夢から覚めた後に残り続ける温もりについて
優しい淡い光が差し込む夢の中、彼女と僕は並んで横になっていた。特に意識することもなく、ただ穏やかに眠りにつこうとしていたはずだった。
けれど、不意に彼女の体がこちらへ寄ってくる。ゆっくりと、確かめるように。僕は気づかないふりをして目を閉じたまま、鼓動を落ち着かせようとする。
次の瞬間、彼女は振り返り、そっと僕を抱きしめた。小さな体が胸元に収まり、かすかに聞こえる寝息が心地よく響く。普段の彼女とは違う、無防備で穏やかな表情。その姿は言葉にできないほど愛おしかった。
どれほどの時間が経ったのだろう。数分か、あるいは数時間か。先に目を覚ました彼女は、状況の可笑しさにくすくすと笑う。
「ふふっ、なんでこんなことになってるの?」
呆れたような、でもどこか楽しげな声。そして次の瞬間、彼女の唇がそっと触れた。驚きつつも、僕は寝たふりを続ける。
それが面白かったのか、彼女はもう一度、また一度と、いたずらっ子のように繰り返しキスをする。起こそうとしているのか、ただ楽しんでいるのか。
やがて満足したのか、彼女はゆっくりと体を起こした。僕はまだ目を開けず、残された温もりだけを感じていた。
朝の光がゆっくりと差し込み、まぶたの裏を優しく照らす。 ぼんやりと目を開けると、天井の模様が視界に映り、夢だったことを理解する。
けれど、胸の奥に残る感触があまりに鮮明で、まだ夢の中にいるような錯覚に陥る。 彼女の温もり。寝息のリズム。無邪気に笑いながら、いたずらのように触れた唇の感触——。
思い出すたびに、微かに心が震える。
ベッドの中で身じろぎすると、現実の冷たさが肌に触れた。 夢と現実の境界が曖昧なまま、僕はふと、彼女の顔を思い浮かべる。
——あんな表情、現実では見たことがなかった。
普段の彼女は、快活で、よく笑う。でも、あの夢の中ではどこか穏やかで、柔らかく、そして少しだけ寂しそうだった。 あれはただの夢だったのか、それとも僕の無意識が映し出した彼女の本当の姿だったのか。
考えれば考えるほど、胸の奥にぽつりとした違和感が残る。
「……会いたいな」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋に消えていった。 まるで、自分でも気づいていなかった本音を、夢が引き出してしまったみたいに。
携帯を手に取り、彼女の名前を探す。
指が
このまま何もなかったように、普通の一日を過ごすこともできる。 でも、もし。 もしも、彼女も同じ夢を見ていたら——?
そんなはずはない、と分かっているのに、なぜか期待してしまう。
呼吸を整え、意を決してメッセージを打つ。
「おはよう。昨夜、なんか不思議な夢を見たんだけどさ——」
送信ボタンを押した瞬間、鼓動が早くなるのを感じた。
夢から覚めた後に残り続ける温もりが、まだ僕の中に消えずに残っている。 そして、その温もりの正体を、僕はまだ知らないままだった。
メッセージを送ったものの、すぐに返事が来るはずもない。 少し緊張しながらスマホを伏せ、ベッドの上に横たわる。
天井を見つめながら、夢の感触をもう一度思い出そうとする。 抱きしめられたときの体温。ゆっくりと沈んでいく意識。 そして、唇に触れた柔らかな感覚——。
思い出すたび、胸の奥がざわつく。
「……なんで、あんな夢見たんだろう」
独り言のように呟いてみるが、答えは出ない。 ただ、彼女の笑顔と、夢の中の仕草が頭から離れなかった。
スマホが小さく震える。
彼女からの返信だった。
『おはよう! 夢? どんなの?』
特に何の変哲もない返信。 だけど、少しほっとする。
どう伝えようかと迷いながらも、結局、正直に打ち込んだ。
『なんか、一緒に寝てる夢だった。で、最後にキスされて……』
送信してから、しまった、と思った。 夢の内容があまりにも生々しい。 冗談っぽくごまかすべきだったか? でも、今さら取り消せない。
既読がつくまでの数秒がやけに長く感じる。
そして、画面に表示された返事を見た瞬間、心臓が跳ねた。
『……え、それ、私も見たかも』
指が止まる。
何かの冗談かと思った。けれど、彼女のことを考えると、そういういたずらをするタイプではない。
『本当に?』
そう返すと、すぐにまたメッセージが届く。
『うん。なんか、妙にリアルで……変な感じ』
胸の奥がざわめく。
まさか、そんなことがあるのか? 同じ夢を見るなんて、そんな偶然が?
けれど、もしこれが偶然ではなかったら——。
スマホを握りしめながら、僕はふと、夢の中の温もりを思い出す。 そして、心の奥で小さく芽生えた感情を、無視できなくなっていた。
『今日、会える?』
そう打ち込むと、画面の向こうで彼女がどんな顔をしているのか、ふと気になった。
午後、カフェの隅で向かい合った僕たちは、どちらからともなく笑った。
「まさか、本当に同じ夢を見るなんてね」
彼女はそう言いながら、カップの縁をなぞる。
「ねぇ、本当に覚えてる? どんな夢だった?」
「うん……」
僕は一瞬、言葉に詰まった。
夢の中の彼女は、今目の前にいる彼女とは違う雰囲気だった。 柔らかくて、少しだけ儚くて、まるで、今にも消えてしまいそうな温もりだった。
「なんか、すごく……幸せ…そうだった」
そう言うと、彼女は驚いたように目を瞬かせ、それから少し寂しそうに笑った。
「そっか……私も、そう思った」
彼女が見た夢の中で、僕はどんな表情をしていたんだろう? 僕が感じたように、彼女も同じように温もりを感じていたんだろうか?
言葉にできない気持ちが、カフェの軽やかなBGMの中に漂う。
ふと、彼女が小さく息を吐いた。
「ねぇ…私たち、なんでこんな夢を見たんだと思う?」
「…さあ。でも、無意識のうちに、何かを伝えたかったのかも」
彼女は僕の言葉に小さく頷き、何かを決意した顔でこちらを見る。茶色の瞳に、そっと光が滲む。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「私、春から遠くに行くんだ」
不意に落ちた言葉が、胸の奥を鋭く突き刺す。
「え…?」
「言おうか迷ってた。でも、この夢を見たら、なんか、ちゃんと伝えなきゃって思った」
心臓の音が、耳の奥でうるさく響く。
彼女が続ける。
「たぶん、今のままだと、私はあなたを好きになってしまう。でも、離れるのにそんな気持ちを持ったら、きっと辛くなるだけだから…」
彼女の言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
「だから…夢の中だけでよかったのかも」
彼女はそう言って微笑んだ。
僕は、何か言おうとした。でも、何を言えばいいのか分からなかった。
引き止めることもできない。 気持ちを伝えることもできない。 ただ、夢の中の温もりだけが、現実の中に残り続ける。
——それで、いいのか?
目の前の彼女を見つめる。 少し寂しそうな笑顔。
その表情を見た瞬間、夢の中で感じたあの温もりが、胸の奥でゆっくりと溶けていくのを感じた。
僕はそっと微笑んだ。
「そっか…じゃあ、この夢は、きっと『さよなら』の代わりだったんだね」
彼女の目が、一瞬揺れる。
そして、小さく頷いた。
カフェの窓の外、夕焼けが滲んでいく。
夢の中の温もりは、きっといつか消えてしまう。コーヒーがいつかは冷めるように。 でも、僕たちは確かに、同じ夢を見た。
それだけで、もう、十分だったのかもしれない。
——いや、そう思うしかなかった。
彼女が「またね」と手を振る。
僕も、ゆっくりと手を振り返した。
離れていく彼女の影が、僕に向かって伸びていく。僕はその影に微笑みかける。
これが、本当の「さよなら」にならないことを、ただ願いながら——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます