火星移住積立

笹 慎 / 唐茄子かぼちゃ

***

 100年後の未来。あなたの子孫、送り届けます――


 宇宙に浮かぶ火星を背景にして赤ちゃんを抱いた女性がプリントされたパンフレットを眺めつつ、僕は正直あまり気乗りがしなかった。

 火星移住積立。なんでも百年後に地球へ巨大隕石が衝突し人類は滅ぶそうで、今から子孫のために火星へ移住する資金を積み立てておきましょうという金融商品である。親子二世代で積み立て、百年後の孫世代へ渡すものらしい。

 ただ、現状、火星へ移住する技術は確立されていない。


 七ヶ月前、妻と妊娠を喜んだのも束の間、この「百年後に人類が滅ぶ」という情報が発表された。そして、妻からこの火星移住積立を早く始めよ、と猛烈に急かされるも、それをのらりくらり躱し続けて、現在臨月。

 数社から資料を取り寄せてみたが、どうしても申込みの決断ができずにいる。


 二千万円コース、五千万円コース、一億円コース。


 はたして、この金額で足りるのかも謎だ。火星までの旅費にも満たないのではないか。そもそもまだ技術も確立してないのに、どうやって試算したのだろうか。

 仕事の昼休み。パンフレットに書かれた数字を眺めて、僕はため息をついた。

「なに、火星移住積立始めるの?」

 先にパパとなった同僚から声をかけられる。

「まだ迷ってる」

「妊娠中や産後のことって一生恨まれるらしいから、とりあえず入っておけば?」

 先輩パパからの諫言。重い……。


 帰宅し夕食を作っていると、寝室の扉が開いて、大きなお腹をした妻が顔を出す。

「おかえりー。なんか疲れちゃって寝てた」

「ただいま。夕ご飯、皿うどんだけど、食べれそう?」

 彼女は笑顔で頷く。僕は妻の皿も棚から取り出した。向かい合って食事をするも、火星移住積立の話をされたくない僕は、ガツガツと皿うどんを食べ終える。

 まだ食事中の彼女に「ゆっくり食べてね」と伝え、お産セットなる入院グッズが入った大きなカバンの中身をチェックし始めた。

 そして、車の鍵も玄関の定位置にあるか、指差し確認。よし、次は洗濯でもするか。

「ねぇ」

 後ろから妻に声をかけられ、僕はびくりと振り向く。

「今日、友達と電話しててね。率先して家事とかほとんどやってくれるし、禁酒もして遊びにも行かずに、家にいてくれてるって話したら、そんな旦那さん普通いないよって驚かれた」

 お? おう? 褒めておだてる作戦か?

「私もさ、そういう計画的で几帳面で石橋を叩いて渡る慎重なところ好きだよ。でもさ、子ども生まれたら、絶対に計画通りにいかないことばっかりだよ? 失敗したくない気持ちわかるけど、いいじゃん。多少失敗したって」

 言葉の矢による集中砲火。オーバーキルにもほどがある。

『♪ お風呂が沸きました』

 何も言い返せずに目を白黒させていたら、援軍の音が鳴り響いた。

「入れそうなら、暖かいうちにお風呂入っちゃって」

 僕は不服そうな妻の横を通り過ぎて、居間へと逃げた。


 その日は会議があって、スマホの確認がなかなかできなかった。だから、気がついた時には、もう妻は病院に着いていて、僕は慌てて職場を飛び出したのだった。

 なぜか自分の不在時に、こうなるとは想定していなかった自分がいて、何度も車で病院まで予行練習までしていたのに、そのバカさ加減に呆れる。そんな風に焦燥感でいっぱいになりながら、産院に到着した。

 そこから先のことはあまり覚えていない。苦しそうな妻にうっかり「大丈夫?」と声をかけて「お前が産めぇ!」と怒鳴れた気もするが、僕は終始オロオロとすることしかできなかった。


 ベッドの上で妻は、生まれたばかりの娘を抱いて微笑んでいる。分娩室での荒れ狂うカーリーの如き状態が嘘のようだ。妻が「ほら」と娘の顔を見せてくれた。

 僕は恐々と頬を人差し指で触ってみる。

「ふぇ……」

 娘の口から声が漏れ、泣かれる!? と僕は指を慌てて引っ込めた。だけど娘は泣かなかった。フェイントである。僕は妻と顔を見合わせ、二人で笑い合った。

 今度は小さな小さな手を指で触れる。すると娘は握り返してくれた。不意に涙がこぼれ落ちた。

 僕は涙を隠すように立ち上がる。

「下のコンビニ行くけど、何かほしいものある?」

 妻は少し悩んで「桃のゼリー」と答えた。頷いて鞄を持ち病室を出る。


 僕は病院受付の横にある記載台を見つけ、鞄から申込書を取り出し記入を始めた。

 元本が割れない積立期間は五年以上。それなら小学校入学前にまた再検討すればいい。

 もし、あの子が将来子どもは持たないという決断をしたなら、積立金で老後をちょっと贅沢に過ごせばいい。

 もし世界が滅ばなかったら、僕の孫は「おじいちゃん、変な積立してた」って笑うかもしれない。でも、なんだか「それが」いい気がしてきた。

 百年後の未来。本当に世界が滅んでしまうのか、僕は確認することができない。

 でも、あの子が、そして、まだ見ぬ孫が幸せであらんことを願って、僕は火星移住積立の申込書を郵便ポストへと投函したのだった。


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火星移住積立 笹 慎 / 唐茄子かぼちゃ @sasa_makoto_2022

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