限りなく透明に近いブルー  村上龍(作) を読んで

 数年ぶりくらいに書店に寄ったときの話だ。

 アカデミー賞を受賞した映画を見に行き、退屈な映画を見に行ってしまったと感想を巡らせていた。二人の姪のお年玉代わりに図書券を通販サイトで購入するのだが、5枚買って1枚を自分用に残しておき、その図書券を使っていなかったことを思い出したのでせっかくだから書店へ行こうと思ったのがきっかけだった。

 そういえば気になっていたタイトルがあったことを思い出し、目に止まった本を物色しながら探していた。目的の本は背筋(作)『近畿地方のある場所について』だった。1年前に発売されたにも関わらず平積みされており、ずっとここ最近の話題作であり続けていたことが伺えた。 その本がとても満足感のある内容であり、久しぶりに読書に熱が入った。

 その後通販サイトで中古の本を物色した。過去の名作文学、ノーベル文学賞受賞者の本、レズビアンがテーマの小説。とりあえず気になった本を買い物かごに入れていき、数日後に自宅に届いた。その際に買った内の一冊が村上龍(作)『限りなく透明に近いブルー』である。


 表題は知っていたが内容は知らないので買ったとかそれくらいの理由だった。村上龍氏(以下敬称略)と言えば作家をしながら企業をピックアップする番組でMCを担当しているくらいの認識であった。今まで素通りしてきた単語の前に今立ち止まることができた。恐らくこの時立ち止まらなかったら一生この本を読むなんてことは無かったんじゃないかと思う。この本を読むまでしばらく積み本にしていたがようやっと読む気になった。

 あらすじはウィキペディアで読んできてくれればいいので書かないことにする。もっとも、私の駄文を読む人間は多くは無いだろう。


 24ページまで読んだ。

 男二人と女一人が薬物を嗜んでいる様子が描かれていた。私は薬物を使用したことはなく、タバコも吸ったことがない。お酒は少々楽しむくらいだろうか。私にとって薬物を使うというのは、怪しい粉を炙って吸引し、快楽を得るという想像をするのが限界だった。しかしこの小説ではその解像度がとても高い。一部を抜粋させていただく。


 〈熱湯に浸してあった大きいスプーンをナプキンで拭いて乾かす。把手が弓形に大きく曲がったステンレスのスプーンの中に、マッチ棒の頭くらいの量だけ耳かきでヘロインを入れる。〉


 私なら「薬物を使う」と問われた時にこのような説明はできない。小道具はアルミ箔とライターを想像できる程度だ。「弓形に大きく曲がったステンレスのスプーン」を、それを「ナプキンで拭いて乾かす」。そんな仕草体験したこともないし想像もできなかった。それも「ナプキンで拭いて乾かす」から与えられる生活環境の情報が一気に自分の想像に入り込んでくる。

 手慣れた仕草というものを美学的に捉えるようになったのはいつだっただろうか。タバコを吸うシーンにいくつか覚えがある。確か映画の『蛇にピアス』だったと思う。男女が行為を済ませた後にタバコを吸うのだが、まず男が一本の煙草に火を着け一口吸う。肺の中で揉まれた煙を吐き出して、火の着いたタバコをそのまま女に渡す。女は渡されたタバコを吸う。そして煙を吐き出したときに、


 〈タバコは二口目がおいしいの〉


 と余韻を含ませながら言うのだ。

 別の作品でも思い出したシーンがある。漫画家オノ・ナツメの漫画『BADON』である。男四人がタバコ屋を経営する物語なのだが、四人のうちの一人が酒場へ行ったときに他の客がタバコを吸っていて、その客は「これは随分軽いな。吸った感じがしない」と呟く。それを聞いた男は自然と会話の流れの中に入りこう言う。


〈吸い方じゃない?このタバコはさ。ゆっくりたっぷり吸うんだ。急いで吸うんじゃ楽しめない。しっかり吸う〉


 その様を見せた後、店の名刺を渡す。そんなシーンだ。

 タバコを吸わない私がこれらのシーンを記憶している。それはこのシーンに美学があったからじゃないかと考えた。ヘロインを愉しむことにも同様に手順や道具にこだわりがあることを正確に描写されていたことで、私はこの作品の世界観の一部を体験したのだと思っている。

 きっと私は感銘を受けるようなタバコを吸う仕草を見たら、このヘロインのシーンを思い出すだろう。


 また、ゴキブリを潰すシーンがあるのだが、その描写も読み応えがあった。


 〈ゴキブリはケチャップがドロリと溜まったさらに頭を突っ込んで背中が油で濡れている。ゴキブリを潰すといろいろな色の液が出るが、今のあいつの腹はの中は赤いかもしれない。昔、絵具のパレットを這っているやつを殺したら鮮やかな紫色の体液が出た。その時パレットには紫という絵具は出してなかったので小さな腹の中で赤と青が混じったのだろうと僕は思った。〉


 主人公のリュウが女友達のリリーと会話している最中に、リュウがゴキブリを見ながら思っていたことだ。ゴキブリを潰したときに出てくる液体の色なんて気にしたことがなかった。潰したときの様子を色の移り変わりで表現していることに不意に感銘をうけた。詩なんて碌に読まないが、詩的だと思ってしまった。

 この小説の中には繊細な色彩感覚がある気がする。この本の表題にもブルーという色が含まれているように、読んでいると物体の色を描写することがあることに気付く。以前読んだ『雪国』も『百年の孤独』も名作文学として知られているが私はとても退屈気味に読んでしまった。だがこの本は色使いに着目して読むと発見が多いかもしれない。24ページまで読んでそう思った。

 ちなみにその後すぐにゴキブリは潰される。ゴキブリの腹からは黄色い体液が出ていたそうだ。


 84ページまで読んだ。

 その時点での率直な感想を言えば、悪趣味なB級映画を見ている気分である。ただひたすらにインモラルな話が綴られている。

 43~66ページにパーティーの話が出てくる。外国人を含む男女数人が一か所に集まり不潔で下品で過激な乱痴気騒ぎで明け暮れる様子を描いている。かなり過激な描写をしているはずなのだが如何せん想像が追い付かない。主人公の女友達が乱暴されている様子を眺めているかと思えば絨毯の上に落ちた食べ物やタバコの灰に注意が向くこともある。絨毯の色は赤だ。人間の代謝物や食べ物の残滓が散らばっている中、女達は余韻に浸る間もなくテーブルの上の更に盛られたつまみを口にする。味は描写されていない。しかしただ食事をしているだけでも不潔さがある。私にすれば排泄行為と差が無かった。

 そして極めつけは匂いだ。読んでいるだけなのに臭い。味はしないのに臭い。

 パーティーが催されている空間はを炊いた煙で充満しており、一歩踏み入れた瞬間から肉体は魔界の瘴気に蝕まれ、生贄を見つけんとばかりの悪臭を放つ魔物─豚の肝臓・腐った蟹の肉・発酵した内臓─に群がられる。

 豚の肝臓カマプアア・ハティブス腐った蟹の肉ロッテナ・カルキノス発酵した内臓ファメンティラド・イナブと言ったところか。Google翻訳で即席で考えた。どれが何の言語だったかは覚えていない。

 自身の悲鳴も大音量で鳴り響くスピーカーの音と魔物の吠声に搔き消され聴覚は機能しなくなっている。だが嗅覚だけはずっとその世界を体験し続けさせられている。

 儀式は加速していき、しまいには口にペニスを突っ込まれる。うっかり歯を立ててしまったところを黒人男から殴られ、口の中に血が滲む。そんな有様の口の中に液体が注がれてしまう。最後の最後で想像したくない味を想像した。

 吐き出した液体はピンク色だったという。


 67~84ページの内容はリリーと二入で雨の中ドライブに行く話だった。

 無論共感できる話ではなかった。というか話を正確に追えていない気さえする。だが妙に読ませるポエムや心象風景を描いた場面でもあったと思っている。


 〈雨はいろいろな場所でねて様々な違った音をたてる。草と小石と土の上に、吸い込まれるように落ちる雨は、小さな楽器を思わせる音で降る。手の平に乗る程の玩具のピアノみたいなその音は、まだ残るヘロインの余波がたてる耳鳴りに重なる。〉


 最後が台無しな気もするが。雨粒一つ一つが音を奏でていること、その音を玩具のピアノの音に形容していること、そして耳鳴りと重なること。広い空間の視点から自身の内側へと意識がフェードしていくその様子のテンポの良さがとても好きだ。

 嵐が吹き荒れ、雷が落ちる中、ドラッグで酩酊ドランクした状態で運転ドライブする。暗がりの中でヘッドライトの灯り頼りに雨風を気にせず車を降りて、傍にあったトマト畑のトマトをもぎ取り、「リュウほら見て、電球そっくりね」「伏せろリリー、あれは爆弾だぞ」と掛け合いながら奇行を続けていく。

 しかし暗がりに浮かぶ建物を〈長い洞窟の果てに見える金色の出口〉と喩えようと思ったその冷静さがまた愛嬌を感じさせる。

 折り返しまで読んできたがこのエピソードはちょっと他の人に読んでみてほしいと思えた。


 〈その時空の端が光った。青白い閃光が一瞬全てを透明にした。〉


 最後まで読んだ。

 正直なことを申し上げると、半分くらいまで読んで飽きてしまった。色の描写は徹底して丁寧に書かれており、人物の発言や口調や仕草や態度も描かれているのだが、想像することに疲れてしまった。集中して読めていなかった。仕事終わりに居酒屋に行ってカウンターに座り、特に話し相手もいないのでこの本を取り出して、お酒を飲みながら読み進める。その時店主から「それ何を読まれているんですか?」と尋ねられて回答に困り、咄嗟に言ったのが「悪趣味な文学です」なんて答えてしまった。

 心の底から「悪趣味な文学」だと思っているわけではない。回答に困ったのはこの小説が持っている妙を上手く言い得ることができなかったからだ。解説を読んでその妙とは何なのか答え合わせができた。この小説には一貫として静寂があったということだった。主人公のリュウの一人称視点で綴られているのだが、そこに感情らしいものが殆ど存在しない。故に一人称視点であるはずが三人称視点であるようなドライさがある。主人公自身も自分を俯瞰しているかのように、淡々と五感がどういう刺激を受けているのか言語化する。しかし感情は言語化されない。それがこの小説の絶妙なところなのだ。


 表題の「限りなく透明に近いブルー」って何のことなのだろう。と読み進めていて149ページ目で不意にそれが出てくる。リュウが血の滲んだガラスの破片を夜明け前の空にかざして、その時見た色が「限りなく透明に近いブルー」だった。そのガラスが主人公自身がなりたいものだという。

 表題というものはある程度計算されてその名がつけられているものだろう。この小説自体計算されて構成されているとは思えない。この小説はいつから『限りなく透明に近いブルー』だったのだろう。

 リュウは何を知っている。美しいものや楽しいことを知識としてどれだけ知っていたのか。ドラッグをやっていたのもパーティーに参加していたのも自分の意思でやっていたという風には思えない。だがガラス越しに見た夜空の色はリュウにとって初めての啓発であり、知恵や叡智を体験した最初の瞬間だった。

 その体験があったからこの小説は『限りなく透明に近いブルー』として世に出すことができた。

 『クリトリスにバターを』で出版されなくて本当に良かった。

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私は読書感想文が書けなかった 大葉 稚拓 @sh1_s0_n0_ha

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