、体液が滲み、内臓が飛び散る。その光景を前に、真奈美は言いようのない高揚感に包まれていた。


 もはや数は数えていない。ただひたすら、目の前に現れるセミを潰す。白いパンプスの爪先で狙いを定め、黒ずんだクリーム色のゴム底で、容赦なく押し潰す。ギザギザの靴底が、その役割を完璧に果たしていく。


「もっと…もっと潰したい…」


 踏みつけるたびに、熱いものが込み上げてくる。それは純粋な性的興奮だった。破壊の快感と、身体の奥底から湧き上がる熱い衝動が、彼女を未知の高みへと導く。


 力を込めてフラットなヒール全体で踏みつける瞬間、体が大きく揺れる。ワンピースの裾が捲れ上がり、汗ばんだ素肌が一瞬だけ空気に触れる。


「んん…っ!」


 小さく喘ぎながら、さらに力を込める。足の裏に伝わる、生温かく、ぐちゃりとした感触。


「あ…ダメ…気持ちいい…」


 白いパンプスは、もはや見る影もない。黒や緑の体液と破片で汚れ、異様な光沢を放っている。しかし、真奈美は気にしない。むしろ、その汚れこそが、彼女の欲望を満たした証であり、勲章だった。


 踏み潰すたびに、興奮は増していく。心臓が激しく鳴り、呼吸は荒い。下腹部の熱は、もう抑えきれないほどの衝動に変わっていた。人通りのある場所に戻ってきたが、もう構わない。すれ違う人々の視線が、逆に興奮を煽る。バレてはいけない、でも、この衝動は止められない。


「はぁ…っ、はぁ…っ、やば…」


 周囲の喧騒が遠のいていく。彼女の世界は、足元のセミと、それを踏み潰す自分の靴、そして自分の身体の内部だけで完結していた。破壊と快楽の渦。


 そして、ついにその瞬間が訪れた。雑踏の中、必死に平静を装いながらも、内側では嵐が吹き荒れている。


「ん…っ! ああっ…!」


 抑えきれない声が、歯の間から漏れ出す。すれ違う人が一瞬訝しげな顔をしたが、すぐに興味を失ったように通り過ぎていった。

 真奈美の体は微かに痙攣し、頭の中が真っ白になる。激しい快感の波が全身を駆け巡り、足元の破壊の記憶と、身体の奥底から湧き上がる熱い衝動が、渾然一体となる。周囲に人がいるという状況が、禁断のスパイスのように快感を増幅させた。


 しばらくの間、真奈美は足を止め、荒い呼吸を整えようと努めた。心臓はまだ激しく波打ち、体は微かに震えている。足の裏には、生々しい感触が残っている。


 やがて、興奮の波がゆっくりと引いていく。冷静さが戻り始めると同時に、奇妙な虚脱感と、しかしそれ以上の満足感が彼女を包んだ。目の前のアスファルトには、彼女の衝動の痕跡が点々と残っている。汚れた白いパンプスが、その共犯者として鈍い光を放っていた。


「ふぅ……」


 深く息を吐き、乱れたワンピースの裾を直す。そして電柱に寄りかかると、おもむろにワンピースのポケットに手を入れた。取り出したのは、細いメンソールのタバコと、安物のライター。周囲を窺いながら、慣れた手つきで火をつけた。


 細く長く、紫煙を吐き出す。足元のアスファルトに散らばるセミの残骸と、汚れた自分の靴を眺めながら、先ほどの出来事を反芻する。あの音、あの感触、そしてあの快感。


「くくっ…」


 口元に、悪魔のような笑みが浮かんだ。それは、達成感と、自嘲と、そして更なる欲望がない混ぜになったような、複雑な表情だった。


「虫けらごときが、私をこんなに気持ちよくさせるなんてね…」


 短くなったタバコを指で弾き、アスファルトに投げ捨てる。そして、まだ火が消えていない吸い殻を、汚れた白いパンプスの、波形のギザギザが刻まれたクリーム色のゴム底で、執拗に踏み潰した。火花が散り、タバコがアスファルトに押し付けられて潰れる感触が、最後の小さな満足感を彼女に与えた。


 すべてが終わると、彼女は再び周囲を見回し、何事もなかったかのように、すっと背筋を伸ばして歩き出した。白いカチューシャ、白いワンピース、そしておぞましい汚れの付着したエナメルの白いポインテッドトゥパンプス。

 夏の強い日差しの中を歩く彼女の姿は、先ほどの狂乱など微塵も感じさせない。しかし、彼女の心の中には、満たされた暗い欲望と、次なる獲物を求める新たな衝動の予感が、静かに、しかし確実に、熱を帯び始めていた。夏は、まだ長い。

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真夏の悪魔 写乱 @syaran_sukiyanen

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