プロテインの味を覚えてる
月井 忠
一話完結
不意に夜風が頬を撫でた。
俺は反射的にコートの襟元を閉じる。
暖かくなったと言っても昼間の話だ。
電柱の影に隠れ足踏みをしていると、暗く静かな道の向こうに人影が現れた。
特徴的な髪型。
閉じていた襟元を解くと首から鎖骨にかけて冷たい空気が流れ込む。
見計らって、目の前へ飛び出す。
「えっ?」
手の届く距離。
両手でコートをはだけ、ポーズを取る。
「きゃーー!」
開放感で脳汁に浸る。
「ゴ、ゴウ?」
目の前の彼女、マキは聞いた。
「俺の筋肉を見ろ」
「えっ? いつ見ても良い大胸筋ね」
「それだけか?」
「……ちょっとムラムラするわ」
「……この筋肉を見てもジムを辞めると言うのか?」
目を落とすとスカートからスラリと伸びたマキの足。
昔のようにムキムキじゃない。
「また、その話? それよりブーメランパンツ一丁にコートは危険よ。パクられるわ」
「俺のスタイルはどうでもいい。考えを改めるのかと聞いている」
俺は胸をピクピクさせて答えを誘う。
「もう決めたの。それに、この前言ったでしょ? 後でわけを話すからって」
「筋肉を捨てるのか! どうなんだ!」
マキは頭をかいて、うつむく。
「ほんと人の話聞かないよね! これだからマッチョは!」
「なんだと! この刈り上げ女!」
売り言葉に買い言葉だった。
意思に反して俺はワカメちゃんもびっくりなその髪型を詰っていた。
「最低!」
マキは俺の肩を素通りする。
横顔を追って、背中に声をかけようとした。
せっかちな桜の花びらがひとひら舞い降り、俺達を遮る。
花弁が地面に優しく触れた時にはマキの影は消えていた。
皆、新たな
俺はいつも取り残される。
一年の中でも別れの多い季節だった。
この季節を好きになれないのは花粉症だけが理由ではない。
「身が入っていないな。ゴウ」
「オジキ」
俺はダンベルから手を離した。
「マキのことか?」
視線は勝手に置かれたダンベルへと落ちていく。
「マッスルデュオバトルは無理か」
「そうっすね」
俺とマキのマッスルデュオバトルエントリーは、鋼ジムのマネージャーであるオジキにとって誇りとなるはずだった。
「アニキ! 刈り上げ女のことなんか忘れてソロバトルにエントリーしましょうよ!」
横からジンが割って入る。
「ソロはもう辞めたのさ」
「そんな! まだ行けますよ!」
あの男がいる限り俺に勝ち目はない。
そう思わせるほどの敗北感だった。
「ソロチャンピオンになっちまえば刈り上げ女だって!」
「そういやマキさん、この前――」
ジンの声につられマッチョたちが集まってくる。
俺は輪には入らず、窓の外を見た。
マキの名を聞くたびに大胸筋を刺されるような痛みがあった。
「アニキ! これ!」
目の前にスマホ画面が差し出される。
マキとガクが写っていた。
「あの刈り上げ女、ソロチャンプとよろしくやってたんですよ!」
ガクがいたから俺はソロを諦めた。
この上マキまで奪うのか。
「許せねえ、あの刈り上げ女!」
「ジン!」
静寂に包まれる。
思う以上に大きな声を出していた。
「刈り上げ、刈り上げと言うな。人を見た目で判断するのは良くない」
そっとジンの僧帽筋に手を置く。
「俺達はマッチョだ。一括りにされてマッチョはバカだと言われたくないだろ?」
「俺はバカでもいいさ! でもアニキは違う。アニキはそうじゃないんだ!」
ぽっかり空いた穴に何かが入り込んでくる。
パンッと手を鳴らす音が響いた。
「さあ、ここまでだ! みんなトレーニングに戻れ」
オジキの一声で散り散りになる。
「後で俺の所に来い、ゴウ」
オジキの言葉に頷くと、力のない手でダンベルを握った。
オジキに指定された場所は駅から少し離れたほっそいビルだった。
結局こうして誰かの世話になってしまう。
どうして俺は自らの人生を自分の力で進めることができないのか。
四階に着くと
「ゴウ!」
彼女が扉を開けて出てくる。
「マキ!」
俺はコートを脱ぎ捨て床に突っ伏す。
「だからブーメランパンツ一丁は、やめて!」
地面を舐めるように姿勢を低くする。
「これが俺の謝罪だ!」
渾身の腕立て伏せを始めた。
「お願いよ、頭を上げて……それと、服を着て」
「いや、まだ、まだだ」
この格好でプッシュアップしなければ謝意は示せない。
「君に、ひどいことを、言ってしまった。すまない。傷つけるつもりは、なかった」
上腕二頭筋が乳酸で湿る。
「ずるいよ。あなたばかり謝って」
声の後、頭の先に気配を感じた。
「私だって謝りたいんだから」
顔を上げると、そこには腕立て伏せの姿勢をしたマキがいた。
彼女もプッシュアップを始める。
階段とガラス扉に挟まれたわずかなスペースで、二人の男女が腕立て伏せをする。
奇妙で貴重な体験だった。
「私も、あなたに、ひどいこと、言った。ごめんっ」
「いや、いいんだっ。それより、ここが、君の、言っていた、理由か?」
「ええ。オジキにも、相談した。私の、ジムよ」
その言葉に俺は腕を曲げたまま止まった。
「それと、あなたの、ための、ジム。あなたに、ゴウに、ここで、働いて、欲しい、のっ!」
彼女のペースが落ちていく。
トレーニング不足で、以前より回数をこなせていない。
だが、意思は折れていない。
「あなたの、主義は、わかってる。でも、無職は、ダメ!」
俺は人生を筋肉に捧げ、働く時間を削りトレーニングに費やした。
周りは俺を筋トレニートと呼んだ。
「トレーナー、として、ここで、一緒に、働こっ!」
限界を迎えたマキは腕を伸ばし、荒い息を吐く。
俺はプルプルと震えながらも腕を曲げ続け、鼻先の床を見つめる。
「わかった!」
床をはねのけるように腕を伸ばす。
新規採用の季節でもあった。
もちろん俺は新卒ではなく、中途マッチョだ。
だが初めて社会に出るという意味では新社会人でもあった。
「俺、働くよ!」
「ありがとう、ゴウ!」
お前はやっぱり俺にとってフォーエバーマッスルパートナーだ。
「ゴウさん。お願いします!」
「ああ、今行く」
気づくと
マキは「あなたの人徳よ」と言った。
自分がただのマッチョではなく、役立つマッチョであることが嬉しい。
「グリップを優しく握って……上げる!」
「フンッ」
あれだけ怖がっていた労働だったが、やってみれば楽しいことばかりだ。
マキがいて心強いというのもあるが、トレーナーの仕事を天職だと思えた。
自らの筋肉で稼いだ金がプロテインに変わる。
そのありがたさで、俺は日々震えている。
「ふぅ。それじゃ今日はこれぐらいで、ゴウさん」
「ああ、お疲れ様」
客を見送ると、コートを羽織る。
「それじゃ、よろしくね」
重々しい声でマキが言う。
「ああ」
ビルを出て夕暮れを眺めようと立ち止まった時だった。
ひゅんっと何かが鼻の頭をかすめた。
ビシッという音が右耳に響く。
目を向けるとコンクリートの壁が球形に凹み、中央には光る玉が埋まっていた。
「チッ」
舌打ちに振り向くと、一人の男がいた。
「命拾いしたな、ゴウ」
右手をこちらに向けて伸ばし、狙いを定めるように手首を左手で支えている。
「もうアニキとは呼んでくれないのか?」
ジンだけが
「うるせえ! オジキのジムから常連ばかり引き抜きやがって!」
右手にはキラリと光る球があり、今にも親指で弾きそうだった。
「お前、またパチンコに行ってるのか?」
「どこへ行こうが俺の勝手だ! 上から目線で言うんじゃねえ」
その手は細っていて、日がな一日パチンコ台のハンドルを握っている手だった。
どうりであの威力なわけだ。
マッチョ状態のジンがパチンコ玉を弾けば、壁の破壊だけではすまない。
かすめただけでも俺の鼻は吹っ飛んでいた。
「なあ知ってるか? パチンコ玉はお店の物で、ほんとは持ち出しちゃいけないんだぞ?」
「んなことは知ってる!」
命の危機にあっても俺は昔の関係性が忘れられない。
一方のジンは怒りに手を震わせ、パチンコ玉で俺を狙っている。
いや、あの震えは。
「お前まさか、プロテインを飲んでないのか?」
ジンの黒目が急激に動いた。
「待っていろ、今プロテインを」
コートのポケットに手を入れる。
「動くな! 俺のパチンコ玉が火を吹くぜ!」
牽制のつもりだろうが声は震え、意味もわからない。
構わずポケットの中を探ると、指先には覚えのある感触。
「ほら、これを食え」
取り出すと、やはりプロテインバーだった。
「うはっ!」
ジンは慌ててよだれを拭う。
体は正直なもので、目から入った信号が瞬時に口に伝わり、反射的にプロテインを向かい入れる準備をする。
マッチョの悲しき性だ。
「プロテインの味が忘れられないんだろ?」
「違う! 俺はお前を殺らなきゃいけねえ!」
「オジキが俺を消そうとお前をよこしたなら、そのパチンコ玉を受けよう。だが違うんだろ? なあ、お前は何がしたい?」
「黙れ! 皆、俺を置いてけぼりにしやがって! 俺はオジキに拾ってもらったんだ! 裏切れるわけねえだろ!」
プロテインバーの袋をゆっくり開けてジンに差し出す。
「なあ、俺と一緒に働かないか? パチプロなんか辞めて
「馬鹿か!? オジキが許すわけ――」
「それを決めるのはオジキだ。お前じゃない。望む通り動いてみろよ」
「そんなこと許されるわけ――」
「なら一緒に謝ろう!」
俺はコートをはだける。
「俺もオジキに頭を下げに行くところだったんだ。常連を引き抜いてごめんってな。オジキが許してくれるまで、一緒に腕立て伏せしようぜ」
「アニキ!」
ジンは俺からプロテインバーをひったくると、貪るように食った。
一抹の不安がよぎる。
あのプロテインバーはいつからポケットに入っていたのか。
今年買った記憶はないので去年からポケットに入っていたことになるが。
「うめえっ! うめえよアニキ!」
まあ、死にはしないか。
生暖かい風が俺の素肌を撫でた。
行き遅れの桜の花びらがひとひら舞い上がる。
今年からは、この季節を好きになれそうだった。
プロテインの味を覚えてる 月井 忠 @TKTDS
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます