『葡萄鹿の子の小話集』

スナコ

『葡萄鹿の子の小話集』

もしも、もしもだ。ここで鹿の子が、突然出てったとしたら。あの家から、おにぃちゃんの前・・・いやどうせやるならいっそ、この世から。いなくなったとしたら。おにぃちゃんは、悲しむだろう。いっぱいいっぱい泣くだろう。

そしたら、おにぃちゃんの頭ん中は、鹿の子でいっぱいになるだろうか。・・・おにぃちゃんの中から、たかにぃちゃんを、追い出せるだろうか。

学校の帰り道。周りを見回す。

車道。どぶ。階段。いっぱいある。いくらでも、死ぬための道具は溢れてる。

ブロックに乗ってみる。車道と歩道を隔てる、境界線。この世とあの世の、間。

びゅん、と風を切って、車が走り抜けてく。黒、赤、青。でっかい塊を見送る度に、スカートがはためく。

鹿の子はちっちゃい。一歩。たった一歩、タイミングに合わせて足を踏み出せば。きっと簡単に吹き飛ぶ。

痛いのはやだ、けど。それでもほしい物があるから。

じっと見る。次の車は、赤い。片足を出して、車道の上でぶらぶらさせる。どーしよっかな。

「・・・・・・・・・・・・・・・やーめたっ」

飛び降りる。歩道に。こっち側に、帰った。

恐くなった訳じゃない。正直、たかにぃちゃんに勝てるなら。おにぃちゃんを一人占めできるなら、怪我したって、死んじゃったって、別にいいんだけど。

でも、死んじゃったら。おにぃちゃんと遊べなくなる。おにぃちゃんで遊べなくなる。それは、うん。つまんない。

死んで花実が咲くものか、ってね。


『葡萄鹿の子と境界線』




「ずっと付きっきりで、目を塞いどいてあげられたらいいのにな」

「恐いもんも、きたないもんも、酷いもんも、みーんな見せない。鹿の子がね、守ってあげるの」

「したら涙も止めててあげられるし、もし泣いたらすぐ拭いてあげられるし、ずっとずっと鹿の子を見ててくれるのに」

「・・・目隠ししたまんまじゃ、鹿の子の事も見えないんじゃないの?」

「?変な事ゆーね。手で塞ぐんだよ?」

「真っ暗も、鹿の子が作るの。だから、真っ暗は、鹿の子なのよ」

見る世界すら管理したいのだと、言う。彼を守り隠し抱き締め閉じ込める、闇そのものになりたいのだ、と。

小さなその手に閉ざされる視界と、世界。差し出されたふたつの手を、兄は救いと取るのか、鎖と見て拒むのか。・・・今の彼ならば、どちらに転ぶかわからない、と。すっかり「幸せ」の定義がわからなくなってしまった簀の子には、いくら考えても答えは出せそうになかった。


『葡萄鹿の子は夢を見る』




「嫌い」。十一年間生きてきて、初めて知った感情だった。

可哀想なおにぃちゃんが、嫌い。報われないのに、犬みたいにたかにぃちゃんの帰りを待ってるおにぃちゃんが、嫌い。

・・・水に、墨を一滴、落としたみたいに。真っ黒い気持ちが、じゅわわわって、お胸に広がってく。

これが、「嫌い」。嫌いは、黒い。

じゃあ、たかにぃちゃんの事も、嫌いなんだ。最近たかにぃちゃんの事考えると、胸がじゅわわわってしてたんだ。

鹿の子、たかにぃちゃんの事、嫌いだったんだ。知らなかった。

嫌いは、悪い事。・・・でも、仕方ないと思う。

だって、たかにぃちゃん、おにぃちゃんを持ってっちゃうんだもん。鹿の子のおにぃちゃんを、可哀想にするんだもん。

おにぃちゃんは、可愛いのに。大好きなのに、嫌いにされる。先に悪い事してるのは、たかにぃちゃんだから。

「・・・たかにぃちゃん、嫌い」

初めて口に出した、その三文字は。軽くてすぐに空気に溶けてったけど。すごく重たく、口から落ちてった気がした。


『葡萄鹿の子は忠犬が嫌い』




「遊んでって犬みたいに笑う顔が可愛くてねぇ、大好き。・・・でもね。犬みたいにじっとずっと、たかにぃちゃんの帰り待って、玄関見てる顔は、嫌い」

「たかにぃちゃんにいじめられてぐちゃぐちゃに泣いてるの見てかわいそって、鹿の子が守んなきゃって思うのに、むかむかもする。泣かないでって思うのに、思いっきり蹴っ飛ばして、もっと泣けって思う」

「わかんない、わかんない。どうしたいのか、自分が何考えてんのか、わかんない。鹿の子、どうしちゃったの?病気んなっちゃったの?」


『葡萄鹿の子は嫉妬に狂う』


愛するってのは大小あれど何かしらが狂う事、まともじゃなくなる事だと思ってる




「いらないんだ、なーんにも」

「おにぃちゃんさえいれば、それでいいの」

何もいらない。彼との幸せ以上に大事な物なんてない。手足も、未来も、命でさえも。自分が持ち得る物なら、なんだって差し出せる。

本音を、言うならば。真砂との未来でさえも、そこまで執着はないのだ。

『ずっと一緒に、彼が傷つかず、傍にいられる』なら。生き死には大して関係ないのだ。

むしろ、死んでしまった方が、これ以上傷つけられずにすむだろうに、と。思うのだけれど、ただ。

彼が恐がるから、嫌がるから。実行には移さない、だけ。

彼にとって死は、永遠の別離なのらしい。心中したとしても、心が結ばれ、何にも裂かれる心配はなくなったとしても。体が、意思が死んでしまえば。それはもう、意味がないのだと。

難儀な事だ。自分のように考えられれば、大分楽になれるだろうに。わざわざ自分から傷つく確率を増やそうだなんて。誰よりも、生きるのが下手で、向いていない癖に。

でも、

「そんな所も可愛いから、いいんだけどさ」

全てを包む、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて。

「鹿の子が、ずっと守ってあげるんだ」

そう零された、蜜が滴るような、とろりとした甘い声音には。けして誰にも揺るがせない、重く固い愛と決意と覚悟が込められていて。

ひしと伝わるその愛の深さに、止める事は果たして正しいのか?世間の決めたルールと、この真剣な想いを天秤にかけたとして、自分はどちらを重んじればいいのか?と。あっけなく揺らいだ自分の中の常識と倫理に、簀の子は答えを出す事ができずに、頭を抱えてしまった。


『葡萄鹿の子の愛の前に常識は無意味』

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