灯りの溢れるあの家で

 コンビニの袋を片手にぶら下げて、吐いた息の白さをぼんやりと目で追った。空気に触れた白がふわりと揺れて、すぐに夜の闇に溶けていく。

 街はすっかり冬に染まっていて、駅前のイルミネーションが少しだけ眩しく感じる。

 数年ぶりに帰ってきた町。なのに、体はまるで昨日も歩いていたかのように、迷いなく足を進められる。

 なんとなく曲がった角の先に、見覚えのある景色が広がっている。何の気なしに奥に進む。


 気づけば、あの人の家の近くだった。

 何度も通った道。左側には、等間隔に並ぶ街灯が、頼りなく道を照らしている。

 雪の夜、転びそうになった僕の手を、君が笑いながら引いてくれた。そんな記憶が、不意に胸の奥で揺れる。

 いま見えているのは、ただの静かな住宅街。けれど、あの頃確かにここにあった気配だけが、夜の底に静かに沈んでいる。

 まるで、最初から何もなかったみたいに。



 歩くたびに、足元から音もなく何かが崩れていく。足取りは徐々に重くなり、自分の足じゃないような感覚に変わっていく。


 君の好きなものをたくさん入れて煮込んだあの鍋。

 当時の僕は料理が下手だったけど、バイトを頑張る君のことを応援したくて作った。

 「こんなに食べられないよ!」って文句を言いながらも、結局最後は全部食べてくれた。

 後で、なんで食べたのかと聞くと、君は「嬉しかったから」と言ってくれた。


 夜中、ゲームを楽しんでいるとお腹が空いてきて、一緒に深夜のラーメン屋に行った。

 食べすぎて後悔していたけど、君は「これこそが最高の夜だね」と笑っていた。


 秋の誕生日にくれた、少しだけ大人っぽい色のマフラー。

 冬にはそのマフラーをよく身に付けて、色んなところにデートへ行った。


 僕が贈った口紅は、見た目だけで選んでしまったから、君の唇には似合わなかった。

 それを唇に塗った君は「可笑しな色」と大きな口を開けて笑っていた。そのあとは棚に飾られるだけで、結局一度もつけてるところを見なかった。


 春の日の喧嘩は、結局僕の嫉妬で君を傷つけてしまった。

 愛に重さがあるとしたら、君と僕の愛は、大きな差があったと感じた夜だった。

 互いに意見が激しくなり、埒があかないと君は部屋を飛び出した。僕は「勝手にしろ」と言って放置したが、君の携帯が机の上に置かれていたのを見て、すぐに探しに出た。


 しばらく街中を走り回ったあと、近くのコンビニで買い物袋をぶら下げて出てくる君の姿を見つけた。

 安心した僕が駆け寄ると、君は袋からプリンを2個取り出して「仲直りの賄賂わいろ」と泣くのを我慢する顔で言った。


 どんなことがあっても僕らはあの家に戻ってきた。そして当たり前のように君は僕の隣にいた。あの時の君の静かな温もりが、今もまだ、ずっと心に残っている。


 

 どれもくだらなくて、大したことない日々だったのに、今はどれもすごく、懐かしくて、愛おしくて、とても遠い。

 目を閉じればすぐに思い出せるのに、それはまるで他人の幸せなホームビデオのようだった。

 再生ボタンを押せば映像は流れる。でも、どれだけ耳を澄ませても、そこに僕の声だけがなぜか聞こえなかった。

 そこにいたのは、本当に僕だったんだろうか。

 少しだけ似ている誰かが、君と楽しそうに笑っているだけだったんじゃないかと思えてくる。本当は嘘だったと言われても信じてしまうくらいに。



 灯りが溢れるあの家で、僕らは確かに毎日を過ごしていた。

 そして今もその灯りは、変わらずそこに「日常」があるような顔をして、静かに煌めいている。

 耳を澄ませば、声が聞こえた気がした。誰かと話しているのかもしれない。あるいは、ただのテレビの音かもしれない。

 どちらにせよ、そこに僕の居場所はない。そう思って歩みを進める。

 ふいに、背後でドアが開く音がした。心臓が跳ねる。全身が強張ると同時に、咄嗟に振り返りそうになる。でも、振り返ることはしなかった。

 聞こえてくるのは、一人分の足音だけ。

 近づくでもなく、追ってくるでもなく、ただただ遠ざかっていく。


 僕の知っている"誰かさん"かもしれないし、まったく知らない"誰か"かもしれない。

 それでも、あの家の灯りと、背後の足音に挟まれたこの瞬間だけが、妙に長く感じて、心地が悪かった。


 気を保つために首に巻かれたマフラーをぎゅっと握る。そこで改めて気づいた、あの頃に君がくれたマフラーをまだ使ってしまっていることに。


 ひとつ、息を吐く。

 白く染まったそれは、すぐに静かな夜の闇に滲んだ。

 「……もう寒くないな」

 そうつぶやいた声は、まるで誰かを安心させるようで、少し震えていた。

 マフラーをそっと外す。もう戻らないあの頃に、ひとつだけ、優しく区切りをつけるように。


 首筋に残った微かなぬくもりは、夜風にさらわれて消えていった。


 そのまま、僕は歩き出す。

 灯りが溢れるあの家に、背中を向けて。

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