睫毛の長さを知っても
気づいていた。わかっていた。それでも僕は、それを見ないふりをして、生きていた。
最初に抱いた違和感は、小さくて、見過ごせるほどだった。けれどそれは、時間と共に静かに膨らみ、質量を増していく。やがて視界を埋め尽くし、見えないふりではもうやり過ごせないほどになった。
それは「俺を見ろ」と、確かに睨みつけてくる。もう、目をそらせない。現実と向き合うしかない。
忘れて生きていけるはずがない。
それは喉元で膨らんで、呼吸を止める。
必ず、自分を殺す。
だから僕は——
「好きだけど別れよう」と、口にした。
僕らはもう大人だから、好きなだけじゃ一緒にはいられない。
わかっていた。
共に未来を描こうとしたとき、筆を持ったのは僕だけだった。
君は真っ白なキャンバスを、ただぼーっと見ているだけだった。
僕はいつか君が筆を取って、僕と一緒に絵を描いて、完成したら2人でソファに座って笑いながら、その絵を見る日が来ると信じていた。
でも違った。
君は僕が渡した筆を握ろうとしても、その持ち方さえわからず、何度も落とした。
僕は筆の使い方、色の混ぜ方、描くことの喜びを、一つ一つ丁寧に教えた。
それでも、君は理解した顔で笑うが、筆は持たなかった。僕の描く絵を、いつも隣でただ見ているだけだった。
あの日、君は僕の肩に寄りかかって眠った。
その体温はどこか頼りなくて、少し心配だった。
目を覚ました君は、笑顔で「おはよう」と言う。
「おはよう、よく眠れた?」と寝ぼけた顔の君に聞く。
「よく眠れたよ〜、肩で寝かせてくれてありがとうね」と僕の肩に手を置き、いいこいいこした。
そしてまた、ぼーっと、僕の描く未来を眺めていた。興味のない難しい数学の話を聞いてるような顔をして時折、またあくびをしていた。
君の大きな目から涙が溢れるたびに長いまつ毛が揺れた。その姿が猫のようにとても可愛らしかった。
いつしか、興味を失った君は席を立ってどこかへ行ってしまった。
僕の隣にぽつんと空いた椅子の背もたれはまだ君の体温を探しているようだった。
君を探そうと視線を巡らせると、少し離れた場所で空を見上げている君がいた。
全身で柔らかい風を受け、真っ白な陽の光を浴びて、気持ちよさそうに伸びをしていた。
その姿が、なんだかとても君らしかった。
苦悩や絶望、違和感なんて、世界の端に置き去りにして、のびのびと生きる姿がそこにあった。
僕はその君を、絵に残したいと思った。
筆を走らせながら、思う。
——君が、君らしく生きられる場所で、どうか幸せでいてほしいと。
まつ毛の先に、小さな涙がぽつりと留まっていた。揺れるたびに光を反射して、ほんの一瞬、宝石のようにきらめく。
瞬きをした拍子に、それはそっとこぼれて頬を伝って、パレットの隅に垂れた。
乾きかけていた緑がじんわり広がって、静かに波紋を描いた。
でも僕は、目を逸らさない。
もう、見ないふりはしない。
君と描けなかった未来を抱きしめながら、僕は、前を向いて描き出す。この人生の絵画を。
続きが“少し”気になる文 村山 夏月 @shiyuk_koi
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