オレッグ
ムラサキハルカ
拭えない記憶
*
遡ること二十年近く。当時、若かった清六は世界最強を夢見、総合格闘技のリングに立つことを目指していた。
そんな清六の師匠は高い背丈と長い手足を持った空手家だった。その体格に似合わない速く重い打撃を武器として、総合格闘技においては常勝とまでは言わないまでも、並み居る格闘家たちの中でたしかな地位を築き上げていた。師匠が当時参戦していた格闘団体が掲げていた、人類六十億人の頂点。その頂に君臨するのも夢ではない――少なくとも弟子である清六はそう信じていた。
だが、夢というものの前に立ちはだかるのは常に過酷な現実である。
オレッグという名の悪夢じみた現実は六十億分の一を決めるトーナメントの途中に立ちはだかった。凍土に覆われた地からやってきたその男と師匠の試合は、立ち打撃でノックアウトを狙う師匠と軍隊格闘技仕込みの関節技を決めるべく打撃に織り交ぜた組み付きで寝かせようとするオレッグという典型的な立ち技対寝技の様相を呈していた。師匠は立った状態では顔面に拳やいいところに入りそうな膝蹴りをかましつつ、寝かされても関節を決められないよう長い手足で着実に防御をする――そんないつも通りを実行した結果、オレッグの鼻からは血が滴った。戦いは一進一退だったが、勝機はあるとリングサイドから見守っていた清六は確信を深めた。
悲劇が起こったのは、何度目かの組み倒しを成功させたオレッグが馬乗りになったあと。オレッグは上からのパンチを防ごうとする仰向けの師匠の左腕を捕まえると、自らの膝で押さえこんだ。それからすぐ幾発かの鉄槌が師匠の顔面に食いこむのを見た清六は、ようやくほぼほぼ抵抗ができない体勢に持ちこまれたのだと理解した。いくら長い腕だとはいっても片方だけでは上から振り下ろされる拳を完全防ぐことはかなわないうえ、ついにはそちらもオレッグによって拘束された。もちろん、師匠も無抵抗のままではなく、足を精一杯に延ばしてオレッグを背後から蹴ろうとしたり、体を入れ替えられないかともがいた。しかし、オレッグは揺らぐことなく、着実に冷たい拳を顔面に落としていく。頼むから抜けだしてくれと願う清六の目の前で淡々とした暴力は師匠の抵抗する意志と力を奪っていき、顔面が血だらけになっても続く容赦ない打撃に、誰もがこのままでは殺されてしまうと確信を深めたところで、レフェリーが試合を止めた。
清六は心の底から安堵しつつも、勝ち名乗りを受けるオレッグを睨みつけた。
*
程なくして、清六の師匠は参戦していた総合格闘技の団体からの撤退を選択した。
当時の師匠は、総合格闘技とは別に参戦していたキックボクシングの大会での勝ち星を重ねはじめていた時期であり、ちょうどいいタイミングだったとも言える。実際そこからさほど時を置かず世界大会で優勝したあとは、病気で引退する直前まで高勝率を記録し、立ち技最強と呼ばれるにいたった。いい格闘家人生だっただろうと、弟子としても胸を張れる。
しかし、かつての師匠と同じように総合格闘技のリングに立つ清六の頭の片隅には、あの試合がべったりとくっついている。
あの日の試合直後、怖いと一言洩らした師匠は、従来持っていた快活さを失い、どことなくぼんやりすることが多くなった。
あれからの俺の人生は、余生なんだよ。本人は語らなかったものの、清六には師匠が自らの体全てで語っているような気がしてならなかった。
師匠の命を取り戻さなくてはならない。そんな考えが清六の頭の中に常に存在した。どうすれば、師匠が生の実感を取り戻せるかと必死に考え続けた。とはいっても、結論はほぼほぼ最初から出ている。だから、多くの年月がなにに費やされたのかといえば、覚悟に対してだった。オレッグを、自分の手で亡き者にするための。
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オレッグを殺すことを決意してから一年ほど、清六はかつてない勢いで自らの体を追い込んだ。その間、ただの試合ではいけないのかと自らに問いかけたが、答えは変わらない。
師匠程体も大きくなく、それなりではあっても最強には程遠いピークを過ぎたストライカーでしかない清六には、普通に試合したとしても、老いて尚現役のオレッグを倒せるか怪しいという現実的な事情もある。だが、それ以上に、あの男がこの世にいては師匠も心から笑うことはできないだろう、という確信もあった。だから、殺すのだ、と。
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奇しくも現在のオレッグは、清六が世話になってるジムに所属している。ゆえに、行動予定を知るのは容易く、オレッグの自宅までの帰り道の途中にある路地裏で待ち伏せた。
さほど時を待たずに目的としている男はやってくる。酒を引っかけたのだろう。どことなくフラつくオレッグの姿を認めた瞬間、清六は影から飛び出した。
跳び出しながらすぐさまコンビネーションを繰りだす。しかしながら、オレッグは特に動じた様子もなく横に移動して避けた。酒で鈍ってるはずなのに反応が速い。そう思っているうちに、オレッグもまた清六の正体を認めたらしく、ほんの少しだけ驚いているようだった。それすらも隙であると、続けざまに殴りかかる。相手は打撃をいくつか受け損ね、うち一発のジャブは鼻を押しつぶす。他人の肉体という生々しさに触れるのにともなって、血が昂揚する。夢中になって拳を振るう。オレッグは防戦一方。ジムの仲間であるのを慮ってか、どう出るのかを迷っているのかもしれなかった。それすら、清六にとっては好機。卑怯であるのは重々承知だったが、負ければ意味などない。ましてや、殺害しようとしているのだから尚のこと。
いくつかボディを混ぜつつも、さしあたっての狙いは鼻だった。呼吸を塞いでしまえば、勝利の天秤は大きくこちらに傾く。その甲斐あって、一発、二発、と潰れた鼻が更にたわむ感触と、オレッグの明らかに嫌がる顔。そうだ。俺はこれを求めていたのだ、と清六は強く感じつつ、ローキックで相手の意識を散らしながら、顔面や腹部への打撃を打ち込み続け、とっておきのための布石とする。
この日のためにと、誰にも見せず、秘密裏に鍛え続けた飛び膝蹴り。顎に打ちこみ、倒れた男に馬乗りになり、殺すための鉄槌を落とす。どんなに頼まれても止めてやらない。暗い欲望が清六の内側で木霊し、思わず口の端がにやけた。
程なくして、オレッグの体が顎に打撃を受けて傾ぐ。ここだと思いきり近付き、膝蹴りをかまそうと飛びあがった。たしかに相手の顔面に突き刺さる膝。やった、これで師匠に。
直後。想像以上の浮遊感とともに天と地が入れ替わる。背に回された腕を感知し、投げられているのだと理解したあと、ゆったりとした飛行時間を経て、頭蓋がコンクリートに突き刺さる。割れるような痛みにのたうち回りたくなった。しかしながら、暴れる前に腹の辺りに人間の重みが乗っかる。見上げれば、馬乗りになったオレッグの姿。慌てて逃れようと下から拳を繰り出そうとするも、薄暗闇の中では狙いがつけられず、どころか左腕に膝を乗せられてしまい片腕でしかもがけなくなった。
これでは、あの時の師匠と同じじゃないか。もはや、一方的に殴られるしかないあの時と。オレッグの表情は窺えない。ただ、かつての行為を繰り返すように淡々と鉄槌を落としてくる。一発、二発、三発……コンクリートと拳に挟まれた頭蓋。その中にある脳が揺れと痛みを訴えってくる。かつての師匠と自らが同期していく心地になりつつ、こんなはずじゃなかったのに、と思う。止めてくれ、悪かった、命だけはとらないでくれ。恥も外聞もなく訴えたかったが、声を絞り出す暇も与えないように顔面への鉄槌が落ちる。視界が赤に染まり、それ以外なにも見えなくなる。絶えなかった痛みも段々と麻痺していく。意識が薄くなっていくにつれて、こんなことしなければ良かった、と静かに思いつつも、いつまでも終わらない拳の雨は降り続け……
オレッグ ムラサキハルカ @harukamurasaki
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