13
海のいた夏から、二年の時が過ぎた。
十月を過ぎると本格的にkaguは忙しくなってきて、チーフパティシエになった正臣もまた、目まぐるしい日々を送っていた。
製造部門の責任者になったことでやることも多く、部下の数も増えたが、毎日が充実しているように思う。
そんなある日の夕方、
「ま、ままま正臣さん! 正臣さん、います!?」
ハロウィンの焼き菓子を詰めていると、西川が興奮しきった様子で工房に飛び込んできた。新人にラッピングの方法を教えていた正臣は、手を止めてうんざりした顔で西川を見る。
「なんだよ騒々しい……」
「売り子が呼んでます! 正臣さんにお客さんが来てるから、店に出てきてほしいって!」
「それで何でお前が騒いでるんだよ」
「そのお客がとんでもねえ美女だからですよ! なんなんすかあの芸能人みたいな女の人は!」
店頭の客とやらを覗き見した西川が、尚もうるさく言う。正臣は呆れつつも、残りの作業の後輩たちに任せ、店へと出ていった。
kaguには購入したケーキを楽しむための、四席ほどのカウンタースペースがある。そこに座っていた人物は、正臣の気配を察知するなり振り向いた。
「やあ、熊くん! 久しぶりだね、元気にしていたかな?」
「雛菊!?」
腰まで伸びていた艷やかな黒髪は、スタイリッシュなボブヘアになっていた。頬に大きなガーゼが貼ってあるのが痛々しい。長いこと除霊の仕事で留守にしていた彼女の訪問に、正臣も明るい表情を見せた。
店頭に居た売り子の女性に紅茶を入れてくれるように頼み、雛菊の隣に座る。
「今回の出張も長かったな。行き先は青森だったか」
「ああ。なかなか骨が折れる依頼だったが、無事に終わらせてきた」
「それにしても長すぎだろ、丸二年は。咲良さんも心配してたぞ」
「私も予想外だったんだよ。恐山で新たな除霊師を育てる仕事をしていたんだが、志願者がなかなかの粒ぞろいでね。働き詰めだったことだし、しばらくはこっちで羽根を伸ばそうと思っているよ」
雛菊と話していると、売り子の女性が飲み物を持ってきてくれる。礼を言って受け取る正臣を見ながら、雛菊は少し意外そうな顔をしていた。
「なんだよ」
「いや? ただ、最後に会った時とは随分変わったなと思って。なんだか別人のように明るくなっているじゃないか」
「ああ……まあ、確かにあの頃とはちょっと違うかもな」
正臣が苦笑する。
「海くんの除霊が済んだ後の君は、正直見ていられなかったからな。君が立ち直るまで見守ってやりたかったが、その数日後に私も出発しなければならなかったし……」
雛菊の言葉に、正臣も二年前の夏を思い出す。
最後の最後に自我を取り戻した海だったが、それはあくまで一時的な現象に過ぎなかった。正臣の呼びかけによって正気を取り戻した後も、何度も不安定な瞬間が訪れた。そうして海と正臣は別れの数日間を設けた後に、雛菊に最後の仕事を依頼したのだった。
雛菊の言う通り、海と別れた後の正臣は抜け殻のように生きる気力を失っていた。賑やかだった部屋は静かになり、料理をするモチベーションもない。元の日常に戻っただけなのに、胸にぽっかりと穴が空いたようで、何もかもが物足りず、つまらなかった。
この先、自分がどう生きていきたいのかもわからない。ちょうど進藤からの誘いもあったし、長野に引っ越して、ひとまず今の現状から逃げることだけを考えてみようか。……そんな風に思ったこともあった。
しかしある日を境に、正臣は考えを改めることになる。
「新しい目標ができたんだよ。だからそれを叶える為に、もうウジウジするのはやめることにした」
「新しい目標?」
正臣は頷く。
「ああ。春から海外に行くんだ。パティシエとしてもっと成長して、いずれは自分の店を持とうと思ってる」
「海外!?」
「はは、驚くよな。俺も自分がこんな決断をするなんて、思ってもみなかった」
雛菊が紅茶のカップを落としかけ、目を丸くした。
「それはまた……急展開じゃないか。いったいどういう風の吹き回しなんだい」
「海が言ってたんだよ。生まれ変わって、また俺の菓子の味を感じられるようになりたいってさ」
正臣は最後に海とした会話について、雛菊に話して聞かせる。
「⋯⋯あいつ、最後は食べ物の味がわからなくなってたみたいなんだよ。それで俺の作った菓子がまともに食えなくなったことを、成仏する直前まで残念がってた。だから海がいつかその夢を叶えられるように、自分が死んだ後も長く続くような店を持ちたい。そのためにもっと厳しい環境で勉強をしたいんだと思ったんだ」
そう話す正臣の目は、明るい生命力に満ちていた。あの頃の今にも死にそうな体つきの正臣とは別人で、肉付きが戻り、堂々している。
「あいつは作りたての菓子が好きだったから、眼の前でパティシエが菓子を仕上げるデセールの店にしたいと思ってるんだ。場所は永福を考えてるけど、場合によっては別の場所でもいいかなと思ってて……」
雛菊がぽかんとしていて、正臣はハッと我に返る。
「……ああごめん、ちょっと一人で走りすぎた」
今の正臣には、未来にやりたいことが沢山あった。夢を具体化しようと思うと時間が足りず、些細な心配ごとを気にしてなどいられない。そうなると周囲の人間に対して過剰に遠慮もしていられなくなり、kaguでも思ったことを気にせず口に出せるようになった。
今は少し、以前よりも生きやすくなった気がする。逆に相手の顔色を伺わずに話しすぎてしまうことがあるので、それはあまり好ましくない変化ではあるのだが。
正臣がばつの悪い顔をするが、雛菊は首を振った。
「いや、ちょっと驚いただけさ。幽鬼と別れた後に残された依代が、そんなふうに未来の話を私にしてくれることがなかったから……嬉しかった、というか。はは、私が喜ぶのも妙な話だな」
雛菊が少し動揺しながら頬を赤らめ、小さく「ありがとう」と呟く。そして、
「強くなったな、熊くん。君の未来が楽しみだ」
そう言って、正臣の肩をぽんと叩く。触れられた箇所には、不思議な温かさが残っている気がした。
その後もしばらく談笑した後、咲良さんも含めて三人で夕食を食べようと約束し、雛菊はアパートへと帰っていった。
彼女を見送ると、正臣は紅茶のカップを手に取った。店の奥に戻ろうとして、ふと焼き菓子売り場のマドレーヌが目に入る。海に食べさせられなかった、へそのあるマドレーヌだ。
足が止まりかけ、脳裏に思い出が蘇りそうになる。⋯⋯が、正臣は進みだした。まだまだやるべきことが残っている。今は思い出に浸って足を止めるより、先に向かうほうがいい。そう思うのだ。
触らない夏のエヴァ @nireno0410
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