死神ちゃん

ぁる

残された私




"死神ちゃん"

――彼女が私を評した最後の言葉。




「また、お会いできれば。」

 騒がしい音を幾らか反響させていたこの空間にしてはやけに通る、低くて澄み渡る落ち着いた声色。

私は戯言まみれのSNSに落としていた目を少しだけずらし、その人物を視界に入れた。

 この薄暗い路地裏でも僅かな光量を受けその輝きを示す黒い革靴を履き、質の良いグレーの背広を羽織った紳士が、さっぱりしたような表情でそこに立っている。

「……ん、パパならいーよ。」

 繁華街の逆光ではっきりとはしない顔を横目で見ながらそう答える。少なくともこの言葉は嘘ではなかった。

 男はしきりに自身の服を見回しては襟元や裾をそろえている。私にはその忙しない行為を以って何が変わっているのかさっぱりだったけれど、ひと段落着いたのか憑き物が落ちたような笑顔を私に向け、鞄を持たない方の手の平を軽く掲げた。

 私は黙して何もしないが、視線をその壮年の男へと傾けていることだけで彼にとっては十分だったらしい。男はおもむろに身を翻すと貫録を湛えた背中で、大通りの方へと歩いていった。


 雪も消えて久しいこの時期には、宵の刻となっても身体のすべてを固めるような寒さがあたりを支配することはなくなっていた。通りを歩く人々の纏う体積も幾らか縮小し、数か月前とは空気が様変わりしている。

 なんとなしにその背中が人混みに溶け込んでいくのを見送った後、私はバッグに入った封筒を取り出し、中身を見分する。

 ……7。これで新しい靴でも買おうか、いや、いまは少し心許ないからとりあえず取っておこうか、なんて思いつつあまり人の手に触れられていなかったのであろう七つの精巧な紙を飾り気のない茶封筒に戻し、手早く鞄に押し込む。折り目一つなかったそれらに幾つもの皴が付くことなどどうでもよかった。

 街路樹の葉は落ちるどころか勢いよく瑞々しさを一面に突き出している。あの、孤独を肌身に感じさせ、それでいてそれを許してくれるような寒さももうここにはない。日の落ちて十分に経ったこの僅かな時間にだけそのかすかな名残を残しながら、世間の、社会の空気は我先にと様変わりしている。

 私にとっておそらく最も劇的であった先の冬は、終わってみればこうして外的にはあっけなく消え去ってしまっていた。私の元に残ったのは幾らか劣化品へと成り下がったこの体と、一通の手紙。

 ……ふざけた妄想に浸ってやがる。なに被害者面しているのか。

 カッターの一つでも突き立てて思考を切り捨てたい欲を抑えつつ、先ほど男の去っていった表通りを視界に入れる。男の姿が見えないのを丹念に確認してから、私は喧騒とは反対側の、タクシーを呼び付けてある裏通りへと足を引き摺っていった。




 ♪♪♪、♪♪♪……

 スマホのアラームが無遠慮に朝を告げる。その勢いとは裏腹に、発している音量は幾らか控えめで。数週間前まではもっと大きな音で鳴らしていたのだけど、母がさも耐えかねたかのごとくその音に苦言を呈してきたためにボリュームを半分ほどに絞り込んでいた。

 目の前で喚くそれに腕を伸ばすことすらせず、ただただ幾らかの時が流れていった。瞬きすらせず硬直していると、幕の下りていた意識が明瞭になっていった。昨晩は珍しく薬も毒も摂取することなく眠りにつくことができたというのに、体も頭も相変わらず重く、やがて痛みも認識するようになる。

 そう、いつものこと。私はまだ生きているのだから、これらはむしろニュートラルな状態なのだ。これらを甘んじて受けること、むしろ私という存在の一つとして持ち合わせることで漸く私は日常にいることを辛うじて許される。

 その耳障りな音がやがて頭に響く前に、小さく表示された停止ボタンを押す。そのまま表示されるホーム画面にひっきりなしに並ぶ通知に辟易するが、もはや見慣れたものである。今の私には優先するやりとりなどなにもない。もう、ない。

 一つ触れるだけで増殖し蛇腹のごとく並ぶ鬱陶しいそれらを、ろくに内容の確認もせずにまとめて消した。


 母は今日も帰っていないようだった。厚いカーテンが閉め切られ、ソファやテレビなど一通りの家具がある割に生活感に欠けたリビングは、モデルルームと言われた方がしっくりくる。

 冷蔵庫の脇に積まれている段ボールからラベルの付いていないペットボトルを取り出す。ここにある飲み物が水からお茶に変わったことを、果たして私以外に知っている人がいるのだろうか。

 学校へ行くために最低限の身支度を、気の乗らない中で仕立て上げてゆく。濃紺の無地でできた厚手の制服に縞の入った黒いリボン。巷ではJKブランド、なんてものがあるけれど、それらに並べられるようなものではない、飾りっ気のない制服。メイクやヘアセットも単純なもので、特に髪なんて癖を梳いて下ろすだけで、遊ぶときと比べると一割も注力していない気がして笑えてくる。それですら面倒なのだけど、誰のためでもなく私のためだから仕方がない。




 自宅を出て薄汚れた階段を漸く下った私に向けて、ランプシェードのように辛うじてかかっていた雲すら消えた朝日が降り注いだ。力いっぱいに目を閉じても塞ぎきれない力線は、私の網膜から頭部へと爛々とした刺激を流し込んでいく。許容量の低い私の脳はその刺激を受け止めきれず、すぐにシナプスを介し信号を伝達し始めていった。

 あぁ、もう。目を閉じているのに、明るい。なんてことはない。いつものことだ。

前後左右へ生ぬるく大きなモノで振り回されるような感覚に抗うこともせず受け入れていると、次のフェーズに移行した。どういうわけか、それらの刺激は左のこめかみに集中させられる。脈動と合わせ、さも血管内に鉄球を通しているかのような頭痛が連綿と生じる。眩暈、というほどではないが、無気力に開いていた目から入る情報はわずかに霞んでいた。

 つくづく自身の環境への不適応さには呆れるものだが、仮にも私はこの体で今まで生きてきたのだ。添えるだけで胸や手頸よりも脈動を感じられるようになった部分を力いっぱいに左手の指で押さえつけながら、節々からも主張の絶えない痛みを堪えつつ歩を進める。駅までの辛抱だからと、煎じすぎた慰めを自分にかけるしか他になかった。


 案の定すぐに限界は訪れた。薄い皮膚にある血管をすべて押し潰すように圧迫していた甲斐もなく、認識する刺激はもはや周囲の光や音ではなく、周期的な痛みと瞼を下ろしても続く輝きへと変わっていく。

 今日の私が幾らか調子が悪いことは自覚していたし、そのことについての耐性は幾年にもわたり積み上げてきたはずだった。が、それは喉元過ぎれば熱さを忘れるといったことであって、今感じている痛みが変わるわけではない。せいぜい、この苦しさ程度では生への僅かな未練を断ち切ることはないという確信があるだけだ。

 結局私は歩みを止め、大きな橋の欄干に体をもたげることとなった。最寄り駅まではもうさほど離れていなかったが、体ではなく私の気力が持たなかったのだ。

 目の前では登校中の小学生や手押し車を押しながら歩く老婆、車道脇からはみ出しながら走り抜けていく自転車に乗った高校生に我先にと列をなす車。その背後に差す朝日も相まって役所の広報における背景のように思えるほどの健やかな景色から目をそらした。


 橋というものはフィクションや現実、あるいは国内や国外を問わず身投げやその噂話が付き纏う場所である。それが自殺目的なのか、あるいは遊戯が高じた飛び込みなのかはさておいて、私は否が応にも前者を意識せずには居られなかった。

 橋の外、その下の汚らわしい筈の水面は、よく写真などで目にするような不透明で濁った青灰色でなく、太陽の光をこれでもかというほどに反射し、普段の汚らわしさ、無頓着さはどこへやら、私の目にありったけの刺激を送り込んできた。ここですらも私を拒んでいるのだった。

 視界が歪んでいる。こめかみに力が入り、血管が張り裂けそうになる。頭が重い。内側から鈍器で殴られるような、繰り返される痛みに耐えられなくなり、立っていることさえままならない。

 しゃがみ込んでしまいたかったが、それはできない相談だった。私の左膝は機能を失っている。耐えるしかなかった。周囲の健やかな人々は私にいかなる目線を向けていたのだろうか。頭を抱え込んで背を丸めているのに、腰から下は直立で佇む私は傍から見れば奇異で滑稽だったことだろう。あるいは今にも身投げしそうな哀れな少女にでも映っただろうか。……どっちでもなければいいけど。

 数十秒だったか数分だったかは分からないが、そうして立ち止まっているうちに自嘲か諦めかも分からない感情が湧き上がってきた。頭痛は相変わらず続き、上昇した血圧は各所の痛みを幾らか鮮明にしていたが、この感情が私を日常に押し上げたのであった。

 懐のスマホで時間を確認する。もともと乗るつもりだった電車には間に合いそうになかった。

 歩き出そうとした私の視界の隅に小さな白いものがあるのに気が付いた。何か落としてしまったかと思い拾い上げると、それは私でない誰かのものであったであろう、白猫のストラップであった。普段なら直ぐにその場で手放したであろうが、なぜだかその時の私の心持は少し異なっていた。私は右手に持ったそれを、おもむろに左へと投げ飛ばした。相変わらず輝くその川面へと落ちていくストラップ。その最期を見届けることもせず、私はまた重い足を進めていった。

 その時の私はここ数日で一番気分が良かった気がする。




 結局登校の道中でコンビニに寄る時間のなかった私は、安くも美味しくもない癖に毎日長蛇の列を作る購買で昼食を調達することとなった。空腹など感じてはいなかったが、昼食を抜くのは昨晩の疲労や今の体調を考えても避けた方がいいと思う。十分ほどかけて適当なパンを買い、逃げ出すようにしてその場を去る。


 自販機の設置されているロビーに向かうと、そこには先客のグループがいた。奢りがどうとかで騒いでいる彼らには、後ろで唯一人待つ私など眼中にあるわけがない。辟易しつつもそこに投げ込めるだけの球を持たない私は、彼らが買い終わり立ち去るのを黙って待つしかなかった。

 傍の窓からは校門と校舎を繋ぐ道が見える。街路樹が新たな緑を纏い始めているのだから、桜の木はここ一番にと盛大に花開き、そして花弁を散らしていた。純白の肉に薄く伸ばした緋を染み込ませたような見た目は、どこか異様に感じられる。死体が埋まっている、なんて小説があったような気がするけれど、

「おい、琴音。」

 唐突に背後から私の名前が投げられる。口調とは裏腹に、多少遠慮がちな声色。

「……何の用。」

 声の主を察した私は、振り返りもせずに答えた。

 私が冷静に返したことに驚いたのか、ぶっきらぼうな返しに怖気づいたのか、息をのんだのが見なくても分かった。私としてはそのままそそくさと退散してくれたらよかったのに、彼は一呼吸おいてから切り出した。

「夏希のことで、ちょっと。……軽く、聞きたいことが。」

 私に言い聞かせるような、いや、投げつけるような言葉。なにがちょっと、軽く、だ。こいつから夏希の名前が出るとは思ってもみなかった。ましてやっと周囲が落ち着き始めた今になってはじめて彼の口から耳にしたのだから。

 私は目の前にいた連中が居なくなるのを危うく見逃しかけたが、何事もなかったかのように装って自販機に歩を進める。後ろの気配は消えないままだ。私が動揺したのを感づかれたのかもしれない。普段から周囲の状況を窺っているような奴だから、そう考えたほうが適切だろう。

 財布の中を無駄に見まわしてぴったりの小銭が無いことを確認してから、千円を入れ、飽きるぐらいに飲みなれたミルクティーを選んだ。普段よりも幾らか緩慢な動きでボトルとお釣りを取り出す。

 そんなことで気を落ち着かせた私は、立ち去る様子のない後ろにいる旧知に対して、自身でもわざとらしいとも思えるほどの愛想笑いを添えていかにもこの今の私が置かれている状況で典型的な返答をした。

「私お昼ご飯食べるから、またでいい?」

 素の私での作り笑顔は増して苦手だった。でも、少なくとも口調は明るいものを心掛けたし、冷たい突き放しではなくごく一般的な断り方のはずであった。そして、こいつはそういった文言を跳ねのけられるほど自我の強い奴ではない。

「え……。あ、うん、ごめん……。」

 じゃ、とか細く発した彼はばつが悪そうに去っていった。

 



 校舎の玄関から無駄に離れた校門までの道。つい十分前までは学校を出る生徒や部室棟に向かう生徒でごった返していたここも、今は話し込んでいる一団と清掃中の用務員が目に入るばかりであった。そうなるまで待っていたのだから当然だけど。

 私一人が通るだけには広すぎる校門を、さも正中を避けるように通り抜けた。放課後になったばかりの学校周辺は、学校という閉鎖社会がその支配領域を一時拡大したかのように視界に入る人の大半が制服を身に纏っている。だが、高校の敷地を抜け帰宅の途に就いたことは確かであり、私の心持はもはや学校になく、ただ疲労感が押し寄せてくるばかりであった。


 校門から少しだけ進むと、塀に背を預けスマホを触っていた男子生徒が私に気付き声を掛けてきた。

「琴音さん、ちょっといい?」

 今日はやけに他人に干渉されるものだ、と少し鬱陶しくも思ったが、それなりに取り繕って返事をした。

「えと、私に何か用?」

 話しかけてきた人物は匠吾であった。彼とは数回夏希と一緒に遊んだことがあるぐらいだが、私はともかく夏希とは仲が良かったと思う。というか私が夏希に連れられて行っていただけなんだけど。だからこそ面倒に感じる。昼のこともあったので、私はますます居心地が悪くなった。

 彼は少しだけ言い淀んだ後、幾らか気の入った声で言う。

「琴音さんと話したいことがあって。今から時間ある?」

 傍から見れば絵にかいたような告白のシチュエーションみたいだと他人事のように思った。




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死神ちゃん ぁる @alcoholist

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