河童
水槽の中の水は不自然なほど透明な色をしていた。まるでそこには初めから水なんか入っていないかのように。しかし水槽の中を極彩色の魚が泳ぐとき、時折空間が震えるように波紋が薄く広がる。だからやはりそこには水があるのだ。
淡いライトに照らされた水槽の内部には、小さな石と水草があり、白い砂が敷き詰められている。魚たちがそこを泳ぐとき、光に照らされた水草がきらきらと輝く。淡く、きらきらと輝くひんやりした水の中を、魚たちが泳いでいる。
都会の深夜は、そんなアクアリウムの中に似ている。街灯の淡い光に照らされた冷ややかな夜風の中を、歩く一人の男。彼の黒い二つの瞳もまた、不自然に透き通っていた。彼はその丸い大きな瞳に雑草や、ビルの窓や、公園のフェンスなんかを映しながら夜の中を泳ぐようにするすると目的もなく歩いている。
ガチャリ、と音を立ててドアの鍵が開けられて、男は自分の部屋へと帰る。その男の部屋には、アクアリウムの他は、いわゆる生活感というものが致命的に欠如していた。布団は部屋の端に追いやられ、畳まれたままひっそりと暗い影の中に隠れている。冷蔵庫や洗濯機はなく、机もない。そうしてなにかの映像が映し出されているモニターの前に、椅子が一つ置いてある。一見するとそこは、警備員が常駐する警備室のように見えた。
ただ、極彩色の魚が泳ぐアクアリウムだけが部屋の真ん中に置いてある。男は夜のように暗い部屋へ入ると水槽の前に立ち、ぼんやりした光に照らされて泳ぐ魚たちを暫く眺めてから、満足そうに、うっとしりした色を大きな瞳に浮かべてモニターの前に座った。
男がつないであるパソコンを操作すると、モニターにはまず、様々な配信者たちが配信している彼ら彼女らの私生活が映し出された。それは映画を観ているときのリアクションであったり、ゲームの実況であったり、雑談であったり、あるいは恋人との性行為であったりした。もちろんそれは本当の意味の私生活ではない。配信者たちは配信用カメラの前で、巧妙に彼ら彼女らの自然体を「演じて」いる。男は大きな瞳をフクロウのように見開いて、それらを凝視し、配信者たちの何気ないしぐさの向こうに見える彼ら彼女らのリアルな私生活を頭の中に描いていた。
二時間ほどそういった映像を無言で眺めてから男は一度席を立ち、部屋の隅に置いてあった魚の餌を取り出すと、注意深くアクアリウムの餌入れから魚たちに餌を与えていった。水槽の中の魚たちは窒息から逃れるように水面へ顔を突き出すと、餌入れの中の餌を食べた。男はやはり無言でその様子を眺めている。
そしてまたモニターの前に座ると、モニターの映像を切り替えた。
そこにはある人物の、本物の「生活」が映し出されている。
男が仕掛けた盗撮用カメラに映し出されているのは、一人の若い女性の部屋だった。生々しい生活感に溢れた部屋の真ん中に座った彼女は、ちょうどモニターの前でゲームをしているところのようだ。
もちろん配信とは違って、彼女はカメラに向かって喋るということはない。しかし熱心にゲームをしているので、ときどき「あー」とか「くそっ」といった言葉を呟いている。男の耳はそれら一つ一つを丁寧に拾い上げては頭の中で味わいつくした。
男は彼女がゲームに疲れて寝る準備をしてから布団へ移動し、部屋の明かりを消してスマートフォンの光をぼんやり眺めて、やがて眠りについて完全に映像が真っ暗に染まるまで、モニターを眺め続けていた。そうして実に満足そうな笑みを浮かべてから、男自身も眠りについた。
男は翌日も、一番風呂や新雪のように新鮮な、凛と張り詰めた深夜の空気の中を散歩していた。
彼はこの日、誰ともすれ違わなかった。浮浪者も、酔っ払いも、大学生の群れも道の向こうから顔を出さず、ただ一人静かにほの暗い道を歩き続けていた。
そうして公園の前を通りかかったとき、彼は正面の十字路に、たった一つ人のような影を見かけた。しかしそれは、人ではなかったように見えた。彼の大きな瞳と注意深い集中力は、街灯に照らされた夜闇の中で、それを一見して人間でないナニカと見とめた。
その影は男から見て十字路を右に折れた先へすぐに通り過ぎてしまった。
火のような好奇心に駆り立てられて、男は走り出した。
……彼は常に、自分の生活の楽しみを、自分の生活の外に見出していたのである。
男が十字路を右へ折れて走り続けると、遠くに見えていた影は暫くのあいだ立ち止まっていた。男の足は引き寄せられるように影のもとへ向かうが、街灯の明かりが途切れていて、近づいても姿がはっきりと見えない。それはひどく猫背の、身長が低い人影に見えた。それに近づくにつれて、男の身体に自然と鳥肌が立った。しかし彼は恐怖を自覚しなかった。彼の身体はただただ、日常に現れた非日常的なナニカに引き寄せられ、吸い寄せられていった。
(あれはなんだろう? こんな夜中に人でない何かが街をうろついている。面白い、面白い、面白い……)
そうしてついに影から約5メートルほどの距離まできたところで、男は一度立ち止まった。
暗い闇の中で、じっくりとその影の後ろ姿を眺めて(やはり、明らかに人ではないな)と男が心の中で呟いた時。
壊れていた真上の街灯にチカチカと光が灯り、同時にその「影」は男の方へ振り返った。
「ソレ」の顔を見て、男の全身に痛いほど鳥肌が立つ。
ソレは男の予想通り、人ではなかった。黒い体毛を体中に生やし、その身体は緑色に染まっていて、びしょりと濡れた表皮が街灯の光に照らされて光っている。
顔は深い皺で覆われている。唇は薄く、目は細長く、目尻と頬に刻まれた皺で、その顔は終始にっこり微笑んでいるように見える。しかし本当に笑っているわけではない。むしろ、ソレが何を考えているか、男には全く想像できなかった。ただ頭蓋骨に張り付いた笑顔によく似た肉の造形が目の前にある。何を考えているかはわからない。
濡れた頭髪の真ん中に、水を湛えた皿があり、その部分には落ち武者とよく似た印象があった。
その皿を見て男は(ああ、河童だ)と思った。
男の両足は無自覚な恐怖のために凍り付いた。その、男の姿を見とめた河童は、極端に細長い手足を人間離れした滑らかさで動かして道の端の下にするりと消えてしまった。
後に残された男は、30秒ばかり身体を硬直させていたが、ふと我に返り、河童の姿が消えた辺りを探り出した。
見ると、道の端の側溝にかぶさっているコンクリートブロックが3枚ほどはがされていて、側溝の下に、なんだかよくわからない穴が開いている。土がむき出しになっていて、洞窟の入り口のように見える。土の向こうがどうなっているかは、完全に深い闇に飲まれていて数メートル先も見通せない。
次に自分が行うことを想像して、男の足はガクガクと震え出した。
男の身体も心も、もう殆ど恐怖の二字に支配されていたが、心の中に残っている好奇心という名の蛮勇でもって、男は側溝の剥き出しになった地面の上へ、夜の底へと滑り降りて行った。
暗闇の穴は深く広く、傾斜の急な下り坂になっていて、飛び込んだ男の身体は斜面をずっと落ちて行った。しかし土は柔らかく、なめらかだったので男の身体に傷はつかなかった。ただ、どこまで落ちていくかわからない不安が心につきまとった。どこまでも落ちていくような気もした。
長い、滑落の末に斜面の傾斜は緩くなって、土の上に生えた雑草の感覚が男の身体をとらえた。柔らかい草に抱きかかえられるように、男の身体は斜面の底に落ち着いてぴたりと止まった。
彼は立ち上がり、暗闇の中を手探りで歩き出した。遠くで水の落ちる音が聞こえた。
虚空に手を突き出しながらふらふら歩くと、道はわりと狭く、1メートルほどの間隔で、左右に土の壁があった。土を手でさわりながら壁伝いに前の方へ歩いていくと、やがて急な曲がり角にさしかかった。
彼は右へ折れている曲がり角をそのまま曲がった。すると視界の端がぼんやり明るんでいる。小さな光だったが、暗闇に慣れた男の目にはそれがとても大きく映った。
彼はそのぼんやりした黄色い光を目指して歩き続けた。光に近づくにつれてどこかから水の落ちる音は大きくなっていった。
曲がり角を曲がってからは、道幅が広くなったらしく、さっきまでの狭苦しく暗い洞穴と違い、灯りのあるトンネルのように見えた。それだけで男の心に安心感のようなものが広がった。
男はまるでそこが自分の家のように落ち着いた気分で、親密に灯る光の下まで来た。間近で見るとそれは黄色い光を湛えたランタンだった。ランタンが壁に吊り下げられていた。気付けば足下の地面は濡れている。すぐ間近で水の落ちる音が絶えず聞こえる。
男がそのランタンから目を切ってトンネルに視線を移すと、先程の河童が目の前に立っていた。相変わらず何を考えているかわからない笑顔のようなものを顔に貼り付けて、男を見つめていた。
すると河童は男の前方へ向けてゆっくり歩き出した。男が夢を見るような心地でぼんやりその様子を眺めていると、河童は歩きながら男をちらちらと振り返る。
ああ、ついてこいと言っているのか、と男は思った。地下の穏やかな光に照らされてみると、河童の顔は本当に男へむけて親密に笑っているように見える。それを見た男はなんとなく気恥ずかしさを感じながら、濡れた地面の上をぴちゃぴちゃとついていった。
少し歩くと、道を照らすランタンの数が格段に増えた。それはまるで洋館のエントランスのように、トンネルの端々を黄色い光で照らしている。そうしておびただしい数の横穴がトンネルの左右に開いている。水の滴り落ちる音は、その横穴の中から聞こえてくるようだった。
河童は一つの横穴の前に立ち、男を一度振り返ると、「くぇえ……」と薄く鳴いて穴の中に入っていった。男はほんの少しのあいだ逡巡してから、河童について穴の中に足を踏み入れた。最初の洞穴と同じくらいの穴の中には、やはりランタンが吊るされていて、なんだかよくわからない装置の斜め下に、蓋の空いた空き缶詰が土でできたテーブルの上にいくつか置いてあった。
すると一つの空き缶詰の中に、上から水が滴り落ちてきて、ぴちゃん、と音を立てた。2センチくらいの厚さに溜まったその水は、ランタンの黄色い光に照らされながらも、青く澄んでいるように男の目には映った。
河童は今水が滴り落ちた空き缶詰の横に置いてある装置を、男に向かって指さした。なんだかよくわからないガラクタの集合体みたいなものが、どう組み合わさっているのか、ばらけることなく天井から太く伸びていて、ちょうど河童の目の高さくらいに、ガラスのレンズがはめ込まれている。河童はそのレンズを指さして、また「くぇ……」と薄く鳴いた。
男は恐る恐る身をかがめてそのレンズを覗いた。するとレンズには、男にとって馴染みのある光景が映っていた。そこに映っていたのは、誰かの部屋だった。男はびっくりしてレンズから一度目を外すと、周囲にもある装置を見て、さらに横穴の数を思い出して愕然とした。
(このよくわからないガラクタは、それぞれ誰かの部屋と繋がっているのだ。この河童は、その、夥しい数の生活を、夜な夜な見つめて過ごしているのだろうか?)
そう考えてから、男はもう一度じっくり目の前のレンズを覗くことにした。
(いったいこの河童はどんな人物の生活を視ているのだろう?)
部屋をよく見ると、ガラクタに覗かれている部屋の主は、まだ寝ていなかった。その人物は、おそらく30代くらいの働き盛りの年齢で、テレワークをしているのか、部屋のパソコンの前でキーボードを熱心に叩き続けている。ときおり机の上の栄養ドリンクをグビりと飲んで、腕まくりしている袖を直し、また作業に取り掛かる。こんな深夜の作業にもかかわらず、その後ろ姿はとても理知的で、精力に満ち溢れていた。
ぴちょん、と水の滴る音が真下から聴こえて、覗いていた男はレンズから目を離した。ガラクタ盗撮機とセットで置いてある空き缶詰に水が滴り落ちたのだ。
その、水の理知的な青さと清涼剤のような爽やかな香りを嗅いだ男は、直感的に理解した。ここに滴り落ちているのは、部屋の主の部屋から滲み出たエキスのようなもの……言い換えれば彼ら彼女らの生活の原液だ。この河童はただ生活を監察するだけでなく、その生活のエキスを集めているのだ。
そこまで考えついたとき、男の胸がある期待にピクンと震えた。河童はそんな男の胸の内を見透かすように、また「くぇ……」と薄く鳴いてからその横穴を出て行った。
男は期待に胸を膨らませ、急ぎ足でその後をついていく。
河童はトンネルを少し歩き、別の横穴へと入っていった。
そしてまっすぐその中の一つのガラクタ盗撮機へ近寄っていって男に向かって指をさした。男は河童と示し合わせたように軽く頷いてレンズを覗いた。
はたして男の期待は現実となった。そこには彼がいつも盗撮している、若い女性の部屋が映し出されていた。彼女はいつも通りこの時間はまだ起きていた。のみならず今日は女友達を二人部屋に招いて酒を飲んでいた。すでに全員酔いが回っているようで、床やベッドの上にくつろいで座りながら、楽しげに何か話している。男は彼女たちの無防備な体勢や、短パンや半袖から覗く柔肌を見つめているうち、頭がクラクラしてきた。
ぴちゃん、と音が鳴った。
男はその音の在りかを見もせずに、ごくり、と生唾を飲み込んだ。彼の思考と直感の全てが、それがそこにあることを示している。そうしてレンズから目を離し、ゆっくりと視線を下に移すと、それは実際にそこにあった。
空き缶詰の中の液体。彼女の生活の原液。男は震えて焦点が定まらない目で、そのオレンジ色に輝く液体を見ていた。すると、河童がおもむろにその空き缶詰を水かきのついた両手で掴むと、男にずい、と差し出してきた。男は少し虚をつかれながら、無意識にそれを受け取った。
(これ……を、どうすればいいんだ……?)
男は状況をよく呑み込めなかった。しかし……目の前にある液体は、男にとってあまりに美しかった。橙色の液体が放つ官能的な輝きに心奪われるまま、気づけば男はそれを口へと運んでいた。そうして容器を傾けると、まず黄金糖のような甘味が舌先から口全体にじわりと広がった。つづけて桜とリンゴの香りを混ぜて濃縮したような、感じたことのないほど甘美で、艶やかな、言いようのない芳香が喉奥から鼻腔をついたとき、男は嘔吐した。
「げぇえええ!おぇ!」
びしゃびしゃと男の吐しゃ物が土の上に垂れ流される。
「くぇー!けっけっけ!」と、河童の大きな笑い声が横穴に響いた。
激しく嘔吐した男は、全身の気力や精力を削がれたようで、息も絶え絶えになりながら、夢中で河童のいる洞穴から抜け出した。それから数日のあいだ、男は以前の通りぼんやりと生活していたが、心の中で、何か致命的なものが欠落してしまったように——あのとき何か自分の生活にとって不可欠なものを吐き出してしまったように——感じていた。
そうしてある月の見えない深夜、男がいつものように散歩していると、繋ぎとめていた糸が切れるように男の身体は崩れ落ち、夜の底にどろりと溶けて流れて行ってしまった。
暗い夜空の下で、河童がどこかを振り向いて、ニコリと笑った。
妖怪が出てくる短編 久米貴明 @senkiri
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