名状しがたき君と神話と、その封印の釘について
卯菜々凪
第1話
近所に祀られる邪神について、祐介は訊いてみたことがある。
「邪神って何なんですか? 何でうちの近くに邪神の神社があるんですか?」
トマトをもぐ手が止まった。瑞波は顔を祐介に向けた。それからじっと見つめた。
長いまつ毛にふちどられた、蔑まれているみたいに冷たい目つき。しかし祐介は知っている。瑞波に軽蔑の意図はなく、ただ顔立ちが整いすぎているだけだと。
「知りてぇの? 邪神のこと」
「知りたいですよ。近所に邪神が祀られてるって中々ないですよ」
「おめーのじーちゃんに訊きゃいいだろ?」
「教えてくれないんですよ。話したがらないというか」
んあーと瑞波が声を上げ、天を仰ぐ。つられて祐介も空を見上げた。青くまぶしい空だった。遠くには夏の雲がそびえ、蝉の声が地上に降りしきっている。
中学一年の夏休みだった。
「これ、ナイショの話な」
ぐっ、と瑞波が顔を近づけてくる。内心どきりとしながら祐介は頷く。
「昔――ってのはマジの昔な。クソやべぇ神様が外から来て、この土地を襲ったんだってよ」
「襲った?」
「そう。でも何とかみんなで退治したんだ、人も神さまも手ェ合わせてな。そんでまた暴れたり出てきたりしねぇように、あの社で丁重にお祀りしてんだって」
「じゃあ、その神さまって今もあの神社の中にいるんですか?」
「眠ってんだってよ」瑞波は再び畑の手伝いに戻る。「お前も起こすような真似すんなよ? お前の神さま好きは知ってるけどよ、さすがに邪神は話が違うからな」
分かりました、と返事して再び祐介はキュウリの収穫に取りかかる。実に生えているトゲに気をつけながらハサミでヘタを切る。ひとつ、ふたつとビニール袋に入れて、また祐介は瑞波に訊ねる。
「その邪神も神様なんですよね?」
「そうだな」
「困ってたら助けてくれますかね」
「ここらの神さまとは違ぇんだっつの」
「でもずっとこの街で眠ってるんですよね? じゃあその邪神ももう安合(あわい)市の神さまじゃないですか?」
「やめとけよな」
「祐介」
不意に呼ばれてびくりとしてしまう。振り返ると祖父が祐介を見下ろしていた。祖父はキュウリ入りのビニール袋にちらりと目をやり、うなずく。
「うん、もういいな。帰るぞ」
「帰りましょう!」
祖父の背後から女の子が顔を覗かせる。麦わら帽子に白いワンピース、茶色い髪を長く伸ばした女の子だ。胸元にはトマトを持った籠を抱いている。
「三上さんちの畑、今年も立派なお野菜が育ちましたね」
「や、これも神さまのおかげなもんで」
祖父が女の子に頭を下げる。対して少女は「いえいえ」とにこにこ笑顔で手を振った――幼い見た目の彼女こそ、この地に宿る野菜の神さまなのだ。
「祐介くん」と野菜の神さまが呼びかける。「トマトは食べれるようになりました?」
「まだです」
「食べましょう。お近づきになりましょう」
ずずい、とトマトの籠を押し付けられる。流されるまま祐介が籠を受け取ると、隣で瑞波も立ち上がって腰を伸ばした。こうして一行は祐介宅へと歩きだす。
「ありがとうございました。瑞波さん、畑手伝ってくれて」背後の瑞波に声をかける。
「いいんだよ、後々つまみになって返ってくんだから」
「瑞波さんって酒好きですよね」
「そりゃな。だってあたしは――」
そのとき不意に石につまずき、籠からトマトをぶちまけながら祐介は前に倒れかかる。しかし同時に何本もの冷たい軌跡が肌を掠める――蛇だ。水で象られた何匹もの蛇たちが銘々飛んでトマトにかぶりつき、身体をくねらせながら細い胴体の奥へと獲物を押し込んでいく。
「……ん」辺りを見回し、瑞波はうなずく。「犠牲者ゼロ。救助成功」
安否を確認した瑞波が人差し指を立てる。するとトマトを呑み込んだ蛇たちが一斉に群がり、互いにくっつき合って姿を変えていく。次の瞬間には巨大な金魚が空中でヒレをたなびかせ、瑞波の指先に口づけしていた。内部でふよふよ浮き沈みするトマトが目に鮮やかだ。
「あの……」
「あん?」
宙を泳ぐ金魚の下、地面に座り込んだ祐介が不満げに言う。
「なんで俺じゃなくて、トマト助けたんですか……」
「何言ってんだよ。人は転んでも立ちゃいいけどトマトは落ちたら終わりだろうが。おら立てェ、人は強ぇんだ」
差し伸べられた瑞波の手を取り、不服ながらも立ち上がる。地面に手のひらをつき、じんじん痛む膝を伸ばし、立ち上がって身体の汚れを払い落とす。すると瑞波がいきなり頭をわしゃわしゃとかき回してきた。
「な! なんですかいきなり……!」
「よく立ち上がったな。偉いぞ〜?」
頭。頬。それから脇。
「ちょっ、やめてください! 恥ずかしっ……くすぐったいから!!」
「ギャハハハ!!」
「二人はほんとに仲がいいなあ」
「ほんとですねえ」
騒ぎながら身をよじる。どういうつもりなんだこの神さま(ひと)、と思いつつも笑わずにはいられない。
そのとき一瞬視界に捉えた、驚くぐらい楽しそうで、優しく愛情に溢れた瑞波の笑顔が、祐介は未だに忘れられていない。
◆
空っぽだな、と祐介は思った。
平日、朝十時。祐介は寝間着のまま窓越しの空を眺めていた。十月の空は秋晴れ。ひたすらに青く、そしてだだっ広い。雲のひとつも見当たらない。
確かに空っぽの空だった。
しばらくぼーっと空を眺めていると、ふと日の光を遮る影がある。二階の窓がこんこんと
叩かれた。
窓の外に女の子が浮いている。撫子色の髪をツインテールにまとめた少女だ。彼女は祐介が錠を下ろして窓を開くと同時、部屋の中に上半身を突っ込んで訊ねた。
「あんた学校は? 今日休み?」
「休んだんだよ。欠席した」
「具合悪いの? 大丈夫?」
「もう大丈夫。正直ヒマしてる」
「不謹慎ね~。まあ気持ちは分かっちゃうんだけど」
「フーコは何してたんだ?」
「散歩。散歩っていうか、飛んでるけど」
フーコがは上半身を起こし、祐介に背を向ける格好で窓枠に腰を下ろした。祐介とは肩越しに振り返りながら喋ることになる。
「フーコは」と祐介は小さな背中に話しかける。「この街の外に出たことってあるか?」
「安合市の外ってこと?」
祐介はうなずく。するとフーコは「ないわ」と即答して首を振った。
「安合市じゃなきゃ姿が保てないもん。ていうか何よ今更? 神さまが普通にそこら辺ほっつき歩いてるのなんてだけじゃない。一般常識でしょ?」
「一般常識かな」
「もしかして違うの?」
「こういうのって一度外に出てみないと分かんないよな」
「なに〜? どういう話の流れ? あたしを何かしらの罠にハメようとしてんの?」
「罠にハメるときはあらかじめ言うよ」
「それ罠って言わなくない?」怪訝そうな顔でフーコは答える。「何よ? 心理戦でもしたい気分なの?」
「なんだそれ」
「こんにゃろ……!」
じっとり睨みつけながらもフーコはその場を離れない。やがて窓外に投げ出した脚をぶらぶらさせて、祐介とともに空を眺め始めていた。穏やかな沈黙だった。遠い風の音とスズメの鳴き声が二人の耳に静かに届いた。
「……んっ?」不意にフーコが声を上げた。「あんたの高校、今日修学旅行じゃなかったっけ?」
「いつも思うんだけど、そういう情報ってどうやって仕入れてんだ?」
「風の噂ってヤツよ」
「風の神様だから?」
「あんたそれよりあたしの質問に答えなさいよ、今日って修学旅行じゃなかったっけ?」
「休んだんだよ……さっき言った通り欠席。朝起きて支度するってときにえげつないぐらい具合悪くなってさ、さすがに無理だってなって休むことにした」
表情を曇らせたフーコが部屋の中へと目を向ける。そうして初めて部屋の中に横たえられたスーツケースに気づいたのか、ますます焦るような表情が浮かぶ。
「あんたもう元気なのよね? 大丈夫なのよね?」
祐介は目を伏せる。
「送るわよ!! あんたと荷物一緒に担いで空飛ぶぐらい何でもないんだから、でも間に合う? 集合場所は!?」
「ごめん、フーコ」
口元を腕に埋めた。発する声はくぐもっていた。
「そうじゃなくて……これでいいからさ……」
「『これでいい』って何がよ。よくないでしょ?」
「行きたくないんだ。修学旅行」
息を呑む音が祐介には聞こえる。そのぎこちない間が祐介の胸には痛い。
「そんなに仲良くもない奴らと集団行動でさ、あちこち周ったり部屋泊まったりしろって……ちょっと無理があるよな。それにさ、安合市の外って」
「神さまがいない」フーコが口を挟む。「……ちょっと語弊がある。あたしたちみたいに目に見える姿があって言葉が通じて、人間同士がやるようなスタイルでコミュニケーションが成り立つ神はいない」
祐介はうなずく。概ね思うところは網羅されていた。
「そういう場所に実質一人で行けってのは、俺には無理、というか無理だった。身体が拒否するレベルで」
「あんた……」
フーコは何も言えない。祐介もそれ以上言うべきことはない。二人の間に沈黙が流れた。
「わざとかどうかは知らないけど、あんたはひとつ誤魔化してる」
「何のことだ?」
「修学旅行、『行きたくない』んじゃなくて、『行くのが怖い』んでしょ?」
「同じことだよ」
「全然違う」フーコは激しく首を振る。「あんたはただ怖いだけなのよ。慣れないことは何だって怖いものだし、怖いことから逃げたくなるのも当たり前のことよ。でもね、怖いことから逃げずに立ち向かえば、そのたびにあんたは慣れていくのよ。強くなるのよ! そのたびにあんたは成長する。怖かったことが怖くなくなる」
うつむく祐介の肩にフーコが手を添える。
「……ね。行きましょ?」
しかし祐介は顔を上げられない。
高校二年生。弱冠十七歳。しかし十七歳には十七歳なりに降り積もってきた時の重みがある。その中で厚みを増し頑なさを強めてきた心の澱がある。
祐介は首を縦には振れない。
「ごめん、フーコ……」
どうにか声を捻り出した。
「やっぱり無理……だと思う。俺のこと、せっかくここまで考えてくれてたのに……ごめん」
フーコはしばらくそのままの姿勢でいた。しかしやがて祐介から手を離した。その顔が見れないまま祐介はうつむき続ける。
「さすがに一朝一夕で変わるものじゃないし、変えられるものでもない」
フーコの声が傍に聞こえる。
「だから少しずつでもいいから、あんたがあんたの望むように変わっていければいいなって思う。今日のことがそのための何かしらのきっかけになったらいい。たぶん、瑞波さんもそれを望んでた」
「瑞波さん……?」
「そろそろ行くわね」
フーコは腰を浮かせると宙に身を躍らせ、その場でくるりと振り返った。緩やかな回転にツインテールがふわりとなびく。
「じゃあね、祐介」
「フーコ!」
立ち去りかけた背中を呼び止める。するとフーコは首だけでこちらを振り向いた。
「なに?」
「ごめん、でもありがとう。送るって言ってくれて」
「何よそれ?」フーコは仕方なさそうに笑う。「あんたってそういうところがある」
そうは言いつつ、フーコの顔はどこか嬉しそうでもあった。
フーコが空の彼方へ飛び去っていくと、祐介だけがぽつんと一人残された。それは本当の一人だった。空はやはり空っぽで、どこまでも青くだだっ広い。
手のひらで両目を覆った。まぶたの裏の生ぬるい暗闇の中で深く息を吸い、それから吐いた。今みたいな気持ちを何と言うか祐介は知っているような気がした。少しの間考えてみてすぐに正体を突き止めた。それは漠然とした喪失感だった。
窓を閉め、錠を下ろした。ひとまず空を眺めるのはおしまいにしようと思った。明日からは自習のために登校せねばならなかったが、今日に限ってはまさに降って湧いた休みだった。しかし特にやることもない。やるべきこともとりあえずはない。
ベッドに身を投げ出した。仰向けになってクリーム色の天井をぼーっと眺める。修学旅行のために早起きしたぶん、また眠れないかと思って祐介は目を閉じる。しかしそれも無理な試みに終わりそうだと祐介には分かっていた。その日はただ修学旅行を休んだだけの日になりそうだった。
閉ざされたまぶたの中、頭の中の暗闇には同じ名前が何度も反響していた。
瑞波。それは瑞波。
正確には瑞波さん(ミズハサン)という音の響きが。
◆
翌日の夕方。
強い雨風が真っ赤な窓を叩いていた。
『こちら安合市からの中継です。現在安合市ではご覧の通り雨混じりの暴風が吹き荒れ……』
居間のテレビにはレインコートを着たレポーターが強風に煽られている姿が映し出されていた。しかし強い雨風が吹き荒れていることぐらい説明されなくても見れば分かる。それよりカメラマン共々さっさと引き上げて避難したほうがいいんじゃないだろうか、とコップ片手に祐介は思う。
「ほんとすごい天気だよねー。どうしちゃったんだろうね」
母親がキッチンから背中で話しかける。うん、と祐介はぼんやりうなずく。
『……これほどの雨量と強風にも関わらず空は快晴で、真っ赤な夕陽が街を照らしています。にわか雨という言葉ではとても言い表せません。これも安合市に特有の、神さまが引き起こした現象なのでしょうか……』
「適当なこと言ってるな」
「当の神さまたちも割かし適当だけどね~」
そういうところはあるけど、と思いながら窓の外へと目を向ける。
燃えるような夕焼けが数多の雨粒に乱反射している。その茜色も輝かしい黄金色も、本来なら分厚い雨雲に遮られているはずの景色だった。
快晴の嵐。それは人々が神さまとともに暮らし奇跡の中で生きる安合市にあっても、とびっきりに不吉な異常事態だった。
『安合市では大量の降水による河川の氾濫が危惧されており、家屋への浸水の恐れもあるとして……』
『はいはい! もう分かったから帰んなさい?』
『あっ! ちょっと……』
音声に動きがあってテレビに目を戻す。画面には何人もの女の子たち、銘々華やかだったり鮮やかだったりする色とりどりの少女たちが映っていた。
その誰もが空中に浮遊している。見知った顔のツインテールがその場を取りまとめていた。
『こんな天気で外にいちゃ危ないでしょ、いいから安全なとこに待避してもしもの避難に備えなさいよね今あたしたちが送ってあげるから』
『そっちおっけい?』『ばっちし』『じゃーいくよ? せーのっ……』
『あの今、撮影中ですので……っ』
『よいしょさー!!』
リポーターを抱きかかえた少女たちが低空を高速飛行して遠ざかっていく。同時にカメラの映像がのけぞったかのように空を仰いだ。
その真正面、緑の髪の女の子が顔面ドアップで映し出される。
『すご。これカメラ? 全国ネット?』
『遊ばないの!』
『ういすー』
『おわっちょちょ、ちょっと』
いかにも放送事故めいたカメラマンの音声をよそに、テレビの画面は街のあちこちをめまぐるしく映し始める。恐らく空飛ぶ少女の手によりカメラが運ばれているところなのだろう。
「なに? なんかあった?」
「テレビの人が神さまに連れられて帰らされてる」
「ま〜そりゃこんな天気で外いちゃ危ないもんね」
中継が途切れる。映像はいきなりワイドショーのスタジオへと切り替わり、不意に出番を渡された司会がぎこちなくも場を繋ぎ始める。
「フーコも立派な神さまなんだよな」
「そりゃそうよ。あんたも外出ちゃダメよ? フーコちゃんに連れ戻されちゃうからね」
「出ないよ。無理でしょ」
「無理ってこたないでしょ」
「無理すんなって話じゃなかったっけ?」
揚げ物の音がカラカラと響き始める。飲み干したコップをシンクですすぎ、居間を後にして二階へと上った。
自室の窓に顔を寄せる。玄関から外には出ないが、窓をちょっと開けてはみる。
少しだけ開いた窓の隙間から鋭い風が吹き込んでくる。意外にも生温い風で驚いた。まるで形のない誰かの手に触れられているみたいだった。
思い切って窓を開け放ち、外の空気に首を突っ込む。大気を裂く風の音があちらこちらから響いてくる。遠くに見える林の木々が風に煽られてざわざわ鳴っていた。
いかにも台風真っ只中みたいな有り様なのに、空には雲のひとつもない。夕日に燃える西の空を起点にして、緋色から藍色へと移り変わる淡いグラデーションがかかっていた。
――やっぱ神さまの影響なんだろうか。部屋にぽつぽつ飛び込んでくる雨の粒を顔に受けつつ、祐介は一人考える。
今どき大雨や台風が来るなら事前に気象予報が出る。災害に関する警報も出るし、アプリを入れていればスマホに通知も来る。それが今回は一切事前の情報がなかった。今日の昼下がりにいきなり雨が降り始め、あっという間に勢いを増して暴風すら伴い始めた。しかもこんな天気は全国で安合市だけとのことで、まず神さまの影響と考えるのが自然だった。
神が荒ぶっている。そういうことは時としてある。
あまり受け入れたくはないが、あの番組が神さまの影響を疑ったのは至極真っ当だった。
(みんな大丈夫かな……)
みんなというのは主にこの地に宿る神さまたちで、それからざっくりと安合市民だ。テレビで風の神さまたちが報道陣を強制送還したように、今も色んな神さまたちが人々を助けているのかもしれないが、神さまたちこそこんな天気のなか大丈夫なのか心配でならないのが祐介だった。
しかし特にできることはない。
ついでにやるべきこともやりたいこともない。正確に言えばやらなきゃいけないことはあるがあまりやりたくない。夕暮れ時に窓際に立つ高校二年生なんてそんなものだった。
――そろそろ閉めるか。
ぼんやりしているのにも飽きて窓に手をかける。そのまま閉め切ろうとしたときだった。
金切り声だ。
びくりと身体が思わず跳ねた。耳が針で刺されたみたいに痛んだ。これという理由もないのに心臓がどきどきし始める。遅れて手足に冷たい波が走り、今しがた聞いたものが無意識に脳内再生される。
続く絶叫。確かにそれはさっき聞いたのと同じ声だった。悲鳴かもしれないし悲鳴じゃないかもしれない。人が殺されるときの声かもしれない。
「何だよ……?」
混乱しているとまた絶叫が響いた。明らかに理性のリミッターが外れている正気じゃない叫びだ。そんな獣じみた声がどこか遠くから響いてきて、しかも恐らく祐介はその声質に聞き覚えがある。
知った顔が脳裏をよぎる。
衝動的に再び窓を開け放つ。がたんと音を立てる窓から思い切り身を乗り出した。
声が聞こえる。声は遠くから響いてくる。窓から身を乗り出したもどかしい姿勢でどうにか四方を見渡そうとする。しばらく地上に声の主を探していたが、ふと視線を宙に向けると空の中程に龍が飛んでいた。
「はぁ?」
一瞬ぷつんと思考が飛ぶ。再び気がついたときにはにわかに冷静になっている。改めて件のものを見つめてみると、それは蛇のような細長い何かが上下左右に身をくねらせて空中を泳いでいるように見える。でたらめな動きだ。何らかの意志や目的があって行われている動きでは決してない。どうしてそれを龍だと思ったかといえば、ただ空中を泳ぐ蛇みたいなものといえば龍だろうという、ただそれだけのことだった。
しかし安合市に龍はいない。
目をこらす。すると龍らしきもののちょうど頭があるべきあたりに小さな何かがくっついているのが分かる。その正体を見定めようとじっと観察していた一瞬、びりりと電撃じみた流れが脳髄を突き抜けていくのが分かる。
目が合った。
ように思った。
「やべぇ……?」
何も分からないながらに防衛本能が働いてとっさに窓を閉め切る。その寸前また頭の中であの絶叫がリフレインする。
訳が分からない。分からなすぎて呼吸が苦しい。頭が焼き切れそうだ。
だから窓を閉めただけで、その場から離れられないまま祐介は外の景色に釘付けされていて、その見開かれた両目はやがて、住宅地へと墜落する龍の姿を鮮明に捉えた。
弾かれたように駆けだしていた。
危うく足を滑らせながらも階段を駆け下りて玄関に向かう。つま先を靴に突っ込み一瞬屈んでかかとを直し、鍵を開いて玄関を飛び出す。向かうのはもちろん龍の墜落地点だ。
急がなければならなかった。理由はない。
強い風に煽られた雨粒が猛烈な勢いで打ち付けてくる。走る祐介の身体を生ぬるい風がなぎ倒そうとしてくる。何度も転びかけて全身ぐしょぐしょで足の裏にぶよぶよした感触を感じながらそれでも祐介は息せき切って走った。走りながら高揚と興奮で胸の中はぐちゃぐちゃで、吐きそうなのに気力と決意で手足は力強く働く。何も疲れを感じない。
無我夢中で暴風雨の真っ只中を駆け抜けた。いつしか角を曲がったところでその足がぴたりと停止する。が、勢い余って祐介は水浸しの道路にがっくりと膝をついた。それでも顔を上げる。
「瑞波さん……」
流れる水に覆われた道路の真ん中に、頭を抱えて倒れ込む瑞波の姿があった。その背中からは水の塊が尻尾のように伸びている――水神、川の神、龍としての属性を備えた瑞波本来の姿らしかった。自分の中に閉じこもるような姿勢のおかげで顔は見えない。表情が見えない。
「瑞波さん!!」
叫んで瑞波のもとへと駆け寄る。痛みに耐えているような、あるいは何かに怯えているような瑞波の呻きが降りしきる雨に混じって聞こえる。鉄砲水を固めたような瑞波の尻尾が時折脈打つように跳ねていた。
「瑞波さん……!」
傍に屈み込んで名前を呼ぶ。名前を呼んで、震える瑞波の肩に触れようとした。祐介の指先も震えていた。祐介と瑞波の間に空いた三年の月日が祐介の指先を震えさせた。
「大丈夫ですか、どうしちゃったんですか……? 俺です! 祐介です……!」
瑞波は唸り続けている。
「苦しいですか? 俺のこと分かりますか! 誰か神さま呼んできましょうか!?」
変わらない。
「ちょっと待っててください、俺誰か呼んできますからここで待ってて――」
くっと瑞波が顔を上げた。その目を見て一瞬のうちに祐介は悟る。
これは瑞波さんじゃない。この目はあの瑞波さんじゃない。
殺される。
身体がのけぞり尻もちをつく。それでもなお身体が勝手に二歩三歩と後退する。目は瑞波から離せない。視界の真ん中に捉えた瑞波は瞳孔の開ききった瞳でこちらを見つめたまま、ぼそぼそ口を動かして空気の掠れる音を発している。怖い、と祐介は思う。その一方で逃げちゃダメだろと妙に冷静な自分の声が頭の中でリピートされている。逃げちゃダメだろ。逃げちゃダメだろ――
かはっ、と胸から空気が漏れた。
瑞波に押し倒されていた。獣が獲物に飛びかかるように。
硬くびしょ濡れの路面に背中を打ち付けたのも束の間、目に映る真っ赤な夕空を感情のない瑞波の顔が遮る。祐介に覆い被さって胸ぐらを掴んでさえいるのにその目はまるで焦点が合わない。
空っぽだった。
このままだと死ぬ。
脳裏をよぎるワンフレーズのあまりのリアルさに祐介は叫ぶ。瑞波に胸郭を押しつぶされつつ四肢をばたつかせ全身を揺すぶるうち、一瞬だけ瑞波の腕の力がわずかに緩んだ。その隙を突いて瑞波の腕を身体から引き剥がし、起きしなに瑞波の身体を払いのけて振り落とした。無我夢中だった。立って駆け出す祐介だったがぐいっと強く引き戻される。シャツの背面を引っ掴まれていた。
「瑞波さん……っ」シャツの襟に両手をかける。ぐしょ濡れのシャツは重く、身体にぴったり張りついている。それでも布地を裂かんばかりに必死にシャツを脱ぎ捨てると振り返りもせず走り出した。
行き場はなかった。後ろからずっと瑞波の気配がしていた。確実に自分を追いかけている。走り続けるしかなかった。
息が切れ始める。それでも走り続ける気力を、身体に張りつくズボンや肌着や生ぬるく濡れた靴の不快感が着実に奪っていく。もう諦めたほうが楽になれるんじゃないかと思い始めた祐介だったが、その頭にふと光のように差し込むものがある。
それは閉ざされた社。邪神が封じられているという、神さまが暮らす安合市においてもとびっきりの異端の地。
下手に関わるな、と当の瑞波が言っていた。
気がつけば夢中で逃げている祐介の足は社の方面へと向いていた。真っ当な幸運を期待せず、なおかつ残った体力を考えるなら、もはやそれ以外に頼れるものはなかった。
行き先が決まる。すると力が滲み出る。それは希望だった。絶望的ではあるが確かに希望だった。
激しい風雨の中を祐介は走り続ける。全身がくたくたになって悲鳴を上げている。それでも頭を空っぽにして走り続けた祐介は、いつしか目的地に到着していた。
まるで大きな蔵のようにしか見えない簡素な本殿と、小さくはあるがどっしりと構えた鳥居。その間を結ぶささやかな石畳。
邪神の社だ。
存在は知っていた。立地も把握していた。しかし人と神さまがともに暮らしている安合市にあって、なお封印されている邪神というのが妙に現実的で不気味で恐くて、瑞波に警告されて以来敢えて近づこうとはしてこなかった。しかし同時に心の底ではこんな風に信じてもいた。
邪神だって安合市の神さまなんだから、困ったときには助けてくれる。
這々の体で鳥居をくぐった。
邪神の社は神を祀る建物としてはあまりに無骨だった。色々装飾はなされているが、それでも精々神社らしい飾り付けがなされた昔風の倉庫といったところだ。
入口には何重にも板を打ち付けるなどして封印がなされているが、何百年も前に施工されて以来触れる人間がいなかったせいか、目で見て分かるぐらいに朽ち果てている。この扉をどうにかして破りさえすればその向こうに何かが待っているはずだった。
肩から扉にぶつかる。慣れない体当たりは遠慮がちで威力は低いし、むしろぶつけた自分の身のほうが痛む。何回かぶつかるうちに祐介はふと、刺すような気配を感じて背後を振り返る。
鳥居の向こうに瑞波が立っている。
瑞波がこちらを見ている。
「クソ……ッ!」
縮み上がった心臓と裏腹にようやくタックルに威力が出始める。どしん、どしんと扉は軋むがいまいち手応えがない。焦りでこめかみがズキズキ痛み出したとき、
祐介は引っ張られるみたいに瑞波のほうを振り向いた。
向かい合った瑞波が、何かを握りつぶそうとするみたいに腕を正面に掲げている。
脊髄反射と軽い予知だった。とっさに脇へと飛び退いた祐介は肘をすりむいたらしい痛みとともに、自分がつい一瞬前まで立っていたあたりを水の塊が突き破るのを見る。
ばきり、と木材の砕ける音がした。
まるで電車だった。瑞波の手から撃ち出された膨大な質量の水の塊が、若干狙いを外しながらもいともたやすく社を抉り、扉も壁も屋根までもぶち壊して飛んでいった。
死ぬところだった。
現実感が麻痺している。半分夢見心地で瑞波の様子を伺うと、力を振るった反動なのか頭を抱えて地にうずくまろうとするところだった。
痛々しい。
でも今しかない。
破壊の跡から社の内部へ乗り込む。中はがらんとしていて物品らしい物品はなく、ごっそり欠けた天井の一角から茜色の光が差していた。そうしてついに祐介は、差し込む光の柱の向こう、社の奥に鎮座しているそれと対面した。
「神さま……?」
それは神さまらしかった。
そしてそれは少女だった。
まるで祭壇に腰掛けているような姿勢で、胸元には釘が突き立てられ、背後で五芒星に組まれた板に華奢な身体を磔にされている。
荒れ狂っているはずの風雨の音が遠い世界のように意識から引いていく。今や壊れかけている社の中は、まるで時間の降り積もる音さえ聞こえてきそうなほど静かだった。これが神さまの領域なんだ、と祐介は凪いでいく呼吸の中で思う。
足を踏み出し、少女のもとへと歩み寄った。その子は午後のうたた寝みたいにまぶたを閉じ、背後の板に頭をもたせかけていた。露わになった首筋は白く細い。身に纏った衣服はまるで巫女の装束のようで、至るところが翡翠の色の勾玉で飾られている――遠目に見ればそれはどこか緑色の鱗のようにも見えた。見たところ肉体的にはほとんど祐介と同年代に思える。
とても邪神になんて見えない。邪悪な神だとは思えない。祐介は自分の置かれた状況を忘れたまま、先ほどから自分の目を引いていたところへと改めて視線を移した。
それは胸元の釘だ。衣服を貫いて彼女の胸に深々と突き刺さった、今まさに赤熱しているかのように輝く釘だ。
和釘だった。ごつごつと四角く角張っていて、頭の部分がくいっと折れている。釘と言われて多くの人が思い浮かべる、丸い軸がベースになっているものとは大きく異なる。なおかつ巨大だった。それこそ巨大な神社仏閣を立てるのに使われそうな、長さ三〇センチはありそうな和釘だ。そんなものが少女の胸に突き立てられ、灼けているかのような色を発していた。釘の頭から中程までが赤く、少女の胸に沈み込んだ根本付近が金色に染まっている。見るに明らかな異物だった。おそらくこの釘が封印のコアなのだろう――
両腕が伸びる。釘をしっかりと握り込み、力を込める。
この胸の釘を抜けばかつて邪神と呼ばれた神を解放できると確信があった。なぜ解放するかといえば、それは自分が助かりたいからでもあり、瑞波のことを止めてほしいからでもあり、そしてかつて邪神と恐れられ、今は眠りについている彼女がいつか、安合市の神さまとして自由に暮らしている日々のことを思い描いたことがあったからだった。
(――頼む)
祐介は祈る。祈りを手に釘を握る。
(助けてくれ、頼む、神さま――)
引き抜いた。
ずるり、と粘っこい感触とともに釘は抜けた。
尖った釘の先端と、釘の抜けた少女の胸との間に、赤黒く粘度の高い橋が架かる。その架け橋は中央から重みで垂れ下がり、やがてたんっと音を立てて床に叩きつけられた。落下地点を中心にして得体の知れない液体が弾け、飛び散る。その始終を祐介はただ呆然と見ていた。ただそれだけのことだったのに、自分が何か取り返しのつかないことをした気がして、ぐらっと視界が揺らいで回った。
「ん……っ」
はっとする。目を向けた先には今や自由になった少女がいる。
その目は穏やかに閉じられたままだ。これまでと少し違うのは、その肩周りが呼吸に上下し始めていること。寝息に似た呼吸の音が辺りにすうすうと響いていること。
祐介は感じていた。
神さまが目覚めつつある。封印された神が永き伝承から目覚め、現世に蘇ろうとしている。
もう少しだ。
だけど時間がない。
「神さま」
外には風雨が吹き荒れている。こつこつと石畳を踏む音が雨風を通り抜けて耳に届く。
「神さま!」声を張った。「助けてください。俺のことを、それから――」
ぱっ、と目が開かれた。
金色の瞳だった。胸に光を射されたみたいで、祐介は息を呑む。その一瞬の静寂に、少女は目だけを動かして、祐介と社の中と、それから夕焼けの空を見上げて、最後に祐介の目に視線を合わせ、雑味のない声で呟いた。
「夢……?」
一瞬間があって、自分に訊かれているのだと祐介は気がつく。ふうっと息を吐く。固まっていた心臓が動き出す。
「夢じゃない」
「夢じゃない……どうして?」
少女が訊ねる。
「どうして夢じゃないの?」
質問の意味が分かりかねて、祐介は戸惑う。少女の瞳はどこか夢を見ているようだ。祐介を目にしていながら祐介以外のものを見ているみたいだ。何百年と眠っていたのだから、まだ目覚めきっていないのかもしれない。だからまだ上手く頭が働いていなくて、こんな不思議な質問をしたのかもしれない。
頭が働いてないのは祐介も同じだ。
質問の意味を図りかねて、どう答えればいいか分からなくて、迷って、それでも何か答えようとした。そのときの祐介にはそれ以外なくて、祐介は腕を伸ばした。伸ばした腕の先。少女の頬を手のひらで包んだ。
右手のひら。小作りな顔の頬から顎まで、祐介の片手にすっぽり収まる。柔らかくて吸い付くような肌の感触が伝わってくる。生きている。少女は確かに生きていた。
そして祐介は答えた。
「ここにいるから。触(さわ)れるから、いま触(ふ)れているから。俺も――君も。お互いに」
少女が呆けたような目つきで祐介を見つめる。やがて少女は頬を包む祐介の手に手を重ねた。指で指をなぞった。水滴が這うように指先を動かし、祐介の手の甲の、指の付け根の硬い盛り上がりに指を挟んだ。
白く小さく柔らかな感触。まだ彫刻みたいに冷えている。
それでもすでにこの子は生まれている。
絶叫――反射的に祐介は振り返る。瑞波の声だ。
「そうだ! いまっ……」
振り向きかけたその脇を少女がすたすた通り過ぎる。ふわりと風圧が肌を撫でるほどの速度で、少女は破壊された社の戸口に立つ。それから両腕をぴんと水平に伸ばした。
「識(し)っててほしいの」
くるりと少女がこちらを振り向く。見開かれた金色の瞳。
「わたしは空鞠(からまり)。理外の神」
千早の袖をなびかせ、少女はくるりとその場で回った。一回転。
空間が歪んでいた。
空鞠の腕の軌跡に沿って不自然な歪みが生じていた。まるでそこに透明な、しかし完全には姿を隠しきれていない何かがあるみたいだ。そしてそれは祐介の目には、空鞠を中心にして何本も巻き付く巨大な触手のように見えた――
目を閉じ、空鞠が胸元に手を重ねる。そして胸の内にあるものを差し出すように、こちらへ向かって腕を伸ばした。
ぐちゅっ、と音が立つ。
粘ついて肉厚で醜悪なものが擦(す)れ合う音。いまや空間の歪みは空鞠を包み込んで縮こまる巨大な触手となり、空鞠が腕を伸ばすとともに勢いよく鎌首をもたげた。空鞠を中心に放射状に伸びたそれは、まるで真っ暗な後光のように見えた。
神さまと言うにはあまりに生々しい。
「――――――ッッッッッ」同時に耳に届く絶叫、そしてありったけの水を乱暴にぶちまけるみたいな音。瑞波が社を破壊したのと同じ、水の大砲がこちらへ向かって放たれようとしている。
空気が震えた。急速に冷えていく。
来る、と直感した。
「危ない!!」
「大丈夫」空鞠が笑ってみせる。「私が守るよ」
一瞬の出来事だった。
山のような激流が空鞠の背後にそびえ立つ透明な障壁にぶつかり、砕け散った。呆然とする祐介の頭上を砕けた波頭が飛び越していく。
無傷だった。放心しつつ身の周りをきょろきょろ見回す祐介を前に、空鞠が頭上から微笑みかけた。
「ねっ?」
ああ、と祐介は何かを悟った気持ちでいた。それはつまり、――この子が自分を守ってくれるのだと。
「だから大丈夫。ここで見てて」
「待って!」
背中を見せかけた空鞠を呼び止める。まだ言うべきことが祐介にはあった。
「あの人、大切な人なんだ。だから傷つけないであげてほしい――ごめん。でも頼む……止めてやってくれ」
「うん!」頼もしい表情のまま空鞠がうなずく。「任せて!」
くるりと向きを変え、空鞠が駆け出す。それとともに思い切り姿勢を前傾させる。いつしかその足は宙を離れていた。触手の一部がコウモリの翼のように変形して羽ばたいている。
対して瑞波はふらふらとよろめいたまま、接近してくる空鞠をギラギラとした目つきで睨みつける。その目だけが別の生き物みたいだった。飛び上がる空鞠に触発されたみたいにぐっと屈み込み、強力なバネの力で勢いよく跳ね上がった。
舞台は空中に移っていた。
瑞波がでたらめな軌跡を描きながら上空を乱舞している。時々空鞠に向かって突進したり尻尾ではたき落とそうとするが当たらない。一方空鞠は戦闘機のような鋭い軌道で瑞波の周囲を旋回している。攻撃しない――様子見しているみたいだ。慎重になってくれてるのか、と祐介はぼんやりする頭で思う。いつの間にか膝を伸ばして立ち上がっていた。少しでも近くで二人の戦闘を見ておきたい。
絶叫が響いた。
瑞波の身体のあちこちから水で象られた無数の蛇が顔を出す。まるで多頭の蛇――神話の怪物だった。大口を開き鋭い牙を剥き出しに、一斉に宙をうねりながら空鞠目掛けて襲いかかる。
ここで空鞠が動いた。空中で膝を抱きかかえ一瞬、それからすぐに手足を広げる。
その手が鋭く光っている。それは光でできた金色の鉤爪。
身をひねり空を切り裂き、空鞠の鉤爪が蛇たちを輪切りにしていく。切断された蛇たちは形を崩し、零れ落ちる水となって雨に混じる。
「うあぁ……っ!!」
瑞波が唸りを上げ、腕を振りかざす。すると雨が無数の雨粒が渦を巻いて巨大な蛇を形作った。
「うわああぁぁぁぁぁ!!」
大蛇が空鞠に食らいつく。しかし空鞠は動かない。
口の中へと飛び込んだ。
一筋の光が空に閃く。同時に大蛇はただの水の塊となり、うっすらとした虹を纏いながら滝の如く道路に降りかかる。ばしゃばしゃ言う水の音が意外なくらい長く続いた。
空鞠が打って出る。
上空から両手の鉤爪を構えると同時、勢いよく飛びかかって瑞波を切り裂く――もちろん生身の身体ではない。空鞠が狙っていたのは瑞波の背から伸びる龍の尻尾だった。瑞波が叫ぶ。川水で象られた瑞波の尻尾が切り裂かれるたび、痛みに悶えるみたいな悲鳴が空から降り掛かってくる。
大丈夫だろうか、と祐介。しかし――きっと空鞠のほうが、何かを掴んでいるのだろう。戦闘の中で相手を観察して、そしてこれなら傷つけることはないと。
空鞠を信じる。
空中で取っ組み合う両者だったが少しずつ戦線は移動していた。社の上空から、瑞波の川の方角へ。祐介も空を仰ぎながら駆け足に二人の行く末を追う。
そのとき、断ち切られた瑞波の尻尾が目の前に落ちてくる。
思わずしゃがみ込んだ。冷たい水の勢いにごろごろ転がされながら無意識に頭だけは守っていた。幸い腕を多少痛めた程度で怪我はない。すぐに立ち直って二人を追いかけようとして、祐介は違和感に立ち止まる。
「あれ……っ」
釘がない。空鞠を解放してからずっと握っていた封印の釘だ。
どこかに流されてしまったらしい。焦る祐介だがその間にも戦線は動いている。一瞬迷って二人を追いかけるのを選ぶ。まともな判断ができている自信はなかった。
駆ける。まるで上空の月を追うように。戦いの場は段々瑞波の宿る川の近くへ移っていく。神さま同士が戦っている。それはずっと安合市で生きてきた祐介が初めて見る光景だった。
二人を追って祐介は瑞波の川の土手にまでやって来ていた。また絶叫が響き渡る。瑞波が喉を引き裂かんばかりに叫び、空鞠から距離を取ってくるりと身を翻す。空鞠に向かって伸ばされる腕、その手のひらに集まる水の塊。
瑞波の大砲――まるで川そのものを撃ち出すかのような大質量の水の塊。
対して空鞠は再び膝を抱くような姿勢を取った。するとまるで眠る幼子を包み込む毛布のように、どこからか暗黒の霧が立ちこめる。空の一角を埋め尽くすほどの。その霧が実体化して、空鞠と結合していく。
それはまるであまりにも精緻な描写がなされたがゆえに、かえって異形のものとの印象を強めてしまった未知なる生物の観察スケッチ。
まるで空に毛細血管が通るかのように、真っ黒な筋が空鞠から放射状に伸びていく。
それはまるで天体……腐敗して液状化し、黒く濁りながらも空に張り付こうとする醜き異形の太陽……
「ああっ……」瑞波、おびえるように。「うああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――ッ!!」
瑞波の撃ち出した水の塊に対し、空鞠が撃ち出したのは究極の暗黒――質量を持った暗黒だった。
ぶつかり合う水と暗黒。つばぜり合いは空鞠の優勢だった。段々真っ黒な光が瑞波の水を押していく。しかし、あと一歩が届かない――違う。調整している。瑞波が全ての水を打ち出すように、暗黒砲の威力を調整している。段々細く弱くなっていく鉄砲水に合わせて、空鞠の打ち出す暗黒もか細くなっていく。
瑞波の背に伸びる龍の尻尾が短くなっていく。やがて完全に消滅してしまった。残量切れのようだ。瑞波もまた力を使い果たしたらしく、ふらりとよろめいて落下し始めた。その反対側、空鞠を包んでいた暗黒も霧散して空に薄れ、なじんで消えていきつつあった。
落下する瑞波を空鞠が急降下で追いかける。たくさんの肉厚の触手で瑞波の身体をキャッチして、水嵩の少ない川に降り立った。
救出成功だ。
ぐったりと、しかし静かに憔悴しているらしい瑞波を抱いたまま、空鞠はその顔を覗き込む。
「大丈夫。大丈夫ですから」
笑顔で。
「ね! 大丈夫でしょ!?」
不意に空鞠がこちらを振り向く。思わず驚いて、言われるがままにうなずく。
「ほら」また空鞠が瑞波の顔を覗き込んで笑う。「大丈夫なんですよ」
段々瑞波の呼吸が落ち着いてくる。早かったそれは段々緩やかに、凪いでくる。
祐介は一部始終を見守っていた。身動きできなかったのだ。呆然とする祐介だったが、いつの間にかその口元は眼前の神さまの名を呟いていた。
「空鞠……」と。
その瞬間だった。
瑞波がばちんと水風船のように弾ける。辺りに瑞波だった飛沫が飛び散ると同時、空鞠はとっさに防御姿勢を取った。しかしそれをよそに、弾け飛んだ水滴は空中で集合してまた瑞波の形を取る。
「――っ」
瑞波が離脱する。追いかけようとする空鞠だったが何かに足を取られたみたいに転倒した。水飛沫が上がる。見れば足首に川水が大蛇みたいになって巻き付いていた。
「うう……うぅ~」
空鞠の悔しそうな呻きを別にすれば、場に静寂が戻って来ていた。
いつしか雨は止んでいた。空気は穏やかさを取り戻し、心地よく爽やかな川風が祐介たちの髪を揺らした。
「……収まった」
祐介は呟く。
ひとまず事態は収まった。無事にやり過ごしたのだ。
もちろん事件は解決していないだろう。しかし、きっと少女の活躍のおかげで異常気象は収まり、祐介も、それから瑞波も一旦は命の危機を脱した。
「……これでよかったのかな?」
空鞠が声をかけてくる。やっと水から解放されたらしい。
「一応、というか、一旦は」
祐介は返す。すると少女は立ち上がって腰を伸ばし、両腕を大きく振り上げた。
今は鉤爪の消えた両手の、二本の指がぴんと立てられている。
「――いぇいっ」
満面の笑みで空鞠は言った。全身びしょ濡れのまま、夕陽に笑顔を照らされながら。
◇
『いぇいっ』
その一言が祐介には密かに衝撃だった。
邪神が『いぇいっ』と言うなんて思ってもみなかったからだ。呆然としていると空鞠がこちらへ寄ってくる。にわかに緊張する。
「怪我はない?」
「……大丈夫」
間近に近寄られるとなおさら緊張する。近づいて、こうして話してみると思った以上に普通の神さまであり、普通の女の子みたいに見える。
自分が封印を解いた。
そのことを思うと祐介はどきりとする。なぜかは分からない。
「わたし、空鞠って言います。あなたは?」
空鞠がひょこっと首をかしげながら訊ねる。
「俺は祐介。三上祐介(みかみゆうすけ)」
「祐介くん。祐介くんね!」
空鞠が指を立てて聞いてくる。指差し確認といったところだ。「そうそう」とうなずいてみせると空鞠もまたニコニコうなずく。人懐っこそうな子だな、と祐介は感じる。
風を切る音がした。
何だろうと思って背後を振り向く。それも一瞬のこと、とっさに祐介は声を上げて身体を縮めた。
飛んできた何かが一直線に突き刺さる。
「あっ……?」空鞠の声。その胸に深く突き立てられた封印の釘。
「空鞠……?」
「釘……飛んできた……ね?」
すごいリアルだ、と祐介はどこか他人事みたいに思っている。何が起きたのかパッと理解できずにいる。この感じすごく怖いな、と祐介は自分の身体から血の気が引いていくのを感じながら思う。
封印の釘が飛んできて、空鞠の胸に突き刺さった。
自分はどうすればいいのか分からない。
「大丈夫……?」
月並みな言葉しか出てこない。対して空鞠は戸惑った表情こそ浮かべているが、さほど苦しそうな様子ではない。
「痛くない? 苦しいとかは?」
「意外と大丈夫」
「大丈夫なのか」
「そうみたい……です」
どういうことなんだ、と祐介は思う。何がどうなっているのかいまいち分からない。でも神さまってのはそういうものだと言われれば納得してしまうのも安合市民としての性分だった。
「あれ……?」
空鞠が呟く。祐介も異変に気づく。空鞠の顔がとろんとして、まぶたが閉じかかっていた。
「なんか……落ちる。落ちてく感じがする、意識が落ちる」
「やっぱ大丈夫じゃないんじゃ……!」
「分かんないけど……ごめんちょっと、堪えらんないかも」
ふらりと空鞠の身体がよろけた。とっさに祐介が空鞠の肩をぎゅっと掴んで支えた。空鞠が体勢を立て直そうとしているのは分かるがあまり上手くいっていない。きちんと立つことができないのだ。不意の出来事に祐介の心臓はばくばくと打っている。保健体育でわざわざ人形を使ってまで習ったはずの、応急処置の手順が思い出せない。それ以前に神さまが倒れたときの適切な対応を知らなかった。
「疲れちゃったのかな……」
「体調は? 吐き気がするとか気持ち悪いとかないか?」
「大丈夫……たぶん起きていきなり動いたから、この身体に慣れてないから……」
この身体。気になるワードを発したのも束の間、空鞠の身体がぐっと重くなる。
「ごめん……後始末、お願いしていい?」
「後始末って」自分のことそんなふうに言っちゃダメだよ、と言おうとして自分が何様なのか分からなくなってやめてしまう。「……とにかく安心していいから、後はなんとかするから。任せて」
「ありがと……」
語尾がほとんど吐息で掠れていた。
空鞠の身体を抱きとめたまま祐介は息をつく。するとすぐにこれからどうすべきかについての思考が繰り広げられる。空鞠をどうにかせねばならない。具体的にはどこかへ運んで休ませてあげるべきだ。どこに連れて行くかといえばまず思い浮かぶのは邪神の社だが、あそこは瑞波の一撃により派手に壊れてしまっている。それに空鞠を一人きりにして置いていくなんて考えられなかった。
そうなると候補となるのはひとつしかない。つまり自分の家だ。
「……おんぶだ」
ぽつりと呟く。ぽつりと呟いてすぐに無理だと気付く。空鞠の胸には大きな釘が刺さっているのだ。背中に負うにはあまりにも邪魔だった。
「……抱っこだ」
ぽつりと呟く。
「抱っこ……?」
呟いてすぐに困惑の一言が漏れた。しかし何度考え直しても結論は変わらない。胸に釘の刺さった女の子を運ぶにはお姫様抱っこが最も適している。
祐介には未だかつて誰かをお姫様抱っこした経験はない。妄想ならある。しかし妄想の中で抱っこしている相手からは今祐介の手が触れているような本物の質量は感じられなかった。
「…………ぐ。ウウッ」
覚悟を決める。今実際に目の前にいる空鞠のために、自分がやるべきことは決まっていた。
記憶の中の見様見真似でお姫様抱っこの体勢をとる。空鞠の背中に腕を回し、ゆっくりと身体を倒して体重を受け止め、最後は慎重に膝裏から掬い取るように抱き上げる。
成功した。
同時に絶望した。
空鞠を抱きかかえたまま自宅まで歩いていけるビジョンが見えない。それぐらいリアルな重みが今祐介の腕の中にはあった。それも単なる体重だけではない。自分ではない誰かの身体を預かっている、その責任の重さも混じっている。
ひとまず腰を伸ばして立ち上がった。それから、空鞠の重みを自分の腰の上に乗せるイメージで身体をのけぞらせた。これで重心が安定する。一歩、二歩と歩きだす。
どっと疲れた。
そこで思い出した。自分はここに至るまでずっと走りっぱなしだった。その疲労が今このタイミングでどっと襲ってくる。文字通り気が抜けてしまったのだった。このままでは空鞠を運んでいくなど無謀としか言えない。
そこで他人(ひと)を頼ることにする。
「神さま、風の神さま」誰もいないその場に呼びかける。「もし誰かいたら手伝ってくれませんか? この子のこと運びたいんです。お願いします!」
基本的に風の神様はどこにでもいる。姿を見せないだけで辺りを飛び回っていることがよくある。それに風の神様はみんな物を運ぶのが得意なのだ。その力を貸してもらおうと祐介は考えていた。
しかし返事はない。誰もいないのかもしれない。
(仕方ないか……)
諦めて再び歩き始める。すると背後から柔らかな風が吹き寄せてきて、祐介の背中をほんのりと押した。
そこに確かな存在を感じる。
「神さま?」
「違う」
耳元に囁き声。
聞き慣れた声だ。
「フーコ……?」
「ちがうってば。あたしは……じゃなくて、これはただの追い風」
「追い風」思ってもみない言葉に思わず繰り返した。「じゃあ今聞こえてるのって誰の声だ?」
「あんたの幻聴」
「俺やべぇ奴じゃねえか
「そうよヤバいのよ。これって結構キワキワのラインなのよ」
背中を押す追い風がわずかに強まる。
「あんたが抱いてるその子、えっと……」表現を選ぶかのように口ごもる。「……邪神の社から出てきた子でしょ」
「……そうだな」
「そうなのよ。だからこれはただの風の声ってことにしといて」
風の声は具体的なことは言わない。しかしその態度から察せることはいくつもあった。
「ありがとう、フーコ。……によく似た風の声、っていう俺の幻聴」
「無理しないで口を閉じなさい」
「ごめん、急に頭ン中ごちゃごちゃしてきて。ありがとう、ほんとに」
「お返し期待してんだからねー?」
実質二人分の力だった。祐介は言われた通り口を閉ざして家までの道のりを歩んだ。幸い途中で誰とも出くわさなかった。無言の帰路を踏みしめながら、自分がいつもこの風に包まれながら暮らしてきたことを思い返した。そしてこれから先のことを必死で考えた。それは誰かに報いるために。
◇
『母さん!!』
『ちょっとどこ行ってたの!! こんな雨の中……えっ誰それ』
『話せば長くなるんだけど、とりあえずこの子うちに泊めてもいい?』
『神さま?』
『神さま』
『じゃあ仕方ないか』
ごく一般的な安合市民の会話だった。
真っ暗な部屋。ベッドの中。祐介は目を閉じたままその日の出来事を回想していた。
無事に空鞠を家まで連れてくることに成功した。びしょ濡れになっていた空鞠の身体を母親に拭いてもらっている間、祐介は和室に来客用の布団を敷いていた。服も着替えさせたほうがいいかと思ったが、やはり神さまとは特殊な存在らしく、あれだけずぶ濡れになったはずの服がもうとっくに乾いていた。寝息を立てる空鞠が布団に横たえられる。枕に頭が乗せられ、仰向けになった身体に毛布がかけられる。が、ここでも釘が邪魔になる。
「この釘なに? 抜いちゃだめ?」
「抜いてもまた飛んできて自動で刺さるし、抜いたら抜いたで赤いべっとりしたのが出てくる」
「コワ!!」
釘を抜くのは諦めることにした。釘と干渉しない程度に、できるだけ胴体を覆うように布団を引き上げてやる。
空鞠の寝顔は綺麗だった。時間が止まって凍りついているみたいだった。初めて邪神の社に入ったときに見た、磔にされた空鞠の寝顔と同じ顔をしていた。
そして祐介は風呂に入り夕飯を食べて、安合市の邪神伝説についてスマホで調べようとして、急に気が重たくなって結局やめた。それで動画サイトのおすすめを漁ってゲームのデイリーを済ませて寝た。床につくとまぶたの暗闇に空鞠の姿が焼き付いていた。
少しだけ、これからのことが怖かった。自分のやったことについて誰かに何か言われるだろうかと思った。でも怖いのは少しだけで、あとはほとんど怖くなかった。現実感が麻痺しているのかもしれない。それでも祐介は後悔はしていない。軽い気持ちだったとも思わない。
だけど自分はちっぽけな人間で、修学旅行を体調不良で欠席した高校二年生だった。
物事の重みが分かるのはいつもそれが過ぎ去ってからだ。今はまだ感覚が麻痺している。今はまだ、夢を見ている。
翌朝。何事もなく朝が来る。
信じられないことに普通に登校日だ。今日も学校へ行って自習しなければならない。邪神を解放して神さま同士の戦いを目にして、その次の日にはもう朝早く起きて学校へ行かねばならない。それが一番信じられないことだった。
「空鞠は寝てる?」
目玉焼きにしょうゆとコショウをかけつつ、祐介はキッチンの母親に訊ねる。
「寝てるよ。ぐっすり」
トーストの隅をかじる。ざくりと音を立てて空鞠のことを考える。これから空鞠はこの家で一緒に過ごすことになるのだろうか。それともどこかへ引き取られていくのか。あるいは邪神の社が復旧され、空鞠もそこへ戻ることになるのだろうか。
なんだか外がガヤガヤしていた。
「外、誰か来てない?」
「ほんと? ちょっと見てくる」
母親が玄関へ向かう。こういうとき「俺が見てくるよ」と即座に言えたなら孝行者なのだろうが、祐介は元来ぼーっと流れを見守ってしまう質(たち)なのだった。
「ホホ~」
面白がる声が聞こえる。母が戻ってくる。
「野次馬の群れがおる」
「野次馬? マスコミ?」
「神さまちゃんよ。噂好きのね」
察する。大方風の神さまたちだろう。
「あんた今日早く出たほうがいいよ? 玄関出たらもみくちゃにされるからね」
「ついでに学校まで運んでもらうよ」
「甘えないのー」
冗談のつもりだったがそうしてもらいたい気持ちは山々だった。今でこそ平静を装っているが今の祐介は全身筋肉痛なのだった。ベッドから起き上がるのにも苦労するほどだ。
それにしても、と祐介は母のことを思う。空鞠が邪神として封じられていたこと、その封印を自分が解いたことは昨夜のうちに伝えておいた。すると母は「へええー」と感心したきりで、以降特に変わったそぶりは見せない。いつも通り鷹揚に、のらりくらりと振る舞っている。
すごいもんだな、と祐介は母親の用意した朝食を取りながら思う。味噌汁をすすりつつ感慨に耽る。細切りの大根と油揚げ。今日はいつもより美味い気がする。
「こんこ~~~~~ん!!」
「ふわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
味噌汁に口をつけたまま息を潜めた。キッチンに立つ母と遠距離で顔を見合わす。
「帰りなさ~~~~~~~~~い!!」
「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!!」
神さまたちの悲鳴が聞こえる――どうやら未曾有の脅威の手により散らされているらしい。
何事かと訝る暇もない。
インターホンが鳴った。返事して、母が出て行く。
しばし待つ。恐らくすぐそこに控えているであろうものを祐介は待ち受けていた。「えー!」と母親の驚く声が響き、それから社会的な――儀礼的なやり取りが断片的に耳に届く。
不意にリビングの戸が開かれた。その奥から現れたものに祐介は目を見張る。
高身長。というより巨体。普通に立っているだけで天井に頭がつきそうなほどで、先端が擦れてしまわないよう頭から伸びた耳がぺたんと伏せられている。輝かしい金色の長髪、後光のように背中から伸びた九本の狐の尻尾。大胆かつ緩やかに着崩された巫女服に包まれた、豊かさそのもののような肉体。
そして顔を覆う白い狐の面。
「おはよ〜!」
こちらを見下ろしながら両手に狐の形を作り、飛び跳ねるように身体を揺すぶる。
「お邪魔します。タマです!」
祐介の顎に味噌汁が滴る。
タマ。タマさん、タマちゃん、タマ様、お狐さま。バラエティ豊かな呼び方が為され、日頃から人々に親しまれるその神さまは、安合市で一番大きな神社で祀られている豊穣の神だ。他の多くの神さまのように外をぶらつくことは少なく、基本的にお目にかかれるのは祭りのときぐらいのものだ。
つまり、安合市に生きる神さまたちの元締め的な存在が、わざわざ個人の住まいを訪問して、恐らく個人を指定して会いに来たのだ。
祐介の顎に汁が滴る。
「……びっくりしてるね? ごめんね急に! でもそんなに怖がらなくてもいいよ! 取って食べたりしないよ~!!」
危うく白目を剥きかけた。神前だったのでこらえた。
「ごめんねぇ、こんなものしかなくてぇ」
「全然お構いなくぅ、こっちこそ急に押しかけちゃったのにわざわざぁ」
テーブルに温かいお茶と菓子類が出されて、「ごゆっくりー」と一言残して母親が退室する。残されたのは祐介とタマの二人だけだ。
正面から向かい合う。それもテーブルを挟んで向かい合っているのではない。二人はわざわざテーブルの脇に座って対面していた。お茶の置かれたテーブルはさながら巨大な肘置きといったところだ。かくして二人は間に何も遮るものなく相対していた。紛うことなきサシだ。このような状況下で祐介が思うことはひとつだった。
(でかい)
タマは本当にでかかった。
床に座ってなおでかい。ちょっとした山のようにも見えた。タマの背丈は二.七メートルもあるだろうが、それだけでかいと正座してなお直立した人間と同じ位置に頭がある。
それゆえ祐介は思い切りタマに見下ろされていた。
「お茶まで出してもらってごめんねぇ、ほんとに」
タマの声が頭上から降ってくる。狐面を着けているにも関わらずタマの声にはくぐもったところがない。
「いえ全然、はい……」
「お土産と言っては何だけど~……」
「ム!?」
いきなりタマが胸の谷間に腕を突っ込んだので目を丸くする。豊かでたっぷりとした膨らみの奥、長く深く密度高い谷間の奥で何やらごそごそやっている。
「ん〜…………よいしょっ」
むにゅんと波打つ谷間から棒状のものが引き出された。祐介の目はそちらに吸い寄せられる。
それは包装されたチュロスに見えた。
「どうぞ。チュロスです」
「チュロス?」
「もう一本、これはお母様に」
「チュロス……」
チュロスだった。受け取るとまだほかほかしていた。揚げたてだ。個包装されていて衛生面もクリアしている。胸の谷間から取り出す以上その辺りのケアも考えられているのだろう。
「なんでチュロスなんですか……?」
「豊穣の神だからねえ。色々美味しいものを出せるよ」
「なんでチュロス……」
「美味しくて楽しいので」
神さまの言うとおりだ。
「さて! お話始めましょう」
「はい……」
チュロスを脇に、タマと向かい合う。
「それじゃあねぇ、本題に入る前に……」
恭しく頭を下げたタマに、祐介は動揺する。
「ごめんねぇ、こんな時間にお邪魔しちゃって。人間って朝忙しいでしょ? キミも学校に行かなきゃだよね。そんなときに時間取らせちゃって、申し訳ないです」
「いや! 全然大丈夫なので! 顔上げてください、畏れ多いです」
「そう言ってくれると助かるなぁ」
タマが顔を上げる。表情の読めない狐面が真正面から祐介を捉える。
「……でもね、それでもどうしても、キミと話したいことがあったんだよねぇ」
「…………はい」
もちろん分かっていた。思い当たる節はあった。
「空鞠のことですよね」
「カラマリ……あの邪神さんのこと? 自分でそう名乗ったのかな?」
「はい。自分は空鞠だって」
ふんふん、とタマがうなずく。
「あの子は空鞠ちゃんって言うんだね。そう、今日は空鞠ちゃんについて話しに来た。それじゃあ、単刀直入に」
タマが居住まいを正す。
「キミが封印を解いたんだよね?」
「はい。俺です。俺があの社の中に入って、空鞠に刺さってた釘を抜きました」
今更逃げも隠れもしない。訊かれたことに簡潔かつ率直に答えるだけだった。
「あの子の封印を解いてから異常はない? 心身に不調が出てるとか」
「ないです。ピンピンしてます。まあ昨日の今日なんで異常に気づくだけの時間もなかったですけど」
「ほんとにね。昨日の今日だもんねえ」
タマの九尾が銘々にゆらゆら揺れていた。その様に祐介は風にそよぐ稲穂を連想する。
「キミは――」言葉を発して、一種言い淀む。「キミはこれから、どうしたい?」
「どうしたい……っていうと?」
「あの子と一緒に過ごしたい? それともできれば距離を置きたい?」
「離れたいとは思ってないです。まだ人となりも何も全然知らないですけど、俺は空鞠に助けられましたし、ちょっとだけ話してみても嫌な奴だとは思いませんでした」
そこまで答えて口を閉ざした。が、はっきりとした答えを明示していないような気がして言葉を継いだ。
「空鞠のことはまだ全然分かりませんけど、俺は空鞠と一緒に過ごしてみたいです」
「あの子のことが知りたい?」
「知りたいです」
「分かった。ありがとう」
タマは何やら考えを巡らせているようで、ふ〜むと唸りながら姿勢を崩して立膝になる。しばし仮面の顎のあたりをこつこつ指で叩いていた。
「今日、私がキミのおうちにお邪魔したのはね」
そこで思い出したかのようにタマが姿勢を正す。つられて祐介も居直った。
「キミに邪神の見守り役を頼みたいんだ」
「見守り? ……監視とは違いますか?」
「監視は監視対象と積極的に関わるのを避けるでしょ? でも見守りは違う。見守るっていうのは相手と関わること。相手が本来の自由を発揮できるように、辛いときには支えて、間違っているときには導いて、喜びの言葉には耳を傾けて、そしてあくまで相手を信じること。それをキミにお願いしたいんだ」
「邪神の身元引受人……ですか」
ふんふん、とタマがうなずく。タマぐらいになるとうなずくだけでもあちこち揺れ動く――大自然の風景みたいに。
「見守り役をキミにお願いするのはね、本来邪神の扱いについては私が動くべきなんだろうけど、現状動くのがちょっと難しいんだよね」
「……忙しいんですか?」
「ちょっと色々あってね、その対応に追われてるんだ。これから安合市としてどう対応するのか方針を定めなきゃだし、えらーい神様に相談しようとしたけど連絡がつかない。結構てんやわんやなんだよ」
「神さまって大変なんですね、タマさんぐらいの神さまでもそんなに……」
「大したことじゃないよ〜? でもちょっと厳しいかもーって感じ。それでね、キミが邪神を解放した以上、現状邪神が関係を結んでいるのはキミだけなんだ」
「そうなりますね」
「そして見たところ邪神に悪意や敵意、害意は見られない。むしろ人間や他の神々に友好的なように思える」
「見てたんですか?」
「そりゃ邪神が復活したんだもん。見たくなくても見ちゃうし、噂だって耳に聞こえちゃうよ」
「お天道様は見ている……ってことですか」
「まあねえ」
タマが耳をピコピコさせる。うなずいているのかもしれない。
「だからね、キミに邪神の見守り役をお願いしたい。サポートはする。そして無理にとは言わない。本当はこんなことに民を巻き込むべきじゃないからね」
「それなら喜んで……」
「でもね」とタマが遮る。「キミは釘のことを知ってるね?」
「空鞠に刺さってた、というか今も刺さってる釘ですか」
「そうそう。あれは文字通り血塗られた釘だよ」
タマの表情は読めない。
「たくさんの人の血を浴びている。それは邪神を封印するために流された血だ。そしてそれゆえにあの釘は霊的な呪力を持つに至った」
そこまで聞いてにわかに祐介は怖気立つ。自分の握りしめていた釘は血まみれの釘だったのだ。もしかすればあの釘の錆臭さは人の血の匂いだったのかもしれない。今もその表面には血液がこびりついているのかもしれない。そんなものを自分は握りしめていた――そう思うと両手が鈍く痺れてくるような気がしてくる。
「あの釘は私としても想像以上の呪物と化してる。キミも見たでしょ? 釘がひとりでに邪神の身体へ戻ってくるとこ。あの釘には神の力はほとんど加えられてない」
「……え。じゃあなんで自動で戻っていくんですか」
「人の執念。そして情念の成せる業としか言いようがないね。かつてこの地を襲い、めちゃくちゃにしようとした邪神を封じようとした人々、そして神々の想いそのもの」
そんなもので空鞠は封じられていた。
今も胸にはその釘が刺さっている。
「この話で理解してもらえたんじゃないかと思う。あの子がかつて邪神であったこと、そしてどれほど邪悪な神であったか……キミがあの子のことを知りたいと言うなら、私はまずこの話をしなきゃいけなかった」
タマが息をつく。それからいただきますと会釈して茶碗を持って口元に運んで、お面にこつんと当たって硬い音がした。そうだった、えへ、と呟かれて茶碗が元の場所に置かれる。
「その上で改めてお伺いを立てたい。あの子の見守り係を引き受けてくれるか」
祐介は黙する。
「ちょっと待ってください。……考えます」
考える。
正直今の空鞠が話に語られた邪神だとはどうしても思えない。出会った直後に話した感じ、そんな印象は受けなかった。しかしそれも人間の了簡に過ぎない。よく考えねばならないと思った。
自分には責任がある。
だから、自分と空鞠の今後に関わるこの問いかけには、よく考えて答えるべきだ。さもなくばみんなに迷惑がかかる。
何より空鞠に失礼だ。
「もちろん今すぐにとは言わない」
口を開きかけたとき、タマもまた付け加えるように声を発した。
「しばらく時間は置く。そうだなぁ……三日ぐらいでどうかな。次の日曜日にまたキミの家を訪問する。そのときに答えを聞かせてもらう。それでどうだろう」
「…………はい」よく吟味する。「それが良いと思います。しばらく時間を置かせてもらいたいと言うつもりでした」
「うん。じゃあそうしよう。今度の日曜日、邪神の見守り係についての返事をもらう。時間は……お昼の二時でどうかな?」
「異存ないです」
「じゃあ決定。もしも期限より早く答えが決まったなら、そのときは手間をかけるけど私のとこまで出向いてきてくれる?」
「タマさんの神社ですね?」
「そうです! よろしくお願いね」
互いに頭を下げる。タマの礼は長く、そして深かった。
「他に何か気になることはある?」
タマにそう訊かれて、祐介は一瞬言いよどむ。けれど言う。
「…………瑞波さんは……」
話の途中から気になっていた。
「……今、安合市では何かが起こってるんですよね」
「そうだね。確実に何かが起こっている」
「瑞波さんの様子がおかしかったのも、そのせいですか」
「あるいはそうかもしれない。でもそれ以上のことは分からないんだ」
タマが時計に顔を向ける。
「ごめんね、これ以上はお互い時間的に厳しいかな。そろそろおいとまさせてもらうね。今日はほんとにありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
祐介もまた深々と礼をする。
「これから長く濃密なお付き合いになるかもしれない。今後ともよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
「それじゃあ急がなきゃいけないから、ご挨拶もできなくて申し訳ないけど……お母さんによろしく言っておいてくれるかな」
そう言い残すと、タマはぱちんと手を打ち合わせた。風が立つ。茶碗に注がれた茶の液面が揺れる。ふと気づくとタマのいた場所には数粒の穀物が散らばっていた。
放心。
ちょうど母親が入ってきて、祐介は我に返る。母親は和室で空鞠の様子を見ていたらしい。
「終わった〜? びっくりしたよね。あれ? これは?」
「タマさんが置いてった……」
「へ〜。すごい縁起良さそう。飾ろっか」
「うん……」
しばらくぼーっとしていた。
本当に今日が登校日だとは信じられなかった。
◇
金曜日。自習二日目。専用のプリントの数々。それらを淡々とあるいはぼんやりとこなし、学校から帰ってきて、玄関のドアを開けて、祐介の足が止まった。
「あ! お帰りっ」
空鞠がいた。さながら帰ってくるのをずっと待っていたかのように玄関先で体育座りしていた。祐介が扉を開けるとまるで物音に敏感なウサギみたいに顔を上げ、にこやかに顔を綻ばせた。
「た……だいま」
「えへ、へ、お帰り」
「待ってたのか? ずっとここで」
「もうすぐ帰ってくる時間だからって、お母様が」
「というか起きたんだな」
「起きたよ! ぐっすり寝て起きてじっくりストレッチもした」
そこまで話してようやく玄関の戸を締め切った。玄関に上がって自室に直行、の前に祐介は手を洗う。うがいもする。神様たちからの教えだった。
鞄を下ろして洗面所に向かうと、背後についてくる人影がある。空鞠だ。妙だと思いこそしたがそれ以上ではない。特に背後を振り返ることもなく手を洗ってうがいをした。その間も空鞠は後ろでニコニコこちらのことを伺っている。
用を済ませて洗面所を出る。自室へと階段を登ると空鞠もついてくる。部屋の扉を開きかけて、背後で空鞠がスタンバイ状態なのに気付いて声を上げた。
「え? 部屋の中まで来るの?」
「あれ? ダメだった?」
「いや……ちょっと……着替えるから」
「あっ、そっか! ごめんね」
すると空鞠は大人しく身を引く。ようやく一人の時間が訪れる。
するとようやく落ち着いてくる。空鞠の存在が意識されてくる。帰宅して一番に家族ではない見た目は同年代の女の子に出迎えられるなんて初めての体験だった。それもこの上なく幸福な体験だった。こんなことが明日以降も続くならすさまじい幸福だと思った。一日家を空けてから帰宅すると、自分の帰りを待っていた子が玄関で出迎えてくれる。家を空けている間も自分の帰りを今か今かと待ちわびている人がいる。それは望外の喜びだった。
空鞠が自分の後ろをぴょこぴょこついてくるのも可愛い。自分によく懐いてくれているのがよく分かる。祐介は大変快かった。
制服から私服に着替える。制服をハンガーにかけて、廊下で待っているだろう空鞠に声をかけるべくドアを開けた。
「お゛うっ」
すると空鞠がすっと横に避けるところだった。何事かと思っていたら空鞠が釈明する。
「ドアの前で待ってたらね、いきなり開いたから……おでこぶつけるとこだった」
「ああ……ごめんな。危なかったな」
「ううん。よく考えれば当たり前だったね、失敗だ」
空鞠は照れくさそうに言う。
「それで……何か用か?」
「へっ?」
空鞠がきょとんとした顔をするのでこちらまでまごつく。丸く見開かれた目がぱっちりとしていて愛らしい。今日はふとした仕草や表情に目が行ってしまう――そういえば落ち着いた状態で空鞠と相対するのはこれが初めてだった。
「いや、ずっと俺の後ろついてきてたから、何か用でもあるのかと思って」
「用事か〜。えっとねぇ」
特になさそうだった。
「ないねぇ」
実際なかった。
いくら神様とはいえ、特に用もなく訪れてきた女の子を部屋に上げることについて祐介は考える。
「…………あ、あれ? もしかしてわたし、とびきり変だったりする……?」
「や。そんなことないと思うがなあ」
「そう? わたし全然人間のこととか、世界のこととかまだよく分かんなくて……ずっと社の中から見てるだけだったから」
「じゃあ実質生まれたてなんだな。ちょっと予備知識があるだけでさ」
「わたしのこと、赤ちゃんだと思って大切にしてほしい。です!」
「七つまでは神のうちだよ」
身長差。至近距離。空鞠はこちらの顔を見上げながら始終ニコニコ喋る。なんだか胸がまったりするような心地良い気分になってきて、何かに似ているなと思ったらぴんと来るものがある。
ひよこだ。
幼い頃、動物園のひよこを撫でるコーナーが好きだったのを思い出す。ふかふかのひよこを撫でたり手のひらに乗せて持ち上げたり、ちょっとだけツンツンしているくちばしや足の爪につつかれるのが好きだったのを思い出す。
今の空鞠はたぶんひよこだった。だから家に帰って以来ずっと自分の後ろにくっついていたのだ。ひよこは初めて卵の殻を破ったとき、最初に見たものを親と認識してその後ろをついて歩くようになるものだ。
「空鞠」
「なーに?」
「ひよこって可愛いよな」
「ひよこ? ひよこはねぇ……可愛いねえ?」
「うむ……」
腕を組み、深くうなずく。ひよこは本当に意味もなく理由もなくただただ可愛いもんだな、と祐介は思った。そしてひよこは特に用もなく親の後をついて回るものなのだ。自分が親の立場ならばそんないたいけなひよこを無下にすることはできない。目を開けるとすぐ近くに空鞠がいて、わずかに顎を上向けていて、ほんのり上目遣いにこちらを見ている。
無下にすることはできなかった。
「……部屋、入るか?」
「うん! いっぱい話そう」
うきうきぴょこぴょこする空鞠を尻目に、祐介は一度室内を振り返る。特にやましいことはないしあったとしても既に手遅れだ。しかしそれでも祐介は部屋を振り返る。それは一種の性(サガ)であり、ひよこが親の後を理由(わけ)もなくついていくのと似ている。
「それじゃあ、えーっと……いらっしゃい」
「おじゃまします!」
「んーっと……ごゆるり…………?」
人を部屋に上げるときの挨拶を祐介はよく知らない。
部屋の真ん中にローテーブルがひとつ。しかし机を挟んで座りはせず、テーブルの脇に座って二人は対面していた。直近で他にも似たようなことがあったと思ったらタマの来訪時だった。なぜ机を挟んで座らないのかは分からない。いつも気づいたらこんな態勢になっている。
祐介はあぐらに腕組みして難しい顔をしていた。部屋に(フーコ以外の)女の子を上げることには慣れていない。それどころか空鞠とは出会って何日と経っていない。そんな相手と自室に二人きりでいて、どういう風に振る舞えばいいのか祐介は分からない。
しばらく床を眺めていた。自分と空鞠の間の白いカーペットに目を落としていた。ちらりと視線を上向けると空鞠の膝頭に、そして見事なまでにむっちりとした太ももが目に入り、またすぐ視線をカーペットに戻す。気色の悪い仕草だと自覚しているがどうにもならない。いつも神さま相手なら話しやすいのに、空鞠相手だと何かが違った。
「ねえねえ」空鞠。少し不思議そうに。「こっち見ないの?」
そう言われても困る。だが空鞠の言うとおり、相手の顔を見ないことには始まらない。ふうっと息をついて、顔を上げた。
そこには空鞠がいる。
「うぇへ」空鞠が口元を緩める。目を細める。「顔が見れて嬉しいねえ」
なんだろう、と祐介は思う。これは一体なんなんだろう?
空鞠は床にぺたんと座り、笑みを浮かべてこちらを眺めていた。満足の真っ只中という感じだった。その視線に囚われてしまい、今度は空鞠から目が離せなくなる。じっと空鞠と見つめ合う。空鞠は金色の目をぱっちりと開けたまま、こちらのことを興味津々そうに見ている。俺は今負けているな、と身動きできないまま祐介は思う。
「いっぱい話そうって言ったけど……」
「……うん」
「このままでもなんか、……楽しいね?」
ここは俺の部屋だぞ、と祐介は胸中で叫ぶ。なぜ自室でこれほどまでに手玉に取られねばならないのだ? ホストは自分であり、空鞠はゲストである。そもそも必要以上に恥じらったり照れたりする必要はないのだ。
「何か話そう」祐介は首を振る。「話したいんだ。なんでもいいからとにかく、空鞠と」
分かった、と空鞠はうなずく。
「――そうだ、わたし言わなきゃいけないことがあった。川の神さまと戦った後さ、わたし寝ちゃったでしょ?」
「寝てたな」というかほとんど気絶していた。
「それでわたし、起きたらこのお家にいたんだけどさ、あれって祐介くんが運んでくれたってことだよね? ありがとう。大変だったよね」
「いやあ、まあ……大したことはしてないよ」
「でも人一人運ぶのと一緒だもん。やっぱり苦労したよね、ほんとにありがとう。助かったよ」
胸の内がわだかまる。空鞠を運んだのは自分一人の力ではなく、フーコの助けも大いに借りてのことだ。しかしそれは内緒にするようフーコからそれとなく言われている。なので今ここで「あれは俺一人の力じゃなくて」などと言うわけにはいかない。歯がゆい。ほのかに後ろめたい。
それに、言わねばならないことなら祐介にだってあった。
「俺のほうこそ。空鞠にはたぶん、命を助けられた。あのままだったら瑞波さんも俺もどうなってたか分からない。空鞠に救われたんだ。ありがとう」
「わたしを起こしたのは祐介くんだよ」
「夢中だったんだ」
改めて空鞠の姿を真正面から眺める。やはり目が引かれるのは胸に刺さった和釘だ。見た目には衣服を貫通して胴体に深々と刺さっている。本来なら胴を貫いて背中に抜けていそうなものだが、背中には何の異状もなかったはずだ。やはり特殊な状態なのだろう。
タマの話を思い出す。この釘が文字通り血塗られた釘だとは信じられない。――そんな釘で封じられたという邪神のことも。
(……信じられないな)
釘に向かって腕を伸ばした。すると空鞠がきゅっと身を固くしたので、慌てて祐介も手を引っ込める。
「ごめん。びっくりさせちゃったか」
「あっ、ううん! 全然……でもちょっと、うん……」
「ちゃんと言えばよかったな。その釘触ってみていいかって」
「あっ、あーそっか! だよね、いきなり胸に向かって手が伸びてきたからさ、ちょっとあの、びっくりしちゃった」
なるほど、と祐介は思う。自分の動作は空鞠からはそう見えたのか。
「…………すみません……」
「わっ全然! 大丈夫、大丈夫です!」
手をついて深く反省する。どことなく気恥ずかしい雰囲気の中、改めて祐介は空鞠に訊ねる。
「胸の釘、触ってもいいか?」
「どうぞ」
くっ、と空鞠が胸を張る。胸元のはっきりとした盛り上がりよりわずかに上方、デコルテに突き立てられた金色の釘へ、慎重に丁寧に手を触れた。
光を固めて作られたような釘。一見つるりとした表面は硬く、思いのほかざらざらしている。
「触られてるって分かるのか?」
「ううん。感覚はない」
「釘が刺さってると苦しいとか痛いとかは?」
「ないよ! 平気」
「抜いてみていいか?」
「ん!」
釘を握る。きちんと力を込めて、引き抜くつもりでやらなければ引き抜けない。そのぐらいには釘を引っこ抜くときの抵抗が強い。密度高く湿った感触が釘越しに伝わってきて、生々しい。
恐る恐る釘を引き抜いた。にちゃり、と音を立てて釘の先端が露わになる。高温に熱された鉄のような赤色を放つ釘の先だ。初めて釘を抜いたときには得体の知れない赤黒い液体が尾を引いていたが、今回はそんなこともなかった。あれは封印されている間に溜まったものが外に出てきたのかもしれない。
「ふふ」
笑みが聞こえる。顔を上げる。
「釘が刺さってても、苦しいとかはないけどさ」
その変貌にはすぐに気づく。
「いざ引っこ抜かれると、ちょっと――清々しい気分かも」
空鞠の髪が伸びていた。後ろでちょこんと結ばれていた髪が解けている。しかしもちろんそれだけではなく、髪を解いたところで精々肩までの長さのはずの空鞠の髪が、今や床に垂れ下がるまでに伸びている。伸び続け、広がり続けている。しかもただの頭髪ではない。それは触手だ。無数の髪の束がタコやイカの触手のようにうねり、鎌首をもたげ、互いに絡み合っている。細やかな髪の毛の隙間から満月のような眼が覗く。おろし金のような歯に縁取られた円形の口が開く。触手の肉がくぱっと裂けて新たな触手が顔を出す。ぶくぶくと泡のような肉の粒が更に裂け目から溢れ、ぐにぐにと変形して歪な鉤爪を形作る。止まらない。人としての神としての少女としての肉体はそのままに空鞠の存在がどんどん膨れ上がって山のように大きく広大になっていく。部屋の中に黒い海が渦を巻いて星の夜になっていくのだ。祐介は少しずつ身体を空鞠の身体の一部に包み込まれながら、墨のように真っ黒な頭髪とそこから分岐して生まれた異形の器官の放つきらめきを目の当たりにしていたが、いつしか彼は、あたかも眼前に坐した神から伸びる触手の表面から分泌される、黒緑色の粘液が凝り固まったかのような暗黒にして無窮の深淵と邂逅を果たしつつあるのを予感しながらも、ある悍しい響きがしきりに自らの耳朶を震わせているのに気付いたのである。さながら地球上のいかなる動物にも相似していない異形の形態を有する名状しがたい畸形の生物が、いかに現代の最新鋭の生物学的見地をもってしても推定不能であろう特有の器官でもって、無理に人間の発声を模倣しているかのような不快極まる囁き声が、祐介の耳の内側に執拗に纏わりつき始めていたのである――
「んっ」
空鞠が声を漏らす。気づくと祐介の腕は、空鞠の胸に釘を差し込んでいた。
腕には触手が巻きついていた。
我に返る。空鞠の触手が腕を引いている。その力の流れに誘われるがまま、みっちりとした肉の感触に深々と釘を突き立てる。
ぐっ、と収まるべきところに達した感触があり、祐介は釘から手を離す。すると空鞠から伸びていた数多の触手がするすると身を引き始めた。次々と触手が縮み、あるいは空中へとぷわぷわ溶け出してシャボン玉のようになり、それもまた宙で弾けて霧散していく。
ものの十秒と経たず、祐介はつい先程までと同じく、見知った姿の空鞠と相対して座っていた。
うたた寝の夢を見ていたようでぼんやりする。
「――本当はもっとちゃんとできるの」
「……ちゃんとって言うのは……?」
「抑えられる。害がないようにセーブできる。でもわたし、もう一個話さなくちゃいけないことがあって」
空鞠が胸に手のひらを当てる。
親指と人差指の隙間に、封印の釘を挟み込んで。
「わたしはかつて邪神でした。この地を襲って、暴れ回って、たくさんの人や神様の気を狂わせて、そうしてこの釘で封印されました。――今祐介くんが経験したのは、そんなわたしの力のごく浅い部分、表層にも満たないような、ごくごく一部に過ぎません」
邪神。祐介の頭の中でその言葉が反響する。ざわざわ、と身体を巡る血が震えた。
「空鞠」
「うん」
「君は昔、この市(まち)を襲った邪神なのか」
「はい」
空鞠はうなずく。
「わたしはこの星の神ではなく、よって人に願われた神でもありません。ゆえにわたしは邪神でした。人の認識の外にあり、人間の関知し得ない領域の神でした」
一際強く日が差した。
室内へと差し込む西日が後光のように空鞠を照らし、少女の姿を逆光の影へと沈めた。
◆
風呂上がり。麦茶を飲みにリビングへ向かうと、母親が食卓に夕食を配しているところだった。
「ちょうどよかった。ごはん食べるよ、空鞠ちゃんも呼んできて」
「空鞠……」
「和室にいるよ」
脳が一瞬ロードを挟む。しかしすぐに「分かった」とうなずいた。
コップをゆすいで和室へ向かう。襖の引き手に手をかけたところで、今の和室は事実上空鞠の部屋なのだと気づく。危ないところだった。もう少しでノックもせずに開けるところだった。
事実上、空鞠の部屋。
にわかに緊張してきた。
「空鞠?」
「……へっあっ、はいっ?」
外から呼びかけると慌てたような返事がある。やはりいきなり開けるような真似をしないでよかった。
「ごはん食べるって。リビング来てくれ」
「ごはん……?」
「そうだよ。一緒に」
どたどた、と足音がして襖が開く。戸の隙間から空鞠の顔が覗いた。
「ごはんって……」
「夕飯だよ」
「いいの? だってわたし……」
「母さんがいいって言ってるからいいんだ、多分。ほら、おいで」
大きな目がぱちくりする。やがて空鞠は身を強張らせがら廊下に出てきて、リビングまで祐介の背中にくっついて歩いた。
「空鞠ちゃんどこ座る? どこでもいいよ」
「ほんとにいいんですか? わたし、ただでさえお家に置いてもらってる身で」
「祐介のこと助けてくれたんでしょ? 詳しいことは知らないけど」
母親が目線を向けてくる。それを受け取って祐介は、今度は空鞠に目を向けてうなずいた。
「ほーら神様なんでしょ? お供え物を受け取るのも仕事のうちじゃない?」
「あっあ、ありがとうございます!」
「遠慮しないでゆっくりして。これはお礼も兼ねてるの」
空鞠が深々と礼をする。再び顔を上げるまで待ち、祐介は空鞠の背中をぽんと叩いた。
空鞠はよく食べた。
今までに祐介が見た誰よりもよくごはんを食べた。
「美味しいですこれ。美味しい……」
「やば。作った甲斐がある〜」
空鞠の隣で食事を口に運びながら祐介は思う。これは何百年もの空腹感が開放された結果なのか? それとも空鞠は元々これほど食べる神様なのか?
答えは出ない。祐介は隣の空鞠の異様に量の多い一口を眺めるばかりだ。
夜。この日の祐介は帰宅してからほとんど机の前で過ごしていた。特に何をするでもなく、ただ色々なことを考えていた。空鞠のこと。タマから依頼された見守り役についての返事。そして再会した瑞波のこと。
考えても仕方のないことがある。しかし考えずにはいられないこともある。
(……こんなことしててもしょうがないよな)
祐介は立ち上がる。それから部屋を出て一階和室へと向かう。
空鞠の部屋だ。
とんとん、と襖を叩く。中から空鞠の返事がしたので戸を開き、そしてまた閉めた。
「あっちょっと! 違うのこれは! 助けて!」
……中で空鞠が着替えていた。ように見えた。
「まだ着替えてんじゃん……」
「お願いこっち来て! でもあんま見ちゃダメ!」
(難しいな……)
しかし仕方がない。意を決して戸を開き、部屋に踏み入る。
そこにはパジャマ姿の空鞠がいる。家の戸棚の奥に眠っていたものなのか、少々古めかしいデザインではあるが空鞠にはよく似合っている。問題はパジャマの裾が胸元の釘に引っかかり、上半身の大部分が丸見えになっていることだ。
「あのですねわたし、服を着替えるにはちょっと不便な体質らしくて」
「そうみたいだな……」
「この釘、抜いてくれる……?」
母さんじゃダメなのか、と訊ねようとして口元で押さえた。――実のところ、空鞠の釘を抜くことが人間にとって何の害もないことなのかは分からない。今の祐介には何の影響も見られないが、それは自分が気づいていないだけかもしれないし、長期的に見れば何らかの影響が認められるかもしれない。そんなことを他の誰かに頼むのは気が引けた。
やるなら自分がいい。
「あんま見ないようにするから」
畳に目を落としながら接近する。空鞠の傍に腰を下ろし、顔を背けながら手を差し出すと硬い物が手のひらに触れる。握りしめて引き抜く。それは確かに釘だった。続いて視界の外側から衣擦れの音がした。
「おっけー! 手を離して……あ」
「え?」
空鞠は何かを言おうとしたらしいが、既に祐介は手を離してしまっていた。釘はあるべき場所にひとりでに戻る。ぐしゅ、と空鞠の身体に突き刺さる音がした。
「……あー」
こういうとき、釘は衣服に対してどのような挙動を取るのか? いつもなら釘は装束を貫通して空鞠の身体に突き刺さり、それでいて服に穴が空くようなことはない。神さまの普段着は実質的に神さまの一部だから、このような特殊な挙動もうなずける。しかし空鞠が人間の衣服を着ているときはどうなのだろう?
空鞠のほうを振り向く。すると釘はパジャマを貫通して空鞠に刺さっていた。
「……もっかい抜いてみてくれる?」
言われた通りにする。パジャマには傷ひとつなかった。
「よかったあ。穴が空いたらどうしようかと」
「不思議な釘だな」
ほっと息をつく。そして改めて空鞠の姿を目にする。
風呂上がりの空鞠。傍にいるだけでその身体がぽかぽかしているのが伝わってくる。頬はほんのりと紅く色づき、シャンプーの爽やかな香りを辺りに振りまいていた。パジャマ姿の女の子っていいもんだなあ、と祐介は噛みしめる。
「寝巻きだね、祐介くん」
「そうだな」
「いいねえ」
何となく祐介には分かってきていた。――空鞠はあまり深く考えずにノリだけで発言するときがある。
「それで……何か用事?」
「ん?」
「わたしの部屋に――や、わたしの部屋じゃないんだけど。わたしのとこに来たってことは、何か用があるのかなって」
「そう……だな」
「…………あ、なくてもいんだよ? それならなんか話そうよ、ね」
若干の緊張があった。が、事実上の空鞠の部屋を訪れてまで尻込みしているわけにもいかない。
「話したくてここに来たんだ。夕方の話の続き」
「ああ、うん、うん」
空鞠が姿勢を正す。それにつられて祐介も居住まいを正した。が、すぐに崩した。それより今から自分が言うこと、空鞠が答えることに意識を傾けたかった。
「今日、空鞠は自分が邪神だったってこと、教えてくれた」
空鞠はわずかに視線を落とす。その内心には複雑な思いがあるのだろう。
だからこそ言うべきことが祐介にはある。
「まずはそのこと。わざわざ伝えてくれてありがとう。正直言いにくかったんじゃないかと」
つ、と目が合った。
空鞠の瞳に、祐介はほのかな驚きの色を見る。
「空鞠にとっては言い出しにくいことだったかもしれないけど、でもやっぱりすごく大切なことだよな、ってあれから考えて思った。……話してくれてありがとう。そのことがすごく嬉しい」
空鞠の口がぱくぱく動く。胸の高さに持ち上げられた両手がひらひら動く。しかし声は出ない。何か言おうとして、上手く形にできないみたいだ。
「それで」と祐介は続ける。「だから、もっと空鞠のことを教えてほしくて訊くんだけどさ」
「……うん」
「そんな恐ろしい邪神が、どうしてみんなを助けたい、みんなの役に立ちたいだなんて思うようになったんだ?」
祐介は覚えている。
『わたし、ちゃんと役に立てた?』
そう訊ねて、返ってきた答えに満足した様子で、『いぇいっ』とピースサインを掲げた空鞠の姿を。
「――えっとね」
空鞠は口を閉ざし、目を伏せた。返答を考えている。祐介はじっと待つ。
「無理しないで、まとまったらでいいから。ゆっくりでいいから」
それだけ伝える。こくん、と空鞠がうなずいた。
長い時間が経った。
「あの……ね」
「うん」
「封印されてる間、いつからかは分かんないけど、外の景色がちょっとだけ見えるようになったときがあったの。わたしの社の正面だけ……」
「小さい窓から覗くみたいに?」
「そんな感じ。それでわたし、長い時間を暗闇の中で過ごしてて……段々自分がやったことの意味が分かるようになってきて……だけどみんな、こんな邪悪な神のこと、お参りしてお祀りして、願いごとを捧げてくれた。わたしのこと、神として扱ってくれた……」
弱々しくたどたどしい語調だ。それでも空鞠は話そうとしてくれる。祐介はじっと受け止める。
「だからわたし、そんなみんなのために何かしたいって思った。わたしもみんなの仲間になりたいって、思った……」
「……分かった。ありがとう」
空鞠が話してくれたことを踏まえ、祐介は考える。空鞠の話からは思い当たる節があった。この国では古来から似たようなケースが見られる。九州の大宰府を始め各地に祀られる学問の神様が有名だろう。
『生前の無念から化けて出た怨霊や、かつて人々に害をなして退治された怪物を、神としてお祀りすることで祟りを鎮める。丁重にお祀りすることで、民衆にご利益を授けてくれるありがたい神様へと祭り上げる』
それは決して珍しいことではない。空鞠もきっと同じケースだったのだ。そして空鞠もまた、この営為の流れに沿って、かつての異形の邪神から『安合市の神さま』として生まれ変わったのだろう。
それはきっと遠い道のりだった。悠久の時間を要したはずだ。たとえば洞窟の天井から滴る雫が、途方もない時間をかけてつららの形を象るように。
そのようにして今目の前にいる女の子は生まれたのだ。
にこにこ笑って用もなく後ろにくっついて歩いて、今は不安そうにこちらの顔を伺う少女が。
「空鞠」と彼女の名前を呼ぶ。
「はい……?」
「俺、明日学校休みなんだ」
「……ずっと一緒にいられる?」
「俺と出かけてくれるか?」
「一緒に?」
「一緒に」
こくん、と空鞠がうなずいた。祐介は礼を言い、空鞠の手を取った。
「今日はありがとう。頑張ってくれてありがとうな」
祐介が口にするのはかつて自分が言われて嬉しかった言葉だ。空鞠は何かに気づいたみたいに目を見開いて、口を小さく開けながら祐介の顔を見つめた。
その金色の瞳がきらりと潤んだ。一瞬だけ潤んですぐ元通りになった。さながら星の瞬きだった。
「じゃあ俺、部屋に戻るな」
「うん……うん」
立ち上がる。背を向けようとしたところで「待って」と呼び止められる。振り返ると床に座った空鞠がこちらを見上げていた。
「どうした?」
「また来て……くれる?」
「空鞠こそ」
「……うん。…………うん。おやすみ」
「もう寝るのか?」
「もうちょっと起きてるけど。でも夜だから」
「そうか。おやすみ」
「おやすみ!」
笑って手を振る空鞠に背を向ける。襖を開いて廊下に出て、閉めるときにまた振り向く。空鞠はやはりひらひらと手を振ってくれた。祐介も胸の高さに手を上げて答える。それからゆっくり戸を閉めた。
おやすみ。
ただの言葉をこれほどまで愛しく思ったことは、これが初めてかもしれなかった。
◇
昼前、空鞠と一緒に外を出歩く。天気は快晴。風も日差しも心地よくて絶好のお出かけ日和だった。
「……こうやって外に出るの、初めて」
「昨日は何してたんだ? ずっと家にいたのか」
「ずーっと眠ってて、起きたらお昼過ぎてて。軽く身体動かして……お母様に新聞とかテレビとか見せてもらって。あとは身体を動かして、祐介くんが帰るの待ってた」
「身体を動かしてたんだな」
「今のうちにね」
「外に出れて楽しいか?」
「楽しいし嬉しいよ。でも不安。……わたしがこんなことしてていいのかなって思っちゃう」
そう言って空鞠は目の前の地面に視線を落とした。
「……復興したね。この市(まち)も」
邪神。かつてこの地を荒らしたもの。
「今の空鞠は今の空鞠だよ」
「そうだといいな……」
どこか心細そうな空鞠とともに、祐介は目的地へ歩いていく。
祐介はバスについて明るくない。
一時間に一本。いまいち乗り方が分からない。分からないなりにあらかじめスマホで調べてきたが、調べた通りに事が進むか分からない。そういえば財布に小銭があるか怪しかった。車内での両替は大変なのでやりたくない。手持ちを確かめようとしていたら、それらしいバスが車道の向こうから曲がってくる。
乗らざるを得ない。
既に結構な大冒険だった。
「の、乗り物、乗るの……?」
「俺の真似して。落ち着いてな」
バスが停まり扉が開く。整理券を引き出しながらステップを登り、空鞠が無事乗り込むのを見届ける。幸い二人がけの席が空いていた。
「俺についてきて」
扉の閉まる音を聞きながら席に向かう。乗客の目が少なからず空鞠に向けられるのを祐介は察する。無理もない。車内に神様が、それも釘が胸に刺さったのが乗り込んできたのだ。目立つことこの上ない。
「座って」
ついてきた空鞠にささやく。空鞠は窓際に腰掛け、祐介もその隣に座る。
肩と肩が触れる距離だ。
バスが動き出す。空鞠はぴんと身を強張らせたままだ。
「そんな緊張しなくて大丈夫」
「それは……分かる気がするけど……」
「しばらく乗ってるんだ。降りるときは俺が教えるから」
「うん……ありがと」
それから二人は他の乗客と同じく口をつぐんだ。空鞠は窓の外の景色を見ていた。
すぐ隣から緊張が伝わってくる。……空鞠が緊張しないで外を出歩けるようになる。それが今後の目標かもしれない、と祐介は思った。
しばらくのバスの旅路を経て、二人は長い石段の前に立っていた。
「着いたよ」
「ここ……ここって」
「神社。たぶんこの辺りだと一番大きいんじゃないかな」
――タマの神社だ。
「さ、登ってこうか」
「待って……」
振り返ると空鞠が不安そうに身を縮めている。
「大丈夫だよ。身体、動かしてたんだろ?」
「そうじゃなくて……どうしてここに来たの? 何のために……?」
「ここの神様と話したいんだ。空鞠と一緒に」
「……それが必要なことなんだね?」
「とても大事なことだよ」
「……分かった」
空鞠が神社の敷地内に一歩踏み込む。しかしすぐに身体をびくりと震わせた。
「どうした? 大丈夫か……?」
「……なんだろう。なんだろ……」
顔から血の気が引いていく。
「怖い。…………寒い……」
「寒い?」思わず問い返す。「……具合悪いか? ……ごめん、無理させちゃったか」
「違うの。違うと思う……でもここにいるの、わたし、怖い……たぶんわたし、ここにいちゃいけない……」
空鞠にしか分からない何かがあるのかもしれない。祐介は悩む。せっかくここまで来たのはあるが、空鞠がこの様子でいるなら無理強いするわけにはいかない。別に期限は明日なのだ。
――ごめんな。今日はもう帰ろうか。
そう言いかけて、直前で口をつぐんだ。
代わりの言葉を声にした。
「空鞠はどうしたい? この先に行きたい? それともやめておこうか」
空鞠はうつむいたままだ。なので訊き方を変えてみる。
「空鞠、今どんな気持ちか教えてくれるか?」
「……怖い。すごく怖い……」
「怖いか。怖いだけか? 他にはないか」
「…………怖いけど……でも行きたい。誰かと話がしてみたい……でも怖い……」
「俺がいるよ。一緒にいる。タマさんと空鞠のことで話し合うって約束もしてある。それならどうだ? まだ怖いって気持ちのほうが強いか?」
「それなら行ける……かも」
「分かった。じゃあ途中で戻ってもいいから、一緒に行こうか」
「くっついちゃってもいい……?」
「いいよ。でも階段だと危ないからそこだけ気をつけていこう。ゆっくり進むか」
「うん……」
不安そうにうなずき、空鞠は祐介の服の袖をきゅっとつまんだ。二人は神社の敷地内へと足を踏み入れる。
祐介にも空鞠と似たような経験はあった。初めて行く場所が怖くてたまらない。一人で何かするのが怖い。その性質は修学旅行を欠席した一因であるほどには一貫している。だからこそ自分が一人ではなくて、誰かが一緒にいてくれるという状況に安心する。
空鞠が袖を引いている。ぎこちなくも一歩ずつ石段を登っている。
かつては瑞波さんもこんな気持ちだったんだろうか、と祐介は一人思う。
「…………」
石段を登りきってその場にしゃがみこんだ。息は切れているし太ももは張り詰めている。一言で言って過酷な道のりだった。
「大丈夫? 祐介くん……」
傍らで空鞠が膝に手をついて屈んだ。その顔も見れないままじっとうなだれている。
「空鞠は……疲れなかったか?」
「全然平気」
「そうか……神さまってすごいな……」
「起きてからずっと身体動かしてるし」
「俺も身体動かさないとダメかな……」
地べたに尻がくっつきそうなところを気合で立ち上がる。振り返ると長い長い石段が延々と続いている。真正面へ向き直れば砂利が敷かれた中に石畳の道が伸びていて、遠くの本殿まで一直線に続いている。
目的地は目の先にある。
「行こう。タマさんのところに」
互いにうなずき合って歩きだす。石畳の足音がこつこつと静けさの中に響く。
「タマさんって、安合市で一番偉い神さまなんだよね?」
「たぶんな。緊張するか?」
「緊張するし……ちょっと怖い。祐介くんは?」
「今はそんなに緊張してない。でも実際会うとどうなるか分かんないな。フレンドリーで優しいってのは分かるけど、やっぱり放つオーラが違うんだよな」
「神さまのオーラ?」
「タマさんのオーラかもしんない。話してて神さまだってのを忘れるような神さまもいるから、これはいい意味でな」
「わたしもオーラある?」
「普段はないかな。普通に女の子って感じ。でも釘を抜いたときの空鞠はすごいな」
「すごい?」
「すごいよ。空鞠はいいとこ取りだな」
「そう……かな」
空鞠がはにかむ。これで緊張がほぐれてくれればいいと祐介は思う。
本殿が近づいてくる。途中、二人で手水鉢に向かって手を清めた。こういうとき神である空鞠も清めるべきなのかと思ったが、丁重に事を運ぶに越したことはない。
二人で本殿に向かい合う。隣の空鞠へと目を向ける。
「タマさんのこと、呼ぶよ。準備はいいか?」
空鞠はうなずく。その目がまっすぐこちらを見ていた。
本殿に向かってタマの名を呼ぶ。ここまで来てはみたものの、この時間にここにいるかは分からなかった。しかしそれはそれでよかった。いないのなら鈴を鳴らして手を合わせて自分の回答を報告するつもりだった。
返事はない。留守のようだ。
「いないみたいだ。拝んでから帰ろうか」
言いつつ空鞠へ身体を向けたとき、不意に強い風が巻き起こった。
とっさに腕で顔を覆う。風が止み、何事かと顔を目を開いてみると、顔の高さに帯の結び目があった。
「こーんこんこん、こんにちはあ」両手に狐の形を作り、身体を左右に揺すってみせる。「会えて嬉しい来てくれて嬉しい、ここの神社に住んでるタマです」
「すみません、忙しいところ急にお邪魔したりして」
「ぜーんぜん! というかなんか、堅苦しいよぉ。堅苦しいよ〜って言うのは私のワガママなんだけど、もうちょっと緩くてもいんだよ?」
「それがどうにも難しくて」
「むうぅ」
残念そうな声を上げる。一方空鞠に目を向けると、仕切りに目をぱちくりさせていた。
「今日はタマさんにご紹介したい人がいまして」
そう言って空鞠の背中に触れる。
「名前、教えてくれるか?」
「あっ、はい! わたし空鞠って言います! つい先日目覚めたばっかりで……えっと。えっと……よっ、よろしくお願いします!」
「タマです。ご覧の通り狐の神さまで、豊穣を司っている者です。ここら辺の神さまたちのお姉さんお母さんみたいになれたらいいなー、って思ってやってます。どうぞよろしくお願いします」
お互いぺこりとおじぎした後、タマの狐面の顔が祐介を見下ろした。
「――それじゃ祐介くん、期日よりちょっと早いけれど、お返事聞かせてくれるってことかな?」
「はい。俺は――」
「あ〜待って」
タマが制止する。それから祐介たちの背後を手で示す。
「せっかくだし、中でお話しよう。お茶出すよ、お菓子も出すよ! というか出させてほしいんだな~」
(……前のチュロスみたいにかな)
きゅっ、と空鞠が祐介の袖をつまんだ。
本殿の中に入る。初めてのことだった。通された部屋は畳敷きのこじんまりとした和室で、タマと祐介と空鞠の三人で即満室になってしまった。畳特有の匂いが生き生きと部屋を満たしていて、暖かな日差しが障子紙を透けて差し込んでくる。神さまの居住スペースということなのか、心安らぐ居心地のいい部屋だった。
空鞠と並んで正座して、タマと向かい合う。二人して正座したタマの顔を見上げていた。
「とりあえずこれ、つまらないものですが」
タマが胸の谷間をまさぐり、奥から何やら棒状のものを取り出す。
「どうぞこれ、チュロスです」
「ちゅろす……?」
「空鞠はチュロスって知ってるか?」
「初めて見た……胸の谷間から出てくる食べもの?」
「胸の谷間から出てくるチュロスはこのチュロスだけ」
「じゃあなんでこれ胸の谷間から出てきたの……?」
「豊穣の神なので」
ありがたく受け取る。チュロスは包装の中でまだほかほかしていた。揚げたてだった。脇に目をやると、空鞠がじっと手元のチュロスに目を落としていた。
「食べたい? 遠慮しないでね」
「いいんですか? ……ダメじゃないですか?」
「私は豊穣の神さまなんだよ? 出したものを美味しく食べてくれたらすっごく嬉しいよ」
「食べます」
(食べるのか)
包装が剥かれる。空鞠がかじりつくとざくりと音を立てた。きっと今空鞠の口にはざっくりもちもちとしたチュロスの食感が踊っている。バターの香ばしさと麦の風味、そしてミルクと砂糖の絡み合う素朴な甘みが舌に広がっている。
「ん!」
空鞠の目が輝く。タマを見上げて祐介に顔を向けて、またタマを見上げて祐介に顔を向けた。
「これ美味しい! チュロス好き。タマさんのチュロス好きです」
「おほほ~」タマが聞いたことのない笑い方をする。「これクセになる。クセになるね祐介くんね」
「クセになります」
「これクセになります、チュロス」
しばらく二人で空鞠の食事を見守っていた。「夢中じゃん。夢中だよ祐介くん」
「実際このチュロスめちゃくちゃ美味いので……」
食べきる。手元に残る包みを丁寧に折り畳んで、空鞠はタマの顔を見上げる。
「ごちそうさまでした……あの……ほんとにごめんなさい、もっとちゃんとしなきゃいけないとは思うんですが」
「いいのにねえ!」
タマが手をひらひらさせる。それから祐介のほうを見る。
身に着けている狐面のおかげでタマの表情は伺えない。しかし声音は和やかだ。
「祐介くん」とタマが呼ぶ。「そろそろ本題に入ろうか。キミの返事を聞かせてくれるんだよね?」
「引き受けさせてください」
答えは決まっていた。ゆえに躊躇いもなかった。
「俺でいいなら。タマさんが認めてくれるなら」
祐介の隣では空鞠が困惑した顔をしていた。急に緊張の走った場の空気に戸惑い、何やら真剣そうな様子の祐介と、高い壁のようにこちらを見下ろすタマの姿を交互に見つめる。自分はどうすればいいのか決めかねているようだ。
「言質取りたいな〜」タマが呟いた。「もーっときっちりした形で。だから祐介くん、君がいったい何をどうするのか、ここに不備なく宣言してくれるかな?」
「分かりました」
息を整える。
膝の上で拳が強張る。
それは大切な契約の言葉だ。もちろん決意に揺らぎはない。しかし改めて口にするとなると緊張が走った。胸の奥がぐっと引きつるみたいだった。
それでも宣言する。
結ぶ契約の意味をなぞる。
「俺に空鞠の見守り役をやらせてください。空鞠がこの市(まち)に馴染んで、現代の生活に馴染んで、他の人や神様と一緒に生きていけるようになるまで、俺に手伝わせてください。空鞠は俺と瑞波さんのことを助けてくれました。今も誰かの役に立とうとしてます。自分が邪神として誰かを傷つけて、それでも自分を祀ってくれた人たちのために、今度は自分が役に立とうとしています。だから俺は――」
――違う。そこでふっと気づいた。
これは半分間違っている。何が違うかと言えば、
「空鞠」
すぐ横へと向き直る。
そこには空鞠がいて、金色の瞳を驚きに見開いたまま微動だにしない。何が起こっているか分かっていないみたいだ。その顔をじっと見つめて、
「……えっと」
言葉に詰まる。とっさのアドリブで動いたせいで頭の中が白紙だ。しかしどうにか次の瞬間には言葉をひねり出す。まるで生きた心臓みたいな生の気持ちを晒す言葉だ。
「俺でいいか? 傍にいるの、俺で――」
――何が違うかと言えば、それは相手だ。
今しがたタマの前で宣言した内容は、まず何をおいても空鞠に向けるべき言葉だった。そうして空鞠の気持ちを聞くべきだったのだ。
自分でいいか。自分は必要か?
「ごめん。最初に訊くべきだった。空鞠に訊くべきだった……」
空鞠からの言葉はない。しかしその代わり、空鞠は顔をうつむかせたまま、ふるふると首を横に振った。
顔がぐしゃっと歪んでいた。
空鞠が祐介の手を取る。つつ、とその両目から涙が零れた。ひとつふたつと双子の流星のように頬を流れた。空鞠は祐介の手を両手で握ったまま、自身の胸元へと持ってくる。
そこには釘が刺さっている。
祐介は釘を握りしめる。邪神を封じる血塗られた釘だ。硬く無機質な感触を握り込んだ祐介の手に、ぽつぽつと雫が零れて止まらない。
二人はその手を離さない。互いに互いを手のひらに包んだまま動かない。そんな二人のことを、ゆらゆら尻尾をゆらめかせたタマが何も言わずに見守っている。
同時に最後の一段から降り立ち、二人で長い石段を振り返る。
長い階段と大きな鳥居の狭間(あいだ)。神社から吹き下ろしてきたみたいな風が二人の脇を通り抜けていく。
「生まれた……ことになった」
空鞠が呟く。新しくできた想い出の場所を胸に刻むように。
「わたし、本当はこの市(まち)にいるべきじゃないんじゃないかって。それで外に出たり歩き回ったり、ごはんだってあんまり食べないようにしてたんだけど」
空鞠の顔がこちらに向く。
「もういい……のかな」
そんなことを考えていたのか、と祐介は思う。薄々察しはついていた。自分の過去と今の心性との間で、空鞠にはきっと何か思うところがあるだろうとは思っていたが、その中身を本人から伝えられると切ないものがある。
勇気づけてやりたかった。
「もちろんだよ。大丈夫」
「だったらいいな……お出かけしたり美味しいもの食べたり、それでみんなと仲良くなりたい。まだちょっと、不安はあるけど」
その言葉で思い出す。空鞠が初め、石段を前にして怖いと言っていたこと。
「空鞠、まだ怖い感じはするか?」
「……まだちょっとざわざわする。でも大丈夫、ここには本当は怖いものなんてないんだって、今なら分かるよ。タマさんだって優しかった」
「優しいから頑張りたいよな」
「頑張って生きていきたい」
「行こうか」
背中を向けて先に歩き出す。すると空鞠が背後からたったっと追いかけてきて、祐介の袖をくいっとつまんだ。
びっくりした。誰かにそういうことをされた経験なんてまるでなかった。振り向くと空鞠がもじもじしながらこちらを見上げている。
「あの……」
「な……なに?」
「……ゆーちゃん」
「んっ?」
「ゆーちゃん……って呼んでいい?」
「俺のこと?」
こくり、と空鞠がうなずく。上目遣いの瞳が不安そうにこちらを伺う。
――ふっと脳裏にイメージがよぎる。にこにこ笑って『ゆーちゃん』と呼びかける空鞠の姿だ。それは『ゆーちゃん!』と呼びながらぴょこぴょこ後ろをついてくる空鞠の姿だった。
「……やっぱりダメ? かな……」
「いや、いい……いいよ」顔が見れない。「でもめちゃくちゃ恥ずかしいというか、そういうの慣れてないかもしれないというか」
「……慣れよう!」
「慣れる……」
「ゆーちゃん」
「はい……」
「ゆーちゃん」
「はい」
「ゆーちゃんゆーちゃん」
「はい、はい」
「ゆーゆーちゃんちゃん」
「……ははいい?」
「うへへへ」
どちっ、と空鞠が二の腕に肩をぶつけてきた。今までにないアプローチが気恥ずかしくはあるが、空鞠に心を開かれているみたいで嬉しい。
「ごきげんだな」
「だってこれからはゆーちゃんなんだよ? 恥ずかしいね!!」
頬を手で包んで身体を左右に振る。イカミミがぴこぴこ羽ばたいていた。
「でもなんだろうな、時と場所は選んでほしいかもしれないかな、人がいる場所だと恥ずかしいから」
「二人だけのときね!」
そういう言い方をされると気恥ずかしいところだ。この先大丈夫かな、と祐介改めゆーちゃんは心配になる。
何せ早速今から二人でお出かけしようと思っていたのだ。
小エビにフォークが突き刺さる。フォークがくるくると巻かれ、麺をたっぷり巻き込んだまま空鞠の口に消えていく。
「んふふ」
空鞠がこちらの視線に気付き、口元を手で隠しながら微笑んだ。
「美味そうだな?」
「ん!」
空鞠がニコニコしてうなずく。ごくんと喉を上下させて、空鞠はスープを一匙二匙すくってすくって口にしたり、一人用のピザをカッターで切り分けてかじったり、大口を開けてサラダを頬張ったり、エスカルゴをフォークでほじくったり、ハンバーグをナイフで不器用に切り分けたりしている。
食欲に陰りがない。二人用のテーブルが八割方空鞠の皿で埋め尽くされていて、空っぽの皿もひとつやふたつではない。それでいてなおこの食べっぷりだった。
気持ちがいい。子どもにあれこれ食べさせようとする祖父母世代の気持ちが分かる。
「腹いっぱいにならないか?」
「見込みなしです」
ブラックホールみたいだ、と祐介は思う。
ファミレスに来ていた。土曜日の昼だけあって店内は混み合っていた。一人だったら寄り付きもしないはずだった。それでも帳簿に名前を書いて呼ばれるまで待って、こうして空鞠と一緒に席に着いている。
それだけのことをしてよかった、としがらみから解放されたみたいによく食べる空鞠を見て思う。空鞠は食べるのを控えていたと言うが、自宅の食卓でも空鞠が遠慮気味なのは透けて見えていたのだ。
デザートのティラミスを食べ終え、空鞠が息をつく。満足そうだ。「えへ」とこっちに笑いかけながら腹をさすった。
「お腹の中が賑やか」
「満腹?」
「全然。たぶんわたしいくらでも食べれるんだよ」
神さまが言うと真実味がある。ちょうど店員がやって来て、テーブルの上に広がる皿を何枚もまとめて持っていった。店員さんも内心びっくりしてるんじゃなかろうか、と祐介は思う。
「始めて来たけどいいとこだね。ゆーちゃんはよく来るの?」
「たまにね。母さんと」
「神さまとも来る?」
「瑞波さんとは来たことあるな」
「瑞波さん?」空鞠が一瞬目を見張る。「それって、あの……」
「空鞠が助けてくれた人」
空鞠が首を振って手をひらひらさせる。遠慮する仕草もほどほどに、空鞠が両手をテーブルに置く。力の抜けた指が軽く折れ曲がる。
「瑞波さんって、ゆーちゃんの大切な人?」
「小さい頃から見ててくれた人。近所のお姉さんって感じだな」
「大変だったね……」
「そういえばそうだな」
当たり前のことに今更気づいたみたいに呟く。
「ずっと会えてなかったから。なんだか……現実感がない、全部のことに」
「何かあったの?」
「まぁ……そうだな」
「あんまり話したくなかったりする? だとしたらごめんね」
「そんなんじゃないよ。ただ整理が上手くついてないところがあるだけ」
煙に巻くような言い方だな、と口にしながら思う。現に空鞠は距離感を測るみたいにこちらの顔色を窺っていた。
瑞波さんの話をしよう、と祐介は思う。
「瑞波さんと一緒にこの店来たときはさ、瑞波さん酒飲んでつまみ食べてプリン食べて帰ったんだ」
「ゆ、ゆーちゃんと一緒なのに」
「ほんとにな」
当時の光景が目に浮かぶ。
酒瓶が都市部のビル街みたいに林立したテーブル。その奥で肘をついて、心持ち目を細めながらこちらを眺める瑞波の顔。
「ねえ」瑞波の像と重なる場所から空鞠が呼ぶ。「瑞波さんってどんな神さまだったの?」
「そうだな……」一瞬考える。すぐに答える。
「クソみたいな人。それでも俺のお姉さんだった」
☆
確か中学一年の頃だった。土手で瑞波と肩を並べて座りながら、満開の桜に太陽の光が透けて白く光るのを眺めていた。
「リコーダーの穴全部塞いで酒注ぐとな、飲み終わった後すぐ笛が吹けて楽しいぞ」
隣で出し抜けに瑞波が言った。祐介は瑞波の言う光景を想像してみた。分からない点がひとつあった。
『どうやって穴塞ぐんですか?』
「神通力だよ」
神さまってすごいな、と祐介は思った。
「酒飲みてぇ。今も飲んでるけどもっと飲みてぇ。あたしの川が度数9%になるまで飲みてェ」
「バカの川ですね」
「火ィ点けたら燃えっかな?」
「炎上待ったなしですよ」
「祭りになっちゃうな!」
「桜全部燃えちゃいませんか?」
「そいつは惜しいなァ」
瑞波が酒を口に含む。真似するみたいに祐介も同じ動作をする。
ペットボトル。サイダー。
「お酒飲めると楽しそうですよね」
「どうかな? 楽しいのは酒じゃなくてあたしのほうかもしれねぇぞ」
「おめでたい神さま」
「めでたいから飲むんだよ」
そう言ってまた一升瓶を豪快に呷る。
瑞波は不思議とどれだけ飲んでも酒の匂いがしない。
「いつか一緒に飲みたい気もしますね」
そう口に出してみる。
意外なくらい勇気が要った。
「将来飲む気か、お前」
「どうですかね」
「あたしと飲みたくてか?」
「まぁ」
恥じらいが立つ。ごまかす。瑞波が酒瓶を傾けるその静寂に緊張する。
「やめとけ」
と瑞波は言った。
「あたしを理由にはするな。飲むならお前の意志で飲め。あとあたしは神さまであって人間じゃねぇから参考にはするな。あたしから言えるのはこんだけ」
「……はい」
期待していた答えではなかった。望んだような答えではなかった。それだけなのに泣けそうなぐらいの喪失感があった。この一瞬で。
「……ま!」切り替えるように瑞波が声を上げる。「そもそもお前がちゃんと大人になれるかっつー話もあるわけだけど?」
「なれますよ」
「ホントかお前?」
「なるんじゃないんですか?」
「ガキだなお前は! 大人ぶってチーズと一緒にぶどうジュースでも飲んでろ」
「しませんけどそんなの……!」
わしゃわしゃ、と髪の毛をかき混ぜられる。それ以上何も言えなくなる。いつの間にか頭に載っていた桜の花びらがぐしゃぐしゃになって落ちてくるのを、不思議と祐介ははっきりと覚えている。
◆
その夜。なんとなく窓際を気にしながら部屋で一人課題と向かい合っていると、ガラスがこんこんと叩かれる音がした。待っていたとばかりに机を離れ、窓を開いた。
フーコがいた。
「げんきー? 元気そうね」
「フーコは?」
「げんきー」
「来ないかなーって思ってた。フーコと話したくて」
「あたしもよ。色々あったんでしょ?」
「色々あった」
「そいつを聞かせてもらおうじゃないのよ」
フーコが窓に腰掛ける。いつものポジションだ。高い位置から室内を見下ろすフーコに対し、星の夜空を仰ぎながら祐介は近況について話す。空鞠のこと、タマのこと、そして新しい日々が始まったこと。
「まずは一段落ついたって訳ね」
「フーコのおかげ。あのとき手伝ってくれなかったら今こうしてなかった」
「言い過ぎよソレ」
「言い過ぎだったかも」
「素直に受け取んじゃないわよ」
楽だった。タマのような偉い神さまと話したり、混んでいる場所に出かけたりと普段やらないことばかりの最近だったが、こうしてフーコと話していると気を張らないで済んだ。気楽だった。
「神さまたちはどう? やっぱり空鞠について話題になってたりする?」
「まあね。方々がざわめいてるわよ、っていうのは野次馬根性だったり珍しいもの見たさってことだけど」
ふんー、とフーコが唸る。言葉を選ぶような間を空けて、続けた。
「別に議論紛糾って訳じゃないわよ。おおらかというかのんきというかね。だけどあんたも知ってる通り、神さまにだって色んなのがいるのよ。人間と同じようにね」
「フーコは? フーコは空鞠のことどう思う?」
「あたしあの子と会って話したことないからね。だからあんたが邪神を解放したってことについての感想になるけど」
わずかに緊張が走る。「うん」と相槌を打つ。
「別に心配はしてないわよ。あんたって神さまへの嗅覚は鋭いからね」
「なんか、ヤラシイな」
「何がよ」ふっ、とフーコが笑って。「あんたが頼っていいって思って解放したんなら、その神さまは頼っていい神さまよ。そんな気がする」
「そうであってほしい、というか。空鞠がそういう神さまであれるように……何かしたいな」
「散々悩むといいわよ。あんたこの先考えることだらけで大変ねー」
「それぐらいはもちろんやるよ。空鞠を解放したの、俺だから」
「ね、どうしてあの子の封印解いたの? そもそもあんた随分前からあの社にご執心だったじゃない」
「そうだな……」言葉にするための間が空く。答える。「信じたかったから」
「何を?」
「『悪い神さまも、祀られてるうちに段々良い神さまになって、やがてみんなの輪に加わって生きていくようになった』。そういう神話、そういう世界」
「夢みたいね」
「でもあながち絵空事じゃない。俺は安合市にはそういう場所であってほしい」
少し言いにくい言葉があって、言いよどむ。でも言うべきだと思って、隣のフーコの顔を見上げる。
ぱっちり大きな瞳と目が合った。
「だからフーコ、フーコにも俺たちのこと、手伝ってほしい。たぶん俺だけだと考えが足りなかったり、力不足なことが出てくると思う。それでもやりたい。だから手伝ってほしいんだ」
目を逸らさずに言った。逸らせなかった。フーコがこちらの目をじっと覗き込んでいた。その視線に釘付けにされていた。
意外とさほど間は空かない。うん、とフーコがうなずく。
「いいじゃない。すごくいい感じがする。手伝ってあげてもいいかって思える――元々そのつもりだったけどね?」
「ありがとう。いつも、ほんとに」
「空鞠ちゃんとはどう過ごしてくの? 決まってる?」
「そうだな、まずは……」
話題が進んでいく。これから先のプランについて話していると、
「ゆーちゃーん?」
空鞠の声がドア越しに響いた。同時に扉がノックされる。
「ゆーちゃん?」とフーコが目を丸くしていた。「あんたゆーちゃんって呼ばれてんの?」
「はーい!」
まずいと思った。ごまかそうとして返事をした。
「ウワ! 返事した!」
しかし逆効果だったらしい。もう全部手遅れだ。
戸が開く。空鞠が部屋に入ってきて、視線をこちらに向けてぴたりと固まった。……冷凍のイカみたいだった。
「初めまして。ね?」
見慣れない自分の姿に緊張している――フーコはそう見て取ったらしい。にっこりと笑ってみせて窓から身を乗り出した。
「緊張してる? あたしフーコ! 風の神さま。よろしくね」
「あっ、とっ……」
空鞠は背筋をぴんと伸ばし、両手をぎゅっと抱いて正面に組んだ。それから床に対して九十度の角度で礼をする。
「こちらこそ初めまして、空鞠です。えっと……」一瞬言い淀んで。「社に封印されていた神……です。祐介くんに解放されて、それからこのお家にお世話になってます。これからよろしくお願いします」
「『ゆーちゃん』ねぇ。さっそく仲良しじゃない」
「あ、えっとこれは、恥ずかしいところを晒してしまいまして……」
「別に! 仲がいいに越したことってないわよ。あたしからも祐介のことよろしく頼むわ。気長に根気強く見てあげて」
「そんなこと……!」
「応援してるわよ。力になれることなら手伝うから、何でも言ってね?」
「はいっ! ありがとうございます」
「今は仕方ないけど、いずれもっと楽にして喋れたら嬉しいわね」
そういうフーコの姿をぼーっと見ていた。少し呆気にとられてさえいた。
「うん! あたしはそろそろ行こうかしら。またね、二人とも」
「ああ……ありがとう、フーコ。また今度な」
「楽しみにしてるからね」
そういってフーコはくるりとこちらに背を向け、するりと外へ飛び立つ。最後にこちらを向いて手を振って、夜空の中にその影を溶かしていった。
夜風が肌寒い。そんな季節になっていた。
「ゆーちゃんとフーコさん、仲良しなんだね?」
余韻の中。ようやく口を開いたのは空鞠のほうだった。
「たぶん、一番な」
言葉が続く。自然に続いた言葉だった
「フーコって風の神さまだけど、風にも色々あるだろ? フーコは主に川風みたいなんだよな。瑞波さんの川に吹き渡る風。俺が瑞波さんのとこに通ってるうちにフーコと知り合って、二人して瑞波さんにくっついて歩いて、その縁が今も続いてる」
「ゆーちゃん、楽しそうだね?」
「そうかも。フーコのことを誰かに話すって中々ないからな」
「ゆーちゃんって、神さまとのお付き合い、深いんだね?」
「人間の知り合いより神さまの友だちが多いよ。友だちっていうかな? とにかく色んな神さまが付き合ってくれてる」
「人間より神さまのほうが得意なの?」
「神さまってみんなお姉さんみたいなもんなんだ。神さまは自然に宿るものだし、自然ってのはどれもこれも人間よりずっと昔からそこにあるもんだろ? 神さまは人間よりずっと長い時間を生きて今ここにいるんだよ。だからちょっとダメなところがあっても分かってくれる、受け止めたり受け入れたりしてくれる感じがして……安心できる」
「ほぇ〜」感心したらしい。「神さまってみんな、お姉さんなんだ」
「俺が年取って爺さんになって、人間の歳上がいなくなっても神さまはずっとお姉さんだからな。それって救いだよ」
「フーコさんもお姉さんなのかな」
「フーコは同年代の友だちって感じだから、意識はしてないけど……でも話してて時々感じるよ。そういうとき、フーコも俺の思ってるような神さまなんだよなって……不思議な気持ちになる」
ふーん……と空鞠が唸る。何かを検討するみたいな響きがこもっていた。
「ゆーちゃん、歳上好きなんだ」
「どうかな……そうかもな。意識はしてなかったけど結果的には歳上好きってことになるかもな」
「安心感が大事なんだね?」
「あ、でも若い神さまだっているよ。それでも話してるうちに奥行きとか深さみたいなのが見えてきて、やっぱり神さまってすごいなって思う」
「そういうの、どうやったら手に入るのかな」
「……分からない……な」若干気が落ちたのを自分で感じていあ。「俺にはそういうの、ないから。なくても許してくれるのが神さまなんだ」
祐介の言葉を聞いて、空鞠はわずかに視線を落とす。祐介から目線が逸れる。何かを考えているらしい。何を考えているのかは空鞠が口を開かない限り分かりそうになかった。
窓を閉めようかと思った。少し肌寒い。しかし少し肌寒いぐらいも悪くないかと思って、そのままにしておいた。何より今窓を閉めてしまうのはこの場の空気に似合わない気がした。
やがて空鞠が祐介に訊ねる。
「みんないったいどこから来て、どこに行こうとしてるのかな」
「そうだな」冷たい夜気が鼻先に触れる。「生きるのって果てしないな」
夜空の星を見ながら思った。たぶん、空鞠と同じように。
◆
二人分の切符を買って改札を通った。今日は電車に乗っていく。
「緊張しちゃうな」
ホームでしばらく並んで立っていると、隣で空鞠がぽつりと呟いた。
「まだ神さまと話すの、慣れないか」
「怖くない? 初めて会う誰かと話すのって」
「空鞠ってそういうタイプなのか? 意外だな」
「ゆーちゃんは?」
「人と話すのは怖い。でも神さまとなら怖くない」
「わたしもそうかも……ゆーちゃんとは普通に話せるもん」
「ちょうど真逆か。いや同じなのか? 人と話すのが苦手な人、神さまと話すのが怖い神さま」
「仲良くなれたらいいけど、でもわたしは……」
そこで言いよどむ。察しがつく。『自分は封印されていた邪神だから』――そういう後ろめたさがあるのだろう。
「大丈夫。神さまたち、みんな優しいから。俺が安心して話せるくらいだからさ」
「うん……うん」
「俺がついてるよ」
「それが一番安心」
空鞠がはにかみがちに笑う。電車の走行音が向こうから響いてきていた。
ホームでは色々話していた空鞠だが、電車の中に入ると静かになった。公共交通機関の車内で話すことへの後ろめたさみたいなものは既に空鞠の中にも芽生えているらしかった。二人で黙って肩を並べて電車に揺られる。快晴の青空が高速で過ぎていった。
向かうのは家から離れた河川敷のイベント会場。瑞波のものと同じ水系にあたる川で、今日は大きな催しが開かれている。そういうふうに空鞠には伝えてあった。
やがて電車の中が混み合ってくる。恐らく自分たちと同じようにイベント目的の人々だった。実際会場の最寄り駅に着くと車内の人混みが一斉に外に向かって動き出した。空鞠とはぐれないようくっつきながら進んでいく。人々の列は駅の外にまで続いていた。
しばらく歩くとそこは河川敷だ。大きな川を目の前に、たくさんの人混みが――人も神さまも入り交じって――ごった返していた。
「これって何のお祭り?」
「祭りというか、イベント? 鍋を煮てるんだよ」
「鍋? 煮て食べるの?」
そこに小さな人影が近づいてくる。
「いらっしゃい。そろそろかなって思ってました」
そう言いつつぺこりと頭を下げたのは、長い茶髪に格子柄のワンピース、そしてえんじ色のベレー帽を頭に被せた、見た目は小学五年生ぐらいに見える女の子。
「はじめまして。私は野菜の神さま、主にトマトの神さまです。トマトちゃんって呼んでくださいね」
「わたし、空鞠と言います。つい最近目覚めたばかりですが、早くみなさんと仲良くなってお役に立てたらいいなと思ってます。よろしくお願いします!」
立派な挨拶だ、と祐介は内心うなずいている。
「噂は伺ってますよ。こんなふうにお話できて嬉しいです。今日は楽しんでいってくださいね」
対してトマトちゃんも笑顔で答える。やはりトマトちゃんを頼って正解だったと祐介は思う。トマトちゃんは見た目こそ幼く見えるが、その実安合(あわい)市でも古株の神さまなのだ。タマと仲良く話しているのを時々見かける。
「今日は何のお祭りなんですか? 人も神さまもいっぱいですけど……」
「お祭りと言いますか、ただ純粋にイベントですよ。芋煮を作ってみんなで食べるんです。特定の祭りの形式に沿ってるわけではないけど、行事が色々あると単純に楽しいじゃないですか。色んな神さまが銘々に腕を振るう機会でもあります。ね?」
トマトちゃんが視線で指し示す。来場客でごった返す会場のあちこちに、忙しそうに走り回る色とりどりの神さまたちがいる。ネギみたいな緑色の髪の神さま、秋だというのに日に焼けたかのような褐色の肌の神さま、牛の角を生やした真っ黒な髪の神さま。一方遠くに見える巨大な鍋をかき混ぜたり椀によそって配っているのは、どちらも身長三メートルは超えていそうな巨体の神さまだった。片方は金色のポニーテールに切れ長の瞳、そして滑らかな石材のように筋骨隆々とした肉体がクールビューティーな神さま。もう一方は常に瞳を伏せながら微笑を浮かべている、おっとりとして世話好きそうな神さまだった。
「今日は色んな神さまや人間が銘々にごった返す日なんです。お鍋を煮込むみたいにね」
「やっぱりこれ、お祭りですね」
「祭られる神や乗っ取るべき形式はありません。でもそうですね、ここにあるのはお祭りの心ですね」
話している間になんだか人だかりが出来てきている。服装や出で立ちを見るにどうやら神さまたちの集団であるらしかった。何やら空鞠を気にしているらしい。
「みんな空鞠ちゃんと話すのを楽しみにしてたんですよ。フーコちゃんを伝って祐介くんから空鞠ちゃんと一緒に会場に来たいと伺ってから」
「ゆっ」
ゆーちゃん。そう言いかけて抑えたのだろう。空鞠がこちらを見つめていた。
「……まあ、そうですね」
あからさまにいいことした感が出ると居心地が悪い。
「ありがとう、ゆっ」また言いかけて堪えた。「ンフ」言いかけた言葉は呑み込んだらしい。
「自己紹介だけでもできるといいな」
「迎えに行ってあげましょう」
トマトちゃんに連れられて神さまたちにお目通りする。緊張すると言っていた空鞠だったがそれも一言目だけで、案外するする喋れていた。……初めて会う人とは逆に喋れるタイプなのかもしれない。
『芋を食え!!』
自己紹介した一人目の神さまにそう言われた。確かにそうだった。鍋を食べるイベントなのだった。
「お鍋って何があるんですか? すごくしょうゆの匂いがします」
「言って見て来て、それから食べてみてください。向こうでカレーも煮てますよ」
「カレー好きです!!」
言いながら空鞠は神さまたちに囲まれて歩いていった。
「ね、祐介くん」
トマトちゃんがこちらを見上げて訊ねる。
「祐介くんって普段、空鞠ちゃんになんて呼ばれてるんですか?」
「それは別に」思っても見なかったことを急に聞かれて内心ドギマギする。顔が熱くなってきた。「普通ですよ……」
「普通? ほんとですか~?」
「ほんとです」
くすっ、とトマトちゃんが笑う。……トマトちゃんには会うたびからかわれるのが常だった。
なんとかやり過ごせたようでほっとしていると、トマトちゃんが周囲を気にし始めた。何事かと思っていると、トマトちゃんが祐介を見上げて言う。
「ねぇ祐介くん。ちょっとお耳を貸してください」
「どうしました?」
トマトちゃんの身長に合わせて屈み込む。迎えるようにトマトちゃんがつま先立ちして、そして耳元で囁いた。
「ゆぅちゃん?」
「――ッ!!」
思わずのけぞる。急な動きに行き交う周囲の来場客がびっくりしているのが分かって恥ずかしい。
「何してんですか!!」
「ねえねえ、ゆうちゃんって呼ばれてるんです? やっぱりゆうちゃんなんですか?」
「そんなこともないです!」
「空鞠ちゃんって素直な子ですよね。隠しごとがへたっぴさん」
……負けた。負けを認めた。
「まあ、もうそれは、そうです。ゆーちゃんって呼ばれてます」
「それは祐介くんのリクエスト? それとも空鞠ちゃんの要望?」
「空鞠からです。俺からだったら恥ずかしすぎませんか」
「あはっ、祐介くん困ってますね。私祐介くんの苦い顔好きなんですよ」
「勘弁してください」
「ふふ! ごめんなさいね」
トマトちゃんにくいっと袖を引かれる。ついてきて、の合図だ。導かれるがままトマトちゃんについていき、スチロール容器に芋煮をよそってもらう。その傍らでは空鞠がなおも神さまたちと話していた。
『その釘って自分じゃ抜けないの?』
「あー……? 言われてみれば試したことないかもです。どうかなぁ?」
会話が耳に入ってくる。大丈夫だろうかと思い何となく意識を向けていると、
「いだだだだだいけない感じがする!!」
『あたしもやってみていい?』
「あだだだだだだダメでしたこれゆーちゃんじゃないとっ」
「空鞠……」
「あっゆーちゃん、今ねえ!!」
その一瞬、空鞠が口元を押さえる。たぶんバッチリ聞かれていた。
「や、いいよ。空鞠の楽な感じでやってほしい、そのほうが空鞠も楽しいよな」
「ん!! 了解!!」
また空鞠が談笑に戻る。それを笑顔で見届けると、トマトちゃんがこちらを見上げていた。
「もう少し付き合ってもらえます? 話したり聞いたりしてみたいことがあるんです」
「もちろんです」
二人で芋煮を手に鍋から離れる。空鞠の姿が目に入る休憩所に二人並んで腰を下ろした。
「どうですか? 今日の空鞠ちゃんを見てみて」
「意外と大丈夫そうだな、って感じです」
率直な感想だった。
「目は離さずにいるつもりですけど、案外俺が何かする必要はなさそうですね」
「もっと手がかかると思ってた?」
「やっぱり神さまは神さまですから、こっちが話しやすいようにしてくれるんですよね。そこは信頼してました。あとはこの先空鞠がこの市に馴染んでいけるかですね。この市の日常になれるかどうか」
そこで一度話を切る。自分が口に出していいものか迷う言葉があった。それで迷っていると、トマトちゃんが微笑を浮かべながらこちらを
「……本人がずっと気負ってる感じでしたから。邪神だった過去のこと」
「過去……ね」トマトちゃんが感慨深そうに言う。「もう千年も昔です」
その言い方に引っかかるものがあった。それで一瞬迷った末、詳しく聞いてみようと口を開きかけた矢先、
「あのね」とトマトちゃんが口を開いた。
「はい」
「私ね、あの子のことが怖いんです」
賑やかな喧騒の中、トマトちゃんはそう言った。
「あの子って……」
「空鞠ちゃんです」
思っても見なかった言葉に、祐介はトマトちゃんの顔を凝視してしまう。
斜め上から見た横顔。その目は神さまたちの輪の中心でぎこちなくもまっすぐに話している空鞠に向けられている。
「あの子、邪神なんでしょう?」
「……そう言われてます。というか、邪神の社の中に封じられてました」
「祐介さんもご存じの通り、私は安合市でも古株の神です。文字通りにね」
「そんなふうには聞いてますけど……トマトちゃんが生まれたときから邪神の社ってあったんですか」
「いいえ。邪神のために社が建てられ、邪神が封じられたのは私が生まれた後です」
「……それって。要するに」
「私、邪神が安合市を襲ったときのこと、経験しています。千年近くも前ですけれど」
息が詰まった。
衝撃だった。
「あの邪神は人々の気を狂わせるんです。たくさんの人が邪神の送る心の波を受けて、誰かを傷つけたり、目に触れるもの全てを恐れたり、邪神のために生贄を捧げようとしたり、意味の分からないことを喚きながら暴れたりしました。人も神も例外ではありませんでした」
言葉が見つからない。
すぐ目の前では空鞠を中心にして神さまたちが歓談している。空鞠の笑顔にもぎこちなさが取れてきて、柔らかくなってきている。
「千年の時が経ちました。安合市はこのように平和な地として安寧を保っています。それだけに私はあの子のことが怖いですよ。千年前のことなのに未だにはっきり思い出せます。――分かってますけど信じられないですね、あの子が邪神だなんて」
しばらく空鞠たちのことを見つめていた。それでも気になることがあって、祐介は訊ねる。
「それでもトマトちゃん、こうやってみんなのことまとめて、空鞠と会わせようとしてくれましたよね」
「そのほうがきっといいですから。神さまたちにとっても、空鞠ちゃんにとっても。それから私や祐介くんにも」
ゆらゆら、とトマトちゃんが身体を揺らす。神さまたちの輪を覗き込むように背伸びして、また踵を地面に着ける。
「私は古いトマトですから、きっと空鞠ちゃんとは仲良くしきれません。通じ合うにも限りがあります。――でも、こうやって若々しいみなさんが空鞠ちゃんと繋がり合えるなら、それで得られるものがあるなら、それが一番いい」
「トマトちゃんだってとびきりフレッシュだと思いますけど」
「あら。今どきっとしました」
「よく言いますよね……」
呆れがちに答える。
「それに」と話を続ける。「植物って再生するものじゃないですか。実が落ちると同時に種がまかれて、芽を出して育って、また実がなる。一本の株が枯れても種を残して、また次に繋いでいく。そういうサイクルを回してるじゃないですか」
「生まれ変われるってことですか。私にもできると思います?」
「野菜の神さまですから」
「でも私、心があります」言い切るように呟いた。「心っていうのは難しいものですね」
空鞠と神さまたちが代わる代わる握手している。記念らしい。
「……でもそう、祐介くんの言う通りです。私も主にトマトの神さま、ひいては野菜の神さまですから。今みたいな私、本当は私の在るべき私ではないんですよ」
「それじゃあ、本当はどういうふうに」
「イカとトマトのパスタって。あるじゃないですか」
「ありそうですね」記憶を辿る。そういう料理を見た覚えがある。「ありますね」
「だから私たち、もしかしたら相性いいかもしれないですねって。こういう話を空鞠ちゃんとしたい」
しちゃダメなんですか。
そう思ったが口には出せない。
「……難しいですね。昔の話を聞いた後だと、俺も迂闊なこと言えませんから」
「みんな平等に可愛がってあげたい。そこに私の心なんてなくていい。神さまとして。システムとして……」
そう呟くトマトちゃんだったが、しかしやがて、ふふ、と笑った。
「ごめんなさい。どうにもならないことばかり喋ってしまいました。……忘れてほしいような、でも知っていてもらいたいような。そんな不思議な気持ちです」
「…………いえ」
「あの子たち、みんな私よりずっと新しい神さまです。いいことです。空鞠ちゃんもそういう子たちに囲まれて、今度は健やかに生きていってほしい」
そしてトマトちゃんが笑いかけた。
「そのためのお手伝い。祐介くん、私からもお願いします」
「……もちろんです」
トマトちゃんが手を叩き、一歩進み出る。
トマトちゃんと神さまたちに礼を言って別れる。空鞠は何度も背後を振り返って手を振っていた。
「いっぱい話せたみたいだね」
「うん! 来てよかった!」
にこにこ笑う空鞠の姿が、祐介にはどこか切ない。
このまま幸せになってほしかった。
帰途につく。会場から最寄り駅までの人の列を眺めて息をついていると、空鞠にくいっと袖を引かれた。
「ゆーちゃん、飛んでいこう?」
「飛ぶ……っていうと?」
「釘、抜いてくれる?」
胸元に両手をあてがいながら空鞠が言う。腕を上げて釘を抜いた。空鞠の髪がほどけ、空間そのものに絡みつくかのようにうねり、伸びていく。触手が展開されていき、そのまま祐介の全身にするすると巻き付いた。と同時に空鞠がぴたりと身体をくっつけ、祐介の身体に腕を回す。
「あの!」思わず声を上げてしまう。「みんな見てるけどっ……!」
「しっかり掴んでおくから、しっかり掴まっててね」
「まさか――」
それどころではないらしかった。
ふわりと身体が浮き上がる。空鞠に抱き上げられて空へと向かう。
「ヤバいヤバいヤバい」
「あれ。ゆーちゃん高いのダメだった?」
「そうじゃないけども!」
そして二人は浮き上がる。空鞠の触手がコウモリの羽のように変形し、周囲にぶわっと風圧を立てて飛び上がる。
すでに地上は遠い。
頭がぐるぐるする――しかしすぐに落ち着いてくる。思っていたよりずっと空鞠にずっと強く抱かれている。空鞠が加えてくるしっかりとした力や、空鞠の身体の柔らかさ、温かさ、そういった感覚に心が安らいでくるのを感じる。
安合市の上空を飛んでいた。
「こうすればお金かからないし、いつもの声で話せるし。いいよね?」
「まあ……そうだな。確かにそうだ」
慣れれば何ということもない。空鞠に抱かれたまま飛んでいる。
「ねぇねぇ、トマトさんと何話してたの?」
「……そうだなぁ」考えてしまう。それから答えた。「イカとトマトのパスタについて」
「何それ?」
「ほんとにイカとトマトのパスタについて話してたんだよ」
「イカ扱い! ゆーちゃんイカ好き?」
「そう言われると……結構好きだな」
「ん゛へへっ……じゃあいいよー」
嘘はついてない、と思う。それなのに申し訳なさが募る。
「わたしも話してみたいなー。あの場でトマトさんとだけ話せなかったよ」
「またいつかな」
「ね、ゆーちゃん」空鞠が進行方向を見据えたまま口にする。「ずっと気になってたんだけど、あれ、なに?」
首を動かす。その先にあるもの。
青い空の遙かな向こう、青く透けてそびえ立つひとつの構造物。
それは巨大な空色の鳥居だ。安合市民なら毎日目にしながら生活している、そのせいで今さら誰も気に留めない、安合市における無二のシンボルだった。
「あれは大空(おおぞら)鳥居って言うんだ。本当は大空(たいくう)鳥居って言うらしいけど、そんなふうに呼んでる奴は見たことない。タマさんも大空(おおぞら)鳥居って言ってるしな。安合市にずっと昔からあるんだってさ」
「何か理由があって立ってるのかな?」
「あー……? そういえば聞いたことないな」
「タマさんなら知ってそうだよね」
「今度聞いてみようか」
「ん!」
うなずく代わりだろうか、祐介を抱く手に力がこもった。それで気付いた。どうせ触手で絡め取られているのだから、空鞠が自分の両手で祐介を抱きしめている必要はない。
言わぬが花だ。
しばらくこうやって寄り添っていよう、と祐介は思う。自分が見守るのはこの温もりなのだと、上空に吹き渡る冷たい風の中で祐介は確かめる。
玄関の戸を透けてくる早朝の光が祐介は嫌いだ。それでも家を出るべく靴を履いていると、空鞠がひょこひょこ寄ってきた。
「ゆーちゃん! どっか行くの?」
「学校だよ」
「学校……?」
オウム返しして、空鞠が首を傾げる。
「あれ? そうか、空鞠が起きてからは初めてだな。俺平日は学校あるから、朝から夕方までは家にいないよ」
空鞠が目線だけで天井を仰ぐ。……話が呑み込めているのだろうか?
「つまりゆーちゃん、今日はお家留守にするの?」
「夕方までな」
「わたし一人?」
「そういうこと」
空鞠が目をぱちくりさせた。それからしばらく祐介の顔を見つめた。どうしたのかと思っていたら、突然ぶはっと濃緑色のモヤモヤを吐き出した。
「うおおおお!」まとわりつくモヤモヤを夢中で払いのける。「イカスミ!? 空鞠スミ!?」
「わたしついてっちゃダメかなあ?」
「ダメだよ」
「ゆーちゃん学校行かなきゃダメかなああああ?」
「卒業はしたいよ」
「うう……一人ぼっち」
見た目にげっそりしている。頭のイカミミもすっかりしょげていた。ぺたぺたした感触のミミをつまみ、指先でふにふにしながらなだめるみたいに言った。
「学校終わったらすぐ帰ってくるから。だから待っててくれ」
「待つよぉ……待つのは辛いなあ」
「そうやって待ってくれるの、俺嬉しいよ」
「本当?」
「前も玄関で出迎えてくれたことあったけどさ、あれすごく嬉しかったよ」
「そっかあ! じゃあ待ってます。全力で」
「楽しみにしてるよ」
そんな話をしていると母親がリビングから見送りに出てくる。空鞠との会話を聞かれていると気恥ずかしい。ちらりと母親を一瞥したぐらいで、祐介は再び空鞠に視線を戻す。
「行ってくる」
「うん!」
「行ってらっしゃーい」
母が手のひらを振る。空鞠は玄関先まで出てきて見送ってくれた。
「行ってらっしゃい!」
声を張り上げ両手を振ってくれる。祐介はくるりと振り向き、「行ってきます」とにこやかに返した。
しばらく歩いて、また玄関先を振り返る。空鞠はまだそこにいて空を見上げていて、ふとこちらを見たかと思うとまた大きく手を振り上げてぶんぶんと振る。祐介も手のひらをひらひらさせて答える。気分は晴れやかだった。
クラスに着くと気が重い。普段通りのはずだが、修学旅行を済ませたクラスメイトと自分とでは、やはり何かが決定的に違ってしまっているような気がする。
同じ班で行動するはずだったメンバーとどう接するべきか分からない。自分が休んでしまったことを謝るべきだろうか。だが同じ班で行動するというだけで、特に果たすべき役目があったというわけではないのだ。謝るべきトピックもないのに謝りに行くのも変じゃないだろうか?
そういうことを考えてしまって、動けない。どうするべきか分からないのだ。
動けずにいるうちにメンバーの一人が席までやって来る。そして祐介の欠席に触れ、具合が悪かったのか、今は大丈夫かと気遣ってくれる。大丈夫だと答える。心配してくれたことに礼を言う。そして話の流れで、一緒に修学旅行に行けなかったことをその一人には謝る。それで終わりだった。
終わってしまった。もっと何かすべきだったかもしれない。でも案外こんなものかもしれない。これ以上アクションするのも過剰かもしれない。その塩梅が祐介には分からない。
神さまと話したい。何かあるたび祐介は自分の中にオチをつけるみたいにそう思い浮かべる。
昼休み、購買から戻ってくるとき教室の中から自分の名前が聞こえた。クラスの女子たちが話していた。――邪神の社が壊されたことについて。
「あれ本当なの?」
「ガチだって。ほんとにお社壊されてたもん」
「ミカミンなの? それやったの」
「らしいよ。知らないけど」
「本人に訊いてみれば?」
「それは怖いでしょー」
反射的に廊下を引き返した。そのまま自販機に向かって、買いたくもなかった飲み物を買った。
邪神の社について誰かに訊かれてもおかしくないだろうとは思っていたが、実際誰も訊いてこない。代わりに噂ぐらいはするらしかった。
――ミカミン。名字を呼び捨てとか下の名前でとか、そういうふうに呼んでくる仲の相手もいないので、結局ニックネームがちょうどよくて、そういうふうに呼ばれる。
家に帰れば空鞠が待ってる。そう思いながら教室へと戻っていった。
◆
誰かにつけられている。そんな予感がする。
学校からの帰り道。日の傾き始めた空の下、祐介は居心地が悪いまま歩いている。
相手は神さまだろう、と祐介は思う。人間がこんな白昼堂々と自分をつけ回すとは思えない。人の目もあれば神さまの目もある。
そして相手が神さまならば後をつけられていても危険はない。犬や猫みたいな動物系の神さまならクセや遊びで後ろをついてくることもあるし、精神性の幼い神さまなら「だるまさんが転んだ」の要領でイタズラしてくることもある――神さま相手に顔の広い祐介ならば尚更だった。そういう触れ合いに祐介はいつもにこやかに応じる。
けれど今は居心地が悪い。
何かが違うのだ。
振り返ったほうがいいかな、と祐介は思う。考える。別に振り返った先に化け物がいて、「見たな」とおどろおどろしい声を発して襲いかかってくるなんてことは、まずない。ないと思う。どうかな――と祐介は考える。今の安合市は少し特殊な状況にある。とはいえ化け物が襲ってきたとしても、きっと誰か神さまが助けてくれるはずだ。というより今この時点で何らかの対処は講じてくれるはずだ、自分の背後にいるのが本当に化け物ならば。
気づけば視線が道路に落ちている。日光に照らされた路面に光の粒がキラキラしている。
それでも振り向いたほうがいいかな、と考える。かれこれ五分ぐらいそれで迷っている気がする。そもそも道を歩いているときに背後を振り返ること自体結構な勇気がいるのだ。自分だって前に誰か歩いているとき、いきなりその人がこちらを振り向いたら結構ビビる。自分が怪しまれているのかと思う。それを自分から誰かに仕掛けるのは忍びない。
でもなぁ、と祐介は迷う。悩み続けている。しかし後ろにいるものをこのまま家まで連れ帰ってしまうのもまずい気がする。それはかなり……怖いかもしれない。
ちょっと変わった神さまが自分に話しかけようとしているのかもしれない。しかし勇気が中々出なくて、一定の距離を保ったまま足踏みし続けているうちにこんな微妙な雰囲気になっているのかもしれない。
これだな、と祐介は決める。採用。くるりと背後を振り向いた。
そこには誰もいなかった。しかし不思議に思って目の前の景色をじっと眺めてみると、妙なものが目に飛び込んできた。
それは電柱の陰から飛び出ていた。ブラウスみたいな白い布地に包まれた豊かな膨らみが、電柱で隠れる範囲に収まりきらずはみ出ていた。
「えぇ?」
思わず声が出た。色んな感慨がこもっていた。
「――ふふ!」
すると祐介の声に応えるように電柱の向こうから笑いが漏れた。若い女の子の声、恐らく自分と同年代ぐらいだ――
「バレた?」
その子がひょっこり顔を出す。まるで隠れ場所の分かりきったかくれんぼでじゃれつくみたいに。
大きくて丸っこい金色の目に、キラキラ光る金色の髪。瞳は星型をアレンジしたみたいな独特の形状。
それから人懐っこくていたずらっぽい笑顔。
「あーし(傍点)ねぇ、キミのこと気になってたんよう!」
石でできた小さな箱が肩掛けポーチのように掛けられ、骨みたいに乾いた棒状の何かが箱の隙間から飛び出ていた。何の神さまか判別がつかない。
ただひとつ感じたのは、
「今時間ある? どっか寄ろ? てーかほんと緊張した〜!!」
その子にはどこか空鞠の面影があった。
家までまっすぐ向かうルートを少し外れ、公園のベンチに腰を下ろした。砂地では子どもたちが何やら走り回って遊んでいる。公園内でもひときわ大きな木の根元、色とりどりのランドセルがいくつもまとめて置かれていた。
「あのカバンかわいー。みんなあの子たちの?」
「小学生ならみんな持ってるよ」
「すご。あたしも欲しいなー」
そう言って、にこっとこちらに笑いかけてくる。
正体不明の女の子。
どこか店に寄りたい気もしたけど、この子を連れてあちこち歩くのは危ない気がした。この子が何者なのかまだ分からないし、……またあらぬ噂が教室内に流れそうでもあった。
『ねぇ聞いた!? ミカミン昨日ギャルと遊んでたって!!』
『どういう縁(えにし)!?』
……とはいえこれは大した問題ではない。本当は一刻も早く状況をはっきりさせたかっただけだ。
君は何者なのか。名前はなんと言うのか、目的は何なのか。そのためのまず一手。
「俺は祐介。君は?」
「あたしの名前? ……ない!」
「ない?」いきなり出鼻をくじかれる。「ないってことあるのか?」
「しょうがないよう! だってほんとにないんだもん。……あ! でも逆にね?」
胸元に手を当てながら、ぐっと身を乗り出してこちらを覗き込む。視界を自分で埋め尽くしてやろうとするみたいに。
「みんなナナって呼んでくれるよ。名無しのナナ。それがあたし」
「……ナナ」
それがこの子の名前かと思う以前に、すでにあだ名が付けられるほどナナがみんなと触れ合っているのに驚く。この分だともはや安合市に馴染んでいると言っても過言じゃなさそうだった。
「ナナは神さまなんだよな?」
「分からん! でも人間ではないっぽい?」
「たぶん神さまだと思うんだよな。……でもナナはちょっと違う感じがする」
「どゆこと?」
「分からない。だからナナについて聞かせてほしい」
「てれてれ」
ナナはよく笑う。……気を引き締める。いくら喋りやすくても相手が正体不明の神さまで、しかも自分を尾行していたことに変わりはないのだ。
「ナナは自分のこと、どれだけ分かる? 自分が何者なのか、神さまなら何を司ってるか」
「それ答えたらさぁ、ゆーくんもあたしに色々教えてくれる?」
「答えられる範囲で」
「駆け引き上手じゃーん」
妙に沸いた様子のナナを横目に、祐介はゆーくんと呼ばれたのを心密かに反芻している。ゆーくん。ゆーくんだった。ゆーちゃんに続いてのことだった。
「あたしはねえ」とナナが語り出す。「気付いたら安合市(このまち)にいて、こういうカラダでやっていくってことになってたんだよね。あんまり記憶とか自分は誰なのかとかなくて、つい最近爆誕した! って感じ。 この感じ分かるかな?」
「外から来た……ってことだったりする?」
「あっそれかも! かなりそう!」
ぴん、と立ったしなやかな指が祐介に向けられた。爪が長い。キラキラしたデコレーションで鮮やかな爪が飾られているが、どの装飾も星形を象ろうとしながら星形になるのを避けているような不思議な形をしていた。
「あたし外から来た感ある! どうだったかなぁ、外にいたら『ここが集合場所でーす!』みたいに喚(よ)ぶ声が聞こえてね、おっしじゃあ行くか! って気持ちになってね、しかも行く先がキラキラーってしてるからテンションも上がってきて。それで『うおー!!』って飛んで来たらなんかむぎゅーってなって、『負けるかー!!』って思って頑張ったら一皮むけた感じがして、そしたらあたしこの市にいた。夢から覚めました、って感じ」
「……ちょっと待ってね」
解釈の時間が必要だった。そして解釈した内容を呑み込む時間もいるはずだった。
それぐらいの情報量が今の話には詰まっている。祐介の直感だった。
「まず、ナナは恐らく安合市の外から来た」
「それ~しっくり来るでやんす」
「それならナナは、本当は神さまじゃない――ただ神さまって形を取ってるだけだ」
「いや~それはどうかな? あたしが元々外の世界の神さまだったって説は?」
「うーん……」と思わずうなる。「確かに」
そうなると思い浮かぶのは空鞠だ。空鞠もかつては外から来た神――邪神だった。
そこら辺の関係をはっきりさせたい。でもどう訊けばいいのか分からない。手がかりが掴めずにいる。
「ねぇねぇ、空鞠ちゃんっているよね? あたしその子のことが気になっててさあ!」
さっ、と血の気が引く。
「んでキミがマリたんのパートナーみたいな? なんて言うか分かんないけどそういう関係なんでしょ? 並々ならぬ関係性」
「待って」思わず遮る。「なんでそこまで知ってんの。マリたんって空鞠のこと?」
「情報収集! の! 賜物ですよっ」
そう言ってナナはスマホサイズの石板を見せつけてきた。妙な文字が浮かんでいた――クセは強いがギリギリ解読できる文字列だった。
『くうきにシンパシーかんじる なかまいる?』
『ちょうラブリー 神の波動かんじる』
『がちかもしれん』
『ひと・かみさま ともにしんせつ』
親指が石板をスワイプする。すると横書きの文字列が縦に流れる。
『おんなのこ と おとこのこ』
『おとこのこ気になる』
その下に続くのは聞き込みによる情報と証言らしい。他人から見た自分たちの評……見るべきじゃないかもしれない、と直感してとっさに目を背ける。それよりも今見るべきなのはナナの情報収集能力だろう。端的に言えば他者と打ち解け言葉を引き出す力だ。ついでに尾行も辞さない――これは好奇心とか胆力とか行動力とか何とでも解釈できる。
「何が目的なんだ?」
感想はこれに尽きる。……こうなる予感はしていた。しかしいざ突っ込まれると焦りが出る。こんな駆け引きは今までしたことがなかった。せいぜいゲームの中でやったことがあるかどうかだ。現実で腹の探り合いなんて経験がない。負けない自信もやりきれる自信もない。
そもそも、実際ナナが気をつけるべき相手なのか、自分には分からない。どうして空鞠のことは信用してナナのことは警戒するのか、上手く説明できない。空鞠のパートナーであるならナナのことも信用して受け入れるべきじゃないのか?
「目的ね~」
隣でナナが空を仰ぐ。
それはきっとナナが通り抜けてきた空だった。
「あたしもそれを探してる。どうしてあたしは動くのか、なんであたしはマリたんのことが気になるのか。マリたんのこと知りたいし、ゆーくんのことも気になるよ」
そんなふうに呟いてからこちらを振り向き、「でもね?」とナナは続けた。
「なんとなく分かることもあるよ。あたしはたぶん『誰かと繋がりたい』。そんで『広がりたい、世界中にあたしの世界を広げたい』。それにはマリたんが必要なんだ。本当はあたしって宇宙に浮いてるちっちゃい塵の一粒みたいなもので、逆にマリたんはあたしにとって神様みたいなもんじゃないかって気がしてる。今はマリたん、そのことを忘れてるだけ。ただ自分の持ち場を離れてるだけで、本来ならあたしとおんなじことを考えてるはず――そういう感じがすんだよねー?」
聞いていて目眩がしそうな瞬間があった。隣にいるはずのナナが急に遠くに行ってしまったような気がした。もちろん誰だってその人なりの哲学や価値観、生きているがゆえの奥行きを見せてくれるときはある。けれどナナの場合それとは少し違う気がした。
「ね、ぇ」
指先で二の腕をつんつんされる。甘えるように、じゃれるように。
「そういう訳でマリたんと会ってみたいかも。ダメ?」
……不安があった。応答は慎重にしたかった。
「まだなんとも言えない。正直まだナナのことよく分からないし、そもそも俺が全部決めちゃうのも空鞠に申し訳ないよ」
「確かにー」ナナが距離を離し、祐介の顔をじっと見つめる。「なんかずっと緊張してる?」
「緊張はしてる」
「あたし、可愛い?」
「そういうのではなく。いやなんというかな、これはよく知らない人がグイグイきてるときの緊張感」
「いいのになー。ラクにしてくれていいのになー!」
突如むにゅうぅ、と抱きつかれる。ドキッとする、思わず身体が固まる――これ以上どこにも触れてしまわないように。その間ずっと桃に似た甘い匂いがしていた。
「マリたんとこういうことしてる?」
「してません」
「する?」
「しま……離れてくれません?」
「離れてほしい?」
「離れたほうがいいと思うので離れてほしいです」
「いちゃ、いちゃ」
「してません」
ナナがようやく離れる。腕に押し付けられた柔らかな感触が今も幻覚のように残っている。覚めるには惜しい夢を見ていたみたいだ。
しかし、これ以上気を許すわけにもいかなかった。
ナナは邪神としての空鞠を求めているらしい。それが今現在の祐介の評価だった。
「色々話してくれたのに申し訳ないけど、ちょっと慎重になりたいんだ。空鞠はまだまだこの市に慣れようとしてる段階だし、俺は君のことをまだよく知らない」
「あたしら仲良くなれたかなあ? でも今日話せて嬉しかった」
「俺も嬉しい。でもごめん、空鞠のことは大切にしたいんだよ。大丈夫って分かったらきっと紹介する」
「ま~仕方ないよね! ってかやっぱ初対面なのにこんな話してくれるの嬉しいよ」
ナナが立ち上がる。こちらを振り向き、見下ろす。どうやらこの場はもうお開きで、今は祐介が立ち上がるのを待っているらしかった。それに応じて祐介も腰を浮かせる。
ナナの身長は祐介よりも低い。空鞠と同じか少し小さいくらいだった。
「今日はありがと! いつかまた話そうね」
「俺のほうこそ。また縁があれば」
「ばいばい!!」
ナナが手を振り、公園の出口へ歩いていく。白いブラウス姿の背中が暮れかけた日の光でぱりっと輝いていた。
「ナナ!」その背中を呼び止める。
「はーい? なーにー?」くるりと回って後ろ歩き。
「尾行はよしてくれると助かる! 怖いから!」
「あーね!」またぶんぶん腕を振る。「善処しまーす!」
そう言ってナナは去っていった。
後に残るのは少しの物寂しさ。
まだ祐介はナナのことが分からない。
家に帰ると空鞠が玄関で待機していた。戸を開けるやいなやニコニコして立ち上がる。
「おかえり!」
「ただいま。ごめん、遅くなった」
階段を上がると空鞠がついてくる。確か初めて空鞠に出迎えられたときもこうだった。空鞠のクセなのかもしれない。流れで部屋に入り、空鞠を招き入れた。
「あ」と部屋に一歩踏み入って空鞠が声を上げる。「ゆーちゃん着替えるよね? ごめん、出るね」
「待って」引き留める。「ちょっと話したいことがあってさ」
「なに?」
「帰ってる途中、空鞠の仲間みたいな子と出会った」
空鞠の表情が変わる。にこやかな色がすっと引いて、緊張と困惑の入り混じった顔になる。
「……話してくれる?」
ナナについて祐介は語る。ナナとの出会い、ナナとの話、そして自分が受けた印象――祐介が話し終えたとき、空鞠は思いを巡らせるみたいに腕を組んでいた。
「その子はたぶんわたしの眷属。わたしの眷属だったもの」
声音に動揺はない。至って冷静だった。
「空鞠の同族ってところか?」
「同族か後輩か、信徒か、あるいはしもべか。眷属って言ってもある程度の幅はあるの。種類とか成り立ちとか、ポジションとかね。ただナナって子について確実らしいのは、その子が元々わたしたちの領域の生命であること」
それから思い出したように付け加える。
「恐らくだけどね」
「安合市の中に入ってきてる……ってことになるよな」
「あまり考えたくないけど……そうだね」
「同類か……」
空鞠はうなずく。その胸中にはきっと複雑なものが渦巻いている。うかつなことは言うべきでないように思った。
「タマさんには伝えといたほうがいいかもな」
「あの……ね」
空鞠が祐介を見上げる。言いにくいことを言おうとしているのが分かる。うん、とだけうなずいて、空鞠が口を開くのを待った。
「気を付けてね」と空鞠がいった。「人のこと、言えないんだけど、わたし……」
内心驚いていた。空鞠がまだ自分についてそんなふうに思っていること。
「心配してくれてありがとう。空鞠も、大丈夫だからな」
空鞠が不安げにうなずく。空鞠はきっと大丈夫だと信じる気持ちは本当だった。だがその気持ちをどうやって証明すればいいのか、分からずにいるのも本当だった。
翌朝、窓越しに聞こえてくる驚きの声で目が覚めた。たぶんお隣さんのお父さんの声だった。それとともに女の子の声も聞こえてくる。まだ眠いベッドの上で親子が何か話しているらしいのをぼーっと聞いている。
外は曇りらしい。カーテンの隙間から差し込む朝日の鈍り具合でそれが分かる。
「これ何のさかなー?」
「イワシじゃねえかなあ」
何の話をしてるんだろうと思う。ついさっきクール便で送られてきた荷物を親子一緒に玄関先で開封しているところなのだろうか?
無茶がある、と祐介は思う。ほとんど頭は眠っているのに内側では思考がぐるぐる渦巻いている。そういう朝が祐介は苦しい。
アラームが鳴る。
身体がだるい。重たいまぶたをなんとか開き、スマホを探してアラームを止める――その音楽とバイブレーションが祐介は嫌いだ。
ベッドから出る。そしてカーテンを引いた。
目を見張った。
空が桃色だ。まるでふわふわのわたあめを下地に敷き詰めたかのような空に、飾り物めいた月や星がぷかぷか浮かんでいる。本物の天体よりずっと高度は低い。なんならカラスが三日月の上に止まって地上をきょろきょろ眺めているのが見えた。その漆黒色がこの空には異物感があった。本物の太陽はといえば綿みたいな空に遮られた鈍い光を地上に投げかけている。
ついでに、地面にイワシが大量に落ちていた。
情報量が多すぎる。目覚めきっていない頭でそう思った。
「これどうなってんの?」
リビングに降り、キッチンに向かう母の背中に訊いてみる。
「分かんな~い。神さまの気まぐれじゃない?」
「そんな気もするけどなあ」
「あ! そういえばあっちのほうすごいことなってたよ」
「あっちってどっち」
「あっち」
……自分で探すことにする。桃色の空が広がる窓際に立つと、母が何のことを言っているのか探すまでもなく見つかった。遙か遠く、淡いピンクにかすんだ遠景に、まるで大地に突き刺さった巨大な岩みたいなものが見えた。
「あれ、何」
「山じゃない? 起きたら山増えてたんだけど。ヤバ~」
時々祐介は母親のことを不思議に思うことがある。どうしてここまでどっしり構えていられるのだろう? おかげで空鞠を家に置いてもらってもいるのだが、その呑気さというか大物具合には度々驚かされる。……安合市民であることを抜きにしても。
「おはよう! 空ピンクだね。おはようございます! 今日お魚が降ってきたみたいですね」
空鞠がリビングに入ってくる。おはようのあいさつもそこそこに窓の外を指差すと、空鞠は声を上げて窓際に近寄った。
「あれ何ですか? 山? おっきな岩? 大空鳥居みたいな感じですか」
「今日起きたらいきなりできてたのよ」
「何事ですか?」
さぁ、と三上家の人間二人で肩をすくめる。空鞠は祐介と母親の顔を交互に眺め、再び窓の景色と向かい合った。
「でもまぁ、たまにあるよねぇ?」
「こういうことはな」
「空が桃色になって、イワシが降ってきて、山がひとつ増えるのですか?」
「これぐらい一度に色々起こるのは珍しいけどさー」
「なくはない、ぐらいで」
「そう。なくはない」
「安合市ってすごいんですね」
空鞠が感心したように言う。確かにそうだと思った。空鞠の胸には今日も釘が光っている。
「今夜イワシで何か作ろうか」
「あれ食べていいの? ヤバそうじゃない?」
「怖いの? タマちゃんからもらったチュロスは食べるのに」
「イワシは……ほら。ナマモノじゃん」
「タマちゃんのチュロスだってナマモノみたいなもんじゃない?」
そう言われると返す言葉がない。早々に問答を切り上げ、空鞠と一緒に窓の外を見やった。
桃色の空。新鮮なイワシ。……天気は晴れ。
このままだと安合市中が生臭くなるのも時間の問題だろうと思った。
安合市内の至る所が浮ついている。学校へ向かう道すがら祐介はひしひしと感じていた。
物珍しそうにする人々はさることながら、通学路を通りがかる神さまの数がいつもより多い。その上妙にテンションが高い。だいたい走っているか声を上げて笑っている。こんな通勤通学の時間帯からだ。
クラスでも話題は安合市の異変で持ちきりだった。中にはイワシを一尾指につまんで持ってくる生徒もいて、いつも以上に教室内は賑やかだった。案の定イワシの処分はノープランだった。持て余されたイワシはホームルーム直前になって窓の外側に安置された。すると猫の神さまがどこからか登ってきて拝借していった。
みな透明な膜一枚隔てた向こう側で起きていること。祐介にはそう感じられる。
その頭の片隅にはナナと空鞠の姿が浮かんでいた。
「祐介くん。祐介くんっ」
下校途中の信号待ち、誰かに背中から呼びかけられる。聞き覚えのある声だと思ったらやはりトマトちゃんだった。
「珍しいですね。どうしたんですか?」
「ちょっとね、あっ青ですよ、渡っちゃいましょう」
トマトちゃんに袖を引かれ、一緒に横断歩道を渡る。見た目こそ小さな子に手を引かれているようなのだが、実際は自分よりずっと長生きしているお姉さんに導かれているのだ。トマトちゃんは度々そういう仕草をするので祐介は緊張してしまう。
道路を渡りきり、肩を並べながら歩く。
「ちょうど祐介くんのお家にお邪魔しようと思ってたんです。ちょっと、話したくて。歩きながらで大丈夫ですから」
「うちに寄ってもらっていいのに」
「どうしてもってときにはそうするつもりでした。でもなんというか、申し訳なくて」
『何がですか?、と返しかけて口をつぐんだ。トマトちゃんの顔にはやはりどこか浮かない影を浮かべていた。トマトちゃんのそういう顔は初めて見た。
「空鞠のことですか」と率直に訊ねた。
「――えっとね」
曖昧な答え。たぶんそうなのだと祐介は直感する。
トマトちゃんが口を開いた。
「最近、ちょっとおかしなことになってるでしょう?」
そう言われてともに見上げた空は、確かに偏った趣味のデコレーションが施されている。空を元に戻そうとしているのか、上空を飛び回って奔走するたくさんの神さまたちの姿が見受けられた。市のいたるところがざわめいている。
「神さまたち、妙にテンション高い気がしますね。みんながみんなそうではないですけど」
するとトマトちゃんが難しい顔で押し黙った。しばらく黙って一緒に歩いていたが、程なくして口を開いた。
「この異変。だいぶポップだけど、本質は昔に似てるんです」
「昔……っていうのは、邪神が襲ってきたときのことですか」
トマトちゃんがうなずく。横から祐介の顔を見上げた。
「だからそう、私、不安で、ね。――怖いんです」
言っている本人が辛そうにしていた。
「やっぱり、どうしても、あの子のことが。これはあのときのみんなと同じ姿だから」
瞬間に思いを巡らす。これは空鞠や、空鞠の呼び寄せたものの影響なのだろうか?
そんなことはないと思いたい。だけど実際のところは祐介には分かるわけがない。
自分はあまりに小さな存在だった。
「実はね」とトマトちゃんが口を開いた。「私、知ってるんですよ」
「何をですか?」
「瑞波ちゃんの居場所」
声が出てこなかった。
どこにいるんですか、と訊ねたかった。できなかった。
「数日前、空鞠ちゃんが目覚めたときですね。瑞波ちゃん、辛そうにして私のところまでやってきました。私を頼ってきてくれたんですね。それで私、ずっと遠くにある山を指して、そこで身を隠しながら休んでいるように言いました。そこが瑞波ちゃんの川の水源なんです」
――納得できる。瑞波は川の神さまで、トマトちゃんは水で育まれる野菜の神さまだ。二人は元々仲がよかった。実際祐介も自分の家の畑を二人に手伝ってもらったことがある。
「タマちゃんにもそのことは伝えております。その上で祐介くんには秘密にしておこうって決めました」
「……どうして」
「きっと瑞波ちゃんも、こんな形での再会は望んでないだろうから」
「それはきっと……そうですね」
そんなことしか言えずにいる。受け止めるだけでいっぱいだった。
「……私はみんなのことが心配です。瑞波ちゃんも祐介くんも、この市に住むみんなのことが」
「空鞠……は」
「そうですね。空鞠ちゃんもそうです。でもどっちにせよ……」
トマトちゃんが息をつく。言いにくいことを言おうとしているらしかった。
そして口が開かれた。
「やっぱり瑞波ちゃんのこと、しばらく外には出してあげられそうにない。……そう思ってしまいました……ね」
足が止まりそうだった。それでも歩き続けた。立ち止まったときの沈黙を埋められる言葉が今の祐介にはなかった。
しばらく二人で並んで歩いていた。
「……背負いきれませんか」
ふとトマトちゃんが申し訳なさそうに言う。祐介は何か言葉を返そうとするが、返せない。言うべき言葉が未だに見つからなかった。
「――背負いきれないのは」トマトちゃんが足を止める。「それはきっと、空鞠ちゃんも、同じですよね」
ずん、と胸に重いものが落ちた。
帰り道。二人分の影法師が長く伸びている。
トマトちゃんと別れた後、家まで駆け足気味に戻った。玄関のドアを開いて思わず祐介は立ちすくむ。
「おかえり!」
今日も空鞠が待ってくれていた。いつものように――もうそんなふうに言ってしまっていいはずだった。
「ゆーちゃんどうしたの? そんな急いで……」
「空鞠……!」
名前を呼んだ。自分でも驚くくらい切実な響きがこもっていた。それで空鞠も何かを察したらしかった。
「誰かが不安に思ってるんだよね? 今の安合市のこと、それからわたしのこと」
答えられない。しかし沈黙がすでに何かを語っている。
空鞠はこちらを見上げたまま薄く微笑んでいた。が、やがてこっくりとうなずき、そのまま顔をうつむかせた。「うん」と空鞠が喉の奥から声を発した。悪い流れになっている、と祐介は思った。切り替えなくちゃいけない。そう思って声を出すか身体を動かすかしようとしたとき、空鞠が静かに口を開いた。
静寂のさなか、息を吸い込む音が聞こえた。
「あのときのわたしには心がなかった。人間とか、この市(まち)の神さまが持ってるような心がね」
目眩がしそうだった。誰かが、自分の胸の奥に閉じ込めておきたい何かを語ろうとしている。空気が張り詰めるその一瞬を祐介ははっきり感じた。
リュックを下ろし、空鞠の隣に腰掛けた。うつむいた空鞠の横顔を見つめた。玄関に差し込む陽の光を浴びた空鞠の髪の艶めきも顔の稜線も、みな絵画に切り取られた一瞬間みたいに思えた。
「わたしは神としての……何と言うかな、原理で動いてた。この市、この星、この世界の法則の中で動いてたならそれは摂理って呼べるだろうけど、わたしはそういう枠組みの外から来たんだよ。そしてわたしはこの地を襲った。それはわたしという神の原理だった」
まるで古びた神話を読み解いているような語り口だった。空鞠の内側にある神話だ。
「結果的にこの市は美しかった。今のわたしの心で解釈できるぐらいに……わたしはこの市を支配しようとしていた。それは本当。間違いない」
「間違いないとしても、今の空鞠と昔の邪神は別物だろ?」
「それも正しいの。でもね。正直、ね」
空鞠が強く膝を抱く。膝頭に釘を挟むようにして、ぐっと胴体にくっつける。
「姿も変わって、心も宿って……わたしはかつての邪神からまるっきり変貌した。わたしはもう邪神の器じゃない。どこまで今のわたしに背負えるか……背負うべきなのか、分からないでいる」
白昼の安合市は不思議とひっそりとしていた。外で起こっているはずの騒ぎがドア一枚隔てただけですでに遠く思える。
「邪神だったわたしにはすべてを背負える力があった。でも今のわたしはただの神さまなんだよ。どれだけやれるか分からない……やらなきゃいけないのは知ってる……けど……」
「怖いな」
「…………」
こくん、と空鞠がうなずいた。
「たぶんね、わたし……」
こちらを振り向くことなく、空鞠はぽつりと呟いた。
「耐えられない……」
言うべき言葉が見つからない。弱い陽の光が二人の距離を照らしている。
夜。誰かが窓を叩く。いつも通り窓際に寄ってカーテンを開いた。
窓の外を見上げたまま固まった。
ナナが窓の外で手を振っていた。笑顔で。
てっきりいつも通りフーコが来たのだと思っていた。ちょうどフーコと話したり相談したいと思っていたところだった。
思っても見ない来客だった。
頭がフル回転する。たぶんこの窓は開けちゃダメだな、と直感する。こちらは招いた覚えもないし、家を教えた覚えもない。それでも訪れてくる奴は率直に言って関わるだけ言って危険だ。――カーテンを閉めてしまおう。
その考えが筒抜けだったのか、ナナが急いでスマホ状の板に何かを打ち込み始める。両手の親指を使って。そしてその板の表面を窓越しにこちらへ向けた。……暗い窓ガラスには室内の映り込みがひどくて、よく見えない。
手のひらを向ける。ちょっと待って、のサイン。部屋の電気を消して真っ暗にして戻ってくると、窓の向こうで板が発光していた。本当にスマホみたいだった。そこに浮かびあがる文字を……やたら丸っこくて本当は文字でない記号を無理矢理文字として使っているかのようなクセの強い文字を解読する。
『きゅうにごめんね! きちゃった 窓あけてくれない? ダメ?』
……考える。答えるべきか、答えるとするならどう答えるべきか。一瞬考えた末、祐介はスマホを取り出す。アプリのメモ帳を開く、文字を打ち込む。
『家を教えた覚えはないです。ちょっと怖いです』
ナナはガラス越しにパチパチと大きな目をしばたたかせた。その目を見ていると確かに空鞠の眷属だというのもうなずける気がした。ナナは再び石版を眼前に持ち上げ、忙しそうに文字を打ち込み始める。
『ごめん こういうのってあんまりやるべきじゃなかったりする? だとしたらごめんなさい いろいろまだよくわかんなくて』
判断に困る。判断というのは相手の善悪の観念についてだ。悪気はない……ように見える。しかし分からない。苦しかった。それで結局次のように返信する。
『何の用ですか?』
『話したかったの あたしいろいろみてまわったから』
『色々というのは? 何を見て回ったんですか?』
『このまちのこと なんかおもろいね いつもこうなの?』
『何が面白かったんですか?』
『おそらキラキラ。あとなんかみんなはっぴー』
『ハッピーって言うのはテンションが高いってことですか?』
『にゅ』
『にゅってなんですか』
『イエス の意』
……調子が狂う。
『全くないってこともないですけど、今日みたいなのはちょっと異常です』
するとナナは何か考えるように思案する。それからまた石版に何か打ち込んだ。
『マリたんの影響だったりとか』
何を言うのか、と思った。でも抑えた。代わりに返信する。
『それは純粋な疑問ですか?』
『心配なんだよ 苦しんでないかとか これでもあたし赤の他人じゃないし』
ますます分からなくなってくる。
この子は自分や空鞠にとって味方なのか否か。どういう位置関係にあるのか。
『なんとも言えません。俺にも気になってます。でも俺は空鞠のこと疑ってません。矛盾してるようだけど』
『そう信じたいのね?』
『そういうことになります』文面じゃなければきっと苦々しい語調になっていたと思う。
『なんかうれしーです マリたんのこと信じてるの』
どう返せばいいか分からなくて、石版を目にしたまましばらく黙っていた。すると石版が向こうを向く。窓ガラスの向こうで、石版の白い光に照らされたままナナが笑っていた。
『トマトちゃんとマリたんのことごぞんじですかい』
『恐らく』見せてすぐ補足する。『同じこと言ってるか分かんないですけど』
『トマトちゃんとマリたん仲良くなれないのかな?』
窓を開けたい、と思った。それについては思うところがあった。ガラスの向こうでナナがこちらを見つめていた。口元に笑みを浮かべて、目元に楽しそうな表情を浮かべて。窓を開けて話したい、と強く思った。窓のロックに視線を注いだ。
けれど開かない。スマホを握りしめる。文字を打つ。
『長い話になるので少し待ってください』
するとナナは親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。誰でも分かるOKのサインだった。それを受けて祐介は再び文字を打ち始める。長くかかる。途中でナナの様子を窺ってみた。
ナナは屋根の上に腰掛けたまま、こちらに横顔を向けて夜空を仰いでいた。その目は遠い星、遠い空、遠い暗黒を見ているに違いなかった。
素敵な人だな、と思った。
ガラスを叩く。こちらへ振り向いたナナの顔に、スマホの光る画面を掲げる。
『トマトちゃんは安合市でも古株の神さまです。それがどうしてトマトっていう外から新しく入ってきた野菜を推してるのか、最近急に気になって考えてたんですよ』
ナナは画面に顔を向けたまま、視線だけこちらに向けてうなずく。祐介は画面をスワイプして次の文章を表示する――すでに全文打ち込んである。あとは順番に見せていけばいいだけだ。
『先に言うと答えは出てません。本人に聞かないと分かんないです。でもトマトってヨーロッパだと最初は毒があると思われてたり、外国から日本に入ってきたときも受け入れられるまでに時間がかかったって言います。トマトちゃんもそういう時代を知ってるはずです。それでも今こうやってトマトを受け入れて、何なら主にトマトを司るって言うぐらいになってます。』
『はなしみえました かしこいので』
『だから本来トマトちゃんはそういう気質なんだと思います。外から来たものを一番に受け入れて、輪の中に入るか、自分の居場所を見つけるかするまで目をかけてくれる。本当は空鞠だって例外じゃないんだと思います。』
最後の一文。
『希望的観測ですけど』
ナナが何度も細かくうなずく。ふんふん、といった感じだ。感心はしてくれているらしい。石版に文字を打ち込み、またこちらに見せてくる。
『邪神 ≒ トマト ?』
『そうなります』
『食わず嫌い?』
『そうなります』文面のリサイクル。
ナナが大きな目を更に見開く。そのまま頭上を仰いだ。何やらダイナミックな考え事をしているらしかった。しばらく様子を窺っていると、再びナナがこちらに画面を見せてきた。
『ゆうすけくんはトマトすきですか』
『苦手です。小さい頃に食べたきり』
『じゃあだめだ~~~』ガラスの向こうでナナが笑い、すぐに石版をスワイプする。『冗談。きみもがんばらなきゃだね』
うなずく。そうだ。人のことは言えない。空鞠とか世界とか、誰かに何かを望んだり期待したりするなら、自分だって相応の対価は支払わなくちゃいけない。相応しいようにならなくちゃいけない。
分かってはいるのだ。
ナナもまた祐介の顔をじーっと眺めて、そしてうなずいた。何かを了解したかのような表情だった。もう石版に文字を打ち込むことはなかった。スカートのポケットに石版をしまい、こちらにぐっと顔を近づけた。
唇が動く。
音は聞こえない。しかしそれは何らかの形を取っていた。こちらに手向ける言葉の形。祐介がその一瞬に想像力を巡らした瞬間、ナナがガラスに軽く口先を触れさせた。
驚く祐介を前にナナははしゃぐように笑っている。それからぶんぶん手を振ってきた。立ち上がるとこちらに背を向けて歩き出し、軽い足取りのまま屋根からぴょんと飛び降りた。
もういない。残されたのは唇の跡……キスのレプリカ。しばらく呆然としていた。しかし思い立って部屋の電気を点け、また窓際に寄るとナナのキスの跡がなお白く浮かび上がった。
何も分からない。
分からなかったが、分からないなりに嬉しかったり心地良かったり、何かを期待してもいいように思ってしまうのが自分でも嫌だった。罪悪感があった。しかし何に対して申し訳なく感じているのか、それを考え出すと祐介はその場から動けなくなる。
ベッドに身を投げ出した。目を閉じた。課題だとか明日の準備だとか、やるべきことはまだ残っていた。でもほとんどとっくに諦めていた。目を閉じたままでいた。やっぱり電気は消したままのほうがよかったな、とまぶたを透けてくる煩わしい光の中で考えた。
気がつくとどこかにいた。
空が広い。真っ青な空が頭上一面に広がっている。太陽の光がギラギラと輝いて、空一面に光を放っている。
どこかの島にいるみたいだ。波の音が聞こえる。辺りを見回すとどこかの遺跡か神殿みたいな光景が広がっていた。巨大な石造りの構造物が砕けたりひび割れたりしながら佇んでいる。至るところに緑と黒の粘液が付着していた。ただ辺りの景色を眺めているだけなのに、風景が所々寄り目で見ているみたいに妙な像を結んだ。
知らない場所だった。自分はどうしてこんなところにいるのか、記憶をたどってみる。ナナと話した。そのあとすぐベッドに横になった。
これは夢か、と思い至る。知らない場所の夢だ。しかしどこか懐かしかった。今は忘れているだけで確かに思い出のどこかにはこんな虚ろな風景がある気がした。きっと誰の心の中にもこんな風景はあるはずだと思った。静けさと波の音、雲ひとつない青空。
「ゆーちゃん」
声がした。
空鞠だ。
「ゆーちゃん? なんでここにいるの?」
声がしたほうを振り向いた。
巨大な階段があった。巨大な段をいくつも登った上に空鞠がいて、足を組んでこちらを見下ろしていた。
「ゆーちゃん? どうしたの?」
祐介は階段のそばに近寄った。段は一つひとつがちょっとした壁みたいだった。近くに立って、腕をまっすぐ上に伸ばして、それでやっと上の段の面に届く。登るには一苦労だった。それでも空鞠目指して巨大な階段を登っていった。
「いいの? そんな近くに来ちゃって」
「だってまぁ、その……」言い淀む。結局言う。「見えちゃうから……下にいると……」
一瞬ぽかんとした空鞠だったが、すぐにはっと気づいて太ももの間にスカートを挟んだ。今や両ももの間はぎゅっと隙間なく密度高く閉ざされている。隣でうつむく空鞠の真っ赤な頬がちらりと見えた。
「ごめん……まだこの身体とか人間の慎みとか、慣れてないもので……」
「いや……なんかこっちも申し訳ないというか……」
しばしぎこちない間が空いた。空は気が遠くなるほど青く澄んでいて、どこにも太陽が見えないのにぎらぎらとした陽光が照り付けていた。遠い波の音が微かに耳に響いた。状況も光景も異様だったが、異様なりにのどかだった。
隣に空鞠がいるからかもしれない。
「は……恥ずかしいね、えへ……」
身を縮めたまま空鞠がはにかむ。
「不思議……わたし、まだこの身体で目覚めて何日も経ってないのに、ちゃんと恥ずかしいって感じるもん……」
「恥ずかしいのが不思議……か」空鞠の言葉を聞いて思い出すことがあった。「人類の恥じらいの起源は何なのかって話があったな。人間は裸でいることを恥じらうようになったから服を着始めたのか、逆に服を着始めたから裸を恥ずかしく思い始めたのか」
「ぱ、ぱんつを恥ずかしがるようになったのはいつからですか?」
「パンツを履き始めてからだろうな」
「ゆーちゃんもぱんつ見られたら恥ずかしい?」
「そりゃそうだよ」
「みんなそうなのかな?」
「たぶん。何事にも例外はあるけど、基本的にみんなパンツは見られたくないものと思っておけば間違いはない」
パンツパンツ、と連呼していてふと冷静になる。
「もしかしてこれ、空鞠が見せてる夢なのか?」
ぱちくり、と空鞠が瞬きする。目線だけ空を仰いで、んー、と唸った。それから答えた。
「そういうことになるのかも」
「意識して見せてるわけじゃないのか」
「夢でもゆーちゃんに会いたいじゃん」
「んぐ」急に言われると照れてしまって何も返せない。満足に反応できないまま話を続ける。「……今俺が話してるのって空鞠本人?」
「半分ぐらいはね。今ここにいるわたしは、わたしが発信した思念の波と、ゆーちゃんの中にあるわたしの像とが結びついたものだよ。だからこれはわたしとゆーちゃんが一緒に描いた幻なの」
「じゃあこれ、俺が勝手に空鞠の出てくるえっちな夢を見てるってわけじゃないよな?」
「わはー」感心したように空鞠が声を上げる。「たぶんゆーちゃんが初めてだよ。いくら夢でもわたしの領域でえっちな話したの」
「……え? 実際どうなんだ?」
「でもこうしてみるとえっちだとか何だとかって実際に生きてる人間の領域の話なんだって感じがすごくするね。わたしたちの中にも自己の複製とか他種族との交合、あるいは新しい地平の開拓っていう意味合いから子を成したり産み落としたりってのはあったけど、そういう生物的な生殖活動の周辺領域に精神的な意味や観念を付与して、いわば独自の世界観として扱ったり実際に自分自身がその内部に浴したりっていうのはやっぱり人間に特有な、というか文化の一形態にして一分野って感じがする」
「なんで早口で感心してんだ?」
「ゆーちゃん、もっとくっついていい?」
「そういう話をした後だとちょっとまずい気がするよ」
「ゆーちゃん」
ぴとっ、と肩がくっつく。全身がぴんと強張ると同時、祐介は漠然とした違和感に気づく。
それは本当に些細な違和感だった。何かを見落としているのだった。近くに寄った空鞠の顔を眺めながら違和感の元を探っていると、ふっとその正体に気づいた。
「ゆーちゃん」
空鞠が笑いかける。目を細めて笑いかける。
「今ならもっと近づけるよ」
そうだ。
今隣にいる空鞠は、胸に釘が刺さっていない。
現実よりも純粋な空鞠が、今祐介の隣に座っていた。
◆
目覚めたとき、部屋のあちこちからミシミシと何かが軋む音がしていた。昨夜電気を消さずに眠ったせいで明かりがまだ点いている。早く起き上がって部屋の電気を消さなければ――そう思うと余計にだるくて起き上がれない。目を閉じる。二度寝するわけではないが、目覚めた祐介が朝一番にすることと言えばまず一旦目を閉じることなのだった。
部屋のあちこちからミシミシと何かが軋む音がしている。
いったいさっきから何の音だ、と祐介はまぶたの裏の暗闇の中で思う。起き上がったほうがいい気がした。しかしそれとは別にまだ横になってもいたかった。つい先ほどまで見ていた気がする夢について考えたかった。
ふっ、と空鞠の姿が脳裏に浮かんだ。
ベッドの上でごろりと転がる。仰向けからうつぶせに。それから、万感の思いの籠もった呻きとともに、シーツの上に両肘をつく。
「ぐおぉぉぉ……ォ」額は布団に着けたまま。「ァ…………ァァ」
起床成功だった。進化したての類人猿みたいに立ち上がり、頭を振り乱してドアの脇の照明スイッチまでたどりつく。壁にもたれかかるついでに照明をオフにした。室内の明かりが寝起きの頭に優しくなる。
相変わらずそこかしこが軋んでいる。
外から聞こえている気がした。外から内側に――何かが向かってきているような。
勇気が要った。それでも窓際に近づき、昨日の夜から閉め切っているカーテンを引いた。
『あ!』『あっ!』『あーっ!!』
息を呑んだ。一瞬理解できない。
窓全体を埋め尽くすほどに神さまたちが張り付いていた。日の光も通さないぐらい密集して、窓に頬や手のひらの跡がびっしりくっつくほど密着していた。祐介がカーテンを開いたのをきっかけにどよめきがさらに勢いを増す。
『ねえ! ねえねえねえ!』
『空鞠ちゃんは?』
『空鞠ちゃんいる!?』
部屋の中で立ち尽くしている。頭の中が完全に真っ白になりかけたそのとき、
「ゆーちゃん!」
階段を駆け上がる音に続いて勢いよくドアが開く。
「空鞠! これっ――」
「うん!! 釘抜いてくれる!?」
「分かった!!」
言下に空鞠を解き放つ。すると窓の外で歓声が上がる――異様極まりない。触手が部屋の中で広がっていくにつれ、窓に張り付く神さまたちの熱狂もヒートアップしていく。
「これ全員空鞠目当てか……?」
「ゆーちゃん!」
空鞠に声をかけられる。振り向くとすでに空鞠は意を決した顔をしていた。
「何が起きてるか分からないけど、たぶんこのままここにはいられない。お家潰れちゃうよ」
「出るにしてもどうするんだ?」
「ゆーちゃん、ちょっと失礼するね」
寝間着姿の祐介にあちこちから触手が絡みつく。ぬらりとした感触に思わず声を上げそうになるが抑える。空鞠を傷つけそうで怖かった。
「飛んで出るのか? この……神さまたちの中を?」
「このまま窓を開けたら部屋がパンクしちゃうと思う。だから」
空鞠が祐介の身体を引き寄せる。一塊となった状態で空鞠がふわりと浮かび、部屋の隅へと視線を向けた。
「特殊な角度でここを出る。……言ってる感じ分かるかなあ」
もちろん分かるはずがない。特殊な角度とは何のことだ?
「とにかく今からここを出るよ。ゆーちゃんはわたしにくっついてて。釘、そのまま握ってて。お願い」
「任せろ」
しっかりと釘を握り直す。逆に言えばこれぐらいしか自分の仕事はない――そう思いながら空鞠に身を寄せた。
「じゃあ、行くね!」
空鞠が部屋の隅っこ、天井と壁が合流する直角のスペース目掛けて飛んだ。
ぐるん、と視界がひっくり返る感覚があった。身体は直進しているのに、平衡感覚や目に映る光景はぐるぐる転がっている。ちょうど今特殊な角度を通り抜けている――そう思ったのも束の間、途端にパッと視界が開ける。
空がふたつに割れていた。いつも通りの青空と異変そのものの桃色の空。背後から喧騒が聞こえて振り返ると神さまたちが巣に集まる蜂のようにびっしりと固まっていた。
みな一斉にこちらを振り向く。
「来るぞ!!」
思わず叫ぶ。一人二人、それから何十人と神さまたちが殺到してくる。
「――ごめんなさい」
空鞠が呟く。それとともに空鞠は、長い触手で祐介を絡め取ったまま、祈りを捧げる胎児のように空中で膝を抱いて背中を丸めた。
その両手が組み合わさっている。
ぶわっと目に見えない波動を感じた。脳の位置をほんのわずかにずらされたような感じがした。何をしていたのかと思い空鞠の姿を見上げていると、飛びかかってきた神さまたちが急に脱力したみたいに地上へ降りていく――
その行方を追って、また祐介は信じられないものを見る。
地上を神さまが埋め尽くしている。飛行能力を持たない神さまたち、色とりどりの神さまたち。みな上空に浮かぶ自分と空鞠を見上げ、何やら黄色い声を発していた。
理解が追いつかない。
「……空鞠」
「傷つけはしない。やるにしても今みたいに、眠くさせるだけ」
「眠らせる?」
「意識をゆっくりオフにする感じ。でも何が起こってもおかしくないのが神さまだし、こんな騒ぎの中でちゃんと眠り場所を見つけてくれるかも分からないから……できればやりたくないけど」
やりたくないけど。空鞠が言葉を切ると同時、明後日の方向から複数の神さまが飛んでくる。
『あそぼーっ!!』『空鞠ちゃん!!』『だいすきーっ!!』
――やはりそうだ。
今こうして狂乱している神さまたちは、みな空鞠のことを求めている。イベント会場で知り合った神さまから、祐介でさえ見知らぬような神さままで。
『可愛いよ――!!』『こっち見て――!!』『触手触らせて――ッ』
胸がどくどく打っていた。
血の気が引いていく。
「ゆーちゃん」
呼ばれて空を仰ぐ。それと同時に空鞠が再び祐介を引き寄せる。二人分の視線の先には、岩石で造られたらしき作り物の三日月が浮かんでいる。
その上に誰かが腰掛けていた。
「やっと会えたね!」
弾けるようなその笑顔。
「……ナナ」
「感じる」空鞠が呟く。「この子は……わたしの眷属」
「思ってたより大騒ぎだねえ! 賑わってるに越したことはなし」
「これはナナがやったのか?」
「どうだろねぇ?」ナナが笑って小首を傾げる。「みんなの気分がブチ上がるっていうトリガーを引いたのはあたしだけど、それでこんなふうに盛り上がったり空の模様替えしたのは神さまたちだよ」
「ナナだったのか」放心しそうになりながら呟く。「これも……全部……」
「でもいいんじゃない? よくないですかマリたん?」
ナナに笑いかけられた空鞠は、険しい表情を崩さない。ナナのことをきっと見据えている。
「みんなと仲良くなりたかったんだよね? ちょうどいい感じじゃん。みんなマリたんと仲良くなりたくて仕方ないんだって。めでたしめでたしじゃねーですか?」
「ナナ」空鞠が静かに名前を呼ぶ。「もうやめて。全部止めて」
「違うよマリたん。あたしたちみんなと繋がりたいんだよ? 広がっていきたいんだよ。それを忘れちゃダメだと思うよ」
「ナナ」
「あたしマリたんのこと好き。だからマリたんも自分が何の神様だったか、どういう神様だったか思い出してほしい。やっぱ忘れらんないんだ、マリたんのこと」
「ナナ! これ以上は――っ」
「おほ〜」ナナがニヤリと笑う。「あたしとばっか話してないでさ、みんなと仲良く遊んでってよ?」
そのとき、空鞠の身体があさっての方向から弾き飛ばされる。
『柔らかいいぃいぃぃ』
神さまだった。誰も彼も神さまで、どこを向いても神さまだった。
みな空鞠が目当てらしかった。
「ちょっとあのっ……待ってくれませんか……!」
『かわいいねえ!!』『お目々ぱっちりじゃねえか!!』『祐介くんとは最近どうなの!?』
「うっ……うあっ……」
神さまたちが凝集してくる。なまじ思い切って振り払うことも出来ない……傷つけるわけにはいかなかった。神さまたちに群がられた空鞠は身動きも難しいほど圧迫されているらしかった。まるで米粒が集められて潰されて固められて団子になるように。
「くっ……う……っ」
『ゲソ!!』『吸盤!!』
やがて祐介を支える触手にさえも神さまたちが集まってくる。祐介のことなどお構いなしに触手が揺さぶられ、空鞠も祐介も体力が削られていく。
さすがにヤバいか、と直観した。
当たっていた。
「うっ……おおお!!」
ついに祐介が落下する。釘はなおも握られたままだが、祐介単体ではもはやなすすべはない。祐介に興味を抱いている神さまもいないらしかった。一人地上に落下する。神さまたちの軍団の中に落ち込んでいく――
ぼよん、と身体が弾んだ。
『危なかったな』『大丈夫? ケガはない?』
…………状況の把握に努める。すぐそばで神さまの顔が――芋煮会場で鍋を煮込んでいた三メートル越えの神さま二人の顔が向かい合うようにこちらを見下ろしており、なおかつ自分はひどく柔らかい場所に落っこちたおかげで助かったらしい。
『よかったあ。大成功ね』『これが一番安全だったからな!』
「あ……ありがとうございます!!」
『心配だから来てみたのよ、ほんとにひどい騒ぎ。みんな大集合よ』
『知ってる顔はだいたい揃ってそうだな。お前も頼りたい相手がいるなら呼んでみたらどうだ?』
助かった。神さまたちの中に他に身を落ち着けられる場所もない。今すぐにでも抜け出す必要はあるものの、今しばしこの場に身を置かせてもらう。
問題は空鞠だった。
「いいなー!! 大人気じゃーん」
上空では空鞠を中心とした神さまの凝集体、そしてその更に上からはナナが面白がるように見下ろしている。
「やっぱマリたん神だよ。顔見えないのが残念だけど」
「あいつ……!」
歯噛みするもどうにもできない。まずは空鞠がいないと何も出来ない――無力なものだった。
――誰か。祐介は祈る。誰かの助けを。
神頼みだ。
「こんこ~~~~ん!!」
聞き覚えのある声がした。神さまたちが旋回する上空を仰いでいると、風がまるで布のように形を成し、金色に光り輝くのが見えた。
「あれは――」
「おかえりよ~~~~~~!!!!」
『ふああああああああ!!』
タマだった。神さまたちでできた団子の中に腕を突っ込み、思い切り空へぶち上げる。まるで植物が花粉を飛ばすみたいに、神さまたちがぽいぽい空に散らされていく。
「空鞠ちゃんを、出しなさ~~~い!!」
『にょおおおおおおおおん』
絵面こそ乱雑だったが、効力はあった。次第に空鞠の姿が見えてくる。
汗をびっしょりかいていた。肩で息をしている。すでに体力を消耗してしまったらしい。それでも膝を抱こうとする――神さまたちを鎮めようというのだ。
「……んー」ナナが渋い顔をする。「マリたんがそういう感じなら、さ」
そのとき祐介は目にする。
ナナが宙に浮かび、膝を抱こうとするのを。
「ナナ!!」
「五方(ごほう)に散れ!!」
タマが叫ぶ。するとタマの身体から金色の光が――光で象られた狐が走って行く。それとともにタマの姿が風に包まれて消え、かと思えば安合市上空に巨大な光の点が打ち上げられた。ひとつではない。狐の走り去った方角からも光点が浮かび、タマのものを中心に巨大な五角形を――五芒星を描いた。
結界だ。
「おわっち!!」
ナナが体勢を崩す。歓喜の声を上げたのも束の間、空鞠の様子に目を見張った。
空鞠が頭を抱えていた。背中を丸めて苦しそうにして、そして地上に落下を始めた。
結界が空鞠にも効いている。
考えれば当たり前だった。それでも衝撃だった。
体勢を崩した空鞠だったがどうにか体勢を持ち直す。そこにまた神さまたちが殺到する。
キリがなかった。
「……んん」
同じく体勢を崩していたナナが持ち直し、うなった。しかしすぐにぱちんと指を鳴らした。
「そうだ。釘!! あの釘どうにかしてよ。マリたんの釘だよ――っ!!」
ナナの声が響き渡る。するとあちらこちらの神さまたちが一斉に祐介のほうを振り向いた。
「……まさか」
『祐介ちゃん』
『そのまさかだろうな。気張っていけよ!!』
『頑張ってね~』
「頑張りますけど!!」
神さまたちの群れを泳ぎ、あるいはわずかな陸地を縫うようにして祐介は逃げる。掴まるわけにはいかない、釘を離すわけにもいかない。苦しい。全力で駆ける。
――声が聞こえる。
『頑張れ~』『手伝うよ!!』『飛べーっ!!』『隠れてけ!!』
神さまたちだ。祐介に力を貸してくれる。神さまたちの間をくぐり抜けるように逃げていたが、ついに誰かに背中を掴まれる。
捕まった。そう思ったのも束の間、
「ゆーちゃん……!」
「空鞠! 無事だったか?」
「何とか……!」
しかし疲弊しているのには間違いなかった。
二人はようやく一体になって飛び上がる。しかしそのさなか、
「あれ……!」
空鞠が指差す。それは高台の公園。
トマトちゃんが町を見下ろしていた。
「トマトさん……だよね? 大丈夫かな!?」
顔色が悪い。今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
「トマトさん!!」
空鞠が叫ぶ。少しだけ、マズいかもしれない、と思った。
トマトちゃんが蒼い顔を上げる。そして空鞠の姿を見て、くらりとよろめいた。
「トマトさん!?」
「やめてっ……」
空鞠がトマトちゃんのもとへ向かいかける。
そしてトマトちゃんが叫んだ。
「もうやめて――――――っ」
絶叫が響き渡った。
安合市中に届きそうな声だ。空鞠が動きを止める。身体が固まってしまったらしかった。
「……ねえ」空鞠が呟く。「もしかしてトマトさんって、昔の、わたしのこと……」
「空鞠」遮った。「あれ……」
祐介に促され、空鞠もまた祐介の見ているほうへ顔を向けた。
神さまたちが動きを止めていた。まるで正気の戻ったみたいだった。
「そうか」祐介が呟く。「トマトちゃん、みんなのお姉さんみたいな人だから。みんなの面倒を見てきたから。その声が意識の奥底で眠ってるんだ。みんなの中にトマトちゃんがいるんだ」
脳みそが回転する。地上に向かって叫んだ。
「トマトちゃん!! 声を……声を貸してください!!」
空鞠が向かう。祐介が空鞠の腕の中から降り立ち、一度場を整理する。
「トマトちゃん、大丈夫ですか」
息が荒い。しかしひとつ深呼吸して、「大丈夫です」とトマトちゃんがうなずいた。
作戦を説明する。
「空鞠は俺じゃなくて、トマトちゃんを抱いて飛んで。それからトマトちゃんは、俺たちにその声を貸してください。神さまたちはトマトちゃんの声に反応して正気を取り戻します。だからトマトちゃんはできる限り声を発し続けてください」
空鞠とトマトちゃんが見合う。トマトちゃんが不安そうな顔をしていた。
「お願いします」空鞠が頭を下げる。「力を貸してください!!」
その姿にトマトちゃんは驚いた顔をするも、じっくりと息を整え、そしてうなずいた。
「お願いします。空鞠ちゃん」
「ゆーちゃんは?」
「俺は逃げる。釘は渡さない。それが俺の仕事だから」
作戦が決まった。それと同時、上空からナナの声が降ってきた。
「せっかくなんだから!! もっと騒ごうよお!!」
その声に反応し、再び神さまたちが祐介たちに注意を向けた。先ほどより数は少ないが、十分多い。
「いきましょう」
「はい!」「分かった!」
作戦を決行する。
空鞠がトマトちゃんを抱いたまま飛び回る。迫り来る神さまたちをかいくぐりつつ、トマトちゃんが一人ひとりの名前を叫んでいく。
無数の神さま、その一人ひとりの。声が嗄れようと関係なかった。空鞠は歯を食いしばってナナのもとへ向かう。
一方で祐介にも戦いはあった。追跡してくる神さまたちから逃れ続ける。約束してしまった以上最後までやり遂げるしかない。――しかし相手は神さまだった。粘ることは出来ても、逃げ切るのは到底不可能だった。
しかし、
『追いつかれるぞ!!』『逃げろ逃げろ!!』『かっこいいよ~』
力を貸してくれるのも神さまだった。
「この釘は渡せないんですよ!!」
上空。ついに作り物の月を捉えた空鞠たち仰ぎながら、祐介は叫んだ。
「ナナ!!」
同じ瞬間。空鞠もまたナナに対して声を荒げていた。
「やめて!! もう全部終わりにして!!」
「ねえマリたん、本気なの?」
ナナが薄く笑いながら言う。
「その後付けの心でさ、ほんとにみんなと仲良くなりたいって思ってるの? やれると思う? 元々のマリたんはどこいっちゃったの? やっぱりあたし、元々のマリたんのほうが繋がっていける、広がっていけると思うんだよなー」
「邪魔しないで」
空鞠の冷たい声。しかしナナは動じない。
「マリたん、いずれ絶対失敗するよ。マリたんは自分で思ってるよりもスゴい邪神様なんだよ。絶対この市じゃ抱えきれないとこが出てくるよ、誰も彼も、自分すら傷つけて全部壊しちゃうよ。――心とか、ないほうがよくない? マリたん無駄に繊細で傷つきやすくて、心のせいで選択を間違えそうだもん。マリたんマリたん、マリたんは心とかないほうがかっこいいよ?」
空鞠は歯噛みする。けれどすぐに、吠えた。
「知ってる!! 知ってるよそんなッ、だけどっ、だから――っ」
空鞠の触手が巨大な砲塔を形作る。
「だからわたし、どうにかなりたいんだよ!!」質量を持った暗黒(ダークマター)が充填される。「どうにかしたいんだ!!」
「おっほ~? これはこれでいいかも? ……んーでもそうだな、やっぱなんかなー」
にやりと笑い、ナナはそれまで乗っていた月の裏側を露わにする。
「うん。違うよ」ナナが首を振る。「マリたんはそっちじゃないな」
そこには闇が敷き詰められ、零れんばかりの目玉がこちらを覗いていた。そのいくつもの瞳孔の奥から紫色をした無数の光が発され、一点に凝集し始める。
「マリたんお願い!! 正気に戻って――あたしの神様!!」
「トマトさん」
呟く。じっとその場の行方を見据えていたトマトちゃんが、わずかに首を傾けて空鞠の顔を見た。
「付き合わせてごめんなさい」
紫をしたレーザーが空間を一線に走る。
その光を大質量の暗黒が押し潰した。
射抜いた。桃色と青色、ツートンカラーの空を裂いて空鞠のダークマター砲が突き抜けていく。その軌跡に目をやり、空鞠はふうっと息をついた。トマトちゃんは身体を強張らせていたが、やがて意識して呼吸を整え始めた。
勝負と言うにはあまりにささやかな撃ち合いだった。
「よかった! 空鞠……」
地上に降り立った空鞠とトマトちゃんを祐介が労う。空鞠は小さくピースして見せた。勝利の喜びこそあるが、それよりもトマトちゃんのことが気になるらしい。
「大丈夫ですか? ごめんなさい、あちこち連れ回して……」
「いいえ」トマトちゃんが首を振る。「でも必要な体験だったと思います。空鞠ちゃんの気持ちも間近ではっきり聞けましたから」
「お恥ずかしい限りです……」
「恥ずかしがらなくていいのに。立派でしたよ」
「声、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。いずれ再生するのが神さまですから」
笑顔でそう言うトマトちゃんの肩越し。
ゆらりと影が揺らいだ。
「あれ……!? 今!!」
そう声を上げた瞬間だった。
がつん、と脳が揺さぶられる感触があった。
「ゆーちゃん!?」
こめかみを押さえる。目を閉じる。――やられたらしい。
「ナナ……」
呟くももう遅い。祐介はそのまま――
そのままどうもしなかった。
「あれ……?」
「なんともない? ナナがいたんだよね!?」
「たぶん……そうだと思ったけど……」
そのとき、ばちん(傍点)と音がした。
トマトだった。
空鞠の頬に真っ赤なトマトが叩きつけられ、ゼリー状の果肉と汁がだらだら顎先から垂れていた。
「繋がりたい。繋がり……たい」
影だけになったナナがすぐそこにいた。かき消えそうな声だった。存在の最後の声らしかった。
「心は、誰かと繋がりたい。でも、それと同じくらい、心は何かを傷つけたい」
ナナが消えていく。世界から本当に失われていく。
「――ねえ。心ってさ、そんなにいいものなのかな~?」
それだけの言葉を残して。
「全部めちゃくちゃになる」トマトちゃんが言った。「全部。めちゃくちゃになる」
きっと大して痛くはなかっただろう。投げつけられたら飛び散るぐらい熟れたトマトだったのだ。せいぜい水風船が顔に当たったぐらいの衝撃だろう。
それでも空鞠はその場に立ちすくんで、放心した様子でトマトちゃんをじっと見つめていた。自分の身に何が起こったのか理解できていないのだろう。指先こそ頬を押さえていたが、そのままぴくりとも動かない。ただ頬の辺りに添えられた白い指にトマトの汁が滑り落ちていくだけだった。
「邪悪な神。邪神、邪神、やめて、来ないで、なんでこんなところにいるの……!!」
――全部ナナが仕組んでいたのだ。
神さまたちがトマトちゃんの呼びかけで正気を取り戻したのも、きっとナナがトマトちゃんの声を精神汚染の解除キーとして設定していたからなのだ。トマトちゃんと空鞠が共闘するように。そうして二人で力を合わせて自分を倒し、一件落着するように。
その後すぐに全部を壊すため。
それが一番、空鞠の心を壊すには効果的だから。
トマトちゃんがはっと気がつく。精神のこちら側と向こう側であやふやに漂っていたのがこちらに戻ってきた感じだ。トマトちゃんもまた場の状況に驚き、辺りに視線をさまよわせた。
「あ……ぁ」
震える声が漏れた。トマトちゃんが口元を押さえた。
沈黙が降りていた。
――その中でのことだった。
しばらく立ち尽くしていた空鞠が、頬に付いたトマトを指ですくった。その欠片を口元に運んだ。噛んだ。飲み込んだ。
トマトちゃんはただその姿を見守っていた。
空鞠は手の甲で汁気を拭い、手に付いた小さな果肉の欠片をひとつずつ口に入れた。鼻先に赤い汁をつけたまま、顎の先から滴る雫を指先ですくい、舌先で舐め取った。
もうほとんどトマトはついていない。
今度は衣服に移る。果汁が染みて紅白になった服から果肉を摘まみ取り、口に運ぶ。ひとつずつ丁寧に食べていく。残さないように。
トマトちゃんが泣いていた。抑えても抑えきれないように。殺しきれない声がひっきりなしに漏れてくる。
「おいしいです」
声に震えや動揺はない。完全にいつもの空鞠だった。
「ごちそうさまでした」
ついにトマトちゃんがくずおれた。泣きながら小さく「ごめんなさい」と繰り返すのが聞こえた。
いても立ってもいられなかった。トマトちゃんのもとに身を寄せると文字通りにすがりついてくる。それから祐介の胴体を痛いぐらいにきつく抱きしめて、それから泣き続けた。
「空鞠ちゃん……」
そう呼ぶ声が涙の中に混じっていた。
『大丈夫か』
そう訊ねたくて空鞠のほうを振り向いた。そのとき、空鞠の、晴れ渡った空を仰ぐ横顔が、祐介の目に飛び込んできた。
綺麗だった。
一瞬呆けた後、トマトちゃんの頭に手のひらを沿わせながら祐介も天を仰いだ。
それは無限に高く、広く、そして透き通った青空だった。
◆
山の中を歩いていた。
「足元気をつけてくださいね。ケガなんてしたら大変ですから」
トマトちゃんが小さな背中越しに呼びかける。山の中に一応道らしき道はあるが、とても整備されているとは言いがたい。若干息は上がっていたが、それでも受け答えするだけの気力はある。
「大丈夫ですよ。そこら辺慎重ではあるので――うぉっ」
言っているそばから木の根につまずく。前のめりに転びかけたところ、木の上から伸びてきたツルにがっしり巻き取られる。……無事だった。
『言わんこっちゃねーなー』枝の上、緑色の髪をした木の神さまが祐介を見下ろしていた。
「すいません……助かりました」
『気ィつけて行けよ? 木、だけに。ブハッ』
噴き出しながら軽い身のこなしで山の奥へと去っていった。視界から外れる瞬間、緑色だった髪の毛がわずかに赤くなっているのが見えた。紅葉。……髪の毛のほうは寒さを敏感に察知するらしい。
「もう! そういうところが甘えん坊なんですよ?」
「すみません……やっぱちゃんと山登りの格好してきたほうよかったですかね」
「普段着でも何とかなっちゃうのが安合市のいいとこですけど! ……でも急に登山するなんて言われても困っちゃいますよね」
「そんなことないです。ありがとうございます」
進行を再開する。トマトちゃん小さな背中を追っていく。
「釘を抜いてくれたらなあ」後ろで空鞠がぼやいた。「触手でゆーちゃんのこと持ち上げていくのになあ。そうじゃなくてもベルトみたいに巻き付けとくのになあ」
「それもちょっと恥ずかしいけど」
トマトちゃん、祐介、空鞠。その三人でしばらく山を登っていた。
向かっているのは瑞波の川の水源。
今日は瑞波の様子を見に来ていた。それで調子が良さそうならば、再び安合市の日常に戻ってきてもらう予定になっていた。
祐介はかすかに緊張している。
一方、空鞠は何かあるたびに祐介の身体に触れた。祐介の名前を呼び、祐介のことを眺め、祐介のことを口に出した。
ナナとの戦い以降、明らかに空鞠からの接触が多く、濃く、密になっていた。
……信頼が深まった証だ。そんなふうに祐介は捉えていた。
「着きましたよ!」
トマトちゃんが振り返る。そこは山の奥の開けた場所で、透明な水のこんこんと湧き出る泉があった。その泉の中心部に、まるで自然が作った祭壇のように青々とした草葉が茂っていた。
その中央に瑞波がいた。
目は閉じられていた。長いまつげから雫が滴っていた。膝を抱き、半身を水に浸していた。それは確かに身を休めているみたいに見えた。
「瑞波さんだ……」
分かりきっていたことなのに、いざ対面するとそう口に出さざるを得ない。空鞠は祐介のほうを気にしたまま緊張した様子で、トマトちゃんが二人のことを見守っていた。
「あの日からずっとここで眠っていました。けれどもう大丈夫――そんなふうに思うんです。ね?」
トマトちゃんが微笑みかける。
「はい」空鞠がうなずく。大切なものを託されたみたいに。
「空鞠ちゃん、先の戦いで神さまたちを正気に戻していましたよね。それをやってみてあげてください」
「分かりました!」
祐介と空鞠が正面から向かい合う。祐介が胸元の釘を握ると、空鞠の両手が祐介の手を包んだ。
「――お願いします。ゆーちゃん」
「どうしたんだ、改まって」
「なんかね。……たぶんだけど、もしかしたらこれが、ゆーちゃんとの節目になるかもしれないから」
「ああ……そうかもな」
瑞波を横目に、祐介は空鞠との時間に思いを馳せる。思えばあっという間だった。
「短い間だったけど、でももちろん終わりじゃないから。これからもよろしく、空鞠」
「こちらこそ。いっぱいいっぱいありがとう」
「ここまで連れてきてくれてありがとう。あと少し、よろしく頼む」
「了解です!」
「……なんだかお別れの言葉みたいになっちゃったけど、これから先も続いてくんだからな?」
「それは分かってるつもりだけど……でもやっぱり。こういう節目って大切にしたいもん」
祐介と空鞠、二人してうなずき合う。ぎゅっと空鞠が祐介の手を優しく握り、そしてパッと離した。
「お願いします!」
腕に力をこめる。封印の釘を引き抜いた。空間に揺らめきながら空鞠の髪が伸びていき、同時に触手の様相を呈してくる。展開された神さまとしての力を背景に、空鞠が白い両手を胸の前で組んだ。――ちょうど釘が刺さっていたなら、その直角に折れ曲がった頭の部分が来る位置で。
空鞠の胸から光が放たれる。金色の光が周囲にあふれ、まぶたを閉ざした瑞波の顔を照らし出した。
固唾を呑んで見守る。その目を開いたとき、瑞波が再び目覚めたとき、いったい瑞波は自分になんと声をかけるのだろうと考えていた。優しい言葉だろうか、懐かしむような言葉だろうか。それとも――
もう少しで分かる。怖いけれど聞かなければいけない。その瞬間には来てほしくないけれど、でも絶対に迎えねばならない。
その時がきた。
瑞波がゆっくりとまぶたを開いた。まつげの奥、瑞波の瞳が虚ろなまま水面を見つめていた。言うなれば起動中らしかった。空鞠は胸の前で手を組み続けている。しかしその祈りももう少しで終わりそうな予感がしていた――
「……あれ?」
どきっ、と胸が縮んだ。
瑞波が口を開いたのだ。
「瑞波さん……?」
「なんで……ここに……」
「瑞波さん、気がつきましたか……?」
「瑞波ちゃん!」
瑞波はぼーっとしたままだ。呼びかけても反応しない。ただじっと目の前の水面を見つめいている。瑞波が声を発すると小さな波紋が水面に立った。
「どうして……ここは……あれ、あれ……?」
――何かがおかしい。そう思った直後だった。
「暗い……暗いな……ここどこ? わたし(傍点)は……誰……?」
瑞波が喋っているのではないみたいだった。
他の誰かが喋っているみたいだった。
「ここ……出られないの? 動けない……? いつまで? わたし……今どうなってるの? なんでここにいるの? ……わたしは誰?
「あ……あの! あの……! ……声聞こえない? 声出てる? わ! なんか拝まれてる……わたしのこと拝んでるの? え! これくれるの? ありがとうございます……今のわたしじゃどうにも出来ないけど、でも……気持ちは嬉しいです。あ……行っちゃうんですか? また来てくれると嬉しいです。さよなら――
「わたしいつまでこうしてるのかな……こうしてないといけないのかな……? どうしてこんなことに……あれ? わたしって……そっか。わたし、そっか。わたし……悪い神さまだったんだ。それで閉じ込められてるんだ。そっか。それなら……仕方ない……か――
「わたし、悪い神さまみたいだけど。でもみんなお参りに来てくれる。今のわたしって良い神さまなのかな? だったら良いな……外に出れないかな? そうしたらわたし、もっとちゃんとしたいな。たぶんわたし生まれ変わったんだ、今度は悪い神さまじゃなくなったんだ。だから今度はちゃんとしたいな……
「……出たい。出たいな……外に出たいな……すぐそこなのにな……みんな生きてるのにな……出たいな……今のわたしどうしちゃったんだろう。なんでこんなふうになってるんだろう。出たいな……外に出たいな……
「…………これが……心…………なのかな……
「待って!! 行かないで!! お願い誰か!! 壊して!! 出して!!
「…………
「お願い……誰か、神様……
「ここを、壊して……わたしを、出して…………
「わたしだ」声が震えていた。「わたしが狂わせたんだ」
水をぶちまける音がした。もう瑞波の姿はそこにない。
◆
窓を開き、空を仰いだ。秋風が部屋の中に吹き込み、太陽の光が澄み渡った空をまっすぐに突き進んでくる。空の色は青。取り戻した色だった。
しばらくそうしていた。放課後だった。学校から帰ってきて制服を着替えて、最初にしたのが風を待つことだった。
「元気?」
聞き慣れた声がする。どこにいるのかと思ったら、フーコが屋根の上から逆さになってこちらを覗き込んでいた。
「悪くないよ。フーコは?」
「変わんないわ。いつも通りよ」
フーコがふわりと浮いて窓から身を乗り出す。窓際に肘をついて、半身を窓の外にふわふわ投げ出す形だ。フーコがこういう姿勢を取るとき、いつも祐介は反対側から色々丸見えになるんじゃないかと危惧してしまう。
「今あたしと話したかったんでしょ」
「分かるか?」
「なんとなくね。神さまってね、祈られたらなんとなーく分かるのよ」
「そうなのか? 初耳だ」
「でも当たり前じゃない? 祈りのない神さまなんてないわよ。あんたもあたしに何か用があったら目一杯祈りなさい。気が向いたら助けてあげる」
「話し相手にもなってくれる」
「ありがたいでしょ?」
そういうわけで二人は一緒に肩を並べていた。とりあえず何かについては話すつもりでいる。話すつもりで一緒にいた。
そのまま何も話さずにいる。
「あのさ」口を開いた。「空鞠のこと、知ってるか?」
「知ってる。トマトちゃんとタマさんから教えてもらった。これってつまりさ」
フーコに額をつつかれた。
「そういうことよね」
「読まれてたのか。そうだよ、それでフーコと話したかった」
「空鞠ちゃんのことでしょ?」
うなずきながらも祐介はほんのわずかに落ち込み始めている。本当は自分から話を進めるべきだったのだろうと思った。しかしもう遅い。すでに場は整ってしまっている。甘んじて流れに乗せてもらうしかない。
「空鞠、ずっと寝込んでるんだ。話しかければ返事はするし、意外と元気そうなふうにも見えるよ。でも何かが欠けちゃったみたいな感じがする。不自然なんだよ」
「無理してんのかしらね」
「受け止めきれてないのかもしれない。結局他人の心だから想像したところで答えは分かんないし、そもそも勝手に想像するのも失礼な気はするけど」
「ん……」
フーコが低く唸る。何か言おうとしているのかと思って目を向けると、フーコもまたこちらを向いてうなずいた。続きを促しているらしかった。
「俺にできることはないのかなって思ったけど、どうすればいいか分かんないんだよな。俺が空鞠の見守り役なんだ、俺がどうにかしなきゃいけないとは思うけど……下手に動くと空鞠のことを傷つけそうで怖い。そもそも俺ってやっぱり一人の人間でしかなくてさ、神さまとか世界とか宇宙とか、そういうものと関わるにはめちゃくちゃ小さい存在なんだよなって。そんなことを思っちゃってさ」
話が地に足つかない方向へ進んでいる気がした。強引にでも着地させようと思って、付け足すように口にする。
「どうしていけばいいのかな」と。
んー、とフーコが唸った。しばらく考える時間も要るかと思ったが、案外間を空けずにフーコは口にする。
「あんた、背負いすぎよ」
「そうか? そんな感じしないけどな……」
「立派になろうとしすぎ。もっと這いつくばんなさいよ」
「身の程を知れ……って?」
「言い方は悪いけどそういうことになるのかしらねー」
フーコが体勢を変える。くるりと宙ででんぐり返しのように回転し、窓に腰を下ろした。それまで祐介とフーコで視線の高さが揃っていたのが、今はフーコが祐介を見下ろす形になっていた。
「あんたは嘘をついてる。少なくともごまかしてるわね。あんた自身がまだまだそんなに立派でもなければ強度があるわけでもないのに、空鞠ちゃんの保護者として振る舞ってる。ほんとは自分だって誰かに支えてもらいたいのに、空鞠ちゃんを支える側に徹している」
「それはある。というかそれが俺の求めてるものなんだよ。俺は自分の傍にいてくれたら嬉しいと思うムーブを自分でシミュレートしている」
「でもあんた、それで苦しんでるじゃない。救いがないわよ」
苦しんでなんかいないよ。
そう言おうとして口をつぐんだ。自分が自分の理想とする動きをしようとして、実践できずにいる。それもまたひとつの苦しみであって、やるべきことが上手くいっていないのには変わりがなかった。
「あんたね」フーコの表情が僅かに和らいだ。「もうちょっと一緒に転がってっていいんじゃないの?」
「転がる……?」
「互いにぶつかってぶっ倒れてぶっ転がって、ブチ汚れながら一緒に生きていくのよ。お互い綺麗なままでいられる完璧なコミュニケーションなんてね、寿命のある生物には向かないわよ」
「神さまって寿命あるのか?」
「ない。ないけどそういう話じゃないの、分かるでしょ?」
「分かるよ」
答えるやいなや、頬に拳をぺったり押し付けられた。何だか遠回しに可愛がられているみたいだった。
「大切なんでしょ? 大切にしたいんでしょ?」
「大切にしたい。離したくない」素直に口にできた。「こういうこと、誰にだってあるわけじゃないと思う」
「リアルタイムでそう思えるのは幸運なことよ。過ぎ去ってからありがたみに気づくなんて、ありきたりすぎてもうイヤでしょ?」
「今の自分の行いが正しいかどうかって分からないんだよな。後から振り返れば何してるんだって自分って思うのに、当時はそれが一番正しい行いだと思ってた、ってことがザラにあってな」
「後で泣くしかないわよ」
「泣くしかない……のか」
「そうよ」フーコが微笑む。「その分誰かに優しくなりなさい」
神さま。
そう言うフーコの姿を目にして、思った。
「あたしから言えるのはこんなところよ。頑張んなさい、祐介」
「俺さ」
声が震えている。やっぱり話したくないな、と思った。
それでも続けた。
「本当は瑞波さんに見せつけたかったんだ。瑞波さんは俺のことを思って距離を取ったんだろうけど、でも俺は瑞波さんとは違って、ずっと見守りたい子のそばにいて、優しくして、それで二人でちゃんと立派になれたんだって。なのに瑞波さんは――って。復讐したかったんだ。責めたかったんだ」
「そう」フーコが小さく笑った。「よくある話ね」
「あぁ…………っ」
「あたしをそういう、神さまのこと見る目で見てくるのあんただけよ。祐介」
フーコが腰を上げた。勢いよく空の向こうへ飛び立っていく。後には爽やかな風の名残りだけが残った。
祐介は部屋を飛び出す。空鞠のいる和室の前で立ち止まるも、すぐに背中を向けて玄関を出ていく。風を受けて転がっていく。
日が暮れつつある。夜の色が混じり始めた夕空のもと、自宅の玄関先にまで戻ってきた祐介を呼び止めるものがある。
「祐介くん」と。
振り返る。するとその場に風が立ち、宙の一点に凝集していく。たちまち風は金色の光を放ち、その場にぽんっと三メートル近い巨体が降り立った。
「タマさん」
「様子を見に来たんだ。キミに任せっきりで申し訳ないけど、話だけでも聞いてあげられないかなって」
「今日、フーコと話しました。フーコはタマさんとトマトちゃんから事情を聞いたって言ってました。……タマさんはどこまで見えてるんですか?」
「買いかぶりすぎだよ。私はただキミの手を借りてるだけ。未来を切り開いていくのはキミ自身の手なんだよ」
つるりと白い狐の面。タマに表情はない。
「そういえばね、前にも言ってた偉―い神さまとやっと連絡が取れたんだ。近いうちに地上にお目見えすると思う」
「そうなるとどうなるんでしょうか? 空鞠は……」
「具体的な処遇について講じてくれるはずだよ。空鞠ちゃんのポジションがはっきりする――とはいえそれは空鞠ちゃん自身がもう掴み取ってるはずだと思うけどね。とにかくキミたちのこれまでの頑張りが評価される。また新しい局面を迎える。心配してないよ」
「……タマさん。聞いてみたいことがあるんですが」
「何かな?」
「大空(おおぞら)鳥居ってなんのためにあるんですか? どうしてあんなものが建ってるんでしょうか」
「気になる?」
「気になります。あんな空の向こうに建ってるものですから」
空の向こう。
旧い邪神や、その眷属たるナナが訪れて来た場所。
「キミの言いたいこと、分かる気がするな」タマが大空鳥居を見上げて言った。「空鞠ちゃんとか邪神とか、そのしもべとか。そういうものと関わりがあるんじゃないかって思ってる?」
「思いました。特に根拠はないですけど」
「当たってるよ」
大空鳥居は空の色に染まる。今は夜と夕暮れの境目、紫の色に染まっていた。
「あれはフィルターなんだよ。理外の生命に対する変換装置。常軌を逸したものたちを、人間や私たち神さまの理解できる型に落とし込んで、無理やり私たちと同じ土俵に立たせる。もっとも、実際に効果が発動したのはつい最近、設置から千年以上も経ってからのことだけど」
「ナナのことですよね」
タマがうなずく。それでナナが神さまのような姿をしていた理由が分かる。
「じゃあ大空鳥居は、邪神の襲撃を経て対抗策として設置されたんですね?」
「そういうこと。だけど不思議なのは空鞠ちゃんだね。空鞠ちゃんはこの地に封印された邪神なんだよ。だから厳密には大空鳥居っていうフィルターは通ってない。……だからね、私としては空鞠ちゃんって安合市の神さまだと思うんだよ。安合市の地と人によって育まれたものだから」
「特別ですよね」
「そう、特別。キミもそう思うんだ?」
「当たり前ですよ」
「愚問だったなあ」
そこで話が一段落しかける。しかし祐介にはまだ訊いてみたいことがあった。
「安合市って結局、どういう場所なんでしょうか?」
「でっかい話だねえ」
「タマさんだって安合市にとってはすごく大きな存在じゃないですか。タマさんにしかこんなこと訊けないです」
「そうだねえ……」こつこつ、とタマが指先で仮面を叩く。「彼岸花って、あるよね?」
「ありますね」くるりと巻いた赤くて細い花びらが美しい花だ。
「時々神社に植えられてたりする花だけど。彼岸花って元々は観賞用だけじゃなくて、非常食の役目もあったんだよ」
「どこ食べるんですか?」
「球根からデンプンが取れるの。手間はかかるけど」
球根からデンプンを取る。その具体的な工程については今の祐介には想像もつかない。
「そういう植物が神社に植えられてたってのは、どうしてだろうね?」
「神社が緊急時の避難場所だったから……ですか」
「正解!」
タマがぱちんと指を鳴らした。祐介が今まで聞いた中でも一番気持ちいい音が響いた。
「神社ってのはね、災害が起こったときにみんなで集まって、またイチからやり直すための場所だったんだ。だから神社そのものも災害に巻き込まれない絶妙な場所に建てられてたりする。そこは人の知恵と勘だね」
避難場所と言うよりリスポーン地点みたいなものだな、と祐介は思う。
「……それで、この流れでそういう話をしたってことは」
「安合市はね、言わばこの国の神社という概念そのものなんだよ」
……理解は出来そうな気がした。感覚的にも分かりそうな気がした。
しかし、いかんせん話が大きすぎる気がした。
「あの鳥居を見てもらえれば分かるだろうけど、安合市の空間はそのまま物理で解釈できるものじゃないんだ。四次元的って言うのかな? 袋の大きさは変わらないけど、その中身の空間は割と自由に拡張できる。袋の中に、袋以上に大きな空間がある――」
「そんなこと……」思わず訊ねた。「俺に教えちゃってよかったんですか」
「キミは修学旅行、行けなかったからね」
え、と小さく声が出た。予想していなかった角度からの切り口だった。
「本当はみんな、直接説明はされないけれど、何となくそういうことなんだなあって――一度外の世界に出ることで、感覚的に、身体で知ってまたこの市に戻ってくるんだ。キミはその機会を逃しちゃったから……まあ補習みたいなものだね」
「……いいんですか。訊いたのは俺からですけど、タマさんから、こんなに」
「そうだねぇ」
ん、とタマが息をついた。
「私ね、元々『神』っていうのはシステムみたいなものだと思っててね。あまりに固有で他人には理解しがたいシステムで動いてて、だから変なところで逆鱗に触れたり訳の分からない行動を取るんだと思うし、そのシステムの範囲内では比類ない力を振るうんだなって思うけど――」
タマの大きな手のひらが祐介の頭に被せられた。緊張して、祐介は身を固める。
「私はそういうシステムであるより、みんなと手を取り合って繋がっていたいんだよ。――それも含めて私っていう神のシステムなのかもしれないけど」
そこでタマが身体を離し、胸元に両手を添えてみせた。
「ほら、このあられもない着こなしだって私の趣味なんだよ? システムの範疇から逃れようっていう私のあがきなんだよぉ」
「目に焼き付いてます」
「えっちだねぇ。でもえっちなのって大事なことなんだよね。まさに今生きてるってことなんだから」
場がしっくりと在るべきところに収まった。そんなふうに祐介は感じる。
「不安なことはまだまだあるだろうけど、これに関しては私が出るわけにはいかないと思うんだ。空鞠ちゃんだって、今私が出てきたら怖いだろうから」
「やっぱり俺がやるべきことなんだと思います」
「よろしくお願いします、祐介くん」
タマと目が合った、と思った。何かが確かに通じた気がした。「うん」とタマがうなずき、胸の前で両手を合わせた。
風が立つ。やはり地面に数粒の穀物を残し、タマはどこかに消えていった。
余韻もそのままに家の中へ入る。玄関に上がって洗面所に入ってまた出て、和室の前に立った。
「空鞠」
名前を呼んだ。襖を開いた。
空鞠が布団にくるまっている。こちらに背を向けているせいで顔は見えない。朝に様子を見たときから寸分たりとも変化は見られなかった。寝ているのかと思い、そばに近寄る。
立ち止まった。空鞠の顔が見えた。
目を開いたままだった。
空鞠の顔は窓の外に向いている。すっかり弱くなった夕暮れの光を浴びたまま、暮れなずむ市の景色を眺めていた。
「ぼーっとしてただけだよ」
空鞠が枕の上、首だけ動かしてこちらを振り向く。その口元は薄く笑っていた。
「今どうしてるのかなって。気になってさ」
「休んでるだけ。最近結構アクティブだったから。空を飛んだり山登ったり。ゆーちゃんも疲れてない?」
「意外と平気」
「休んだほういいよ。気づいてないだけで身体は疲れてるかもしれないし」
ここしばらくずっとこんな調子だ。こんなのが平常運転なはずないだろう、と祐介は思う。見ていて危うい。不安になるほどだった。
空鞠がのっそり起き上がる。中途半端に毛布を身体に引っ掛けたまま、敷き布団の上にぺたんと座った。
「来て」
「隣、いいか」
空鞠がうなずく。布団の脇、畳の上に腰を下ろそうとしたところ、空鞠がぽふぽふ布団を叩いた。
「こっち」
「……失礼します」
布団は空鞠の熱で温い。空鞠の横に座り、空鞠と同じ窓の景色を眺めた。
カラスの声が聞こえた。着実に夜が空を覆いつつあった。
そのままただじっとしていた。二人で夕暮れと夜の間の時間を眺めていた。敢えて何かを喋るつもりもなかった。ただ待っていた。今日はこのまま二人で寄り添っているだけでもいいと思っていた。それが今必要なことだと思ったから。
「ちょっと分からなくなってきた」空鞠がぽつりと呟いた。「色んなことがね」
「大変だった」
「大変だったね」
それからまた間が空いた。今度も敢えて喋ることはしなかった。
「ナナのことも、瑞波さんのことも。わたしの中でまだモヤモヤしてる」
「怖いか」
「怖いね」
夕陽が空の向こうに隠れる。
部屋はすでに薄暗い。
「ナナのせいでたくさんのものが壊れかけたけど、ナナのおかげでトマトちゃんとわたし、ある意味通じ合えたのかなって思うの。そういう意味では良いことと悪いことって区別しにくいなぁって」
「トマトちゃんと通じ合えたのは、空鞠が事件を乗り越えたから」
「その事件を引き起こしたのはわたしが呼び寄せちゃったナナだよ。……仕方ないのは分かってるけど、でもそういうことばっかり考えちゃって。空しくて」
「俺、あのとき空鞠のこと、本当にすごいって思ったんだ」
思い返す。
顎にトマトの果汁を滴らせた空鞠の顔。
「ああ、空鞠は立派な神さまなんだって。ナナは関係ない。あのときぶつけられたトマトをかじったのは空鞠だよ。誰でもできることじゃないし、誰もがやるようなことでもない。自信を持って。空鞠はそのままでいい」
「いいのかな」
「俺がそれを願ってる」
空鞠が目をぱっちり開いた。祐介の顔をじっと見つめて、「ゆーちゃん」と小さく呟いた。
夜が迫りつつある。それでも空はまだ明るい。
「うん」空鞠が喉の奥で唸る。「……うん」
空鞠が近寄る。互いの肌の温度が伝わってしまいそうな距離だ。空鞠はしばらくその距離感を保っていたが、やがて、こめかみのあたりをこつんと祐介の肩にくっつけた。
一度だけ。こつんと。
◆
翌日の昼前。三上家の三人で食卓についていた。
そろそろ来客の時間だった。
インターホンが鳴る。母親が立ち上がってモニターを確かめて、祐介たちに目配せする。
「行こう」
空鞠を伴って立ち上がる。「今行きまーす」と母親のあいさつが後ろに続いた。つま先に靴をつっかけ、玄関の扉を開く。
身長がだいぶ低い。
「お待たせしました。今日はお邪魔させていただきますね」
そう言ってぺこりとお辞儀し、祐介と空鞠の顔を見上げたのはトマトちゃんだった。腕にはいかにもピクニックに使われそうなバスケットが提げられている。
「お腹空いてませんか? 早速作っちゃいますね」
「楽しみにしてました。空鞠も」
「……はい」水を向けられ、空鞠が控えめにうなずく。「正直、こんな状況ですけど、やっぱり食べるのって楽しみで……」
「祐介くんから聞いてますよ、空鞠ちゃんはよく食べるって」
「最近はあんまり食べれてなかった……ですけど」
「だから俺も心配で」
「そんな中で楽しみにしていてくれたの、私嬉しいですよ。張り切っちゃいますね」
空鞠に微笑みかけた後、トマトちゃんが母親に声をかける。
「キッチンお借りしますね」
「背、届く? お立ち台あるよ」
「そうそう、そうでした。助かります」
会話のさなか、トマトちゃんがバスケットから材料を取り出す。
パスタ、にんにく、ただの葉っぱ――バジル。
パックのイカ。
「……」
空鞠を見つめてみる。すると空鞠も気付いたらしく、祐介に視線を返してきた。
「わたしイカでも何でも食べるよ。弱肉強食だから」
「空鞠は強いもんな」
「あとねえ、たぶんわたしゆーちゃんより強いよ!」
「……気をつけておくよ」
「トマトはもうソースにしてます!」
そう言ってトマトちゃんがタッパーを開いて見せてくれる。なぜか目をきらめかせて。
見せられたところでトマトソースはトマトソースだ。「特製ですか? 準備いいですね」ぐらいしか言えない。
「あ! なんだろうこれ……匂いがすごい、フルーティーな気がします」
空鞠のコメントに、トマトちゃんも「ね!?」と表情を綻ばせて喜ぶ。……感受性の違いを目の当たりにしてしまった。
お立ち台が用意される。トマトちゃんはバスケットからエプロンを取り出して身に纏い、長い髪の毛を後ろに結わえると台上に立ち、調理を開始する。小さな身体、細い腕をいっぱいに伸ばして支度をする。
まな板で葉っぱを切っていた。
「おぉ……」「キッチンでバジル刻んでる!!」
「なんの感慨ですか〜?」
三上親子のガヤを笑顔であしらいつつ、トマトちゃんの調理は進んでいく。フライパンに油が引かれ、にんにくが熱され、イカが投入される。イカが焼ける香ばしい匂い。不思議と祭りの屋台が思い浮かぶ匂い――
もうすでに完成でいい気もした。
「もう完成でいいんじゃないかとか。思ってません?」
「思ってないですよ」
「まだトマト入れてないんですから」
ちょうどそのとき、空鞠のお腹から重低音が響いた。それは遠くに落ちた雷のようでもあり、しめやかに打たれ続ける和太鼓の音色のようでもあった。
「あら!」トマトちゃんがにこにこ笑う。後ろ姿でもそれが分かる。「もうちょっとですから、空鞠ちゃん」
「はいっ!」
またも空鞠をじっと見つめてしまう。空鞠のお腹と、それからきょとんとした空鞠の顔を交互に。空鞠もまた祐介のほうを向いて、小首をかしげた。イカミミがぴょこっと震えた。
堂々としている。お腹が鳴ることへの恥じらいは薄いらしかった。
空鞠がもりもり食べて、その後にはかろうじて皿が残るばかりとなった。
「美味しかったですか?」
「美味しかったです!!」
トマトちゃんがニコニコ笑う。食後の会話も一段落ついた頃、母親がトマトちゃんと何やらひそひそ話す。トマトちゃんがうなずき、祐介と空鞠に顔を向けた。
「そろそろいいお時間ですから。お暇させていただきますね」
「今日はありがとうねぇ」
「こちらこそ! 申し訳ないですけど、後はよろしくお願いします。本当は後片付けまでやるのが料理だとは思うんですが」
「そこはそういうアレだもの。ね!」
……何か企画しているらしかった。バレバレだ。
トマトちゃんを見送りに玄関先に立つ。するとトマトちゃんはくるりと振り向き、開口一番「よかった」と笑いかけてきた。
「俺のほうこそ。ごちそうさまでした」
「祐介くんには感謝してるんですよ。こんな機会を設けてもらったの、祐介くんの提案なんですから」
「……やっぱりそうだったんだ?」
…………バレバレだった。
「――私ね。空鞠ちゃんにはちゃんとトマトを食べさせてあげたかったんです。私が投げつけて潰してしまったようなのじゃなくて」
トマトちゃんが空鞠に向き合う。
「本当にありがとう。あのトマト、無駄にしないでくれて。ありがとう」
空鞠は言葉を詰まらせたまま、その場にしばらく立ち尽くしていた。
「空鞠ちゃんは立派な神さまですから。自信を持って! その釘の刺さった胸を、堂々と張って生きてください。――大丈夫。ね?」
空鞠はしばらくのあいだ息が詰まったみたいに、トマトちゃんを見つめたまま深く息をしていた。しかしやがて、深々と頭を下ろして、言った。
「ありがとうございます。たくさん……!」
「こちらこそ」
そう答えてトマトちゃんが空鞠の頭を撫でた。それから、空鞠の頭を胸に抱いて、二、三度ぽんぽんとまた撫でた。
玄関に戻ると母親が立っていた。母は何も言わずに空鞠の顔を見下ろして、それからまたトマトちゃんと同じように、空鞠の頭に手のひらを被せた。
「空鞠ちゃんは神さまだけど、まだ子どもなんだからね。それは忘れないでね」
空鞠が目を閉じた。すると一瞬の間も置かず、目頭からぽろぽろと透明な雫が零れた。
自分は何もしていないな――祐介は清々しくそう思った。
◆
「行きたい場所があるんだ」
そう伝えたのが昨日の夜。
「一緒に飛んでいこう?」
そう返されたのも昨日の夜だった。
トマトちゃんの来訪から一夜が明けた。
ともに降り立ったのは港町だ。町のあちこちから広々とした海の景色が一望できる。湾にそってぐるりと視線を巡らせた先には切り立った崖があり、そこには灯台がひとつぽつんと立っていた。
「昔、瑞波さんと一緒にここまで来たんだ」何でもないように祐介は言った。「瑞波さんの川、どこまで流れていってどこに行き着くのか見てみたいって俺が言ったから。小学生の頃だった。自由研究にもした」
空鞠は祐介のほうを眺めて、ただ話を聞いていた。まるで遠い異国の風景について語られるのを聞いているみたいだった。
「それで、今はわたしと来ている」
「空鞠と一緒に来たかった。連れてきてくれてありがとう」
「それはわたしも同じ。ありがとう」
街中を散策する。季節外れの港町だ。海水浴のために開かれるビーチもあるらしかったが、当然今はシーズンオフだ。しかし秋晴れのもとで涼やかに照り映えるカフェやレストランの風景は悪くないように思えた。そして妙に猫を見かけた。名実ともに遠い場所に来た感じがした。
「ちょっと何か食べていくか?」
レストランにショーウィンドウを前に訊いてみると、空鞠は「ううん」と首を振った。意外だった。てっきり空鞠ならうウキウキしてうなずくかと思っていた。
「何か話したいこと、あるんだよね?」
意表を突かれる。ぎこちない間が空いた。
「図星かな?」
空鞠が笑った。
「たぶん大事なことなんだよね。わたしのために話しておきたいこと。それでここに来たんだよね」
「……まあ、そういうことになるな」
「ありがとう。わたし、いつでも大丈夫だから」
それからしばらく、空鞠と連れ立って歩いた。波の音がかすかに耳に届くようになってきていた。
二人で海を望んだ。眼下には消波ブロックが列になって並んでいた。石造りの堤防に肘を乗せ、肩を並べる。毎度のことながらすぐ隣に立つ空鞠は間近で見るとただの可愛い女の子にしか見えない。こんな子が強大な力を振るうとは思えない――神さまみんなに言えることではあるが。
休日だというのに人の数はまばらだった。元々穏やかな地域だった覚えはあるが、こうしてみるとどこか虚ろな雰囲気さえ漂っていた。しかし決して悪い雰囲気ではなかった。穏やかで平和なことと、虚ろであることとはどこかしら煮ているものだ。
「空鞠にとっては、海ってどんな場所なんだ?」
「よくわからないけど、惹かれるところ」
「海、好きなのかもな。空鞠ってイカだもんな」
「ゆーちゃんは海で泳いだことある?」
「ない。というか人前で水着姿晒すのって恥ずかしくないか」
「……」視線を上向けて静止する空鞠。「そうかも」
どんな想像をしてたんだろう、と祐介は思う。どんな水着を想定してたんだ?
……興味がないといえば嘘になる。
「ね、ゆーちゃん」
ぴた、と空鞠がくっついてきた。少しドキッとする。空鞠が両腕を祐介の腕に絡めてきた。まるで自分のそばに緩く繋ぎ止めるみたいだった。
「こうやってのんびりしてるの好きだけど、でも今は、そわそわしちゃうから――話、聞かせてほしい」
「……うまく話せるかは分かんないけど、下手でもちゃんと話す気ではいるよ」
「瑞波さんのこと?」
「何でもない思い出話。たぶん拍子抜けする」
「聞いてみないと分かんないよ」
「オチもないし」
「教えて。ゆーちゃんのこと、瑞波さんのこと」
くっ、と空鞠の腕に力がこもる。
「瑞波さんのこと考えると、わたし、ちょっと不安になるの」
水平線が伸びていた。空と海の接点。気が遠くなるほど広い空間の中で、祐介と空鞠は同じ場所に立っていた。
そして祐介は語り始めた。瑞波とのこと。出会ったときのこと。そして縁を切られたときのこと。
人と関わるのが苦手だった。神さまと話すほうが好きだった。
「だけどお前ももう高校生だろ?」
神さまは人間よりずっと偉い。だから自分のような駄目な奴のことも認めて受け入れて、優しく包みこんでくれる。同級生や同年代と関わるよりも神さまと話しているときのほうが、祐介は楽しくて安心できて、好きだった。小さな頃からずっとそうだった。
「思うんだけどな、やっぱり人は人と関わっていかなきゃいけないんだ。怖くてもちょっとずつ慣れていって、どうにかやっていけるようにならなきゃいけねぇんだ」
色んな神さまと話して歩いた。神さまはどこにでもいた。どんなものにも神さまは宿っていた。時にはボードゲームを持っていったり話題の漫画を貸したり、コンビニで見つけた変なお菓子を買っていったりした。その中でも祐介が慕っていたのは川の神さまだった。川辺に桜が咲き土手の草むらをキジが歩く、長大な川に宿る水神さまだった。
「でもよ、どうしても辛くて涙が出そうになったら来い。慰めるぐらいはしてやる」
「水神さまだからですか?」
「そうだ。あたしは水神だからお前が涙を溜めてりゃ分かる。その涙を目印にする。だからさ、そうじゃないときは来ちゃ駄目だ」
そのお茶目な、一緒にふざけ合っているような、それでいて俺を見守るような笑みが俺は好きだ。
「さあ行け。あたしはもうお前と会わないからな」
子どもの頃、この人(かみさま)と会いに行くために朝目覚めていた。
「それじゃあな。ばいばい」
「……はい。さようなら、瑞波さん」
「あぁ、そうだな。ばいばいよりさよならのほうがなんかイイな」
それでも祐介はいつもの川に足繁く通った。土手に腰を下ろして川面を眺めていた。春の暖かな風に若草の匂いが乗っていた。清々しく真っ青な空に咲きこぼれた桜がよく映えていた。
時たま瑞波が姿を見せては、近況を訊ねて、頑張れ、でももう来るなと言って去った。
それでも祐介は川を訪れた。時々瑞波の言う通り立派な人間になろうとして、ちょっとだけ奮起してやる気を出しては、ちょっとしたことで挫けてまた川を訪れた。
瑞波が姿を見せない。
時は経つ。
葉桜の終わりの頃。待ちぼうけた夕暮れ。
「もういい」
ようやく現れた瑞波はそれだけ言い残し、夕闇の溶け込む川面に紛れて消えた。
こうして瑞波との縁は切れた。
「生命はしぶとい」と祐介は言う。「そんなことがあっても俺はまだ生きてる。大切なものが終わっても人生は続いていく」
空鞠は海を見つめていた。その横顔がどこか切なかった。
「それっていいことかな。……いいことなんだろうなあ」
「むごい話だけど、救いでもある。どっちでもある」
本心だった。
「どちらにせよ俺はまだ終わってない。今も続いている。続いている限り何かはある。新しい出会いだってある。空鞠」
名前を呼んだ。
空鞠がこちらを振り向いた。
「俺には空鞠がそうだった。やっと何か始まったような、始められたような気がしたんだ」
空鞠はじっと祐介を見つめていた。
「せっかく新しく始まったものなんだ。俺はそれを逃したくない。終わっても人生は続くけど、だけど今あるものは続けていきたい。大切だから」
「わたしも、ゆーちゃんのこと、大切」
空鞠の瞳がまっすぐに祐介を捉えていた。それから空鞠は胸元の釘に手をやり、その輪郭を指先の腹でなぞった。
「続けていきたい。自分の手でどうにかできるもの」
それから空鞠は視線を上げて、祐介の顔に目をやった。
「瑞波さんとは? 今のゆーちゃん、瑞波さんとはどうなりたいの?」
「終わらせたい」率直な答えだった。「許されるならきちんと終わらせたい。お別れがしたい。瑞波さんと」
「また新しく始めたり、しなくていいの? それでいいの?」
「いいんだ。たぶんそれが俺に必要なことだから」
「――そっか」
不思議と空鞠は寂しそうに笑った。海風が吹き、通り過ぎていった。かすかな潮の匂いがした。
「お祝いする。瑞波さんとお別れできたら」
「お別れ会?」
「ちょっと違うと思う、それは」
空鞠が祐介と向き直り、くっと胸をのけぞらせる。
「抜いてくれる?」
「ああ」
慣れた手つきで釘を抜く。力が解き放たれた空鞠の姿にも見慣れてきた。最近ではこの姿で戦うよりも飛んでどこかに向かうことのほうが多いのだった。
触手が祐介に絡みついてくる。みっちりとした肉厚な感触と、吸い付いてくるような吸盤の感触には、さすがにまだ慣れそうにもない。
「飛んでいこう」
「よろしく、空鞠」
ふわりと身体が浮き上がり、空鞠が翼をはためかせる。それまで立っていた場所が遠ざかり、港町の全景を俯瞰できるぐらいの高度へ緩やかに上昇していく。
すでに思い出の場所は遠い。
妙な光景が広がっていた。
海から内地へ向かっている最中、祐介と空鞠は地平線の向こうから見えてきたものに眉をひそめていた。それは遠目からはとぐろを巻いて地上を睨む巨大な蛇のように見えた。
大質量の暗雲が安合市上空に渦巻いている。
「また何か起こってる……のか」
祐介が呟く。空鞠からの答えはない。祐介から続けるべき言葉もない。
何かが起こっているらしかった。自分たちが普段暮らしている地域を離れている間に。
渦巻く雲からは水が滴っているように見えた。距離を考慮すると実際は小さな滝が落ちているようなものらしかった。それはまるで大口を開けた蛇が唾液を滴らせているようにも見える。
「瑞波さん……?」
空鞠の腕に力がこもった。小さな痛みに耐えているような力の籠もり方だった。
「急ぐね、ゆーちゃん」
「頼む」
加速する。重力を完全に無視しているような浮遊感が少しだけ気持ち悪い。だがそれどころではなかった。真っ向から風を受けて乾きそうな目を見開き、祐介は行く手にそびえる雲の城を凝視しようとする。しかしすぐに目が痛む。顔を下向けて目をつぶったその折、妙な光景が目に入る。
「川が……枯れてる? 水がない……」
地上に走る河川が水底を露出している。まだ濡れて湿っていた。まるでついさっきまで流れていた水をいきなり丸ごと持ち去られたみたいな景色だった。
「やっぱり、あれ……」
「きっとそうだよ」
空鞠の声が硬い。
「瑞波さんだ。きっとあそこに瑞波さんがいる」
声に確信がこもっている。それとともに空鞠がさらに速度を増した。
「空鞠! 速くないか……っ」
「ごめん! でも心配で……!」
無理もなかった。それに気持ちは祐介も同じだった。
空鞠が高速飛行をする。渦巻く雲を観察できるギリギリで飛びながら直下の安合市への着陸を準備する。
「……あれ!」
空鞠が声を上げた。それで祐介も目をこらした。
雲の中心部。そこに確かに瑞波がいた。
雲から吊り下げられていた。
逆さ吊りだ。瑞波自身の胴体より太く長大な尻尾が雲に接続され、当の瑞波は眠ったように目を閉じているのだった。
「何がどうなってるんだ……?」
「……わたしの影響、なのかな」
空鞠の不安そうな声に、思わず驚きの声を返してしまう。
「なんでそう思うんだ?」
「瑞波さんがおかしくなったの、わたしの影響なんだよ。だから瑞波さんがまたどうにかなっちゃうなら……それはきっとわたしのせいで……」
「……実際どうかは分からないな」
嘘はつけない。だから思ったままを伝える。
「実際どうかは分からない。だから決めつけるのはよくないと思う。空鞠のせいだって決めつけるのもどうかと思うな」
「……うん」空鞠がうなずく。「えっと、まずはタマさんのとこに……」
そのときだった。大量の水が弾けるような音が雲の中から響いた。暗い上空を振り仰ぐと、そこには巨大な蛇の頭があった。
渦巻く雲を母体として、水で出来た七つの頭が祐介たちを睨んでいる。暴走した瑞波の力の顕現だった。
「これちょっと、危ないかも……!」
祐介の反応を待つことなく、空鞠が退避を開始する。祐介の身体に過剰な負担がかからないギリギリのパフォーマンスだった。
蛇が四方八方から食らいつく。全開にすれば二階建ての一軒家ほどもありそうな大口をかろうじてかわしていく。
そのとき、真正面から大口が向かってくる。空鞠は触手を整形し、巨大な砲塔を形作る。
ダークマター砲。蛇が形を崩す。しかし、
「うっ……!?」
別の蛇がすぐそこをかすめる。ダークマター砲を撃ったことによる反動、位置のズレを見切れていなかった。
「マズいか……っ」
「ちょっと……無茶しなきゃかも……っ!」
蛇が牙を剥いてくる。地上まではもう少しだった――
しかしそのとき、地上から金色の光がほとばしる。
それは金色の光で象られた稲穂の原だった。蛇たちはみな目が眩んだかのように身体を丸める。
その間にいつか見たように、金の光で象られた狐たちが五つの方角に走っていく。ナナとの戦いで見たような結界が張られつつあるらしかった。しかし前回と違うのは、結界の中心部でタマが両手を広げていることだった。
「タマさん!!」
「来たね! 完全復活って感じするけど?」
「もう大丈夫です。戦えます!!」
「決着を、つけられる?」
「つけます!」空鞠が答える。「ゆーちゃんと一緒に!!」
「頼む、空鞠」改めて口にする。「手伝ってほしい。俺と瑞波さんのこと、終わらせること」
空鞠がうなずく。その顔が頼もしかった。
くるりと身を翻す。蛇をかいくぐりながら雲に向かって飛ぶ――今度はタマの化身たる狐たちのアシストがあった。ずっと楽だ。
空鞠がダークマター砲を雲に撃ち込む。一度は形を崩すも、すぐに再生する。――神さまは再生する。
「瑞波さんだ!!」祐介が叫ぶ。「瑞波さんをどうにかする!!」
「具体的には!!」
頭を巡らせる。
そのとき、ふっと思いつくものがある。
「引き抜く!! 空鞠の釘みたいに!!」
「……つまり!?」
「たぶんだけどあの雲、瑞波さんが本体なんだよ! でも瑞波さんは宙吊りになってるし眠ってるし、力だけが勝手に動いて暴走してんだ!! だから瑞波さんを引っこ抜く!!」
「っ……」空鞠が言葉に詰まる。しかしそれも一瞬だった。「やってみるしかないよね!!」
大蛇たちの猛攻は苛烈さを増す。それでも渦の中心部にたどりつき、瑞波の胴体に腕を回した。
「このまま……下に……ッ」
しかし簡単にはさせてくれない。瑞波のそばを旋回したまま機を伺う――狐たちの動きも鈍ってくる。
「――今ッ」
全力で地上へ引っ張る。少しずつ高度が下がり、水で出来た瑞波の尻尾がブチブチと雲との繋がりを絶っていくのが分かる。
だが一歩足りない。
蛇たちが襲いかかってくる。
「……くっ」
空鞠が触手を蠢かし、ダークマター砲の砲口を雲へと向ける。
そのまま、雲を貫き天をつくように、暗黒砲を発射した。
強烈な反動。雲が急速な勢いで再生する一方、瑞波の身体が抜けていく。
引き抜けていく。
そうだ。
元はといえば全て、こうして引き抜くところから始まったのだ――
「瑞波さん!」
瑞波のそばに近寄る。瑞波は目を閉じたままだったが。やがてゆっくりと目を開いた。
「瑞波さん……!」
じっと様子を見守る。すると瑞波は頭を押さえる。
「ぐっ……うっ……」
「大丈夫ですか! 瑞波さん……!」
そのときだった。
瑞波に振り払われる。祐介から離れた瑞波は空鞠の元へ向かい、そのまま胸元の釘を握りしめた。
「へ……?」
そしてそのまま、思い切り引っ張る。
「いっ……痛い!! 痛いです瑞波さんっ……!」
そのとき、察する。
空鞠は本当は、胸の釘をなくしてほしいのかと。
そんなものから自由になりたいのかと。いつか夢で見た景色を思い出す――釘の刺さっていない空鞠のこと。
「違いますっ……これはっ、これはゆーちゃんとの繋がりでもあって……わたしそんなこと……っ!」
「瑞波ちゃん!!」
タマが駆けつけ、印を結ぶ。しかしその一瞬の隙を突いて瑞波の蛇が食らいつく。
「くっ……!」
散らばる穀物。
気付けば祐介も飛び出していた。瑞波の身体を押さえようとするもそこは人間の力に過ぎない。簡単に弾き飛ばされ、そして、
「うあ――――――ッッッ」
絶叫。瑞波に噛みつかれる。
寸前だった。
瑞波の胸を鋭い触手が貫いていた。
「え……?」
空鞠自身が驚いていた。
その胸からは釘が抜け落ちていた。そして釘の刺さっていた場所から触手が伸び、瑞波を貫いているのだった。
地面に釘が落ちている。それもすぐに色あせ、風化し、塵と消えてしまった。
静まりかえる中、瑞波が祐介に言った。
「大丈夫だ。神さまは死なない。あたしはまた蘇る。もう少し……待ってて」
そう言いつつ、瑞波は水の塊となって形を崩した。
全て一瞬の出来事だった。
そのとき、まばゆい光が辺りにあふれた。
光の差すほうを振り向く。そこには武装しているらしき神さまたちが続々と降り立ってきているところだった。
光の中、ひとつのシルエットが浮かぶ。
「――太陽神さま」
光の中から歩み出てきたその神さまは、身体の左半身が真っ黒に染まっていた。影になっている。――それは戦いか何かで受けた傷らしかった。
「世話をかけた」
凜とした声だった。その場を支配する声だった。
「未だ外からの侵攻は続いている。ゆえに私はまた前線に復帰しなければならない。しかしお前の報告にあった邪神のこと、そろそろこの目で見ておかねばならぬからな」
そう言って太陽神はこちらに目を向けた。
祐介。そして空鞠。
「私はヒノト、太陽の神。そしてこの安合市を打ち立てた者だ」
さっ、と血の気が引いた。それが威厳というものなのかもしれなかった。
「……これは何がどうなっている?」
訊ねるヒノトにタマが答える。――たったいま起きたことを。
「つまり」とヒノトは簡潔にまとめた。「邪神の力は制御しきれない。――そういうことだな」
「失礼ながら、それは早計に過ぎるのではないかと存じます」
「何度同じことをやっている? 社の破壊も眷属の事変も、みな発端は同じでないか?」
――答えられない。ヒノトが周囲に声をかける。
「連れていく。連行せよ。処遇は上で決めよう」
「お待ちください! 責任は私にあります!!」
「お前はよくやっているよ」
空鞠に五芒星の札が貼り付けられる。すると空鞠が呻く――簡易の封印らしかった。
空鞠たちが去ろうとしている。祐介は立ち尽くしているばかりだった。
だけど、と祐介は思う。このままでいいわけがない。いいはずがなかった。
「待ってください!!」
始めて神さまに反抗する。
怖かった。
「空鞠は悪い神さまじゃありません。これまでたくさんの神さまと協力して事件を解決してきました。良い神さまであろうとしてきました!! だから!!」
地面に這いつくばる。
「お願いします。安合市にいさせてあげてください……!」
――ヒノトがこちらを見下ろすのが分かった。しばしの間が空いて、ヒノトが口を開く。
「それもお前なりの甘え方なのか?」
はっとする。ひんやりと血が冷えていく感覚――身体を殴られたのではなく心を殴られたような感じ。
「お前は神さまに甘えてばかりなのだな。今後長い時を経て、髭が白くなって頭が禿げ上がってからもお前は、まさか神さまを追いかけて甘えるつもりなのか?」
目眩がしてくる。吐き気もする。しかも全部正しい。ヒノトの言うことは正しい、と分かってしまうのが辛かった。脳みそから血の気が引いてくる。限界だ――
そう思ったとき、誰かの声が耳に届いた。
「やめてください……やめて……」
空鞠の震える声だった。
「やめてください……!!」
だんだん力が増してくる。
「祐介くんのこと、そんなふうに言うの、やめてください!!」
そのとき力が暴走する。胸から釘が抜ける。中からドロドロと肉塊が溢れる。
肉塊が広がっていく。タマの防壁をも呑み込み、粉砕しながら。ヒノトは剣を振るい、場を切り開いて皆を助けた。その肉塊の海が初めに向かったのは祐介のもとだった。タマの介入も制して肉塊は内側に祐介を抱く。
空には血管のように触手が走り、太陽の光を塞いだ。
空鞠がその場から飛び立つ。触手も肉塊も際限なく広がり続け、今や巨体と呼べるまでになっていた。
「大丈夫? ゆーちゃん」
そういう空鞠の声音は平生そのものだった。しかし息するだけで精一杯らしい祐介の姿を見ると、空鞠は心配そうに眉をひそめた。
「ごめん。休憩するね」
降り立った場所は切り立った崖の上――灯台だった。
「あのね、ゆーちゃん」
空鞠が祐介の胸に額を押しつける。いつかもやった仕草だった。
「わたしが守るから。ゆーちゃんのこと、わたしが守ってみせるよ。大丈夫。わたしだって神さまだから。ゆーちゃんの神さまになりたいから」
何かが歪んでいる、と祐介は悟る。しかしどうにもならない。
空鞠もまた不安定な状態にあるのだ。それを傷つけるわけにはいかない――し、あまり考えたくないが、これよりもっと最悪な目に陥る可能性もないではない。
「あのね、ゆーちゃん」
空鞠が胸に祐介を抱く。その膨らみに圧迫される。息苦しい。
「美味しい……」
人なつっこくも空鞠は言う。
「……怖い?」
「怖いよ」
震える声で言う。
「空鞠は? 怖くないのか」
「もう、ね。そういう感じでもなくなったのかなって」
空の向こうを見て言う。そこは水平線。海と空とが出会うところ。
「やるべきこと。分かったから」
祐介は異常事態にありながらも、反対に胸の奥は平静だった。
どうにかなるだろう、という気がしていた。きっとどうにかできる、神さまだって助けてくれる――そんな気がしていた。
でも、それが甘えなんだと、自分はヒノトに厳しく刺されたのだ。
悔しいけどそれは本当だった。気に入らないけど本当のことだった。
「ヒノトさんのこと、気に入らないか」
「許せない」と空鞠は言った。「ゆーちゃんのこと否定して悪く言うのは。嫌だ。わたし宛ならいくらでもいいけど、ゆーちゃんのことはダメ」
「でもヒノトさんの言うことは正しいと思う。俺だって気に入らないし悔しいし、何だよって思うけど、それでも……正解なんだ。だから苛立つんだ」
「ゆーちゃん、こんなに立派なのに」
空鞠が祐介を見つめる。
「こんなに優しくて、わたしのこと守ってくれて、支えてくれて、ずっとそばにいてくれたのに。ゆーちゃんだって苦しんで悩んで、それでも生きてて、頑張ってるのに。分かんないよ。なんでヒノトさんはそれがわかってくれないんだろう」
その気持ちは分かる――たぶん自分は、空鞠の言うことは全部気持ちは分かるってことになるのだろうと思った。
それでも、こんなふうに世界を巻き込んで歪めることが最適解だとは思えなかった。
たとえ自分のためにしてくれたことだとしても。
「空鞠。これからどうするんだ?」
「ずっとゆーちゃんと一緒にいる。ゆーちゃんとずっとこうしてる」
「神さまたちと一緒に、この市で暮らすっていうのは?」
「わたしね」
空鞠が口を開く。
一瞬、祐介は緊張する。
「ゆーちゃんのことが一番大切。わたしの中でゆーちゃんが一番大きいんだよ。この姿で生まれて、この姿で過ごし始めて。それでやっぱりわたし、ゆーちゃんのことが一番……大事なんだ」
空鞠が頬を寄せる。
「ゆーちゃんも同じ気持ちだったらなって。思う」
そう呟き、顔を離す。
空鞠はこちらに視線は向けない。空の向こうに目を向けている。
間が空いた。たぶん祐介が何か口にするのを待っている間だと思った。しかし、それは静寂だった。
「たぶん」辛そうに、ぽつぽつと口にする。「わたし、もう戻れないと思うし。あんなことしちゃったら」
やっぱりそうなんだな、と祐介は思う。――本当は空鞠の願いは変わってはいない。俺と一緒にいる、みんなと一緒に暮らす、そのどちらも本当は空鞠の夢として今も息づいている。
その片方が潰れてしまったと空鞠は思っていて、それで今、祐介に向けて全ての感情を注ぐことでバランスを保とうとしている。夢が壊れて空いた穴に祐介への想いを詰め込んで、それで自分を保とうとしている。
分かる気がするのだ。かつて自分もそうだったから。
瑞波のことを思った。
「あの鳥居の向こうまで行きたいんだ」空鞠は言う。「そうすればそこには誰もいないよね。誰も追って来れないよね」
そこで気付く。安合市の神さまは安合市外では成り立たない。
空鞠が外に出たなら、そのとき空鞠はどうなるのだ?
――自分の安否はもちろんある。しかしそれ以上に――空鞠の存在はどうなる?
ひとつだけ確実な気がした。それは、いまの空鞠はきっと消えてしまうだろうこと。
「空鞠」
「行こう、ゆーちゃん」
遮られたのが分かった。
「もうすぐみんなが来る。そんな感じがするんだ」
空鞠もまた何かに反抗しているのだ。それを感じる。また肉塊に身体が埋もれていく。
「あのね、ゆーちゃんはね」空鞠が笑う。冗談を言うように。「あったかくて、ちょっとしょっぱい」
「空鞠!」
呼んだ名前ごと呑み込まれる。ごくん、と自分が呑み込まれる音を聞いた気がした。
空気がざわめいていた。
暖かな肉の繭の中で祐介は不思議な感じがしていた。空鞠が見ているものを自分が見ている、空鞠が聞いているものを自分も聞いている――そんな感じだった。まるで自分が空鞠と同化しているみたいだった。それとともに自分はろくに身動きできない。外の景色は見えているが、どうしても何かを働きかけることが出来ない。
社の中にいた空鞠の千年間を思った。おこがましいとは思った。それでも想像しないではいられなかった。
「空鞠ちゃん!」
タマの声だ。やはり止めるために追ってきたのだ。見ればヒノトの配下の者たちが後ろに続いていた。
タマは巨大な狐の上に乗っていた。狐は眼光鋭くこちらを睨めつけ、風を切って宙を駆っていた。タマの使いということなのだろう。
祐介は祈る。神さまは誰かから祈られたとき、そのことがなんとなく分かる――フーコがそんなふうに言っていたから。
「空鞠ちゃん! ごめんね!!」
タマが腕を振りかざす。するとたくさんの小さな狐たちが弾丸のように飛び出し、空鞠の触手に噛みついた。少なくない触手に歯形が付いたかと思うと、すぐにぼろぼろともろい石材のように崩れてしまう。しかし大したダメージではない。
「――ごめんなさい」
空鞠が傷ついた触手を切り離す。それは宙に浮かぶとともに変形する――まるで肉塊で象られたクラゲやタコのようだ。バルーン状に浮かんだそれらは神さまが触れるやいなや絡みついてがっちりとロックする。……傷つけはしていない。動きを封じているだけだ。
やはりそうだった。空鞠には神さまたちを傷つける意志はない。間違っても傷つけてしまわないように細心の注意を払っている。空鞠はただ、鳥居の外に出ようとしているだけだ。
それでも追っ手の数は減らない。何を思ったか空鞠はくるりと振り返り、膝を折り曲げてだらりと両腕を脇に垂らした。
ざわっ、と肌が粟立つような感覚。
大勢の神さまがくるりときりもみしながら落ちていく。宙に浮かぶ肉塊のバルーンが捕縛する――醜悪極まりない光景だった。
そんな中、祐介は見知った顔を目にする。
「空鞠!!」叫んでいた。「祐介!!」
それはフーコの姿だった。必死についてくるフーコの姿だ。その姿が不思議なほど祐介には衝撃的だった。
「っ……」
そのとき、祐介は自分を包んでいる肉の繭がどくんと打つのを感じる。そしてどことなく血の気が引いていく感じ――空鞠が苦しんでいるのだろうと思った。そして同時に、自分の思いが空鞠にも通じているはずだと確信する。今の祐介は空鞠と一体になっている。
ならば、と覚悟を決める。
『空鞠』祐介は語りかける。『大丈夫だ。大丈夫だから――止まって』
「もうダメだと思うの」と空鞠。「何もかも遅い気がして」
「俺だってそう思ってた。でも空鞠と出会ったんだ」
本心だ。
「またみんなと出会い直そう。空鞠の釘が外れたのはきっとそのためなんだ。終わってない。また始められる。続いていく」
ぐうっ、と身体が締め付けられる。――空鞠にとってきっと並大抵でない言葉だったのだ。
「空鞠。俺がいるよ」
「でも」
空鞠の声は潤んでいる。
「これが……一番いい気がして」
「空鞠ちゃん!!」タマも叫ぶ。「止まって! キミが……キミが続いていくために!! 祐介くんも同じこと言ってるんだよね!?」
「っ……」
空鞠の速度が緩む。心が動かされている。
「空鞠ちゃん!! 生きることも私たちの安合市(せかい)も、どっちもそんなにヤワじゃない!!」
「タマさん……っ」
ついに空鞠が振り返る。しかしその向こう側。
太陽の光が溢れてきていた。
「あ……ああ……っ!」
空鞠が身を翻す。その内心が祐介にも伝わってくる。
『逃げた……逃げた……逃げちゃった……! 逃げてる!! もうわたし……ダメなんだ……!』
その感覚を祐介は知っている。
自分も何かから逃げ続けてきた。神さまのもとへと避難し続けてきたのだ。
それに、祐介だってヒノトは怖かった。
自分の弱いところを一言で切り捨てられた。勇気を出しての行動に何の見向きもされなかった。確かにヒノトは正しい。しかし祐介は正論に対して苦手意識がある。自分はいつも正論に傷つけられてきたような気がする。
しかし、それでも祐介は思うのだった。
自分には責任がある。空鞠を預かった責任がある。
そうだ。自分には責任があるのだ。
「空鞠ちゃん!!」
再びのタマの声。後ろ髪を引かれ、停止しかける空鞠――
そのとき、祐介の視界に光が差した。それは剣に似ていた。闇に刺さる光の剣だった。
外の空気が顔に触れた。空鞠が触手で編み出した揺りかごがばっくりと裂かれていた。久方ぶりの光に目を痛めながらも、祐介は目の前に立つ影を見た。
ヒノトが剣をこちらに向けていた。その切っ先が目と鼻の先で光っていた。
「これしきのことで世界は傷つかない」
ヒノトの目が祐介を射抜く。
「だから始末はお前がつけろ。お前の夢を迎えに行け」
「…………っ」
口を固く引き結ぶ。応える。
「もちろん……!」
肉塊から飛び出る。海面が近づいてくる。それとともに触手が絡みついてくる。
「ゆーちゃん!?」
驚く空鞠の声を耳にしつつ、祐介は祈る。
神さまに祈りは通ずる。
フーコがそう言っていた。
「祐介!!」
「フーコ!!」
「ほんとにいいのね!?」
「フーコにしか頼めない!!」
フーコが叫ぶ。開いたポーチの口をこちらに向ける。突風――肌を切り裂かんばかりの硬質な風だ。そこに詰まっているのは風神の風。かまいたちのごとき風の刃。
しかしそれと同時に空鞠はそれを防ぎ切る。触手を幾本も断ち切られながら――
「祐介っ……!」
歯噛みする祐介。
その視界に映るものがある。それは懐かしい影だった。
人の形をした透明な水の塊。しかしそれが何者か、祐介には分かる。
時間が止まったみたいだった。
「どうして……?」
「川はいつか海に流れるもんだからな。でも無茶はしてるよ。本当はあり得ない。それでも今こうなってるのは、お前が心の底から祈ったからだ」
瞬間、水で象られた蛇が襲いかかる。
「この一発をな」
祐介の手の甲を、噛み千切るように。
「ダメっ!!」叫ぶ空鞠。「ゆーちゃんのこと、傷つけないでっ……」
祐介の手の甲から水っぽい血がだらだらと海に流れる。
迎撃しつつ海面を嫌うように上昇する空鞠。瑞波の影はばしゃんと海に倒れ込み、消えた。
上昇する二人。
……意外とこれまで空鞠の悲鳴を色々聞いてきた。悲痛なもの、苦しいもの、本能で叫んでしまったようなもの。だけどそのどんな悲鳴よりも、
いま、自分のために上げられた悲鳴が、一番祐介の胸を締め付けている。
「大丈夫ゆーちゃん!? 血……? 血が!!」
右手から流れた血が肘にまで滴る。空鞠の触手が腕に巻き付き、強く縛り付けてくる。止血だ。応急処置しようとしているのだ。こんな空鞠にとっての一世一代の戦いの最中(さなか)、怪我をした祐介のことで夢中になっている。視線をあちこち泳がせながら俺に身を寄せ、痛くないか苦しくないかしきりに訊ねてくる――それ以外眼中にないのだ。今の空鞠はもう祐介の安否しか考えられないのだった。
そのことが哀しい。
涙が零れそうだ。
「空鞠」
「へっ……?」
祐介は、自分が言おうとしている言葉を知っている。
「なに?」
不意をつかれて素の表情、素の声音で答える空鞠の姿は、いつも家で話していたときと変わらない。
「ゆーちゃん?」
息を吸い込む。と同時、思い切り腕を振り回して触手を払った。
びっくりした表情の空鞠。
そうだ。
空鞠の表情が祐介は好きだ。
「これが今、俺に唯一できること」
血は流れている。
強い想いもここにある。
右腕を思い切り振りかぶり、一点めがけて全霊で突き刺した。沈み込む。熱を持って輝く。空鞠と過ごした全ての時間がその一時(いちどき)に脳裏をよぎる。
そこはかつて釘が刺さっていた場所。空鞠の胸元だった。
「――あぁ……っ」
金色の光を放ちながら右腕が深く沈み込んでいく。熱い。腕が命の温かさに包まれている。
奥までしっかりと突き刺さったそれは、まごう事なき封印の釘。
驚くほどに熱を持っていた。
神話はここに成立した。空鞠の胸元から黄金の光が溢れ出す。
過ぎ去った過去も、一緒に過ごしてきた時間も、今はただひとつの祈りとなって心(ここ)に輝いていた。
空が晴れていく。快晴の日が差し、神話の完成を祝うように爽やかな青空が広がっていった。
宙に浮かぶ二人は白い光に照らされている。
今、世界は二人のものだった。
二人が落下していく。海目がけて落ちていく祐介たちだったが、ぼろぼろと暗い塵のように崩れていく空鞠の触手が祐介に絡みつき、抱きしめた。
「わたしが……守るから……」
続いて空鞠の細い腕が祐介を抱く。
そのまま二人は一塊になり、海上に高い水柱をそびえさせた。
海の中に落ち込む。薄暗い海の中。
祐介は空鞠の胸の内に腕を――封印の釘を差し込んだままだった。
そのまま息ができている。空鞠の周囲に透明な泡みたいな結界が張られていた。この内側では安全に過ごせるということらしい。
「ゆーちゃん」
空鞠が口を開く。聞こえる。言葉も交わせた。
「空鞠……」
「ごめんね」
空鞠が謝る。
「謝らなくていい」
空鞠はずっと祐介のことを見つめていた。祐介の言葉が本当かどうか確かめているみたいだった。
「やっぱりさ、わたし。ナナが言うみたいに、心なんてなかったほう、よかったのかな」
「俺は、空鞠には心があってほしい。空鞠の心が好きだ。尊敬してるんだ」
「ありがとう」空鞠が目を細める。「でもゆーちゃん、やっぱり、心があるから生きてくのって苦しいんじゃないかなあ。他の人のことも苦しめちゃう気がする。心が。この心が」
「……そうなんだろうな。心があるから苦しいことが起こる。でも心が生まれたから、空鞠は神さまになったんだよ」
「神さまでいるのは……生きていくのは……苦しい、ね……」
「だから尊厳がある。威光がある、誰かのことを理解も出来る。人は心を諦められない……」
胸に深々と突き刺さった腕を祐介は見つめる。その腕を空鞠が名残惜しそうに両手で掴んでいた。
「そんなものを持って、みんな、生きている」
「きっとそうだな」
「みんなすごいなぁ。すごいよ、みんな。生きてるってすごいことだね」
空鞠、海面を見上げて。
「やっぱりわたし、みんなと一緒に暮らしたいな。輪の中に混じりたい。……そういうふうに言い切っちゃうの、すごく、怖い感じがするけど。でもやっぱりわたし……」
空鞠が寂しそうに笑う。
「ダメだったなあ。心って難しい」
「色々あって今回失敗しただけだよ」
「ダメだったから封印されちゃったのかなあ、って」
「違うよ。あれは……空鞠が、自分のやりたいこと、見失ってる気がしたから。心に惑わされて、空鞠の本当の部分が、歪んじゃってる気がしたから、だから……」
「……ああ…………」
空鞠が息をついた。それか目をしばらく閉じて、また開いた。
「ゆーちゃん、わたしのこと、そんなに考えてくれてたんだね。ゆーちゃんはわたしじゃないのに、わたしよりもわたしのこと、考えて、思ってくれてたんだね」
空鞠が祐介の肩を抱く。
「すごいなぁ……ゆーちゃんは……」
「同じことを空鞠だってやってたんだ。トマトちゃんのとき……あのとき俺、空鞠のことを本当にすごいと思ったんだ。誰も傷つけはしないで、みんなのことを誰よりも深く考えて。だから俺、やっぱり俺は空鞠のこと、ずっと支えていきたいと思ったんだ」
「ありがとう。ごめん……ね……」
「まだ終わってないよ。神さまは死なない。生きてる限り変わり続ける、生きることと変化することは同じなんだ。空鞠が邪神から今の姿になったみたいに、また空鞠だってなりたい姿になれるんだ」
「そうかなあ。そうだったらいいなあ」
空鞠が笑った。
「もっと立派になって、大丈夫になって、それからみんなと一緒になりたい」
空鞠が額を寄せる。
別れが迫っている。そう直観したらしかった。
「お願い、ゆーちゃん。わたしの気持ち、みんなに伝えてください」
深くうなずいてみせる。空鞠もうなずき、言葉を発する。
「心配してくれてありがとうございます。迷惑ばっかりかけてごめんなさい。それでも私と関わってくれたみんなのことが、すごく、……嬉しいです。最後まで手間をかけて申し訳ないけど、私の処遇はお任せしたいです。どんな判断が下されようと私に異存はありません。どんな罰だろうと受けます。然るべき時が来たら私を呼んでください。私はここにいます。海の底に沈んでいます」
そこまでゆっくりと口にし終えて、空鞠は首をかしげる。
「……いい?」
「分かった」
「ありがとう」
空鞠が不器用に祐介を抱く。――胸に腕を突き刺している相手を抱くのだからそれはそれは不器用な抱擁だった。
それでも祐介を抱きしめていた。
「……ああ」空鞠が息をつく。「抜けていく。大切なもの」
空鞠のいうとおり、祐介は自分の腕が空鞠の胸から抜けていくのを感じる。海の冷たさが肌にまといつく。
空鞠が遠ざかっていく。海底の闇に同化していく。
その姿を目の当たりにした祐介は、叫んでしまう。
「空鞠ぃ……っ!!」
空鞠は顔をくしゃっと歪めながらも笑ってみせる。その表情はどこか清々しい。
その唇が動く。もう声は聞こえない。しかし祐介には伝わる。
それは名状しがたき四文字の言葉。
それだけを残し、空鞠の姿は海底深く沈んでいった。
★
また想い出の場所に来た。
空と海の境目が一直線になって遥か遠くに延びている。あれが祐介の生きる世界の果てだった。流れる空と海とが擦れ合いながら祐介のもとまで運ばれてくる。海に面した石垣に肘を置き、波の絶え間ない音と動きをぼんやり感じていた。
「祐介」
後ろから呼ばれる。一瞬胸がきゅっと縮んだ。だけど文字通り、呼ばれるままに振り向いた。
「待たせたか?」
「いいえ。全然」
ポニーテールを風になびかせ、瑞波がそこに立っていた。祐介の顔を見て安堵したように口元を緩め、まるで自分の周りを舞台だと思っているような、自信に溢れてスマートで流れるようないつもの身のこなしで、祐介のすぐ横に肩を並べた。
「お前、さすがに背ェ伸びたな」
「俺も身長のこと考えてました。瑞波さんこんなに大きかったんですね」
「差は縮まってんだろ?」
「縮まってますけど、でも瑞波さんのほうが高いですよね。俺が特別低いってわけでもないし。昔は瑞波さんの背が高いのは大人だからだと思ってましたけど、普通に瑞波さんが長身なだけだったんですね」
「水神だからな。でっけぇ蛇みてぇなもんでよ」
「髪型、変えたんですね」
瑞波の首筋、結わえられた長髪が目についた。ほのかに緑がかって艶を放つ黒色で、手のひらに掬えば水のようにさらさら流れそうな髪だった。
「これな」瑞波がそっぽを向くように首を動かし、髪をさらりと揺すってみせる。「あたし、元々はこの髪型なんだよ。でもウルフカットってのがあるって知ってさ、いいなーって思って髪型変えたんだよ。お前と知り合ったのはその後だな」
一瞬気が遠くなる感じがした。いま目の前にいるのは本来の姿の瑞波なのだと知って、その一瞬であらゆる感慨や目に映るものへの愛着や、そういうものが一気に湧いてきてとめどなくなりそうだった。宗教的体験、と不意に思った。瑞波から目を逸らせなかった。
「おーい」
瑞波がくすりと笑った。石垣にもたれかかり、身体の正面を祐介に向けた。
「見惚れてんじゃねーよ」
「なッ」はっと気がつく。声が高くなる。「そういうんじゃないですよ!」
しかし瑞波はニヤニヤ笑って「ふーん」と唸るだけだった。実に心外だった。こちらはいまの一瞬で宗教的体験について思いを巡らすにまで至ったのだ。それを「見惚れていた」の一言で済まされるのは何ということか……
だけど瑞波の言う通りだった。この市には神さまが普通に暮らしている。その神さまに見惚れることと、神のことを想い、感じ、目に見えないものを知り、自分と自分を包み込む全てのものについて思い巡らせることが果たして違うものであるのか、祐介は区別をつけたくない。
「んでさ、どうだった?」
瑞波が訊ねる。映画の感想を訊ねるぐらいの気楽さで。
「どうだったっていうのは……空鞠のことですよね」
「そうだ。空鞠と、それからお前のこと」
訊かれるだろうと思っていた。だから事前に頭の中を整理して、一応の答えは自分の中で出していた。しかしそれを口にしようとすると声が出ない。口が開かない。喉が通らない。空を仰いだ。乾いた筆で引っ掻いたみたいな掠れた雲が浮いていた。深く息を吸って、ゆっくり吐いた。上向けていた首を元に戻した。
瑞波が小さく笑みを浮かべ、楽そうにしながら待っていた。というよりもただ祐介のことを眺めていた。目元に柔らかな表情があった。海風が二人の頬を撫でて通った。潮の匂いがした。それは訪れたこともないのに懐かしく感じる異国の写真を見たときの匂いに似ていた。
「結局、俺は大して成長してないと思います」
瑞波は何も言わない。表情も変えない。無言のまま続きを話すように促している。
「空鞠と出会って、それから別れるまで。俺は結局神さまとだけ関わってばかりで、他の人間(ひと)とはロクに話した覚えもないです。俺がどうにかしなきゃいけないのってそこなんですよ。それをどうにもできてないのに結局俺は自分を棚上げして空鞠のことを送り出しちゃったんですよ。身勝手だと思います。情けない」
「でも、きっとお前のしたことが一番よかった」
「そうなんだろう……と思います」
目を伏せた。視線を上げたまま言えそうなことではなかった。
「たぶん、俺はきっとあの場では一番良い選択ができたと思います。なのにずっと……悔しい。後悔してるんです。これ以上はないのに――だからそれは、俺の選んだことが駄目だったんじゃなくて、それを選んだときの俺が駄目だったんですよ。本当は俺にあんなことする資格はなかった。俺はもっと立派じゃないといけなかった。空鞠に申し訳ない」
「空鞠のためか」
ウミネコの群れが鳴きながら飛び立ち、陽の光を遮りながら祐介たちの頭上を横切った。瑞波とともに空を仰いで海鳥たちを見送ると、祐介は瑞波に目を合わせて答えた。
「俺のため……です。これは」
「そうか」
瑞波が海と向かい合う。その目は遠く、水平線の向こうに注がれているらしかった。
「お前はひとつ、終わらせた。自分のまるっきり外側からやってきて、あっという間に内側に入り込んで大切なものになったそれを。お前は終わらせたんだ」
「終わっちゃいました」
「何かが終わるのは悪いことじゃないし、何にせよ本当の終わりってのは中々ないもんなんだ。人生は続くからな。終わってもまだ生き続けるものがあって、終わってもまた蘇るものがある。良いものも悪いものもな」
瑞波が傍からこちらを見下ろす。それを祐介が見上げる。いつもの構図だった。ただずいぶん久しぶりな気がした。
「何かが終わったときに悔やんでいるのは、それは失敗だったってことじゃない。大丈夫だ。一番哀しく辛いのは、何かをきっちり終わらせられずに悔やみ続けることだ」
「瑞波さん」
向き直る。真正面から瑞波の顔を見据えた。
「今日もひとつ、終わらせに来ました」
「別にいいんだけどな。もう大丈夫だろ?」
「それでも区切りをつけたいんです。俺がいま、こうしてられるのは」
ぽつり、と右目から涙が零れた。それが無性に悔しい。でももう仕方のないことだった。言うべきことを続けた。
「特別なことだと思うから」
瑞波がゆっくり頷いた。瑞波はいま何を思っていて、何を考えているのだろうと祐介は思った。そんなことについて考えるのは初めてかもしれなかった。瑞波は自分と過ごしているとき、ずっと自分のことを考えているものだと思っていた気がした。
「迷惑ばっか掛けました。情けないとこばかり見せました。それでも俺、瑞波さんと出会えて良かったです。俺はまだ全然駄目なとこだらけですけど、それでも瑞波さんのおかげで少しでもマシになれてるんだと思います。そうじゃなきゃ空鞠のこともどうにもしてあげられなかったと思います」
一瞬瑞波の目が潤んだような気がした。しかしすぐに潤みらしきものは消えた。あるいは気のせいだったのかもしれない。いずれにせよ、こうやって目と目をじっと合わせてくれる瑞波のことが、何より祐介は大切だった。
「瑞波さん」
頭を下げる。
「ありがとうございました」
礼をしたまま両目を固くぎゅっとつぶっていた。それ以上の動揺が身体に起こらないよう堪えていた。じっと耐えた。心のどこにも触れないように、慎重に丁寧に息をした。
「祐介……」
名前を呼ばれた。吐息の混じった、漏れ出したかのような声だった。頭を上げるべきかと思った。でも上げられなかった。見てはいけないもの、あまり見てほしくないものを目の当たりにしそうな気がした。そうしてどれだけ時間が経ったか分からなくなってきた頃、頭にぽんと手のひらを被せられて、思わず祐介は顔を上げた。
「あのさ、祐介」
目の前で瑞波が笑っている。
「あたし思ったんだけど、お前」
「はい……?」
「そろそろ髪切ったほうよくねぇ?」
顔にかかる前髪をよけて、瑞波が言った。
「それは、まぁ」急に何かと思いつつ、答える。「そのうち切りますよ」
「おう。そうしろ」
くるりと瑞波が背を向ける。そのままスタスタ歩いていき、もう行ってしまうのかと思ったあたりで振り返った。
「なあ! まだ言いてぇことも話してぇことも山ほどあるけどよ、こんぐらいがちょうどいい気しねぇか? じゃないと際限なくなっちまうからな」
「俺もです。そう思います」
「だよな? じゃあそういうことでよ。祐介!」
「はい!」
「なんかさぁ。全部面白かった気がするな!!」
――それは。
それは思ってもみなかった言葉だった。
「冗談じゃないですよ!」
「そりゃそうだ!」
瑞波がまた背を向ける。こちらによく見えるように片腕を掲げてみせて、そのまま今度こそ歩き去っていく。遠ざかる背中がどんどん小さくなり、やがて見えなくなってしまった。
一人、残される。
瑞波の去っていったほうから自分を引き剥がすようにして海と向き合う。広々とした空は吸い込まれそうに青く、海には無数の光の波がきらきら踊るように光っている。
泣くのは一人になってからにしようと思っていた。しかしその必要もなくなった。瑞波のおかげだし、瑞波のせいだった。それが瑞波という神が存在とともに放ち続ける威光なのだと、祐介はいまやっと分かったような気がした。
「ねえ、祐介」
耳元で声がした。聞き馴染みのある声だった。視界には姿を現さないまま、声の主は細い腕を祐介の首筋に回して抱いた。
「おめでとう」
「ありがとう」
巻きつけられた腕に沿うようにして手のひらを添えた。するとまるで抱えたものを守るかのように両腕に力が込められた。さらに密に抱きしめられた。背中にぎゅっと女の子の柔らかさが押し付けられた。その生きているもの特有の柔らかみが、いまの祐介には心地よく暖かかった。
肩に顎が載せられる。祐介は腕を回して、その子の頭に手のひらを被せた。
「大丈夫」小さな声で呟いた。しかし聞こえるように。
落とされた小石が水底にまで沈んでいくみたいな間があった。そののち、祐介をひしと抱いていた腕が解かれ、手のひらや指先やいまもまだ触れているあちこちに名残をとどめながら、神さまが祐介のもとから飛び立っていった。風が吹いていた。そのままずっと祐介は風に吹かれ続けていた。
「空鞠」と名前を呼んだ。いま自分の知っている全てを空鞠にも教えたかった。
空と海の狭間に立っていた。ずっとそうしていた。
しかしやがて帰るべき時が来た。誰が決めたわけでもない。それでもそろそろ行かなきゃいけない、そういう時機があることをいま祐介は知っている。
改めて自分の右手を眺めてみた。手の甲に蛇に食い破られたような傷が出来ていて、その跡が金色と緋色に輝いている。封印の釘と同じだった。
それが今、目に見える空鞠との絆だった。
海に背を向け、歩き出した。一歩ずつ元いた場所から遠ざかり始めたとき、ふと誰かの喚び声を聞いた気がして、振り返った。
遥かな海の遠くでは今もさざ波が揺れている。
名状しがたき君と神話と、その封印の釘について 卯菜々凪 @UnanaNagi
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