ある少女
朝野 結子
1
1
『今日のあなたの運勢! 一位はいて座さん。何をしてもついている日。ラッキーアイテムは赤いハンカチ。二位は』
目に映るのは赤い水滴。洗面所の排水溝にティッシュが詰まってごうごう音を立てている。水滴は少女の腕から落ちている。左腕だ。蛇口をつかんだ左腕は泣いているように傷口から雫を落とす。少女の右手は唇をつかんでいる。そしてしきりに何かつぶやいている。
『十位はおうし座のあなた。人とのすれ違いが多い一日。ラッキーアイテムはレモンキャンデー』
洗面所は赤い血と細切れになったティッシュとが浮かび、少女の泣き顔を映していた。泣き顔のような呆然としたような表情から、涙が自然に流れてきているように見える。目はうつろで、どこも見てはいない。
『十二位はてんびん座のあなた。ブルーになる出来事があるかも。ラッキーアイテムは亀のキーホルダー』
少女はラジオの占いなど聞いてはいない。占いのコーナーの前の番組である地域の防災番組の時間からこうしていたので三十分は洗面所に向かって泣いている。
鼻水が垂れる。カッターナイフを右手から離す。
左腕の傷は自分でつけたものだ。足元のカッターはべっとりと血が付いている。自傷行為は抱える心の問題の解決にはならないだろう。しかし少女の心の安定を保つためにはこれは必要なことだった。血液と一緒に薄暗い気持ちも流れていく感覚があった。
少女の抱える薄暗い気持ちとは果たして殺意だった。
2
少女には樹(いつき)という名がついていた。この名前は気に入っている。一本の木だ。その木は丘にぽつんと立っているだろう。自分の名前に触れるたび、そんなイメージが浮かぶ。気に入っているものなら他にもいくつかある。腕から流れる血液、古いぬいぐるみの抱き心地、夜中に割れるグラス、洗ったばかりのシーツの匂い。
『そのものがそのまま』ある状態が好きだった。隠すなどはしないでほしかった。ぬいぐるみはぬいぐるみ。私はわたし。家では夜にグラスが割られる。私の腕からは血液が流れる。だから何だというのだ。隠すことはない。
少女は洗面台に向かっていた。今日は髪の毛を切るためだった。
自分で髪の毛を切るのが好きだ。自分で自分のことをするのが好きだ。自分は自分で管理したかった。少女は自立心が強かった。
「樹、また髪の毛切って」
自室で過ごしていると、母が階下から呼ぶ。上がってくる足音がする。
ペンを走らせる手を止める。ノートに書き殴っていたのは自分の感情だった。
椅子から静かに立ち上がり、鍵をかける。小さな音がした。それは鍵のかかる音だったのか、母の舌打ちだったのか、少女にはわからない。両方だったのかもしれない。
「……ご飯もうすぐだから、降りてきて」
階段を下っていく母の気配が遠ざかる。姿見で髪を切った自身を見る。耳が見えるほどの短髪、瘦せた体、左腕の傷。要らないものを拒否して、削って、排除する。少女が自分を守る術として選んだのは排他的になること。自分を自分だけのものにするにはそれが一番だった。少女が知りうる限り。
では、何から自分を守りたいのか?
3
少女はよく本を読む子供だった。それは今でも変わらない。
本があれば生きていけた。言葉と言葉。文章の森の中に潜り込み、あっちだ、こっちだと探索するのが何よりも楽しかった。
言葉の森を探索するうちに日は暮れて、夜になっても探検した。
家族でプールへ遊びに行ったときも少女の心は言葉の森の中にあった。家族と、同行していた友達は辟易して、友達からは、
「樹ちゃん、つまらない。もう誘わないから」
と面と向かって言われた。母も、
「あんたのその根暗な趣味は何とかならないの」
と小言を言った。
しかし学校でも読書、家でも読書の生活を送っていて少女にとって困ったことは何一つ起こらなかった。話しかけられないのはむしろ好都合だった。
少女は自分の感情を表す言葉を探していた。
腹の底で煮えたぎるような、暗く、重く、熱いこの感情に名前があるのか知りたかった。
その感情は誰か特定の人に向けられたものではなかった。周囲の人々全員に向けられているようでもあったし、誰にも向けられていないようでもあった。そして、ときには、それは自分に向けられてさえもいた。
さらに、少女には他人の考えていることがわからなかったため、本から答えを得ようとしていた。
これらの目標を達成するため、時間を惜しんで読書した。
長年の読書の結果、感情の名は殺意だということが分かった。
こんなことも判明した。自分にとって愛と憎しみはとても近いところにある――。
家族に対しても感じたことのない、少女のなかで影をひそめる愛情、その近くに、多くの他者への憎しみがある。
他人と分かり合えないわけだ。少女は納得した。ますます読書にのめりこんでいった。そして、ふさぎこむ。
少女は物心ついた時からこの感情を持っていた。
これは生まれつきなのか? 後天的なものなのか?
その答えは未だ無い。少女はそれさえも読書で得られると思っている。
それまで。答えが出るその日まで。余計なものを削ぎ落して、この感情から自分を守りながら、この感情を守りながら、誰にも知られることなく、純度の高い自分で生きていくしかないと思っている。
そういう少女である。
4
こんな少女にも付き合ってくれる友達はいた。彼女は少女の読書癖について何も言わなかった。ただ隣にいて絵を描いていた。
少女は彼女に本のことや絵のことについて言葉にしたことはない。ただ彼女が少女に向かって『今日は暑いね』だとか、『面白そうな本ね』だとか言う。そして少女はたいてい『うん』、とか『ゲーテ』とか、ぽつりぽつりと言葉を返す。
少女たちが制服に袖を通し、彼女の描く絵が油絵になったころ、ふたりは進路を決めなければならなかった。空欄の進路調査票が二枚、本が数冊、机に置かれている。
いつもよりも沈黙の長い一日だった。
「どうしてあたしなんかの隣にいるの」
少女は言葉を吐き捨てた。彼女のまつげが揺れる。
油絵の具の匂いのする美術準備室に夕日が差しこんできて、彼女の髪の毛が茶色に光る。彼女は筆を止め、少女のほうを向いた。
「樹ちゃんがきれいだから」
その答えがなんであったにせよ、少女は彼女が隣にいることを許可したし、彼女は少女の隣にい続けた。
少女は返答を無視して、読書を続けた。少女たちの長い影が床に落ちていた。
その日、進路調査票は二枚提出されなかった。空欄のまま、美術準備室前のごみ箱に捨てられた。
5
少女には建物の屋上を見る癖がある。信号待ちなどではよく建物を見上げている。信号待ちで手元のケータイをみる人々とは真逆の行動であるため、彼女は人込みの中でも少女を一度にして見つけられる。と言って笑った。
少女はそこから飛び降りる自分を想像していた。飛び降りて、間もなく地面へ激突し、赤い血を吹き出す自身。
想像した後は、たいてい満足して、不思議とすっきりとした気持ちになるのだった。
少女は自室のベッドで横になっている。彼女と過ごさない日は大抵そうしている。窓から見えるタワーホテルの屋上に自分を立たせてみる、そして――
「やめられないよ」
ぬいぐるみに喋りかける。
「破滅的だね」
「いつきちゃんは破滅的」
「破滅的」
「破滅的」
ベッドには十数のぬいぐるみが少女を囲むようにして並んでいる。そのぬいぐるみたちが少女に向かって言うのだ。
「はめつてき」
「はめつてき」
ぬいぐるみとなった自分、ベッドに寝ている自分。飛び降りる映像の中の自分、血肉となった自分。何が違うの?
不思議と、毛布にくるまれているときだけ涙が出てくる。安心からなのか、自傷の妄想からなのかは分からない。涙が横を向いている樹の鼻の先に落ちて毛布にしみ込んだ。
そのうち眠りにつく。樹本人は気づかない、静かな悲しみと傷つきの感情を、毛布ははらんでいた。
「樹、いつきーーー」
夢から覚めた後は視界がぼうっとする。階下から母の大声で目が覚めた。涙の跡を手でなでる。時刻は午後六時半。
ノックせずに母が部屋に飛び込んでくる。何か言おうと思うが、母がすかさず、
「麻里奈ちゃんが、車にひかれたって」
と、強張った表情で言った。
「今病院にいるけど、危ない状態らしい」
「……そう」
「そうってあんた。さっき麻里奈ちゃんのお母さんからメールが来て……いま市立病院にいるって。塾からの帰りで……」
「知らなかった」
知らなかった。彼女は塾へ行っていたのか。知らなかった。彼女が傷ついてもこんなにも平静でいられること。知らなかった、
胸が熱い気がする。
6
雨が降っている。
一夜明けて、彼女は一命をとりとめた。本当に危ないところだったらしい。学校でも、『沢田さんが交通事故にあいました』と担任が言い、生徒たちはざわめいた。
少女は胸の高鳴りを感じていた。
この気持ちは、一体なんだろう? 本を読みすぎて、母から『あんた、顔青いわよ』と言われた。
雨が降っている。
お見舞いには、まだ行けないらしい。昨日から少女は腕を切っていない。心に違和感があって、それどころでなかった。
ただ、読書量は変わらない。
事故から三日目、雨天も三日目。
土曜日だった。午前中に母が、
「お見舞い行けるみたいよ」
というので、少女は午後から一人で市立病院へ向かうことにした。
お見舞いには何か持っていくのがいいだろうと思ったので、暇だろうし、腐らないし、本を数冊持って行こうと決めた。
細身のジーンズと半袖のシャツを着る。腕の傷は隠すことはしない。洗面所の鏡に映った少女は傷ついた小鹿のようだった。
本をトートバッグに入れる。必要最低限の荷物だけを持って出かけた。
靴を履くときに母が後ろから、
「帰るとき連絡ちょうだいね」
というのが聞こえた。
「うん」
という少女の声は母親に聞こえたはずだ。
路面電車の窓ガラスに水滴がくっついて、水中を走っているようだった。
病室は二〇七号室だった。ノックをすると、『はい』という彼女の母の声がした。
「麻里奈」
数年ぶりに彼女の名前を呼んだ。ベッドには弱弱しく目を開けた彼女が横たわっていて、傍らには彼女の母が座っていた。
「樹」
麻里奈は笑っていた。
麻里奈のお母さんは話しやすいようにと席を外してくれた。二人だけの空間になる。沈黙。
「あたし、どんくさいね。塾の帰り道に、ケータイいじっていたら轢かれちゃって」
「そうね」
沈黙。廊下から看護師の足音が聞こえる。
それにしても居心地の良い病室だ、と樹は思った。
息がしやすい。余分なものは一切ない。
樹の部屋はぬいぐるみや本で乱雑になっているが、この部屋にはベッドと、冷蔵庫と、机とがあるだけだった。そう、本だ。樹はトートバッグの重みを思い出した。
「これ」
「え、なに? お見舞い?」
三冊の本を手に取った麻里奈は笑った。
「樹らしい。ありがとう。読むね」
「うん」
「じゃあ、私からも。これ」
麻里奈は紙袋を手に持っていた。
「なに?」
「樹、誕生日だったでしょう」
そういえば、二日前が誕生日だった。麻里奈の事故のこともあったし、もともと家では誕生日を祝う習慣がないので、忘れていた。幼いころは祝っていたと思うのだが、樹があまりにも無頓着なので習慣自体がなくなってしまったのだった。毎年、祝ってくれるのは麻里奈だけだった。彼女に言われて、思い出していた。
「ありがとう」
「樹、好きかなあと思って。買っておいたの」
紙袋の中には、小さなオレンジ色の恐竜のぬいぐるみキーホルダーが入っていた。
「かっこいいでしょ。実はね、お揃いなの、ほら」
麻里奈はケータイを持ち上げて見せる。そこには、青色のキーホルダーが揺れていた。
「ほんとうだ」
「学校ではどう? 何して過ごしてるの?」
「本読んでる。放課後はすぐ家に帰ってる」
「早く元気になって樹と過ごしたいなあ」
麻里奈は大きく伸びをした。細かった腕がいっそう頼りなくなったように見える。
「そうね」
呟きは、白い部屋に違和感なく受け入れられ、消えた。
このときから、樹の心はふたつに分かれ始める。
「ありがとう。そうだ、進路調査票、書かないと。大学も決めなきゃ」
「麻里奈は、美術の大学に行かないの」
「うーん、私は、そんなにうまくないし、部活とか趣味程度でできたらいいかなって思ってるから」
「麻里奈の絵、私はいいとおもう」
「ええ、本当に? 私の絵なんか、だめだよ。アイデアもどこかで見たようなものだし、上手くもないから……」
「そんなことない」
樹はお揃いのキーホルダーを握りしめた。
「そんなことないよ」
「樹は優しいね」
「月と湖の絵が特に」
「あの絵。あれはね……実は私も気に入ってるの」
くすくすと笑う麻里奈。樹も小さく笑った。
「そうだ、樹。いつか、絵のモデルになった湖に行こうよ。今年の秋でもいい。私が退院してからだけれど……」
「いいよ」
「楽しみだなあ。日帰り旅行みたいな感じでさ。足湯とかあったんじゃなかったかな」
「うん」
「樹、調子悪い?」
「どうして」
「なんだか顔が青いよ」
「あんた、そのストラップどうしたのー」
「麻里奈から」
家に帰ると母が目ざとく変化を見つける。それが嫌で樹はすぐに部屋にこもる。
あの後、麻里奈の事故のあった現場に行った。道路には、立て看板が設置されていた。
ここで麻里奈は――
倒れている麻里奈を想像する。激しいクラクション、手からこぼれたケータイ、倒れた麻里奈、頭から流れ出る鮮血……。
いつも、血をイメージして感じるすっきりとした感情は感じなかった。代わりに……。
これは、感情が動いているからなのだろうか? 初めて感じる種類の感情に、樹は戸惑った。
困惑する樹をいつも助けてくれたのは読書だった。樹は、部屋にある本から交通事故のシーンがあるものを選び出して、樹に似た状況と心の動きの部分を書き出すことにした。
恋人が車に轢かれた女性は、泣きはらしている。
ページを捲る。
両親が事故にあった娘は、途方に暮れている。
ページを捲る。
娘を事故で亡くした両親は、心を病んでしまった。
ページを捲る。
私の、私のこの感情と似たものはどこにもない。
樹はこの心の動きを説明できない。もどかしい。
しいて言うなら何に似ているだろう? そう、これは……。
興奮。
まさか。頭に浮かんだ言葉を否定する。しかし、そのイメージは頭から離れなかった。麻里奈が車に轢かれるイメージだ。
7
考えて本も読みすぎたのか、樹は月曜の朝、熱を出した。知恵熱だろうと、樹は、学校に行こうとしたのだが、母に止められた。
「寝ていなさい」
と固く言われ、ぬいぐるみだらけのベッドで横になった。母はパートに行き、家は樹一人になった。
申し訳程度に貼った熱さましシートの冷たさと、開けた窓から吹く初夏の風を感じながら樹は夢に落ちていった。
「樹、こっちこっち」
横断歩道の先で制服姿の麻里奈が手招きする。麻里奈。良くなったの。傷は痛まないの。早く行かなくては、と樹は思う。
麻里奈の左手にはケータイが。そこにはお揃いの恐竜のキーホルダー。樹は強く手を握る。右手にオレンジ色のキーホルダーが握られていた。
「いま行く」
と返事をしたのだが、麻里奈には聞こえなかったようだ。そのままこちらへ歩いてくる。
「だめ、そこにいて」
麻里奈には“自分”は見えていないようだった。見えているのは、“自分”の後ろに立っているもう一人の“樹”だった。
もう一人の“樹”は、麻里奈を見ておらず、本を開いて、立ちながら読んでいる。麻里奈はこちらへ歩いてくる。
“自分”は、焦燥を感じて、麻里奈のほうに走るがもう遅く、麻里奈はトラックに轢かれてしまった。
樹の手からキーホルダーが落ちる。
麻里奈だった肉塊が赤く鮮血で染まっている。
もう一人の“樹”は、すたすたと歩いてきて麻里奈だった肉塊の傍にしゃがむ。
そして口を開く。
「「麻里奈」」
目が覚めた時、樹は全身に汗をかいていた。夢か。
その日、樹は自宅で過ごした。
8
「佐上さん、雰囲気変わったよね」
プリントを配るとき、振り向きざまに前の席の女子が言った。樹は自分のことだとは気づかなくて、目が合っているのに言葉を発さなかった。そうして、小首をかしげる。麻里奈の前でしかしない癖だった。
「あはは、さ・が・み・さん。あなただよ。なんだか、表情が柔らかくなった気がする」
「はあ……」
「急に話しかけてごめんね。最近、お弁当教室で食べてるし、放課後も残ってるみたいだから」
それは、麻里奈が入院しているからだ。麻里奈がいたとき、昼食は中庭で食べていたが、麻里奈が入院しているいま、移動する意味もないので教室で食べるようになった。放課後は面会できる時間まで読書をして教室で待つ癖がついた。そして表情が柔らかくなったというのは、食べたものを嘔吐しなくなったため、顔周りに肉がついてきたからだろうと樹は推察した。
嘔吐しなくなったのは、食事の後の違和感よりも、抱える気持ちの違和感が強くて、その理由を知るための読書の時間にあてたかったからだ。
重たくなるからだと違和感のある心を抱えた樹は、どこかをみているような、どこも見ていないようなぼうっとした目をしていて、いつもよりふわふわした足取りで歩いた。
「佐上さん、大丈夫かなって話してたんだよ」
斜め前の眼鏡をかけた女子が話しかけてくる。
「沢田さんのこと、ショックだろうって思って」
麻里奈のことがショックでどうして彼女らが私を大丈夫か心配するのだろう? 樹は不思議に思う。
「大丈夫だから」
樹がそう言うと前列の二人は目を合わせる。
「あのね」
眼鏡の女子が言う。
「私たち佐上さんに無視されるんじゃないかって思ってた。やっぱり変わったよ、佐上さん」
それを当人に言ってどうするのだろう。樹はまた混乱したけれど会話を続けることにした。
「それで、何か用?」
単刀直入に聞くと裸眼のほうの女子が渋い顔をしながら口を開いた。
「実は……私たち困っていて。文芸部なんだよね、私たち」
「それで?」
「そう、それで……学校祭が近いじゃない? 部紙を発行するのだけれど、原稿が足りないの」
眼鏡のほうが樹の手を握ってくる。
「佐上さん、原稿書けないかな? いつも本読んでるじゃない? なんでもいいの。小説でも、エッセイでも評論でも」
基本的に体を触られるのを樹は嫌がった。すぐさま手を引いて、
「文章、書いたことないから」
と言った。
「ああ、ごめんね、つい……」
眼鏡のほうは手に触れたことを謝った。
「今週中までに返事をくれたらいいから、考えてみて。突然ごめんね」
裸眼のほうは柔和に提案する。樹はもうここで断ってしまいたかったが授業が始まってしまった。
今日が水曜だから、あと二日か……。樹は考える。面倒なことになってしまった。学校祭は三週間後の金曜日だったから、一週間ほどで書き上げなければいけないのだろう。
ため息をつく。どうやって断ろう。
「え、いいじゃない! 素敵」
麻里奈が明るい声を出す。樹たちは病室にいた。
その日の放課後、市立病院に赴いた樹は文芸部の二人から原稿を書かないか提案されたことを麻里奈に相談していた。そうしたら、麻里奈がこう言ったのだ。
「樹は読書家だから、きっと自分の中に引き出しがたくさんあるよ」
梅雨が続いていた。麻里奈はじめじめしていやだねと窓の外を眺める。
樹は厚い髪の毛が跳ねるのを気にして手でなでつける。
「読むのと書くのは別」
「ああ、そういえば」
麻里奈は机の上に置いてあった本を持つ。
「三冊のうちこの一冊だけ読み終わったよ」
「そう。どうだった?」
「面白かった。でも」
麻里奈は言葉を探すように斜め上を見上げた。
「単調?」
「そう。設定は良いのだけれどね」
「同じこと思った」
二人は笑いあう。
「……樹の文章読んでみたいな」
樹は麻里奈をじっと見る。
「樹みたいにさっぱりした文章なのかなとか、思ったり……」
「書いてみないと、分からないよ」
「書く?」
「……」
樹は爪を見つめる。昨日切った爪は短くそろっている。
9
夕食後の食器洗いのとき、考え事をしていたら茶碗が手から床に滑り落ちて割れた。破片を拾おうと手を伸ばすと、指先に痛みが走った。小さく指を切ってしまい、傷口からは血が流れていた。
「いたい……」
以前ならば黙って血を見ていたのだが、いまは痛みに耐えられず、ばんそうこうを探した。傷口からはどんどん血が流れ出して、薬箱からはばんそうこうが見当たらず、ティッシュで指を抑えていた。じっとしていると、二階に洗濯物を干しに行っていた母が降りてきて樹の異変に気が付いた。
「血が出てるじゃない」
母は自分のリュックサックから新しいばんそうこうの箱を取り出して、樹の傷口に貼った。
「家に無かったから、今日買ってきたのよ。はい、いいわよ」
「……お母さん」
「なに?」
「血が出ると痛いのね」
母は目を丸くして樹を見た。
「そうね。とても痛いのよ。でもそれだけじゃなくて」
母は樹の傷だらけの左腕をなでた。
「血が出るのを見るのもとても痛いのよ」
「……うん」
樹の母は左腕の傷に目を落としている。
「ごめんね」
「樹、自分を大切にね」
「うん」
樹は申し訳ない気持ちになってそのまま二階へ上がっていった。ばんそうこうは、キャラクターのイラストが描かれていて、鮮やかな緑色だった。
樹の母は、心の傷に耐えるようにぼうっとばんそうこうの剥離紙を握りしめていた。
10
金曜日の朝、樹はいつものように自分の席に座っていた。ただ一点違うのは、周りに五名の生徒たちが樹を囲むようにして立っていることだった。
樹は判決を待つかのように手を膝の上に乗せて、じっとしている。
先日の眼鏡の女子と裸眼の女子が手に持った原稿用紙をのぞき込んでいる。それをさらにのぞき込む長身の男子生徒と、短髪の女子生徒、そしておさげの女子生徒がいた。
「すごいよ。面白い」
眼鏡の女子が言った。
「もう書いちゃうなんて」
眼鏡の女子と裸眼の女子は原稿用紙から顔を上げて樹を見た。
「これでいいよねえ、部長」
部長と呼ばれたおさげの女子は頷いた。
「ぜひ、今回の部紙に載せたいのだけれど、いいかな?」
「うん」
よかったー、助かった、と喜ぶ生徒たち。
この話は、昨日、自室で書き上げたものだ。右手のばんそうこうを気にしながら、一気に書き上げた。物語の着想は、麻里奈が単調だといったあの本から得た。その設定を真似て、ストーリーを作り上げたのだった。
こんな小説でいいのだろうか、と樹は内心思った。しかし彼らが喜んでいて、助かったとまで言っているのだからいいのだろう。
重荷に思っていたことが終わって、ほっとした。これで、一人になれる。
今日は図書室で麻里奈の面会時間まで過ごすことにした。教室は学校祭の準備で騒がしかったからだ。図書館だけがいつもと変わらず静かだった。
樹はユングの本を読んでいた。彼の研究によれば、人間は心理タイプと、心理機能で分類されるらしい。人を分類するというのが、面白いと感じた。
(みんな、同じように思えるけれど……)
みんな、人の痛みが分かって。みんな、人を思いやって。みんな、傷つきやすくて。私以外の人はみんな……。
みんな、死んじゃえばいいのに。
ああ、これが私の本音なんだ。
「もうやめよう」
図書室でひとり呟いた。
心にうそをつくのはやめよう。みんなと同じになれなくてもいい。心が壊れてしまう前に、自らを壊してしまえばいいのだから。
そっと本を本棚に戻す。
11
自分が二人いる、と感じることが増えた。
樹は、傍から見たら心が落ち着き、穏やかになったように見えるだろうと、自分を分析した。
他人と会話をして、自分を傷つけることもせず、生活する女の子。
しかし、“心の外の自分”は、そんな自分を客観的に見てこう促すのだ。
『はやく削ぎ落さないと』
腕を切ってしまいそうになる、嘔吐してしまいそうになる、そんな自分を、他者のまなざしが引き止めていた。
樹は、バランスを失ってしまいそうな自分を抱えて、ギリギリのところを生きていた。
12
あっという間に学祭の日はやってきた。その日はクラスの催し物の準備で皆、早く登校し、作業をした。樹のクラスは他のクラスと合同で子ども向けの輪投げや、的あてを企画した。樹も、開場からの一時間、受付の担当にさせられた。男子生徒と一緒に座る。
学校祭が始まった。樹と男子生徒との間に会話はない。沈黙が流れる。
「……あのさ」
それを破ったのは男子生徒だった。
「読んだんだ。佐上さんの小説」
うつ向いていた樹はゆっくりと男子生徒のほうを向く。
「はあ」
「その、すごく良かったよ。俺、文芸部に友達がいてさ、佐上さんが小説書いたって聞いて、読ませてもらったんだ」
「はあ……ありがとう」
男子生徒は驚いたように目を丸くした。
「俺も小説書いているんだ。文芸部には入っていないけれど。公募に挑戦しているんだ。小説家になりたくて」
そこまで言うと男子生徒はふうと息をついた。
「ごめん、話過ぎたね。まあつまり、俺の小説をいつか読んでほしくてさ。それだけ」
男子生徒は再び黙った。そのうち受付にも人が来て忙しくなった。その日、樹はもう男子生徒とは話さなかった。
(私の小説を読んで、感想をくれる人がいるんだ)
『内側』の樹にとって驚きだった。学校祭を途中で抜け出して、麻里奈の病院に樹はいた。
「なんだか、嬉しそうだね、樹」
麻里奈に声を掛けられてハッとする。
「文芸部の本、持ってきた」
「えっ、見せて」
樹はスクールバックから部誌を取り出す。
「これ。二十八ページのところ」
病室には静寂と、ページを捲る音。
読み終わった麻里奈は、ふうと息を吐いた。
「すごくいいね。文芸部のみんなもいいって言ってたでしょう」
と、笑顔だ。
「うん。頼んでよかったって」
麻里奈は樹の手を握る。
「樹、文章を書く才能あるよ。頼まれて、こんなにすぐ書けないもん」
「そう? でも」
「きっと、文芸部に入らないか聞かれるよ」
「私は……麻里奈といたい」
「そう、でも」
麻里奈は手をきつく握った。
「新しい世界も樹には必要だよ」
「いたい……」
「ごめんごめん」
ぱっと手を放す麻里奈。
「だからさ……」
麻里奈は思案するように上を向いた。
「私も、私も美術部に入るよ。それならいいでしょ?」
ね? と樹を見る麻里奈。
樹は困ったように見返した。
「あはは……。その表情。可愛いよね。ごめん、笑っちゃって。でも、せっかくのチャンスだよ」
「わかった。きいてみる」
「ほ、ほんと?」
麻里奈は意外そうな顔をしている。
「ほんとう。だから麻里奈も早く治してね」
『内側の』樹がこんなことを言う。『外側の』樹はそんな自分を見て笑う、嘘つきと。
13
「文芸部に? 佐上さんがそう言ってくれるならうちは大歓迎だよ」
月曜日、樹は隣のクラスにいた。“部長”と呼ばれた女子生徒を樹は覚えていて、その子のクラスを探し、『文芸部に入りたい』との旨を伝えたのだ。
おさげの女子生徒は小柄で、リスのような印象を受ける。
「それじゃあ入部届が必要だね」
一緒に昼休み先生の所へ行きましょう、と言われ、樹は、うんと言った。
入部の手続きは簡単だった。紙に名前を書くだけで終了した。
「うん、いいねいいね。今日から部室来れる?」
「……うん」
「よっしゃ。佐上さんが入部してくれるなんて、思ってなかったよ。声かけてよかった」
「あの」
「ん、なに?」
「みんなはどうして小説を書いているの?」
部長ははたと樹のほうを見る。
「どうしてだろうなあ。やっぱり自己表現がしたいからじゃないかなあ。私はそうだよ。本を読んでいるうちに自分も、書きたい、って思うんだよ。……佐上さんは、どうして入部しようと思ったの?」
「麻里奈に、勧められて」
「ああ、沢田さん? 彼女、大丈夫? ……そう。彼女にね。ふむ。……大丈夫よ。部員のみんなは優しい人ばかりだから。そう。佐上さんに、居場所があったらいいなと思ったんじゃない? 沢田さんは」
「居場所」
「そうよ。佐上さん、風に吹かれてどこかへ行っちゃいそうなんだもん。見てて不安よ。でも大丈夫よ。文芸部に根を張って、力強く生きていきましょうね」
部長は樹の手を取って、高く掲げた。彼女の身長的に中途半端な位置で止まってしまったけれど。
「えいえいおー」
「……おー」
「いいわ、その調子よ」
13
文芸部の部室は三階の廊下の突き当りにあった。
戸を開くと、
「お、来たわね」
「佐上さん、待ってたよ」
「よろしく、佐上さん」
「佐上さん、こんにちは」
と、一斉に歓迎を受ける。
当の樹は、困惑して、どうも、と消え入りそうな声を出した。
「佐上さん。あなたの新しい居場所よ」
と、部長に誘われて座った椅子は、窓に面した席だった。机を窓のほうに向けて、置いた椅子だ。
「いい席でしょう。私の席だったんだけれど、佐上さんにあげるわ」
「ここで、何をするの」
「決まってるでしょう、書くのよ」
皆は、思い思いの場所に椅子と机を置き、小説を書いていた。
「この部屋には窓が一つしかないから、特等席なのよ」
「特等席」
「そう。いい席でしょう。わが部活は出るのも帰るのも自由。最後の人が鍵をかけるのね。決まりはそれだけ、あ、あと、部誌には必ず寄稿すること」
部長は樹を椅子に座らせ、どこからか原稿用紙を持ってきた。
「ペンはあるわね。さあ、書くわよ」
書くわよと言われても、樹は何を書いたらよいかわからなかった。
とりあえず手持ちの本を広げる。樹はこのところ、エッセイを読んでいた。一人の人間の生活や気持ちを知るにはエッセイが適していた。“内側の”樹は過去の習慣(腕を切る、食事を嘔吐する、過度な運動をする、破滅的な妄想をする)と決別しようとしていた。そして、新しい生活を始めようとしていた。それは、普通の女の子の生活を送る(友達と遊ぶ、趣味を持つ、美味しいものを食べるなど)ことで成り立っている。普通の女の子とは何をしているのだろう? これが専らのテーマだった。
「普通の女の子……」
普通の女の子の、普通の生活の小説を書こう。樹は、エッセイを捲りながら、原稿用紙に向かい始めた。
樹は、とある女の子と握手をする。その女の子の名は望月 明日香(もちづき あすか)という。明日香は、高校二年生で、手芸部で、おしゃれと可愛い小物が大好きだ。明日香は、小柄な体を赤いスカートのかわいらしい制服で包み(彼女は制服で高校を選んだ)おずおずと樹に手を差し出す。
緑と青のチェックのスカートと白いワイシャツに身を包んだ明日香と同い年の樹は、できるだけ柔らかい態度になるように気を付けて、にっこりとし、差し出された手を握り、二、三度振った。
「樹ちゃんは何部なんですかあ?」
甘ったるい独特な喋り方で明日香が問う。樹は、周りを見渡し、部員の皆がめいめい自分の執筆作業に熱中しているのを確認してから、
「文芸部だよ」
と言った。
「ふうん、本が好きなんですねえ」
「そうだよ。明日香ちゃんは本が好き?」
明日香は肩まである茶色い(おそらく染めているのだろう)髪の毛をいじりながら、
「明日香は、レンアイの漫画は読むけど小説は読まないなあ」
と言ってうつ向いた。
「明日香、作業するからまた後でね。くまさんを作るの」
明日香が、手を振って向こうへ歩いていく。樹も手を振る。気が付くと、そこは明日香の部屋になっている。
明日香の部屋は、明るく、ファンシーな部屋だ。
壁には女性アイドルのポスターが張られていて、窓辺にはカラフルなサンキャッチャーが吊るされている。家具は赤かピンクで、タンスにはキャラクターのシールが貼られている。
ゆらめくサンキャッチャーの光をうけて明日香は縫物をしていた。クマのぬいぐるみを縫っている。
「口元が納得いかないのよね」
うーんと唸った彼女は、椅子から立ち上がり、シーディープレイヤーに手を掛けた。
プレイヤーから音楽が流れだす。
曲に合わせて明日香は踊る。サビのところでは可愛くジャンプをする。樹の存在に気づいた明日香は、彼女にもダンスを促した。腰を振り、くるっと一回転する明日香。
樹も恥ずかしがりながら手拍子をする。にこにこと踊る明日香。ほほ笑みながら手をたたく樹。
曲が終わり、一息ついて明日香は椅子に腰かける。
「今日の作業はこんなところにするわ」
机の上を片付けていく。
はたと何かに気が付いて樹が問う。
「望月さんは……明日香ちゃんは何をしているときが楽しい?」
明日香は小首をかしげて、こちらを向いた。
「明日香はさ、ほら、お絵描きとか、くまさんを作るのとか、おしゃれが好きだから」
ニコッと笑う。心から楽しいと思っているのだろう。
「樹ちゃんは何が好き?」
「私は……」
楽しいことなんてないよ。
そう言ってしまいそうになるけれど、口を抑える。
「明日香、……」
明日香の声が遠くなる。明日香の姿は消え去り、サンキャッチャーも見えなくなる。樹は気づくと原稿用紙十枚分を書いていた。
ドアをノックする音が聞こえる。そこには学校祭のとき受付で一緒だった男子生徒が立っていた。
「久しぶり。覚えてる? 文芸部に入部したって聞いて来たんだ」
「ああ……」
「高瀬っていうんだ。名乗ってなかったね」
「タカセ」
樹に名前を呼ばれると高瀬は恥ずかしそうに鼻を掻き、
「小説持ってきたから読んでもらいたかったんだけど、もう遅いかな」
高瀬は学生鞄から原稿用紙の束を取り出して樹に渡した。
「大丈夫」
樹は、高瀬から原稿用紙の束を受け取り、読み始めた。
内容は、重く、暗い小説だった。母親の介護をする男子学生の話で、常に誰にも言えない暗い気持ちを抱えている主人公が描かれていた。感情の出どころは違うが、樹も暗い感情があるので、共感して読むことができた。
高瀬の実体験から来ているのだろうか?
読み終わるころには、もうすっかり暗くなっていて、部室には高瀬と樹しか残っていなかった。
「いいと思う」
樹はそれだけ言って、高瀬に原稿を返した。
高瀬は樹をじっと見つめて、それから受け取った原稿を見た。
「ありがとう。でも、俺は、こんな小説って思ってしまうんだ」
樹は少し背が高い高瀬を見上げる形になる。
「こういう感情にしか、縋れない人もいると思う」
高瀬はハッとして樹を見た。
「帰るね。鍵を閉めなきゃ」
樹はてきぱきと帰る準備をする。
「ありがとう。……一緒に駅まで行かないか? 俺、電車なんだけれど」
「いいけど。私は市電」
首をかしげる樹。高瀬の気持ちが分からなかった。
14
高瀬は初め、歩くのがとても速かった。次第に、樹のペースに合わせてくれる。
「佐上さんって、的確にものを言うよね。そこがいいと思う」
携帯につけた恐竜のキーホルダーを見る。もう面会時間は終わっているかもしれない。急がなくては、と樹は思う。
「そう」
「どうして、文芸部に入ったの?」
樹は高瀬の横顔を見上げる。
「勧められたから」
「そうなんだね。佐上さんは一人でも生きていける人だと思っていた」
「……」
「ごめん、なんでもないよ」
高瀬はよくわからない人だ、と樹は思う。
「じゃあ、私こっちだから」
「うん、また明日」
「はい」
高瀬は市電に乗り込む樹を見送った。
樹を見送った高瀬は言いえぬ胸の疼きを感じていた。
それは、憧れに手が届くような感覚だった。
入学したときから沢田以外の人と喋らない樹。いつも一人で本を読んでいた樹。高瀬は樹に孤高の美しさを感じていた。最近変わってきたように思うのは、沢田の入院がきっかけだろうか?
彼女を傍で見ていたい、と高瀬は思う。今日はそのための大きな一歩だった。
一人こぶしを握って、駅へと歩き出す。足取りは軽い。
15
市電を下りて病院に着いたとき、もう面会時間は終わっていた。
「麻里奈」
今日は麻里奈に会えない。心が落ち込むのを感じる。
ずいぶん遅くなってしまった。母に部活のことを伝えていないので、早く帰らなくてはと思う。いや、メールを送ればよいか。
麻里奈はもう寝ているだろうか? 病室では何もすることがないし、早く寝ていると麻里奈は言っていた。麻里奈への連絡はあきらめ、樹は母にメールを送る。
「今日から文芸部に入りました。それで遅くなりました。もうすぐ帰ります」
すぐに返信が来た。
「心配してたよ。そう。いいことね。早く帰っておいで」
樹が再び市電に乗り込むと、見覚えのある人影があった。樹に部誌の手伝いを頼んだ文芸部の裸眼の女子だ。彼女は制服姿で、ずいぶん年上とみられる男性と話している。
眼鏡の女子と男性は、繁華街の駅で降りて行った。妙な組み合わせだと樹は思う。どういうことか明日香に訊いてみたい。
家へ帰ると母が夕飯を作って待ってくれていた。メニューはコロッケとサラダだ。
「おかえり。文芸部はどうだった?」
「一人で書いているだけ。小説を見せてもらったりもした」
「そう。いろんな人がいるのね。手を洗っておいで」
「はい」
樹は自室に鞄を置いて手を洗いに行った。鏡をふと見上げると暗闇が見えた。
大丈夫だよ。わたしはいつもお前の傍に。
何者かの声が耳元で聞こえる。もう一度鏡を見る。少しふっくらとして、髪も伸びた自身の姿が映るのみだった。
「樹、どうしたの、顔が青いわよ」
「うん、大丈夫」
「きっと、初めてのことで疲れたのよ。休んでいらっしゃい」
「はい」
樹は、自室のベッドにもぐりこみ、すぐに眠りに落ちた。
樹は、鏡に向かって立っている。
鏡の前の樹が問う。
「あなたは、何をしているときが楽しい?」
鏡のなかの樹が答える。
「あなたを傷つけることが楽しい」
鏡の中の樹はいびつに笑った。顔が暗闇になる。その日、樹の耳元でささやいた化け物だ。
16
「樹ちゃん、ちょっと」
昼休み、教室で昼食を食べていた樹は部長に呼ばれて二つ隣の部長のクラスにいた。
「こいつがね、樹ちゃんと小説を書きたいっていうの」
部長に指さされて苦い顔をしたこいつとは高瀬のことだった。
こいつと言われた高瀬は恥ずかしそうに頭を掻いている。
「小説に、行き詰まっちゃってさ。公募のとは別に書けたらと思っていて……。佐上さんと書きたいなと思ったんだよ」
「どうする? 樹ちゃん。断ってもいいんだよ」
部長がひょこっと背伸びして言う。麻里奈のお見舞いに行けなくなるからこれ以上忙しくなるのは嫌だし、まだ執筆に自信もない。
「ごめんなさい。自分の小説で精いっぱいだから」
落ち込む高瀬。じゃあ、と提案する。
「また、小説を読んでもらってもいいかな? そんなに時間は取らせないから」
「うん。いいよ」
あんたは樹ちゃんに執着しすぎなのよ、と高瀬を小突く部長。
「樹ちゃん、何かあったら言うのよ」
「何もしないよ」
「樹ちゃんは優しいから」
「……そうかな」
おしゃべりをしている間に、昼休みは終わった。あと二時間授業を受けたら、放課後だ。
17
麻里奈の退院の日が近づいている。
季節は秋に移り変わり、冬服を着るころになった。この間樹は文芸部の活動を続けて、短編を三つ書き上げていた。高瀬はことあるごとに樹に話しかけて、原稿を見せに部室へきている。
週の半分は文芸部へ赴き、執筆する。もう半分は、麻里奈の病室に行き、おしゃべりする。
文芸部のメンバーと喫茶店に行くこともあった。五人分ほどの大きなパフェを出す店で、みんなで協力して食べきったりした。
表面的には自分が普通の女子高生になったように感じられていた。麻里奈の退院も近づいてきているし、何もかもが順調に思えていた。
あの日から、暗闇が樹に話しかけることが増えた。
『君は私から逃れられない』
『君は僕のことを知っているかな』
などというので、一度、
「あなたは、私のことが好きなのね」
と言ってみた。
暗闇は、その返事を返してくれない。
18
ある日、部室にいた樹は、高瀬が入り口に立っているのに気づいた。
「どうしたの」
「いや、ちょっと……」
いつもの元気がないように感じられた。様子がおかしいな、と樹は思う。
「……」
黙りこくっている高瀬。
「あの、出かけない?」
「え?」
樹は原稿用紙とペンを片付けて、部室を出た。後ろから、「デート?」「じゃあね、樹ちゃん」「樹ちゃんになんかしたら許さないからなー」という声が聞こえてきた。
高瀬は戸惑う。まっすぐに学校を出る樹についていく。
「あの、どこに行くんだ?」
「コンビニ」
「コンビニ?」
樹は校門を出て角を曲がり、コンビニに入った。そして、肉まんを一つ買った。
「タカセも食べたら」
高瀬に購入を促し、不思議がりながらも肉まんを買う高瀬。
樹はイートインスペースに座り、手を消毒して肉まんを一口食べる。
「おいしい。タカセも食べて」
「ああ」
高瀬は、樹が自分を気遣ってくれているのが分かったので、言うとおりにした。本当は食欲もなく、朝から何も食べていなかったのだけれど。
一口食べると、肉まんは確かに美味しく、あっという間に全部食べてしまった。
「佐上さんはすごいな」
「なにが」
うつ向いて、肉まんの包み紙を丁寧に折りたたみながら高瀬が言う。
「俺の悩みなんか一瞬でなくしちゃうんだ」
「悩み?」
「俺が悩んでるから一緒に肉まん食べてくれたんじゃないの」
「麻里奈が、前にこうしてくれたから。タカセ、元気なさそうだったから」
「そういうことか」
高瀬は笑いがこみ上げてくる。樹は不思議そうに見ていて、最後の一口を小さな口に放り込む。
「沢田さんが君とずっといるわけだ」
「なに?」
「なんでもないよ」
小さくなった包み紙を、丁寧にテーブルの上に置く。
「俺はさ、母さんの介護してるんだ」
うつ向きながら、高瀬が自分の話をする。彼は、病のある母親の介護をしていて、具体的には日々の食事や洗濯、買い物、掃除、家のことすべてに加えて、母親の話を聞いてあげたり、慰めたりもしていると言った。
「ときどき、自分が分からなくなるんだ。自分が自分じゃないみたいな感じがして、おかしいよな。俺も病気になってしまいそうに思うんだ」
樹もうつ向いて、制服の上から自分の左腕をなでた。
「そういとき、小説を書くんだよ。自分みたいなやつを主人公にして、自分の気持ちを語らせるんだ。発散ってやつかな。そうすると自分を客観視できて、このままじゃやばいなって思える」
「発散」
「そうだよ。発散。俺の執筆理由は、発散と、あとここではないどこかへ行くための切符を手に入れることだ」
「タカセは」
「なに?」
「タカセはちゃんと書く理由があるんだ。私にはない」
「そんなの、なんだっていいんだ。暇つぶしでも、勉強のためでも」
「そう」
「考えてみたらいいかもね」
と言って、高瀬は立ち上がった。
「ありがとう。助かったよ。今日はやばかったんだ」
「どういたしまして」
「また、出かけようよ」
「うん」
「じゃあ」
高瀬は手を振って歩いていく。背の高い高瀬は、遠くからでもわかった。
18
自分がどうして小説を書くのか。考えてみたこともなかった、と樹は思う。
きっかけは部誌の手助けをすることだった。だから、理由なんてない、そう結論付けてしまえば楽だ。
「自分らしさなんていらない」
そうつぶやいたのは、部活も、麻里奈の病室にも行かずに一人机に座している自室だった。
自室の風景は相変わらずだった。本と、ぬいぐるみが所狭しと並べられている。
今までこの放課後の時間に家にいるときは自傷行為をよくしていたものだが、それをせずに過ごせるようになっていた。
自分らしさなんて、おまえにはないからな
あ、暗闇が来た、と樹は思う。
「君は、何なの?」
私は君だよ
そう。じゃあ、私のことを一番よくわかっているわけね。
そうかもな。
おまえも、こっちへ来いよ。
「こっちって、どこよ」
君が感じる殺意は、僕のものだ。
樹は気が付くと、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめて、部屋で一人たたずんでいた。
19
「どうしたら感情を感じるか?」
放課後、部活の時間になっていた。一番に部室に来た樹は、二番目に来た部長に質問していた。
樹はこう考えた。暗闇が殺意を感じているのなら、私は別の感情を感じたらいいのではと。
「そんなの、感情なんてありすぎて困っちゃうわよ」
「……そう」
部長は、窓を開けて、寒いわね、といい、閉めた。
「そうよ。毎日いろんなことがありすぎるもの。私は兄弟が多いってのもあるかもね……。樹ちゃんは、あまり感情を感じていないって思うの?……そう、そんなことないのよ」
部長は自分の胸に手を当てた。
「感情はちゃんとあるのよ。ただ、蓋をしているだけ。樹ちゃんの感情は、きっと今にも出てきたくてうずうずしているわ。押さえつけるのを、少しずつ辞めたらいいのよ」
「どうやって」
「そうね、思っていることを、口にしたらいいわ。……たとえば、ラーメンが食べたいなとか、英語の先生は嫌いだなとか、何でもいいの。思っているか分からなくても、こうかな? と考えたことを喋ってみるのよ」
「うん」
「そうしたらね、心の蓋が開くのよ。いろんな感情が、色づいて感じられるようになるわ……。あと、好きなものに触れるっていうのもいいわね」
「ありがとう」
「いいのよ。私は部長だし、お友達だからね」
部長はウインクして顧問の先生のところに用事足しに行った。
「独り言でもいいのかな」
樹は、一人になった部室で、感情の蓋を開けようとしてみる。
「麻里奈に会いに行きたいな」
これは本当のことだ。麻里奈は、今日はリハビリなので会いに行けない。
「……本当に寒い」
窓を開けて、閉めた。部長が言った通り、もうすっかり秋になっていて、肌寒かった。
「誰も来ない」
さっきから誰も部室に来ない。何かあるのだろうか?
「……タカセは元気かな」
あの、肉まんを食べた日から樹は高瀬には会っていなかった。「危ないところだった」という彼は、大丈夫だろうか?
ああ、そういえばいつか、高瀬は合作をしたいと言っていたっけ。今ならできるかもしれない、と樹は考えていた。
「やあ、暇?」
ドアの開く音がして、入り口に目を向けると高瀬が立っていた。
「いま……考えていた」
「何を?」
「タカセのこと」
高瀬は面食らった。
樹はまっすぐに自分を見ている。彼女がとてもいとおしく、高瀬には思えた。
「どういうことかな」
「部長が、感情を……」
「はい、何、呼んだかな?」
高瀬の背後から部長の声がした。用事から戻ってきたのだろう。
「間が悪いよ」
「お邪魔だったかしら」
部長はふふん、と笑って自分の席に着く。高瀬はため息をついた。
「……なんでもないさ」
「今日は何の用?」
「なんでもいいだろ。そっちこそ、やけに機嫌がいいじゃないか」
「よくぞ。実はね……」
部長はさっき顧問と話してきたことを説明した。
「新聞の取材」
「そうなの、わが文芸部が、地元の新聞局から、取材を受けることになりました!」
「へえ、なんでまた」
「ほら、この地域出身の作家がいるじゃない。その方の誕生百五十周年だから、新聞局のほうで地域の文芸を盛り上げる企画をしているそうよ。その一環で高校の文芸部に取材に行っているらしい」
「取材って、何をするの」
「部室の様子を撮ったり、部誌を見てくれるそうよ。ああ、こんなチャンスめったにないわ!」
部長は一人で盛り上がっている。樹は一人で喋る部長を見ていて、高瀬は入り口にもたれかかりながら文庫本を読んでいた。
「……他のみんなはどこにいるの」
「ああ、長瀬と関田は過去の部紙を探しに倉庫に。みなみちゃんは他校の文芸部に日程調整しに行ってる。あと今日、峯塚はお休みだよ」
長瀬(ながせ)というのは男子生徒のこと。関田(せきた)さんは短髪の女子生徒、みなみちゃんというのは羽賀みなみ(はが みなみ)さんのことで樹に部誌の原稿を依頼してきた眼鏡の女子生徒だ。今日お休みの峯塚雪乃(みねづか ゆきの)さんはその時にいた裸眼の女子生徒だ。
「みんな、いそがしいのね」
「そう。私たちも、やることがあるわよ」
部長は、携帯とメモ帳を取り出した。これから、新聞社に事前に提示された質問への回答を作成するらしい。
「回答なんて、思いつくか分からない」
「いいのよ。少しでも考えてくれたら助かるわ。で、あんたはどうするの」
あんたと言われた高瀬は文庫本を閉じて二人のほうを見た。
「面白そうだから、見ていてもいいかな」
「どうせ、樹ちゃんと帰りたいからでしょ」
「いいだろ、なんでも」
三人で回答を作成しているうちに、倉庫に行っていた二人が戻り、他校に行っていた羽賀さんも戻ってきた。もう夕方になっていた。高瀬の姿は見えなくなっていた。
「部長、もう帰るね」
「うん、ありがとう、樹ちゃん」
「うん。じゃあ」
樹は部室を出て、市電の停留所へ行こうとしていた。一階の図書室を通ったところで、高瀬に会う。
「タカセ」
「終わったの?」
「終わってないけど、もう暗いから」
「そう。市電の駅までだろ? そこまで行くよ」
「……そう」
樹は断ることもせず、高瀬の横を歩いた。
「なんだか、表情が硬いけれど、どうした?」
高瀬は樹のうつ向きがちな顔をのぞき込んで言う。
「……いつもと変わらない」
「そうかな? 何か不安なことでもあるのか?」
「不安なのかもしれない」
「何が?」
「麻里奈が……麻里奈が退院して、私が以前の私ではないから、変に思うんじゃないか、不安」
「そうか……」
高瀬は顎に手を当てて、考えるそぶりをした。しかし、それはわざとらしく、樹には滑稽に思えておかしかった。
「もし、沢田とうまくいかなくなったら、居場所がなくなったら、俺といればいいじゃないか」
「はい?」
「だから、俺といろよ」
「……よくわからない、麻里奈の代わりはいないから。じゃあ」
といって、樹はたった今来た市電に乗り込んでしまう。
残された高瀬は、
「……言い過ぎたな」
と言い、踵を返して駅の方へ歩き出した。
20
麻里奈の退院の日。
その日は特に寒く、紅葉がきれいな日だった。
休日だったので、麻里奈の母親と待ち合わせして一緒に麻里奈を迎えに行くことになっていた。
タクシーで病院まで向かう。
車中、麻里奈の母親と少し話す。
「いつも、お見舞いありがとうね。麻里奈もとても喜んでいたわ」
「行きたくて、行っていたので」
少しの沈黙。麻里奈の母親が瞬きする。
「麻里奈はね、樹ちゃんとずっと一緒にいたいって言っていたわ。いろんなことがあると思うけれど、これからも麻里奈のこと、よろしくお願いします。お友達でいてくださいね」
「……もちろん。よろしくお願いします」
タクシーは病院前に到着する。
「麻里奈」
「樹、来てくれたの」
麻里奈はベッドから起き上がって、病室の椅子に座って本を読んでいた。樹の姿を見ると、立ち上がって駆け寄る。
この入院期間で麻里奈は瘦せたようだ。手を取った樹は、彼女の細さに不安になる。
「タクシーで来た。一緒に帰ろう」
麻里奈は目を細めて笑う。
「そうね。ありがとう」
帰りの車内は賑やかだった。麻里奈がずっとおしゃべりしていて、退院して嬉しいのが樹にも伝わってきた。曰く、
「病院は最高につまらない」
らしい。
このまま外食をしたいとねだる麻里奈を何とかなだめて、彼女の自宅へ到着する。麻里奈は、名残惜しそうにしていたが、樹と別れる。
「じゃあ、今度は学校で」
「うん、勉強、教えてね」
「わかった」
そうして、樹は家に帰ってきた。樹は安どしていた。麻里奈との関係性はこれからも変わらないということを感じていた。これからも、彼女の傍で本を読んで、麻里奈は絵を描いて……。
21
麻里奈が学校に復帰してから一週間がたった。
クラスでは一緒に過ごし、放課後は麻里奈も文芸部の部室に寄っている。
「美術部に入ろうとは思っているんだけれど、ここが居心地よくて」
樹の窓際の“特別席”の横にどこからか持ってきた机を置いて、麻里奈は絵を描いている。水彩画だ。退院してからの風景はキラキラして見えると言っていた。実際、色遣いは美しくて、目を張るような絵を描いていた。
「わが文芸部専属のイラストレーターになってくれたらいいのに」
と部長は言った。
「でも、いずれは美術部に入るから」
麻里奈はやんわりと断る。
樹は麻里奈と一緒にいる心地よさを感じていた。先日、新聞社の取材も終えた文芸部は、落ち着きを取り戻して、個々の創作活動に戻っていた。
樹は、そういえば、最近高瀬の姿を見ないことを思い出した。
高瀬は、麻里奈が学校に戻ってきたことで、自分の居場所がなくなったような気持になっていた。
それは、樹と自分の、構築されつつあった関係が一瞬にして粉々になったことを意味する。
「沢田のせいで」
高瀬は下校する二人を図書館からひっそりとみていて、麻里奈がいなかったらどんなによかったかと思っていた。
22
樹は、麻里奈が戻って安どする傍ら、生きることに疲れていた。
それは、暗闇のことに振り回されていたこともあったかもしれない。彼は、ことあるごとに現れて、樹にとって自分が必要であるとか、逃れられないとか、呟いていた。
樹は、誰かにこのことを相談できたらどんなにいいかと思っていた。実際に、相談しそうになったこともある。しかし、話の異常性から、躊躇ってしまうのだった。
その日は、麻里奈が通院の日で、樹は一人で帰るところだった。高瀬が、樹の前に立って「時間ある?」と訊いてきた。
「まあ」
と樹が答えたので、出かけることになった。
学校から駅までの間に商業施設があるので、そこへ行くことになった。道中、高瀬は無言で、樹は違和感を覚えていた。
「今日のタカセは静かなのね」
樹はしびれを切らしてタピオカ屋でミルクティーを飲みながら静かに座る高瀬に話しかける。
樹も話す方ではないが、気まずい思いが勝って口を開いてしまった。
高瀬は、暗い思いの海に沈んでいた。気持ちが悪い感情が渦を巻いて、自分に覆いかぶさっているように感じた。
高瀬が、こう言った。
「君を攫いたいんだ。いいかな?」
樹がこう答える。
「いいけど」
23
こうして誘拐が成立した。
樹も、ちょうど、「どこか遠くへ行きたい」と思っていたところだったのだ。
二人は、飛行機に乗って、新千歳空港から羽田空港へ降り立った。
樹は、こんなに遠くなくてもいいのに、と思っていたが、高瀬がどうしてもというので従った。もともと、誘拐されている身なのだ。文句は言えまい。
「これからどうするの」
「あてなんてないさ。行きたいところはある?」
「こっちのことなんてわからない」
もう夕方だったけれど、あいている小さな美術館があったので、そこに行くことにした。
展示は、詩と絵画の融合がテーマだった。詩の展示があり、それにそった絵が飾られていて、それを見ていた樹は、麻里奈のことを思い出していた。
(麻里奈がいたら、なんて言っただろう……)
(麻里奈は、心配しているだろうか……)
高瀬といるのに、考えるのは麻里奈のことばかりだった。
樹は一番気に入った絵のポストカードを買って、展示を後にした。高瀬も、それなりに楽しんでいたように見える。
そのあと、チェーンの喫茶店に行った。もう暗くなっていた。母親も心配しているだろう、と樹は考えた。高瀬は、
「今日はどこに泊まろうか」
などと言って携帯を見ている。
樹は、
「行きたいところがあるの」
と言って、席を立つ。
たしか、この町のはずれに、麻里奈が行きたいと言っていた湖があった。絵のモチーフにした湖はそれに似ているところで、本当はこっちの湖のほうがきれいなのだと言っていた。
「湖? もう暗くて何も見えないよ」
高瀬は文句を言う。
「でも、行ってみたい」
樹にまっすぐ見定められて、高瀬は何も言えなくなった。
24
湖は街から電車で二時間、バスで三十分走ったとことにあった。なるほど、たしかに静かできれいな場所だ。明るかったらもっと景色を堪能できただろう。今は暗さゆえその美しさが恐ろしげな感じにもとれた。
「綺麗、来てよかった」
この旅で初めて樹が笑った。口数の少なかった高瀬もその様子を見て笑った。
「ああ、もう帰りたくないな」
「でも帰らなきゃ」
「早くても明日になるね」
「心配している、母さんも、麻里奈も」
「君は愛されているね」
二人は湖畔の草むらに座っている。高瀬がゆっくりと前を向いて何かを睨むようだ。
樹はその視線に驚いて口をつぐんでしまう。
街灯の明かりだけが二人を照らしている。
「私は誰のことも愛していないけれど」
樹のつぶやきは高瀬の耳に届いただろうか。
「俺は」
高瀬が立ち上がる。
「誰からも愛されていないよ」
そう言って歩き出す。あわてて樹も立ち上がり、従う。
「タカセには、小説がある」
高瀬は無言だ。
「タカセには、小説のせかいがあるよ」
樹は、こんな気持ちになったことは初めてだった。誰かを救いたい、目の前の、高瀬を救いたいという気持ちが、体中から溢れてきた。
「そんなのが何になるっていうんだ」
高瀬がぱっと樹の手を取った。樹は驚く。
「誰も俺を見てくれない、誰も、俺を気にしない。ただの風景に過ぎない。俺だって愛されたいのに。母さんだって、俺から奪うだけだ。君は……」
高瀬が手を離した。心のどこかでほっとする樹。
「君は俺と同じだと思ってた」
お前は少年も救えない。
暗闇がささやく。そんなことはないはずだ。一人でだって、生きてゆけるはず。そう、昔の私のように……。
「タカセは……」
樹が高瀬に歩み寄る。高瀬は、今、暗闇そのものになっていた。
「タカセ……」
樹が高瀬の手を優しく握る。高瀬は泣いていた。
「同じだと思っていたんだ……」
25
「タカセ、落ち着いた?」
二人は湖畔のベンチに腰かけている。
樹が自販機で温かい飲み物を買ってきて、二人で飲んだ。高瀬は、ずっとうつ向いていた。
「タカセ」
「ああ」
私、高瀬の傍にいるよ。高瀬の傍にいたい。いいかな。
樹は、この言葉が言えなかった。
「もう、遅くなっちゃったね」
「どこかに入らないと」
「歩いて平気?」
「ああ」
「タカセ、私……」
「君は、」
高瀬がまっすぐ見て言った。
「沢田といる方がいい。僕たちは同じじゃないけれど似すぎている。一緒にいたら危ないよ」
「似ている……」
「わかるだろう? 一緒にいたら二人ともダメになってしまう。だから僕は、君と同じであることを糧に生きていきたかったんだ、でも」
高瀬は息を深く吸った。
「僕が変わらなくちゃいけないみたいだ」
しばらく歩くと、コテージのような建物が目に入った。入ってみると、そこは湖畔の宿泊施設で、まだ空きがあるという。そこに泊まることにして、樹は高瀬と違う部屋へ入って別れた。
なんという一日だっただろう、そういえば制服のままだ。土の付いたスカートをほろってハンガーにかけた。携帯を見てみると、母からの着信が山のようになっていた。連絡をするのは明日にして、樹は、深い眠りについた。
あくる日、母に連絡をして、今日帰ることを伝えた。母は泣いていた。心配していたのだろう。高瀬の言うとおりだ。私は愛されている。
飛行機に乗って、札幌に着くと、高瀬は、じゃあここでといった。高瀬も家に帰るんでしょ? と訊くと、僕はもう少しふらふらしてから帰るといった。帰るようにと言いたかったが、樹は、そう、といって彼と別れた。
家へ帰りつき、樹は自室でぼうっとしている。自分の周りにあった薄い膜がはがれていくような感覚があった。それは、高瀬に手を差し伸べたいと思ったからだ。
高瀬は家へ着いただろうか? 交換した番号にかけてみると、高瀬はすぐに出た。
「どうした? 家へはついた?」
「着いた。高瀬は」
「僕も今着いたところだよ。家の中がひどい有様でさ」
後ろから女性の怒号が聞こえる。
「母さんが怒っていて大変なんだ。またあとでかけ直すよ」
「うん」
電話が切れる。高瀬の傍にいることはかなわなくても、遠くで見守ることはできるのかもしれない、と樹は考える。そんな本はあっただろうか? ああ、自室の掃除もしないといけない……。
いつぞやの、明日香ちゃんが頭の中で笑う。
「樹ちゃん、これは恋じゃなあい?」
まさか、と樹は思う。こんな不安定な感情が恋なのだろうか?
「相手を思う気持ちは、恋になると思うよお」
では、恋なのかもしれない、瞬きを一つして樹は明日香に言う。
「恋の仕方が分からないのだけれど」
26
日常が戻ってきた。麻里奈は美術部に入り、樹は文芸部で活動を続けている。変わったことが一つある、高瀬が文芸部に入部したのだ。
樹が誘ったのだ。お母さんの様子が安定しているときだけでも来られないか、と。
高瀬は目を丸くして、それから、考えてみるよと言った。返事は三日後だった。
「まあ、高瀬が入ったことで部誌が重厚になることは間違いないからね」
と部長は喜んでいるのかしぶしぶなのか分からない表情で言った。
高瀬の席は樹の二つ隣だ。
樹は、高瀬の執筆する様子を初めて見た。書くときに独り言が多い高瀬は、部長にうるさいと注意されたが直っていない。
高瀬は、帰りの時間を毎回樹に合わせるので、部長に気持ち悪がられている。
「あんたさあ、もうすこしクールにならないと、ストーカーまがいよ」
「そうかな? 僕にはそんなこと関係ないよ」
二人のやり取りはいつものことだ。
樹は、部活が終わると美術部の麻里奈を待っているので、必然的に三人で帰ることになった。
麻里奈ははじめ、
「この人が樹のこと好きな人なのね」
と高揚したように耳打ちしてきたが、話してみると高瀬の樹へに気持ちの強さに少し引いているようだ。
暗闇はもうやってこない。樹は、暗闇が何だったのかの答えを自分なりに出していた。それは高瀬にも自身にも当てはまっていることであった。
愛されたいなんて誰でも思うことだ。
樹は、肩の長さまで髪が伸びた。近く、麻里奈の誕生日があるので、おそろいのアクセサリーを選ぼうと思う。
ついでに高瀬にペンでも買ってやろう。高瀬はなんていうだろうか。
27
湖畔に、樹と麻里奈はいた。
約束していた、湖のほとりだ。
「もう冬になっちゃったね」
「寒い」
約束していたのは秋だったが、もう雪の降り積もる冬になっていた。
「さっそく温泉入ろうか」
「うん」
送迎バスから降りた二人は、まっすぐに旅館に入る。今日は泊りで、二人で過ごすのだ。
「わあ、浴衣だ。上がったら着ようね」
「うん」
いつもの調子で樹の口数は少ないが、楽しんでいる様子が麻里奈には伝わってきた。彼女はそれが嬉しくて、ずっと笑顔だ。
「ああ、来られてよかった。高校二年生も頑張ってよかったよ」
「来年は受験だね」
「いやなこと思い出させないでよ」
二人は笑う。こんなに心穏やかな日々が来るなんて、樹は思ったことはなかった。
「麻里奈」
「なに?」
「おふろのまえに湖を見ようよ」
「えー、寒いよ」
「お願い」
「わかった、少しだけね」
二人はコートを着て、外へ出た。冬の湖は、何か畏怖のようなものを感じさせる。
樹は、高瀬と言った湖を思い出していた。あのとき、私は必死だった……。誰かを救いたい何て、あの時だけだ、思ったのは。
「ああ、綺麗だねえ」
「うん、綺麗」
二人は湖畔の欄干に手をかけて湖を見渡す。
「そういえば」
「何?」
「高瀬君は最近どうなの?」
「どうって……」
タカセとは何もないけれど。どうしたのだろう。
「高瀬君、最近見ないよね」
確かに、部活にも来ていないし、帰り道も見かけていない。
「お母さんのことで大変なのかなあ」
麻里奈はのんびりした口調で言う。人ごとのように。麻里奈は、こういうところがある。
「大変だとは、思う」
樹は暗い気落ちになる。高瀬だって、温泉に来たり、のんびりしたいはずだ。家事は毎日のころだから、そうはいかないだろう。
「まあ、私たちが心配しても何にもならないけれど」
麻里奈は手放したように言う。まあ、そうなのだけれど……。
「寒いよ、中に入ろう」
「うん」
二人は、温泉につかって、ご飯も食べて、リラックスした気持ちになっていた。
毎日これならいいのにね、なんて、軽口をたたく。
樹は、ふと高瀬のことが気になって、電話を掛けたくなった。麻里奈に断って、廊下に出る。
高瀬に電話をかけてみる。七コールしたが出ない。もう一度かけてみる。
「あ、樹」
「タカセ」
「どうしたんだ? 何かあった?」
「何もないけれど」
「そうか……」
高瀬はため息をついた。
「お土産買って帰るね」
「出かけてるのか?」
「いま温泉に来てる」
「そうか」
「ふふ」
「何がおかしい?」
「タカセ」
「何?」
「私タカセのことが好きだ」
高瀬は携帯を持ったまま呆然とした。
「……タカセ?」
この無邪気な少女に、なんと言ったらいいか分からなかった。自分の薄暗い気持ちをぶつけたり、自分の欲に彼女を巻き込んでいいわけがないと葛藤していた。
「ああ、そうか」
「なに?」
「君は……何でもない」
「そう」
「おやすみ」
「おやすみ」
電話が切れる。樹は目を閉じた。高瀬は膝を立ててどっかりと座った。
二人とも、今までにない気持ちになっている。
不思議な女の子だ、高瀬は思う。
高瀬は何が好きだろうか? 甘いものか、と樹は考える。
樹は、自分を救ってくれた高瀬に、お礼がしたかった。だから告白したわけではない。気持ちは本当だ。ただ、今言うつもりではなかったけれど。
タカセ……。いつも、私を待っていてくれるタカセ。背の高い、皮肉やなタカセ。思い出して、胸が締め付けられた。
客室に戻った樹は、落ち着いていたけれど、胸がいっぱいだった。
28
温泉旅行から数日後、樹は高瀬に呼び出された。これはいつものことなので、文芸部の面々はまたか、と気にもしなかった。
しかし当の樹は緊張さえしていた。自分の告白の返事がもらえるだろうと思っていた。
場所はいつもの図書室で、高瀬は、座ってよと、自分の前の席を勧めた。
「どうしたの、タカセ」
なるべくいつもの調子と変わらないように樹は話した。胸の高鳴りは、強く感じていた。
「返事なんだけれど」
と言って、高瀬は一枚のしおりを差し出した。
それは薄いプラスチックの板に青い押し花がされているしおりだった。
「あじさい」
「そう」
「……もらっていいの」
「貰って。大事にして、ずっと」
「ありがとう」
その花は小さくて、可憐だったけれど、しっかりと咲いていた。
「じゃあ行こうか」
樹は面食らった。これが返事だろうか。
「まって」
樹が高瀬の手を引く。
「分かんないよ」
「分かってるだろ」
その言い方がおかしくて、樹は笑った。
「分かっているのかもしれない」
「な。部室に戻ろう」
「うん」
樹は、しおりを大切にポケットに仕舞った。
29
高瀬との交際は、すぐに麻里奈にも、文芸部にも知れ渡った。
「はー、ついに樹ちゃんをとられちゃったか」
と部長は言った。
「お前のものじゃないだろ」
「あんたのものでもないわよ」
「わかってるよ」
「本当かー?」
部長と高瀬のやり取りがおかしくて、部員たちは笑った。
麻里奈も、祝福してくれた。
「彼氏、先越されちゃったな」
といいながらも、部活帰りは二人きりにしてくれたり、話を聞いてくれたりする。
樹は、ことあるごとにしおりを見つめる。
青いあじさいの花言葉は“辛抱強い愛”高瀬自身のことを言っているようでおかしくもあり、いとおしかった。
高瀬がどのような意味でこのしおりをくれたにせよ、大切にしたいと思った。
樹たちは高校三年生になった。もう受験を間近に控えている。樹は、文学部の哲学科を狙っていた。
「なんで哲学科なのさ」
と高瀬に訊かれたとき、樹は
「答えのない問いに答えをみつけたいから」
といって、彼を困惑させた。
高瀬は、文学部の国文学科を受験するといった。二人は同じ大学を受験する。
麻里奈は、札幌市郊外の美大を受けるつもりらしかった。
「樹が褒めてくれなかったら、美大になんてしなかったよ」
「それはよかったの、悪かったの」
「よかったんじゃない」
麻里奈は、絵の勉強に忙しく、会えない時期が続いている。たまに会っても、すねたような口調で話す。寂しいのだ。
樹も最後の部紙に向けた執筆と、受験勉強に追われて忙しかった。高瀬も家のことや、勉強に翻弄されていて、二人で会うのは部室でだけになっている。
忙しい中で、樹はあのしおりを見るとほっとする。拠り所のようになっていた。
30
ある少女は、そのころを過ぎて、女性になった。その女性は哲学に長けていて、読書が好きだった。その彼も読書が好きで、二人で合作を書くこともあった。
女性は長い髪の毛を銀のバレッタで留めて、優しく笑った。
彼との間にもうすぐ子供が生まれる。幼馴染も祝福してくれた。
多くの本も、哲学書も知らない答えを探す彼女は、ある答えを見つけた。
その答えは暗闇を照らし、人を救うことになるだろう。彼女は心からそう思う。
子どもの名前は愛。何よりも大切にしていること。
愛は小さな手を握り、目いっぱい泣いた。二人はその様子を見て優しく微笑む。
少女だった女性は優しく抱きあげ、こういった。
「愛、私はあなたを愛しているわ」
ある少女 朝野 結子 @asanopanfuwa
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