【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り ―ヴェネツィア錬金女学院奇譚―(約40,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り ―ヴェネツィア錬金女学院奇譚―
### 第1章 水の都の少女たち
一六二七年、ヴェネツィア共和国。大運河の支流から少し離れた、サン・マルコ広場の北側に位置する「サンタ・ルーナ錬金女学院」は、運河と高い石垣に囲まれた一つの小さな世界であった。大理石と赤レンガで築かれた古い修道院を改装した校舎は、外界からは孤立した神秘的な場所として、貴族や裕福な商人の娘たちが集められていた。
十二月の冷たい霧が運河を包む朝、新たな学期の始まりを告げる鐘の音が学院内に響き渡った。
「ソフィア! 急いで! 朝の儀式に遅れるわよ!」
アレッサンドラ・コンタリーニが、友人の部屋のドアを軽く叩いた。彼女は十七歳、ヴェネツィアの名高い商人の娘で、赤褐色の巻き毛を上品に結い上げ、学院の制服である紺青色のドレスを身にまとっていた。金の刺繍が施された襟元には、家の紋章が描かれた小さなブローチが輝いている。
ドアが開き、ソフィア・モロシーニが現れた。彼女も同じ年齢だが、アレッサンドラとは対照的な雰囲気を持っていた。ソフィアの髪は夜のように漆黒で、象牙のような白い肌が透き通るほど繊細だった。彼女の瞳は不思議な琥珀色で、見る者を魅了する力を持っていた。
「ごめんなさい、アレッサンドラ。少し実験に夢中になっていたの」
ソフィアは微笑みながら言った。その右手には一冊の古い本が握られていた。『エメラルド・タブレット』と呼ばれる、錬金術の基本書だ。
「また夜更かしして読書してたのね」
アレッサンドラは親しげに腕を組みながら、廊下を歩き始めた。
「ねえ、昨日の夜、サン・マルコの鐘楼から奇妙な光が見えたって噂、聞いた? 青い炎のようなものが一瞬だけ輝いたんですって」
ソフィアは興味深そうに眉を上げた。
「本当? それは…… 興味深いわね」
二人は大理石の階段を下り、中庭を横切って礼拝堂へと向かった。十二月のヴェネツィアは冷え込み、二人の吐く息が白く霧となって漂う。中庭の中央には、学院のシンボルである大きな水盤が置かれ、その周りには七つの柱が立っていた。それぞれの柱には、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星の象徴が刻まれている。
礼拝堂に入ると、既に多くの生徒たちが集まっていた。皆、同じ紺青色のドレスを着ているが、襟元や袖口の刺繍は家柄によって微妙に異なっていた。ソフィアとアレッサンドラは前列に座った。
厳かな空気が礼拝堂を支配する中、校長のヴィットリア・カペッロが祭壇の前に立った。六十代半ばの彼女は、一度も結婚せず、生涯を学問と錬金術の研究に捧げてきた女性だった。全身を黒いドレスで包み、銀糸で精緻に刺繍された襟だけが彼女の地位を物語っていた。
「親愛なる生徒たち」
ヴィットリアの声は、年齢を感じさせない力強さを持っていた。
「新しい学期の始まりに当たり、改めて我が学院の精神を思い起こしましょう。『上なるものは下なるものの如く、下なるものは上なるものの如し』。これはエメラルド・タブレットの教えです。私たちの学ぶ錬金術は、単なる物質の変容ではなく、魂の変容の道でもあるのです」
ヴィットリアの言葉に、礼拝堂の空気がわずかに震えたように感じられた。
「そして今学期から、新たな教師をお迎えします。ヴェネツィア大学で錬金術と自然哲学を研究されてきた、イザベラ・プリウリ先生です」
側面のドアから現れたのは、三十歳前後の女性だった。イザベラ・プリウリは、同じ教師たちの黒いドレスを着ていながらも、どこか異質な存在感を放っていた。彼女の髪は珍しい灰色を帯びた金色で、緑がかった瞳は猫のように鋭い光を宿していた。首元には銀の三日月のペンダントが輝いている。
「皆さん、おはようございます」
イザベラの声は低く、柔らかかった。
「この由緒ある学院で、皆さんと共に学べることを光栄に思います。錬金術は『物質の変容』と『精神の変容』の二つの道があります。私は特に『物質の変容』、つまり実践的な錬金術について教えることになりました」
ソフィアはイザベラに釘付けになっていた。その姿には、何か強い磁力のようなものを感じた。アレッサンドラは、友人の反応に気づいて小さく微笑んだ。
儀式の後、生徒たちは朝食のために食堂へと向かった。ソフィアとアレッサンドラは、親友のベアトリーチェ・グリマーニと共に、いつもの窓際のテーブルに座った。
ベアトリーチェは二人より一つ年下で、茶色の大きな瞳と可愛らしい顔立ちを持つ少女だった。彼女の父親はヴェネツィア議会の議員を務める人物で、政治的な影響力を持っていた。
「あの新しい先生、素敵だったわね」
ベアトリーチェは興奮した様子で言った。彼女の茶色の巻き毛がはずむように揺れる。
「どこか…… 異国的な雰囲気があるわ。噂では、ギリシャやエジプトに長く滞在していたらしいわ」
「本当?」
ソフィアの瞳が輝いた。
「エジプトといえば、錬金術の発祥の地。きっと多くの秘密を学んできたのね」
アレッサンドラはパンにオリーブオイルを垂らしながら、少し心配そうに言った。
「でも、あまり変わった先生だとマルゲリータ先生が気に入らないんじゃない?」
マルゲリータ・ゼノは、錬金術の応用として医学を教える年配の教師で、伝統を重んじることで知られていた。
「そうね……」
ソフィアは言いかけて、ふと窓の外に目をやった。
学院の中庭を、一人の少女が横切っていた。彼女は見たことのない顔だった。学院の制服ではなく、シンプルな灰色のドレスを身につけ、金色の髪を一つに結んでいる。
「あの子、誰かしら?」
ソフィアが尋ねると、ベアトリーチェも外を覗いた。
「ああ、あれは新入生のエレナ・ファリエーロよ。昨日到着したばかりらしいわ。父親はラグーザの商人で、母親はギリシャ人だって聞いたわ」
エレナは中庭の水盤の前で立ち止まり、水面を見つめていた。何かを探すような仕草に、ソフィアは強い好奇心を覚えた。
「なんだか不思議な子ね……」
その時、エレナは突然顔を上げ、食堂の窓を見上げた。ソフィアと目が合い、エレナはかすかに微笑んだ。その笑顔には、どこか秘密を共有するような親密さがあった。ソフィアは思わず身を引いたが、何か不思議な糸で結ばれたような感覚を覚えた。
朝食が終わると、最初の授業が始まった。ソフィアとアレッサンドラは、イザベラ・プリウリの「実践錬金術入門」の授業に向かった。教室は校舎の東側、朝日が差し込む大きな窓のある部屋だった。
生徒たちが席に着くと、イザベラは教壇に立った。彼女は黒板に複雑な図形を描き始めた。それは二つの三角形が重なった六芒星と、その周りを囲む円、さらにその内側に描かれた様々な象徴だった。
「これは『ソロモンの印』と呼ばれる図形です。錬金術において、この図形は元素の均衡と、物質世界と精神世界の接点を表します」
イザベラの声は教室全体に響き渡った。
「錬金術の基本原理は『変容』です。卑金属から黄金への変容、未熟な魂から完全な魂への変容。これらはすべて同じ原理に従います」
ソフィアは熱心にノートを取りながら、新しい教師の一言一言を吸収していった。イザベラの語る錬金術は、これまでに学んだものとは少し異なっていた。より実践的で、より大胆な内容だった。
授業の途中、教室のドアが静かに開き、エレナ・ファリエーロが入ってきた。彼女は少し戸惑った様子で立ち止まったが、イザベラは優しく微笑んで彼女を招き入れた。
「あなたがエレナですね。どうぞ、空いている席に座ってください」
エレナはちょうどソフィアの隣が空いていたため、そこに座った。彼女は緊張した様子で、周囲を見回している。
「初めまして」
ソフィアは小声で挨拶した。
「わたし、ソフィア・モロシーニ」
エレナは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「エレナ・ファリエーロです。よろしく」
エレナの声は、驚くほど透明感があった。まるで水晶の鐘が鳴るような、清らかな響きだった。
授業が終わると、イザベラは生徒たちに次回までの課題を出した。
「次回の授業では、『第一質料』について学びます。それに先立ち、皆さんにはヘルメス・トリスメギストスの『ポイマンドレス』の第一章を読んでおいてください」
生徒たちが教室を出ていく中、イザベラはソフィアに声をかけた。
「モロシーニさん、少しよろしいですか?」
ソフィアは驚いたが、アレッサンドラに「後で会おう」と言って、教室に残った。イザベラは窓際に立ち、運河の方を眺めていた。
「あなたは非常に鋭い観察力をお持ちですね。授業中の質問も的確でした」
イザベラは微笑んだ。
「もし興味があれば、放課後に特別な研究会を開いています。より深い錬金術の知識を学びたい生徒のための……」
ソフィアの心臓が高鳴った。特別な研究会。それは彼女がずっと望んでいたものだった。
「ぜひ参加したいです!」
ソフィアは熱心に答えた。
「素晴らしい」
イザベラはソフィアの肩に優しく手を置いた。その指先から、不思議な温かさが伝わってきた。
「今夜、太陽が沈んだ後、東の塔の実験室へいらしてください。ですが……」
イザベラは声を落とした。
「これは特別な研究会です。他の教師には内緒にしておいてください」
ソフィアは頷いた。東の塔は、学院の中でも最も古い建物で、通常は生徒が立ち入ることを許されていない場所だった。しかし、それがさらに彼女の好奇心を掻き立てた。
教室を出ると、廊下でソフィアを待っていたのはエレナだった。彼女は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。
「イザベラ先生、素晴らしい方ね」
エレナは振り向きもせずに言った。ソフィアはエレナの隣に立った。運河の向こうに見える鐘楼が、朝の光を受けて輝いていた。
「ええ、そうね。あなたもイザベラ先生の授業、気に入ったの?」
「ええ。特別な研究会、楽しみにしています」
エレナの言葉に、ソフィアは驚いて彼女を見つめた。
「あなたも誘われたの?」
エレナは微笑んだ。その笑顔には、何か秘密を共有しているような親密さがあった。
「ええ。イザベラ先生とは、以前から面識があるの」
ソフィアは何か不思議な感覚を覚えた。この少女と自分の間には、言葉では説明できない糸が結ばれているような気がした。
「一緒に行きましょう」
エレナは小さな手をソフィアに差し出した。
「私たちには、共に見つけるべき何かがあるのかもしれないわ」
ソフィアはその手を取った。エレナの手は驚くほど温かく、柔らかだった。その瞬間、窓から差し込む光が二人を包み込み、まるで時間が止まったかのような静寂が訪れた。
ソフィアは直感的に悟った。この出会いが、彼女の運命を大きく変えることになるだろうと。
そして、その予感は的中することになる。
### 第2章 秘密の実験室
日が沈み、学院を夜の闇が包み込む頃、ソフィアは自室で身支度を整えていた。普段の紺青色の制服から、より動きやすい深緑色のドレスに着替え、首元には母から譲り受けた水晶のペンダントを下げた。薄い膜のような水晶の内部には、一筋の金色の糸のような物質が封じ込められていた。
鏡の前で髪を結び直しながら、ソフィアは今夜の特別研究会に思いを馳せていた。イザベラ先生の授業内容は、これまでに学んだ錬金術とは明らかに異なる視点を持っていた。それはより実践的で、より…… 大胆だった。
ノックの音が静かに部屋に響き、ドアを開けるとエレナが立っていた。彼女は黒いマントを羽織り、金髪を後ろで一つに結んでいた。その姿はまるで影のように優雅だった。
「用意はいい?」
エレナの声は小さく、しかし力強かった。
「ええ、行きましょう」
二人は廊下を静かに進んだ。夜の学院は、昼間とは全く異なる表情を見せていた。石造りの壁から伸びる松明の炎が、二人の影を不気味に壁に映し出す。大理石の床に響く足音を最小限に抑えながら、二人は東の塔へと向かった。
東の塔は学院の中でも最も古い建物で、その一部はローマ時代の遺構の上に建てられていた。日中でさえも人気のない場所に、夜になれば近づく者はいない。
塔の入口で、エレナは立ち止まった。彼女は小さな銀のランプを取り出し、それに火を灯した。そのランプの炎は、普通の火とは少し違い、青みがかった光を放っていた。
「特別なオイルを使っているの」
エレナはソフィアの疑問を先回りするように説明した。
「イリスの花から抽出した精油と、水星の影響下で採取した露を混ぜたもの。闇を照らすだけでなく、隠されたものを見えるようにするの」
ソフィアは感心したように頷いた。エレナの知識は、一般的な錬金術の教科書に載っているものを超えていた。
二人は塔の螺旋階段を上っていった。石段は長年の使用で磨り減り、所々に奇妙な模様が刻まれていた。その模様は、上る途中で変化していくように見えた。最初は単純な幾何学模様だったが、上に行くにつれて複雑な星座や錬金術の象徴へと変わっていった。
三階に到達すると、廊下の突き当たりに重厚な扉があるのが見えた。その扉には、黄銅製の複雑な装飾が施されていた。中央には七つの惑星の象徴が円環状に配置され、その中心に大きな太陽の紋章があった。
エレナは扉の前で立ち止まり、ランプの光を太陽の紋章に当てた。すると、青い炎が紋章に反射し、七つの惑星の象徴が順番に輝き始めた。最後に月の象徴が光ると、カチリという小さな音とともに鍵が開いた。
「さあ、入りましょう」
エレナは扉を押し開けた。
中に入ると、そこは想像を超える光景だった。部屋は円形で、天井は高くドーム状になっていた。壁一面に本棚が並び、古代の魔術書や錬金術の写本が整然と並べられていた。中央には大きな作業台があり、様々な形のフラスコや蒸留器が配置されていた。それらのガラス容器の中では、カラフルな液体が泡立ち、時折閃光のような光を放っていた。
部屋にはすでにイザベラ・プリウリがいた。彼女は通常の黒いドレスではなく、深い紫色のローブを身にまとい、髪は自由に肩に落ちていた。彼女の首元の三日月のペンダントは、部屋の中でぼんやりと光を発していた。
「よく来てくれました」
イザベラは微笑みながら二人を迎えた。
「特に朝の授業で会ったばかりなのに、こんな深夜の誘いに応じてくれて嬉しいわ、ソフィア」
イザベラはソフィアの頬に優しく触れた。その指先は意外なほど温かく、触れられた場所から心地よい温もりが広がった。
「私はずっと、こういった機会を待っていました」
ソフィアは率直に答えた。
「学院の授業は基礎的なことしか教えてくれません。でも私は、もっと深く錬金術を知りたいんです」
イザベラは満足げに頷いた。
「その情熱、素晴らしいわ」
彼女は作業台の方へ歩き始めた。
「この研究会の目的は、表向きの錬金術を超えた真の知識を探求することよ。カペッロ校長も、ゼノ先生も、彼女たちなりの方法で錬金術を教えているけれど、それは氷山の一角にすぎないの」
イザベラは本棚から一冊の古い本を取り出した。その表紙は黒い革で覆われ、文字は書かれていなかった。代わりに、純銀でできた複雑な図形が埋め込まれていた。
「これは『影の書』。通常の錬金術書には決して書かれない知識が記されているわ」
イザベラは本を開いた。ページには緻密な図と、見慣れない文字で書かれた文章が並んでいた。
「これはエジプト時代の神官の言語と、古代ギリシャ語が混ざったものよ。現代人にはほとんど解読できない……」
エレナがその言葉を継いだ。
「でも私たちには読めるわ」
ソフィアは驚いて二人を見た。
「あなたたちは、この言語を知っているの?」
イザベラは微笑んだ。
「ソフィア、あなたはエレナについて、まだあまり知らないようね」
イザベラはエレナの肩に手を置いた。
「彼女は私の姪にあたるの。そして彼女の母親――つまり私の姉は、ギリシャの古い家系の出身で、その家系は何世紀にもわたって古代の知識を守ってきたのよ」
エレナは謙虚に頷いた。
「母は私に多くを教えてくれました。でも、母は二年前に亡くなってしまって……」
エレナの瞳に悲しみの影が過った。
「ごめんなさい」
ソフィアは思わず彼女の手を取った。
「大丈夫よ」
エレナは微笑んだ。その笑顔には、年齢以上の成熟さが感じられた。
「母の死後、叔母さん――イザベラ先生が私の後見人になってくれて、そして今ここに……」
イザベラは話題を戻すように、本のページをめくった。
「今日は、『賢者の石』について話しましょう」
彼女の指が一枚の挿絵を指した。それは、一羽の不死鳥が炎の中から再生する様子を描いたものだった。
「賢者の石は単なる伝説ではありません。それは実在するものです。しかし、多くの人が考えるような『物質』ではなく、むしろ『状態』なのです」
イザベラは作業台の上に置かれた水晶の小箱を開けた。中には赤い粉末が入っていた。
「これは『赤い獅子』と呼ばれる物質。通常の鉛を黄金に変えることができる……」
彼女は小さな金属片を取り出し、皿の上に置いた。そして赤い粉末をほんの少しだけ振りかけ、その上からランプの炎で熱した。
数秒後、金属片が輝き始め、そして徐々に色が変化していった。銀色だった金属が、次第に黄金色へと変わっていったのだ。
ソフィアは息を呑んだ。これは本物の錬金術、本物の変容だった。学院で教えられるのは理論ばかりで、このような実際の変容を見せることはなかった。
「これが……本当の錬金術……」
ソフィアの声は興奮で震えていた。
「ええ、でもこれはまだ始まりにすぎないわ」
イザベラは静かに言った。
「真の目標は、単に金属を変容させることではなく、魂の完成、そして永遠の命を得ることなの」
ソフィアは思わず問いかけた。
「永遠の命? それは本当に可能なのですか?」
イザベラは神秘的な笑みを浮かべた。
「可能よ。私はその証拠を見てきた。エジプトの砂漠で、何百年も生きているという隠者に会ったことがある。彼は『大いなる作業』を完成させた人物だったわ」
エレナが静かに付け加えた。
「そして、私の母もその道を追究していました」
ソフィアは二人の真剣な表情を見て、彼女たちが嘘をついているとは思えなかった。彼女の心の中で、かつてないほどの情熱が燃え上がった。
「私も、その道を学びたいです」
イザベラは満足げに頷いた。
「そのために、私たちはここにいるのよ」
彼女は別のフラスコを手に取った。中には緑がかった液体が入っていた。
「これは『緑のライオン』。初期の変容に必要な溶媒よ」
イザベラは液体を三つの小さなグラスに注いだ。
「これを飲みなさい。これは最初の試練であり、入門の儀式でもあるの」
ソフィアは少し躊躇したが、エレナが既にグラスを手に取り、頷いているのを見て、彼女も同じようにした。イザベラも自分のグラスを持ち上げた。
「『知識の扉を開き、古の英知を我が内に受け入れん』」
彼女は古代語で呪文のような言葉を唱えた。エレナもその言葉を繰り返し、二人はソフィアを見た。
「同じ言葉を繰り返して」
ソフィアは言葉をなぞるように発音した。その音節は彼女の舌の上で奇妙に親しみやすく感じられ、まるで昔から知っていた言葉のようだった。
「『知識の扉を開き、古の英知を我が内に受け入れん』」
三人は同時にグラスの中身を飲み干した。
液体は意外にも甘く、何かハーブの香りがした。しかし飲み込んだ途端、ソフィアの体内で奇妙な熱が広がり始めた。それは胃から始まり、血管を伝って全身へと広がっていく。
「あ……」
ソフィアは息を呑んだ。視界が急に鮮明になり、部屋の中のあらゆる細部が驚くほど明確に見えるようになった。本棚の埃一つ一つ、壁の石の質感、イザベラの顔の細かなシワまで、すべてが新鮮な驚きとともに彼女の目に飛び込んできた。
そして不思議なことに、部屋の中に見えない力の線が走っているのも感じられた。それはまるで空気中に張り巡らされた蜘蛛の巣のようで、様々な色を放っていた。
「これは……」
「元素の流れよ」
イザベラが穏やかに説明した。
「通常は見えないものだけれど、『緑のライオン』を飲むことで、一時的に感覚が鋭敏になり、それを知覚できるようになるの。これが本当の錬金術の基礎――物質の中に流れる生命力を感じ取ることなのよ」
エレナはすでに慣れた様子で、手を伸ばし、見えない糸を手でつかむようにしていた。彼女の指先が触れると、空気中に小さな光の波紋が広がった。
「試してごらん」
エレナはソフィアに微笑みかけた。
ソフィアは恐る恐る手を伸ばし、目に見える金色の線を掴もうとした。指先が触れると、温かいエネルギーが手のひらを通じて体内に流れ込んできた。それは心地よい感覚で、彼女はその流れに従って、手を動かし始めた。
すると不思議なことに、金色の線がソフィアの意志に従うように動き始めた。彼女は試しに、その線を輪のように形作ってみた。金色の輪が空中に浮かび、ゆっくりと回転した。
「素晴らしい!」
イザベラが感嘆の声を上げた。
「初めてにしては、見事な感覚よ。あなたには天賦の才があるわ、ソフィア」
ソフィアは自分の手の中で踊る光に魅了されていた。この感覚は彼女がかつて経験したことのないものだった。完全な調和、完全な理解の感覚。まるで世界の隠された側面が突然開かれたかのように。
「これが……本当の錬金術なのね」
彼女は小さく囁いた。
「ええ」
イザベラは頷いた。
「表向きの学校では教えられない、真の知識。物質は単なる物質ではなく、生命力や精神的な原理を含んでいるの。それを理解し、操作することが本当の錬金術よ」
イザベラは作業台の上の様々なフラスコを指さした。
「これからあなたには、この知識を深めていってもらいたい。伝統的な七つの作業――浄化、溶解、分離、結合、発酵、蒸留、凝固を学び、最終的には『大いなる作業』へと進んでいくの」
ソフィアはまだ光の糸を手の中で踊らせながら、頷いた。彼女の中の何かが、今夜のこの体験によって永遠に変わってしまったことを感じていた。
エレナがソフィアの側に寄り、彼女の手に自分の手を重ねた。二人の指が触れあうと、光の糸がさらに明るく輝き、複雑な模様を形作り始めた。
「私たちで一緒に……」
エレナの声は優しく、ソフィアの耳に心地よく響いた。
「一緒に……」
ソフィアは言葉を繰り返した。二人の手が作り出す模様は、まるで舞踏会で踊るカップルのように優雅に空中で旋回していた。
イザベラは二人を見つめながら、満足げに微笑んだ。
「今日はこれくらいにしておきましょう。効果は徐々に薄れていくわ。明日からは本格的な訓練を始めるけれど、今は体を休めることも大切よ」
ソフィアは少し残念に思ったが、確かに体の疲れを感じ始めていた。視界の鮮明さも少しずつ通常に戻りつつあった。
「次はいつ会えますか?」
ソフィアは尋ねた。
「明日の夜、同じ時間に」
イザベラは言った。
「そしてもう一つ重要なこと。この秘密の研究会のことは、絶対に他の人に話してはいけないわ。特にマルゲリータ・ゼノ先生には……彼女は私たちの研究を危険なものと見なしているから」
ソフィアは厳粛に頷いた。
「約束します」
エレナはソフィアの腕を取り、一緒に実験室を出た。二人は螺旋階段を静かに下り、東の塔を後にした。夜はすでに深く、学院内は完全な静寂に包まれていた。
廊下を歩きながら、ソフィアは今夜の体験について考えていた。彼女の世界は一晩で劇的に変わってしまったかのようだった。
「不思議ね」
ソフィアはつぶやいた。
「まるで……長い間眠っていた何かが、私の中で目覚めたみたい」
エレナは月明かりの中で微笑んだ。その横顔は神秘的な美しさに満ちていた。
「それは『記憶の覚醒』よ。私たちの魂は生まれる前から存在していて、多くの知識を持っているの。錬金術の一部は、その忘れられた知識を呼び覚ますことでもあるわ」
ソフィアの部屋の前で、二人は立ち止まった。
「おやすみ、ソフィア」
エレナは言った。彼女はソフィアの頬に軽くキスをした。その唇の感触は驚くほど柔らかく、わずかな湿り気があった。ソフィアの頬に触れた場所から、小さな電流のような感覚が走った。
「明日、また」
エレナは振り返ることなく、廊下の暗がりへと消えていった。ソフィアは彼女が見えなくなるまで見送り、そっと自分の頬に触れた。まだエレナの唇の感触が残っているような気がした。
### 第3章 危険な追跡
翌日の朝、ソフィアは目覚めると同時に昨夜の出来事を鮮明に思い出した。それは夢ではなく、確かに現実だったのだ。彼女はベッドから起き上がり、窓を開けた。朝の光が部屋に溢れ込み、昨日までとは違う世界に見えた。
通常の朝の儀式を終え、ソフィアは食堂へ向かった。アレッサンドラとベアトリーチェが既に席について彼女を待っていた。
「おはよう、ソフィア!」
ベアトリーチェは明るく挨拶した。彼女の茶色の巻き毛は今日も躍動的に揺れ、頬には健康的な紅潮が広がっていた。首元には珊瑚のペンダントが控えめに輝いている。
「ねえ、昨日はどこに行ってたの? 夜にあなたの部屋を訪ねたけど、いなかったわ」
アレッサンドラが少し心配そうに尋ねた。彼女はいつものように赤褐色の髪を上品に結い上げ、耳には真珠のイヤリングをつけていた。
ソフィアは一瞬言葉に詰まった。昨夜の秘密を守ると約束したばかりだった。
「ごめんなさい。少し……夜風に当たりたくて、中庭に出ていたの」
彼女は言い訳をした。嘘をつくのは好きではなかったが、イザベラとの約束は守らなければならない。
「そう……」
アレッサンドラは少し不審そうな表情を見せたが、それ以上は追及しなかった。
朝食時、ソフィアは時折エレナを探して食堂を見回した。しかし、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「誰か探してるの?」
ベアトリーチェが鋭く指摘した。
「いいえ、別に……」
ソフィアは慌てて否定した。しかし、そのタイミングでエレナが食堂に入ってきた。彼女は昨日と同じく灰色のドレスを着て、金髪を一つに結んでいた。彼女はソフィアを見つけると、かすかに微笑んだが、別のテーブルに座った。
ベアトリーチェがエレナを見て、興味深そうに言った。
「あの子、新入生のエレナ・ファリエーロよね。あなた、彼女と知り合いなの?」
「ええ、少し……昨日の授業で隣に座ったの」
ベアトリーチェは頷いたが、アレッサンドラは何か感づいたように、ソフィアを注意深く見ていた。
朝食後、最初の授業はマルゲリータ・ゼノの「医療錬金術」だった。ゼノ先生は六十代の厳格な女性で、常に高い襟のついた黒いドレスを着ていた。彼女の髪は厳しく後ろで結ばれ、一本の白髪も許さないかのような厳格さがあった。
教室に入ると、彼女は生徒たちを鋭い目で見回した。
「今日は『パラケルススの治癒理論』について学びます」
彼女の声は教室に響き渡った。
「パラケルススによれば、病気とは体内の元素のバランスの乱れによって生じます。つまり、錬金術的な治療法とは、このバランスを回復させることにあるのです」
ソフィアはノートを取りながらも、昨夜のことを考えていた。パラケルススの理論は確かに興味深いが、昨夜イザベラから見せられた実践的な錬金術と比べると、どこか表面的に感じられた。
授業の途中、扉が開き、イザベラ・プリウリが入ってきた。
「失礼します、ゼノ先生」
イザベラは丁寧に頭を下げた。
「少しお時間をいただけますか?」
マルゲリータ・ゼノは不機嫌そうに眉をひそめた。
「プリウリ先生、授業中です。後ほど」
「申し訳ありませんが、カペッロ校長からの緊急の伝言なのです」
マルゲリータは仕方なく頷き、生徒たちに向かって言った。
「皆さん、教科書の47ページからの練習問題を解いておきなさい。すぐに戻ります」
彼女はイザベラと共に教室を出て行った。生徒たちはそれぞれ小声で話し始めた。ソフィアは窓の外に目をやると、中庭でイザベラとマルゲリータが何やら激しく議論している様子が見えた。マルゲリータの表情は厳しく、時折指を振り上げるようにして何かを主張していた。
しばらくして、マルゲリータが一人で教室に戻ってきた。彼女の表情はさらに厳しさを増していた。
「ソフィア・モロシーニ」
彼女が突然ソフィアの名を呼んだ。
「はい」
ソフィアは立ち上がった。
「授業後に私の研究室へ来るように」
マルゲリータの声は冷たかった。ソフィアは不安を感じながらも頷いた。
授業が終わり、ソフィアはマルゲリータの研究室へと向かった。研究室は学院の西側の一角にあり、窓からは大運河が見えた。扉をノックすると、中から「入りなさい」という声が聞こえた。
研究室の中は整然としていて、壁には解剖図や薬草の図解が掛けられていた。部屋の中央には大きな机があり、その上には様々な書類と、小さな蒸留器が置かれていた。
マルゲリータは窓際に立って、外を眺めていた。
「閉めなさい」
彼女はソフィアに言った。ソフィアは扉を閉め、緊張した面持ちで立っていた。
「プリウリ先生と親しくなったようね」
マルゲリータが振り向いた。彼女の目は鋭く、ソフィアを見通すようだった。
「はい……彼女の授業は大変興味深いです」
「そう」
マルゲリータは机の前に座り、ソフィアを見上げた。
「彼女が特別な研究会を開いているという噂を聞いたわ。あなたも参加しているの?」
ソフィアは心臓が早鐘を打つのを感じた。どうしてマルゲリータがそのことを知ったのか。
「いいえ……そのような研究会のことは知りません」
彼女は嘘をついた。マルゲリータの鋭い視線が彼女を刺すようだった。
「嘘をつくのはやめなさい、ソフィア」
マルゲリータの声は厳しかった。
「昨夜、警備員が東の塔の方で光を見たという報告があったわ。そして、あなたが夜遅くに廊下を歩いているところも目撃されている」
ソフィアは言葉に詰まった。否定することもできず、かといって真実を話すこともできない。
「プリウリ先生の教えることは危険よ」
マルゲリータは言った。
「彼女はエジプトやギリシャで禁じられた魔術を学んできた。それは単なる錬金術ではなく、黒魔術の領域に踏み込むものだわ」
「黒魔術……?」
ソフィアは動揺した。確かに昨夜の実験は通常の錬金術を超えるものだったが、それが黒魔術だとは思わなかった。
「彼女の研究は魂を危険にさらす」
マルゲリータは続けた。
「『緑のライオン』と呼ばれる薬は、一時的に感覚を鋭敏にするけれど、長期的には精神を蝕むわ。あなたのような若い魂は特に影響を受けやすい」
ソフィアは動揺していたが、それでも反論せずにはいられなかった。
「でも、先生。私たちが学校で学んでいることは表面的です。イザベラ先生は本当の知識を教えてくれます」
「本当の知識?」
マルゲリータは冷笑した。
「危険な実験で若い魂を惑わすのは知識ではないわ。彼女の教えに従えば、あなたは取り返しのつかない道へと進むことになる」
彼女は立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。表紙には「魔術の危険性」という題名が書かれていた。
「これを読みなさい。そして考え直すことを勧めるわ」
ソフィアは黙って本を受け取った。
「もう行っていいわ。でも覚えておきなさい――プリウリ先生との接触は、あなた自身のためにも控えるべきよ」
ソフィアは頭を下げて研究室を出た。廊下に出ると、彼女は深呼吸をした。混乱した思いで胸がいっぱいになっていた。イザベラの教えは本当に危険なのだろうか。それとも、マルゲリータは単に伝統的な教えを守ろうとしているだけなのか。
考え込みながら歩いていると、突然誰かが彼女の腕を掴んだ。驚いて振り向くと、エレナだった。
「急いで」
エレナは小声で言った。
「イザベラ叔母さんがあなたに会いたがっているわ」
エレナはソフィアを人気のない小さな庭園へと導いた。そこには石のベンチと、ひっそりと咲く冬の薔薇があった。イザベラがベンチに座って彼女たちを待っていた。
「ソフィア、マルゲリータは何を言ったの?」
イザベラの声には緊張が滲んでいた。
「彼女は……あなたの教えが危険だと言いました。黒魔術だと」
ソフィアは正直に答えた。イザベラはため息をついた。
「予想通りね」
彼女は立ち上がり、二人の少女の前に立った。
「マルゲリータは伝統的な教えしか認めない。彼女にとって、すべての新しい知識は『危険』なのよ。しかし、真の知識を求める道には常に危険が伴う。問題は、その危険を避けるのではなく、それをどう乗り越えるかということ」
彼女はソフィアの手を取った。
「でも、最終的な選択はあなた自身がするべきことよ。私たちの研究会を続けたいなら、今夜も来てちょうだい。もし疑問があるなら、それも尊重するわ」
ソフィアは少し考えた後、決意を固めた。
「行きます。私は真実を知りたいんです」
イザベラは微笑んだ。
「素晴らしい。では今夜、いつもの時間に」
彼女は二人の少女に頷きかけると、そのまま庭園を後にした。
ソフィアとエレナは二人きりになった。冬の冷たい風が薔薇の枝を揺らし、わずかに残った花びらが舞い散った。
「迷っているの?」
エレナが優しく尋ねた。
「少し……」
ソフィアは正直に答えた。
「でも、昨夜感じたこと、見たものは本物だった。私はその道を知りたい」
エレナは満足そうに微笑み、ソフィアの手を取った。
「あなたは特別な人よ、ソフィア。初めて会った時から感じていた」
彼女はソフィアの手の甲に優しくキスをした。その感触はソフィアの心を温かく満たした。
「一緒に真実を探しましょう」
エレナは言った。その瞳には、深い信頼と期待が宿っていた。
その日の残りの授業は、ソフィアにとって永遠に続くように感じられた。彼女の心は常に夜の研究会のことを考えていた。そして同時に、マルゲリータの警告も気になっていた。
夕食時、アレッサンドラが心配そうにソフィアを見つめていた。
「ソフィア、最近どうしたの? なんだか変わったわ」
「何が?」
「なんだか……遠い感じがするのよ。秘密でも抱えているみたいに」
ソフィアは友人の目をまっすぐ見ることができなかった。アレッサンドラは彼女の幼馴染で、これまであらゆることを分かち合ってきた。彼女に嘘をつくことは辛かった。
「ごめんなさい……少し考え事があるだけよ」
「ゼノ先生に呼び出されたんでしょう? 何かあったの?」
「何でもないわ。ただ、勉強のことで少し注意されただけ」
アレッサンドラはまだ疑わしげな表情を浮かべていたが、それ以上は追及しなかった。
夕食後、ソフィアは自室に戻り、マルゲリータが渡した本を手に取った。その内容は確かに恐ろしいものだった。黒魔術による魂の腐敗、悪霊との契約、破滅的な結末……それらはすべて警告として書かれていた。
しかし、イザベラが教えていることは、これらとは大きく異なるように思えた。彼女の教えは、力を得るための魔術ではなく、世界と自己をより深く理解するための知識だった。
時計が夜の十時を打つと、ソフィアは決心して部屋を出た。廊下は静まり返っていて、他の生徒はすでに就寝していた。足音を立てないように気をつけながら、彼女は東の塔へと向かった。
しかし、階段の途中で彼女は足音を聞いた。誰かが彼女を追っているのだ。急いで物陰に隠れると、マルゲリータ・ゼノが階段を上ってくるのが見えた。彼女は手に小さなランプを持ち、慎重に歩を進めていた。
ソフィアは息を殺し、マルゲリータが通り過ぎるのを待った。彼女が見えなくなると、ソフィアは迷った。このまま戻るべきか、それともイザベラのもとへ行くべきか。
結局、彼女は好奇心に負け、慎重にマルゲリータの後を追うことにした。マルゲリータは塔の上層へと向かい、ソフィアが昨夜イザベラと会った実験室と同じ階に着いた。
マルゲリータは廊下の突き当たりで立ち止まった。彼女はランプを掲げ、壁の一部を調べているようだった。ソフィアは柱の陰から、彼女の行動を見守った。
マルゲリータは小さな鍵を取り出し、壁の中に隠された鍵穴に差し込んだ。カチリという音と共に、壁の一部が動き、隠し扉が現れた。マルゲリータはその扉を開け、中に入っていった。
ソフィアは驚きに目を見開いた。マルゲリータもまた、秘密の部屋を持っていたのだ。彼女がイザベラの研究会を危険だと警告した理由は、単に伝統を守るためだけではなかったのかもしれない。
ソフィアは決断した。マルゲリータの秘密を探るべきだ。彼女は慎重に近づき、扉が完全に閉まる前に、すき間から中を覗いた。
中は小さな書斎のようだった。壁には古い書物が並べられ、机の上には様々な文書が広げられていた。マルゲリータは机の前に座り、一冊の古い本を開いていた。その本からは薄い青い光が漏れていた。
扉がゆっくりと閉まりつつあり、ソフィアはもう少し様子を見ようとして、無意識のうちに体を前に傾けた。その瞬間、彼女の足が床を擦り、小さな音を立ててしまった。
マルゲリータが鋭く振り向いた。
「誰?」
彼女の声は冷たかった。ソフィアは慌てて身を隠したが、時すでに遅く、マルゲリータは扉に向かって近づいてきた。
ソフィアは恐怖に駆られて逃げ出した。廊下を走り、階段を駆け下りる。背後からはマルゲリータの足音が聞こえてくる。
「止まりなさい!」
マルゲリータの声が響いた。しかし、ソフィアは止まらなかった。彼女は塔を出て、中庭を横切り、校舎の方へと走った。
突然、彼女の腕を誰かが掴んだ。驚いて振り向くと、エレナだった。彼女は指を唇に当て、黙るように合図した。そして、近くの茂みの中へとソフィアを引き込んだ。二人は息を殺し、マルゲリータが中庭を横切って行くのを見守った。マルゲリータは怒りに満ちた表情で辺りを見回していたが、やがて諦めたように東の塔へと戻っていった。
「危なかったわ」
エレナは囁いた。月明かりに照らされた彼女の横顔は、まるで象牙の彫刻のように美しかった。
「なぜマルゲリータ先生を追っていたの?」
「彼女が秘密の部屋を持っているのを見つけたの」
ソフィアは興奮した様子で説明した。
「彼女も何か隠していることがあるみたい。あの部屋には、奇妙な光を放つ本があったわ」
エレナの表情が変わった。彼女は真剣な眼差しでソフィアを見つめた。
「それは……危険かもしれない。マルゲリータは表向き伝統的な錬金術だけを教えているけれど、実は『黒の玉座』と呼ばれる秘密結社の一員だという噂があるの」
「黒の玉座?」
「エメラルド・タブレットの教えに反する、力への欲望に基づいた術を行う者たちよ。彼らは身体的な不死を求めて、禁断の儀式を行うことで知られているわ」
ソフィアは驚いた。マルゲリータがそのような結社に関わっているとは想像もしなかった。特に、彼女がイザベラの教えを危険だと警告していたにも関わらず。
「イザベラ叔母さんに伝えなくちゃ」
エレナは立ち上がった。
「来て、彼女なら何をすべきか分かるはず」
二人は茂みから出て、今度は慎重に東の塔へと戻った。イザベラの実験室の扉まで来ると、エレナは特殊なノックの仕方をした。扉はすぐに開き、イザベラが二人を迎え入れた。
「何があったの? 遅れていたから心配していたわ」
イザベラの声には焦りが混じっていた。
ソフィアはマルゲリータの秘密の部屋で見たことを詳細に説明した。イザベラの表情は次第に厳しいものへと変わっていった。
「やはり……」
彼女は呟いた。
「ゼノが『黒の玉座』のメンバーだという疑いは以前からあったわ。だからこそ私は彼女を警戒していたの」
イザベラは作業台の上の古い地図を広げた。それはヴェネツィアの詳細な地図で、特定の場所に奇妙な印が付けられていた。
「黒の玉座は三ヶ月に一度、儀式を行う。次回は三日後――満月の夜よ」
彼女は指で地図上の一点を指した。それはヴェネツィア本島から少し離れた、小さな島だった。
「ここが彼らの集会場所。サン・ミケーレ島の古い廃墟になった修道院よ」
ソフィアはその場所を覚えていた。サン・ミケーレはヴェネツィアの死者の島として知られ、大きな墓地があった。人々は普段あまり足を踏み入れない場所だ。
「でも、どうして『黒の玉座』の活動を止めようとしているの?」
ソフィアは尋ねた。イザベラは真剣な表情で答えた。
「彼らの求める不死は、自然の摂理に反するものよ。エメラルド・タブレットには『調和なくして真の変容なし』と記されている。彼らは他者の生命力を奪い、自らの命を延ばそうとしているの」
その言葉に、ソフィアは背筋に冷たいものを感じた。
「生命力を奪う? それは……」
「そう、黒魔術よ」
イザベラは肯定した。
「特に彼らは若い魂を求める。だからカペッロ校長の警戒にも関わらず、マルゲリータはこの学院に留まりたがっているの」
エレナが口を開いた。
「だから彼女はソフィアを警告していたのね。自分の獲物に近づかないようにと」
ソフィアは混乱していた。マルゲリータがイザベラの教えを危険だと警告したのは、自分を守るためだったのか。それとも、自分を騙して、別の目的のために利用するためだったのか。
イザベラはソフィアの肩に手を置いた。
「最初から全てを話さなかったことを謝るわ。でも、確証がなければ告発することもできなかったの。マルゲリータは学院で高い地位にあり、多くの影響力を持っている」
ソフィアは頷いた。状況は混乱していたが、彼女はイザベラを信じることに決めた。昨夜の体験と、今日マルゲリータの秘密の部屋で見たことを考えると、イザベラの話は筋が通っていた。
「私たちは何をすべきなの?」
ソフィアは尋ねた。
「まず、彼らの計画をより詳しく知る必要があるわ」
イザベラは言った。
「マルゲリータの秘密の部屋に隠されている文書を見れば、次の儀式の詳細が分かるはず」
「でも、どうやって? 今度は警戒されているわ」
「特別な方法があるわ」
イザベラは小さな瓶を取り出した。中には銀色の液体が入っていた。
「これは『影の散歩者』と呼ばれる薬。飲めば、短時間だけ物理的な障壁を通り抜けることができるの。壁を通り抜けることさえ可能よ」
ソフィアは驚いて瓶を見つめた。そのような薬が存在するとは信じがたかった。
「本当に……可能なの?」
「ええ。でも効果は十五分ほどしか続かないし、体への負担も大きい。だから使用には細心の注意が必要よ」
イザベラは続けた。
「明日の夜、マルゲリータが食堂での夕食会に出席している間に、彼女の秘密の部屋に忍び込んで調査しましょう」
ソフィアとエレナは頷いた。計画は立てられた。
「今夜はこれ以上の練習は危険よ」
イザベラは言った。
「マルゲリータが警戒を強めているでしょう。二人とも部屋に戻って、明日に備えてちょうだい」
二人は頷き、実験室を後にした。
廊下を静かに歩きながら、ソフィアはエレナの手を握った。彼女は怖かった。マルゲリータのような強力な女性を敵に回すことの恐ろしさを感じていた。
「大丈夫よ」
エレナは優しく言った。彼女の手は温かく、強かった。
「私たちには真実がある。そして何より、互いがいるわ」
ソフィアの部屋の前で、二人は静かに別れを告げた。エレナはソフィアの額に優しくキスをし、彼女の頬を手のひらで包んだ。
「勇敢なソフィア。あなたは特別な人よ」
エレナの言葉は、ソフィアの心に深く沁みこんだ。なぜか、彼女はエレナの言うことを信じずにはいられなかった。
翌日、ソフィアは授業中も落ち着かなかった。マルゲリータの「医療錬金術」の授業では、彼女は先生の視線を避けるようにして、できるだけ目立たないようにしていた。しかし、授業の終わりに、マルゲリータは彼女を呼び止めた。
「モロシーニさん、一言よろしいかしら」
ソフィアは緊張しながら、先生の元へ歩み寄った。
「昨夜のことだけど」
マルゲリータは低い声で言った。彼女の目は氷のように冷たかった。
「私の警告に従わなかったようね。東の塔での活動は、学院の規則に反するものよ」
「すみません」
ソフィアは目を伏せて言った。心臓が激しく鼓動していた。
「今回は大目に見るけれど」
マルゲリータは続けた。
「次回からは厳しく罰するわ。分かった?」
「はい」
ソフィアは小さく答えた。マルゲリータの目には、単なる教師の厳しさを超えた何かがあった。それは獲物を狙う捕食者の目だった。
授業後、ソフィアはアレッサンドラに夕食会への出席を断った。
「ごめんなさい、少し頭痛がして……部屋で休むわ」
アレッサンドラは心配そうに彼女を見つめた。
「最近、本当に様子がおかしいわよ、ソフィア。何か問題があるなら、話してくれてもいいのに」
ソフィアは友人の優しさに心を痛めた。彼女にも真実を話したかったが、それは彼女を危険にさらすことになる。
「大丈夫よ、ただの疲れだわ。明日には元気になるから」
彼女は無理に微笑んだ。アレッサンドラはまだ疑わしげだったが、それ以上は追求しなかった。
夜になり、学院の大部分の生徒と教師が食堂での夕食会に参加している間、ソフィアは自室でエレナを待っていた。約束の時間に、彼女のドアがそっとノックされた。
ドアを開けると、エレナが立っていた。彼女は全身を黒いマントで覆い、手には小さな瓶を持っていた。
「準備はいい?」
ソフィアは緊張しながら頷いた。エレナは部屋に入り、ドアを閉めた。
「これが『影の散歩者』よ」
彼女は瓶を差し出した。中の銀色の液体が月明かりを受けて、神秘的に輝いていた。
「二人で分けて飲むの。効果は十五分だけ。その間に、マルゲリータの秘密の部屋に入り、必要な情報を得て戻ってくる必要があるわ」
ソフィアは不安げに瓶を見つめた。
「危険はない?」
「少しの吐き気と、めまいがあるかもしれないけれど、長期的な影響はないわ」
エレナは微笑んだ。
「信じて」
ソフィアは決意を固め、瓶を手に取った。彼女は小さく息を吸い、液体を半分ほど飲んだ。それは意外にも甘く、メントールのような清涼感があった。エレナも残りを飲み干した。
数秒後、ソフィアの体に奇妙な感覚が広がり始めた。まるで体が霧のように軽くなり、実体がなくなっていくような感覚だった。彼女は自分の手を見た。それは半透明になり、月の光がその中を通り抜けていくのが見えた。
「驚くべきことね……」
ソフィアは囁いた。彼女の声も変わっていて、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
エレナも同じ状態になっていた。彼女の姿は輪郭がぼやけ、月明かりの中で幽霊のようだった。
「さあ、行きましょう」
エレナは言った。彼女の声も同じく遠くから聞こえるようだった。
「効果は長くは続かないわ」
二人は部屋を出た。廊下は空いていて、夕食会の方から遠く笑い声が聞こえてきた。二人は急いで東の塔へと向かった。
階段を上る途中、彼女たちは警備員と遭遇した。しかし、警備員は二人の半透明の姿にまったく気づかず、そのまま通り過ぎていった。
「私たちの姿は見えないのね」
ソフィアは驚いて言った。
「そうではないわ」
エレナは説明した。
「完全に見えないわけではなく、見る者の意識が看過してしまうの。直接見られても、脳がその情報を処理しないのよ」
二人は東の塔の上層に到達した。昨夜ソフィアが見た秘密の扉の前まで来ると、エレナが壁に手を当てた。
「ここね」
彼女は静かに言った。
「でも、どうやって中に入るの? 鍵がないわ」
「薬の効果よ」
エレナは微笑んだ。
「壁を通り抜けられるわ。試してみて」
ソフィアは恐る恐る手を壁に伸ばした。驚いたことに、彼女の手は壁をすり抜け、まるで水の中に入れるかのように向こう側へと通り抜けた。
「信じられない……」
ソフィアは息を呑んだ。
「さあ、行きましょう」
エレナは先に壁に入っていった。彼女の姿が壁に吸い込まれていくのを見て、ソフィアも勇気を出して後に続いた。
壁を通り抜ける感覚は奇妙だった。冷たく、密度のある何かを通り抜けるような感覚。一瞬の暗闇の後、彼女は部屋の中に立っていた。
マルゲリータの秘密の部屋は、昨夜見たよりも広かった。壁一面に本棚が並び、錬金術と魔術に関する書物が収められていた。部屋の中央には大きな作業台があり、様々な器具や文書が置かれていた。
エレナはすでに机の上の文書を調べていた。
「急いで。何か儀式に関する情報を探して」
ソフィアは壁の書棚を調べ始めた。本の背表紙には奇妙な文字や象徴が刻まれていた。その中に、黒い革表紙の一冊の本が目についた。
「エレナ、これを見て」
ソフィアはその本を手に取った。表紙には銀の糸で「永遠の生命の儀式」と刺繍されていた。
ソフィアが本を開くと、その中には複雑な図表と文字が書かれていた。中心には七つの座席を持つ大きな円形のテーブルの図があり、「黒の玉座」と記されていた。
「これは彼らの儀式の説明よ」
エレナは本をのぞき込んだ。
「三日後、満月の夜。サン・ミケーレ島の古い教会で……」
彼女は急いでページをめくった。
「ここに書いてある! 彼らは『生命の血』を使って不死の儀式を行うつもりよ。そして、その『生命の血』とは……」
エレナの顔が青ざめた。
「若い女性の生贄の血……」
ソフィアは恐怖で体が凍りついた。
「生贄? それは……殺人よ!」
「そう」
エレナは厳しい表情で言った。
「これが黒魔術の本質。他者の生命を犠牲にして、自らの命を延ばすための術」
ソフィアは本のページをさらにめくった。そこには儀式の詳細と、必要な材料のリストが書かれていた。そして最後のページに、彼女は衝撃的な発見をした。
「エレナ、これを見て」
ページには、生贄候補者のリストが記されていた。そこには三つの名前があった。
「ソフィア・モロシーニ、アレッサンドラ・コンタリーニ、ベアトリーチェ・グリマーニ」
ソフィアの名前が一番上に書かれていた。
「私たち……」
彼女は震える声で言った。
「彼らは私と友人たちを狙っているのよ」
エレナの表情は凍りついたように厳しかった。
「マルゲリータが特にあなたに接触していた理由が分かったわ。彼女はあなたを評価し、儀式の最適な候補者に選んだのね」
突然、部屋の外から物音が聞こえた。誰かが来たのだ。
「マルゲリータが戻ってきたわ!」
エレナはソフィアの腕を掴んだ。
「急いで、出ましょう!」
二人は壁に向かって走った。薬の効果はまだ続いていた。ソフィアは本を脇に抱え、エレナの後に続いて壁をすり抜けた。
廊下に出ると、彼女たちは急いで階段を駆け下りた。薬の効果は徐々に薄れつつあり、彼女たちの姿はだんだんと実体を取り戻しつつあった。
「本を持ってきたのね」
エレナは走りながら言った。
「証拠として必要だと思って……」
ソフィアは息を切らせながら答えた。
塔を出て、彼女たちは急いでイザベラの部屋へと向かった。薬の効果はほぼ切れ、二人の姿はすでに通常に戻っていた。イザベラの部屋にたどり着くと、エレナは特殊なノックをした。
ドアが開き、イザベラが二人を迎え入れた。彼女は二人の慌てた様子を見て、すぐに表情を引き締めた。
「何かあったの?」
「これを見て」
ソフィアは本を差し出した。イザベラは本を取り、急いでページをめくった。その内容を見るにつれ、彼女の表情は次第に厳しくなっていった。
「恐ろしい……」
彼女は言った。
「彼らは本当に生贄の儀式を行おうとしているのね。そして、あなたたちを狙っている」
イザベラは二人を見つめた。
「もはや待っている時間はないわ。明日にでもカペッロ校長に報告しなければ」
「でも証拠として十分でしょうか?」
ソフィアは不安げに尋ねた。
「マルゲリータは私たちがこの本を盗んだと言うかもしれません」
「確かにそうね……」
イザベラは考え込んだ。
「それなら、彼らを現行犯で捕まえるしかないわ。三日後の儀式の場で」
「それは危険すぎます!」
ソフィアは抗議した。
「私たちは彼らの力を知らないんです」
「でも他に選択肢はないわ」
イザベラは断固として言った。
「ヴェネツィア政府の友人に連絡を取り、サン・ミケーレ島での待ち伏せを手配するわ。だけど、彼らを罠に誘い込むには、餌が必要……」
彼女はソフィアを見つめた。
「あなたが罠の餌となって、彼らを誘い出す必要があるかもしれないわ」
ソフィアは言葉に詰まった。自分が罠の餌になるなど、想像もしていなかった。
「危険すぎます」
エレナが強く反対した。
「ソフィアを危険にさらすことはできません!」
「私は……」
ソフィアは迷った。彼女は怖かった。しかし同時に、友人たちが危険にさらされていることも理解していた。
「行きます」
彼女は決意を込めて言った。
「友人たちを救うためなら」
イザベラは心配そうに、しかし誇らしげにソフィアを見つめた。
「勇敢な決断ね。でも、あなたを一人で行かせるつもりはないわ。私たちも共に行く」
イザベラは本棚から一冊の本を取り出した。
「明日から特別な訓練を始めましょう。『黒の玉座』の力に対抗するために、あなたにも術を学んでもらう必要があるわ」
彼女は本を開いた。その中には、複雑な象徴と呪文が書かれていた。
「これは『光の錬金術』の技法。純粋な生命力を操り、闇の力に対抗するための術よ」
ソフィアは本を見つめながら、頷いた。恐怖はまだ消えていなかったが、同時に彼女の心には新たな決意が芽生えていた。友人たちを守るため、そして真の錬金術の道を守るために、彼女は戦わなければならなかった。
「私、やります」
ソフィアの声は静かだったが、力強かった。
エレナは彼女の手を握り、固く頷いた。
「一緒よ。いつだって」
その夜、ソフィアは自室のベッドで眠れないまま横になっていた。窓から差し込む月明かりが、天井に柔らかな光の模様を描いていた。彼女の心は恐怖と決意が入り混じり、落ち着かなかった。
静かなノックの音がして、ドアが開いた。エレナだった。彼女は白いナイトドレスを着て、金髪を解いていた。月明かりの中で、彼女の姿はまるで幻のように美しかった。
「眠れないと思って」
エレナは小声で言った。
「私も……」
ソフィアは答えた。エレナは彼女のベッドの端に腰掛けた。
「怖いのね」
エレナは優しく言った。それは質問ではなく、確認だった。
「ええ」
ソフィアは正直に答えた。
「でも、怖いからといって、逃げるわけにはいかないわ」
エレナはソフィアの手を取り、自分の胸に押し当てた。彼女の心臓の鼓動が、ソフィアの手のひらに伝わってきた。
「私の心臓の鼓動を感じる? これが勇気というものよ。怖いと感じながらも、前に進む力」
ソフィアは頷いた。エレナの言葉には不思議な説得力があった。
「あなたのことを初めて見た時から、特別な絆を感じていたの」
エレナは続けた。
「まるで何世紀も前から知っているような……」
「私も同じ感覚だったわ」
ソフィアは静かに答えた。
「不思議ね。でも、それが錬金術の真髄なのかもしれない。魂の認識、再会」
エレナはソフィアの隣に横になった。二人は向かい合い、月明かりの中でお互いの顔を見つめ合った。
「怖くても、私がついているわ」
エレナはソフィアの頬に優しく触れた。その指先は温かく、心地よかった。
「信じて」
ソフィアはエレナの手を取り、そっと唇に当てた。
「信じるわ」
二人は静かに横たわり、お互いの温もりを感じながら、少しずつ眠りに落ちていった。明日から始まる特別な訓練と、三日後に迫った危険な対決に向けて、体力を蓄える必要があった。
ソフィアの最後の意識の中で、昔から知っていたような心地よい安心感が広がっていった。エレナの存在は、彼女に不思議な力を与えてくれるようだった。
### 第4章 光と闇の対決
翌日から、ソフィアとエレナはイザベラの指導のもと、特別な訓練を受け始めた。通常の授業の合間や夜間の時間を使って、東の塔の実験室で秘密の練習が行われた。
イザベラは二人に「光の錬金術」の基本を教えた。それは物質的な変容よりも、精神的なエネルギーの制御と活用に重点を置いた技法だった。
「錬金術の真髄は変容にあり」
イザベラは言った。
「しかし、真の変容とは単に物質を金に変えることではなく、自己の精神を高め、世界の調和と共鳴することなのよ」
彼女は二人に「精神の炎」と呼ばれる技法を教えた。それは自分の内なるエネルギーを集中し、外部に投射する方法だった。
「まず、呼吸に集中して」
イザベラは指示した。
「息を吸うときに、宇宙のエネルギーを取り込み、吐くときに自分の内側からエネルギーを解放するように。それを繰り返して、やがて二つのエネルギーが一つになるのを感じて」
ソフィアとエレナは向かい合って座り、イザベラの言葉に従って呼吸を整えた。最初は何も起こらなかったが、徐々に二人の間に微かな光が生まれ始めた。それは蝋燭の炎のようにわずかに揺らめいていた。
「素晴らしい」
イザベラは静かに言った。
「二人の精神が調和し始めているわ。特にあなたたちの間には強い絆がある。それが力を増幅させている」
訓練は厳しかったが、ソフィアは自分の中に新たな力が目覚めていくのを感じていた。それは彼女がこれまで知らなかった自分の一部、長い間眠っていた能力だった。
一方で、彼女は通常の学院生活も続けていた。アレッサンドラやベアトリーチェとの時間を過ごし、授業に出席し、平静を装っていた。しかし、自分と友人たちがマルゲリータたちの標的にされていることを知っている以上、完全にリラックスすることはできなかった。
マルゲリータ・ゼノの授業では、彼女はできるだけ目立たないようにしていた。しかし、マルゲリータの視線は時折彼女を捉え、その冷たさに背筋が凍る思いをした。
ある日の午後、ソフィアは図書室でアレッサンドラと一緒に勉強していた。外では雨が降り、窓ガラスを打つ雨音が静かな空間に響いていた。
「ねえ、ソフィア」
アレッサンドラは突然声をかけた。彼女は赤褐色の髪を緩くまとめ、青灰色のドレスを着ていた。首元には小さな真珠のブローチが光っていた。
「正直に話してほしいの。最近、私から何か隠しているでしょう?」
ソフィアは本から顔を上げた。アレッサンドラの目には心配と少しの怒りが混じっていた。
「隠しているわけじゃないの……」
彼女は言いかけて、言葉に詰まった。友人に嘘をつくことは辛かった。
「私たちは子供の頃からの友達でしょう?」
アレッサンドラは静かに言った。
「何か問題があるなら、一緒に解決したいの。でも、あなたが何も話してくれなければ、何もできないわ」
ソフィアは深呼吸をした。もはや友人を欺き続けることはできないと感じた。しかも、アレッサンドラも危険にさらされていた。
「あなたに話さなければならないことがあるの……でも、ここではだめ。人目のないところで」
アレッサンドラは真剣な表情で頷いた。
二人は図書室を出て、学院の温室へと向かった。雨の日には誰も訪れない場所だった。ガラスの屋根を打つ雨音の中、ソフィアはここ数日の出来事をすべて話した。イザベラの特別な研究会、マルゲリータの秘密の部屋、そして「黒の玉座」の恐ろしい計画について。
アレッサンドラは驚きと恐怖の表情でソフィアの話を聞いていた。
「信じられないわ……」
彼女は震える声で言った。
「マルゲリータ先生が……そんな恐ろしいことを……」
「ええ、私も最初は信じられなかったわ。でも、これは真実よ。しかも、あなたとベアトリーチェも危険にさらされているの」
アレッサンドラの顔から血の気が引いた。
「私たちも? でも、どうして?」
「彼らの儀式には若い女性の生命力が必要なの。特に、魂の輝きが強い者が選ばれる。あなたもベアトリーチェも、その候補に選ばれていたわ」
アレッサンドラは手で口を覆った。
「恐ろしい……何てことなの」
彼女は震えていた。ソフィアは友人の手を取った。
「でも、もう大丈夫。私たちはそれを止めるつもりよ。イザベラ先生とヴェネツィアの当局が協力して、彼らを捕まえる計画を立てているわ」
アレッサンドラは懸命に情報を整理しようとしているようだった。
「ベアトリーチェには知らせるべきよ」
彼女は言った。
「彼女も危険なんでしょう?」
「ええ、でも慎重に伝えなきゃ。彼女はまだ若くて……」
「そう、彼女は感情的になりやすいわね」
アレッサンドラは頷いた。
「私から彼女に話すわ。適切な方法で」
突然、温室のドアが開く音がした。二人は驚いて振り向いた。そこにはベアトリーチェが立っていた。彼女は雨に濡れた茶色の巻き毛を手で払いながら、二人を見つめていた。
「二人とも、こんなところで何をしているの?」
彼女は意外そうに言った。
「ベアトリーチェ!」
アレッサンドラは少し驚いて声を上げた。
「ちょうど、あなたのことを話していたところよ」
「私のこと?」
ベアトリーチェは不思議そうに頭を傾げた。彼女は茶色の瞳を輝かせながら、二人に近づいてきた。今日の彼女は淡いピンク色のドレスを着て、首元には家の紋章入りの金のペンダントが揺れていた。
「ええ」
ソフィアが口を開いた。
「実は重要なことを話さなければならないの」
彼女はまた最初から説明を始めた。しかし今回は、アレッサンドラもそばにいて、時折詳細を補足した。ベアトリーチェは話が進むにつれて、次第に青ざめていった。
「嘘でしょう……」
彼女は震える声で言った。
「ゼノ先生が……私たちを……?」
彼女の目には涙が浮かんでいた。ソフィアとアレッサンドラは彼女を抱きしめた。
「大丈夫よ」
ソフィアは優しく言った。
「私たちは一緒にこれを乗り越えるわ。イザベラ先生も私たちを守ってくれる」
ベアトリーチェは少し落ち着きを取り戻した。
「でも、どうすればいいの?」
「明日の夜、一緒にイザベラ先生に会いましょう」
ソフィアは言った。
「彼女が全てを説明してくれるわ」
三人は約束を交わし、それぞれの部屋へと戻った。
翌日の夜、ソフィアはアレッサンドラとベアトリーチェを東の塔へと案内した。イザベラとエレナが実験室で彼女たちを待っていた。
イザベラは二人を暖かく迎えた後、改めて状況を説明した。
「明日の夜、満月の夜にサン・ミケーレ島で『黒の玉座』の儀式が行われる予定です。私たちはヴェネツィア政府の協力を得て、彼らを現行犯で捕まえようとしています」
彼女は地図を広げ、計画の詳細を説明した。
「ソフィアが罠の餌として彼らを誘い出し、私たちが隠れていて適切なタイミングで介入します」
「でも、それはソフィアにとって危険すぎるわ!」
アレッサンドラが心配そうに言った。
「その通りです」
イザベラは頷いた。
「だからこそ、私たちは準備をしています。ソフィアとエレナには特別な訓練を施しました。そして何より、政府の兵士たちが待機しているのです」
「私も何か手伝えることはないかしら?」
ベアトリーチェが尋ねた。彼女の声は小さかったが、決意に満ちていた。
「ええ、あります」
イザベラは微笑んだ。
「あなたたち二人には、学院にいて、マルゲリータの動きを監視してほしいのです。彼女が島へ向かう時間を知る必要があります」
アレッサンドラとベアトリーチェは頷いた。
「分かりました」
アレッサンドラは言った。
「でも、どうやって連絡を取り合えばいいの?」
イザベラは小さな銀の鏡を二つ取り出した。
「これは『魂の鏡』。一方に話しかけると、もう一方にその言葉が現れます。これで連絡を取り合いましょう」
彼女は一つをアレッサンドラに、もう一つをソフィアに渡した。
「これが最後の訓練の夜です」
イザベラは真剣な表情で言った。
「明日は運命の日となるでしょう」
その夜、ソフィアとエレナは最後の訓練を行った。二人は向かい合って座り、「精神の炎」の技法を完成させようとしていた。
ソフィアは目を閉じ、呼吸を整えた。彼女の心の中で、エレナの存在がまるで明るい光のように感じられた。二人の間に生まれた絆は、日々強くなっていた。
集中を深めていくと、彼女の手のひらに温かさを感じ始めた。目を開けると、そこには小さな金色の炎が燃えていた。それは物理的な炎ではなく、彼女の生命力が形を取ったものだった。
「素晴らしい!」
イザベラが感嘆の声を上げた。
「あなたは本当に才能がある、ソフィア」
エレナも同様に手のひらに炎を生み出していた。彼女の炎は銀色で、ソフィアのものより少し大きかった。
「二人の炎を合わせてみて」
イザベラは言った。
ソフィアとエレナは、手のひらを近づけていった。二つの炎が触れ合うと、驚くべきことが起こった。炎は一つに融合し、金と銀が混ざり合った、より大きく強い光となったのだ。その光は部屋全体を照らし、温かな波動が広がっていった。
「これが『融合の光』……」
イザベラは畏敬の念を込めて言った。
「二つの魂が完全に調和したときにのみ生まれる現象。伝説でしか聞いたことがなかったわ」
ソフィアとエレナは互いを見つめ、微笑み合った。二人の間には言葉では表現できない絆が生まれていた。それは単なる友情を超えた、魂の結びつきだった。
「これで準備は整ったわ」
イザベラは満足げに言った。
「明日の夜に向けて、しっかり休みなさい」
ソフィアとエレナは自分たちの部屋へと戻った。廊下で別れる前に、エレナはソフィアの手を取った。
「怖くない?」
彼女は優しく尋ねた。
「少し……」
ソフィアは正直に答えた。
「でも、あなたが一緒にいてくれるなら、乗り越えられるわ」
エレナはソフィアの頬に優しく手を当て、彼女の目をじっと見つめた。
「何があっても、あなたを守る」
彼女は静かに約束した。そして、ソフィアの唇に優しくキスをした。それは柔らかく、しかし強い決意に満ちたキスだった。
ソフィアは驚いたが、すぐにそのキスに応えた。まるで長い間探し求めていたものをようやく見つけたような感覚だった。二人の唇が触れ合う間、彼女たちの周りに弱い金銀の光が広がった。まるで「融合の光」の小さな反響のように。
「明日、一緒に」
エレナは別れ際に言った。
「一緒に」
ソフィアは答えた。彼女の心は恐怖と希望、そして新たに見出した愛情で満ちていた。
運命の日が訪れた。その日は奇妙なほど穏やかな一日だった。空は晴れ渡り、ヴェネツィアの運河は鏡のように街並みを映していた。ソフィアは通常通り授業に出席したが、心はすでに夜の対決に向かっていた。
マルゲリータ・ゼノの授業では、彼女はいつもより穏やかに見えた。彼女は特にソフィアを見ることもなく、淡々と錬金術の理論を教えていた。しかし、その冷静さの裏に計画への自信が隠されているようにも感じられた。
昼食時、アレッサンドラとベアトリーチェがソフィアのテーブルに座った。三人は普段通りに会話を交わしたが、その眼差しには互いへの心配と励ましが込められていた。
「用意はいい?」
アレッサンドラは小声で尋ねた。
「ええ」
ソフィアは頷いた。
「あなたたちも気をつけて。マルゲリータの行動を監視するのは危険かもしれないわ」
「私たちなら大丈夫よ」
ベアトリーチェは珍しく落ち着いた様子で言った。
「それに、これは私たちみんなのための戦いなのよね」
夕方になり、学院に夕暮れの影が忍び寄る頃、ソフィアは自室で最後の準備をしていた。彼女は黒いドレスに着替え、首には母から譲り受けた水晶のペンダントを下げた。そして、イザベラから受け取った小さな銀のお守りを左手首に巻きつけた。それは邪悪な力から身を守るための護符だった。
扉をノックする音がして、エレナが入ってきた。彼女も同じく黒いドレスを着て、金髪を一つに結んでいた。
「準備はいい?」
エレナの声には普段よりも深い響きがあった。
「ええ」
ソフィアは頷いた。彼女は自分の鏡をチェックした。アレッサンドラからのメッセージはまだなかった。
「アレッサンドラたちからの連絡を待っているの」
エレナは窓辺に立ち、沈みつつある太陽を見つめた。
「今夜は満月……『黒の玉座』にとって最も力が強まるときだけれど、私たちにとっても同じことよ」
ソフィアは頷いた。満月の光は古来より、魔術的な力を増幅させると言われていた。それは闇の力だけでなく、光の力にも影響を与える。
突然、銀の鏡が光り始めた。ソフィアは急いでそれを手に取った。鏡の表面に、アレッサンドラのメッセージが浮かび上がった。
「マルゲリータが今、学院を出ようとしています。小さなボートに乗り、サン・マルコ広場方面へ向かいました」
ソフィアはエレナに頷きかけた。
「時が来たわ」
二人は部屋を出て、イザベラの待つ中庭へと向かった。イザベラはすでにそこで待っていた。彼女は通常の黒いドレスではなく、紫がかった深い青色のローブを着ていた。
「準備はいいかしら?」
イザベラは二人に尋ねた。
「ええ」
ソフィアとエレナは同時に答えた。
「マルゲリータはすでに出発したわ」
ソフィアは報告した。
「よし」
イザベラは頷いた。
「私たちも急ぎましょう。サン・ミケーレ島にはすでに政府の兵士たちが隠れています。でも、最初の接触は私たちがしなければなりません」
三人は学院の裏口から出て、待機していた小さなボートに乗り込んだ。漕ぎ手は無口な老人だったが、彼もまたイザベラの協力者の一人だった。
ボートはヴェネツィアの暗い運河を滑るように進んだ。月の光が水面に反射し、幻想的な光景を作り出していた。ソフィアは少し震えながら、エレナの手を握った。
「大丈夫よ」
エレナは彼女を安心させるように微笑んだ。
「私たちは十分に準備をしてきたわ」
ボートはやがて大運河に出て、北へと向かった。遠くに、サン・ミケーレ島の暗い輪郭が見えてきた。島全体が墓地となっており、昼間でさえ人々は必要以上に長居することを避ける場所だった。
ボートが島の小さな桟橋に到着すると、三人は静かに上陸した。イザベラは漕ぎ手に指示を出した。
「一時間後に戻ってきなさい。もし私たちが現れなければ、すぐに当局に連絡を」
老人は無言で頷き、ボートを漕いで去っていった。
月の光が島を照らし出す中、三人は静かに歩み始めた。サン・ミケーレ島は静寂に包まれていた。墓石の影が長く伸び、所々に立つサイプレスの木々が風にそよいでいた。
「この先に、古い修道院があるわ」
イザベラは小声で言った。
「そこが彼らの集会場所よ」
彼女は二人に振り返った。
「計画通りに進めましょう。ソフィアが最初に中に入り、彼らの注目を集める。エレナと私は隠れて待機し、合図があれば介入する。政府の兵士たちも同様よ」
ソフィアは深呼吸をした。恐怖で胸が締め付けられる思いだったが、彼女にはもはや引き返す選択肢はなかった。
「分かりました」
彼女は静かに答えた。
「でも、どうやって彼らを引き付ければいいの?」
「あなたの『光』を使って」
イザベラは言った。
「あなたの中の生命力を少し解放すれば、彼らはすぐに気づくわ。特にマルゲリータは、あなたの魂の輝きを知っているから」
ソフィアは頷いた。彼女はこれまでの訓練で、自分の内なるエネルギーを制御する方法を学んでいた。それを意図的に放出することも可能だったのだ。
三人は古い修道院の廃墟に近づいた。それはかつて美しかったであろう建物だが、今はその一部が崩れ落ち、つたや苔に覆われていた。しかし、中からは微かな光が漏れているのが見えた。
「彼らはすでに中にいるわ」
イザベラは囁いた。
「さあ、行きなさい。私たちはすぐそばにいるから」
エレナはソフィアの手をしっかりと握り、彼女の目を見つめた。
「勇気を出して。あなたならできる」
彼女はソフィアの唇に軽くキスをした。そのキスは短かったが、無言の約束が込められていた。
ソフィアは深呼吸をし、ゆっくりと修道院の入口へと歩み寄った。扉は半ば開いており、中からは低い詠唱の声が聞こえてきた。彼女は一瞬ためらったが、すぐに決意を固め、扉を押し開いた。
中は広い礼拝堂で、かつては美しいフレスコ画が壁を彩っていたが、今はその多くが剥げ落ちていた。礼拝堂の中央には大きな円形のテーブルが置かれ、七つの椅子が配置されていた。「黒の玉座」と呼ばれる所以だろう。
テーブルの周りには六人の人影があった。その中にマルゲリータ・ゼノの姿もあった。彼女は通常の黒いドレスではなく、深い赤色のローブを着ていた。
ソフィアが入ってくると、詠唱が止まり、全員が彼女を見つめた。マルゲリータが一歩前に出た。
「ソフィア・モロシーニ」
彼女の声は冷たく、しかし驚きに満ちていた。
「まさか自ら来るとは思わなかったわ。勇敢だけど、愚かね」
ソフィアは恐怖を抑えながら、一歩前に進んだ。
「あなたたちの計画を知ったわ」
彼女は震える声を抑えて言った。
「私と友人たちを生贄にして、不死を得ようというのね」
マルゲリータは笑った。その笑いには温かみがなく、まるで氷が砕けるような冷たさがあった。
「そう、知ってしまったのね。まあ、それなら説明する手間が省けるわ」
彼女はソフィアに近づいてきた。
「あなたの魂は特別に輝いている。それは生まれつきの才能よ。イザベラもそれを見抜いていたし、私もね。違いはただ一つ――彼女はその力を解放しようとし、私はそれを受け継ごうとしているだけよ」
ソフィアは後ずさりしたかったが、気持ちを奮い立たせて立ち止まった。
「それは違うわ」
彼女は言った。
「イザベラ先生は教え、あなたは奪おうとしている。それは錬金術の理念に反するわ」
「理念?」
マルゲリータは嘲笑した。
「理念だけでは何も得られないわ。真の力を手に入れるには、時に犠牲が必要なの。それが現実よ」
彼女は手を上げた。すると、ソフィアの周りに暗い霧のようなものが現れ始めた。
「さあ、儀式を始めましょう」
マルゲリータが言った瞬間、ソフィアは自分の内なるエネルギーを解放した。彼女の体から金色の光が放射され、暗い霧を押し返した。
「何ですって?」
マルゲリータは驚いた表情を浮かべた。
「あなた、もう術を身につけているのね」
ソフィアは両手を広げ、さらに光を強めた。それは彼女の生命力の現れであり、「黒の玉座」が欲していたものだった。
「今だ!」
ソフィアは叫んだ。
その瞬間、イザベラとエレナが扉から飛び込んできた。イザベラの手には銀色の光る杖があり、エレナは両手から銀色の炎を放っていた。
同時に、窓や他の入口からヴェネツィアの兵士たちも突入してきた。彼らは円形のテーブルを囲むように並び、「黒の玉座」のメンバーたちを取り囲んだ。
「終わりよ、マルゲリータ」
イザベラは厳しい声で言った。
「これ以上、若い命を奪うことは許さない」
マルゲリータは怒りに満ちた表情を浮かべたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「イザベラ・プリウリ……やはりあなたの仕業ね」
彼女は「黒の玉座」の他のメンバーに向かって叫んだ。
「抵抗しなさい! 私たちの力を見せつけるときよ!」
六人は同時に動き、それぞれが黒い霧や炎を操り始めた。兵士たちの何人かが倒れたが、多くは持っていた特殊な盾で攻撃を防いだ。イザベラは杖を振り上げ、強力な光の壁を作り出した。
混乱の中、マルゲリータはソフィアに向かって突進してきた。彼女の手には黒い短剣があった。その刃は月明かりの中で不気味に輝いていた。
「あなたの生命力は私のもの!」
マルゲリータは叫んだ。
ソフィアは咄嗟に両手を交差させ、自分の前に金色の光の盾を作り出した。マルゲリータの短剣がその盾に触れると、強烈な閃光が走り、彼女は後ろに弾き飛ばされた。
「エレナ!」
ソフィアは叫んだ。
エレナはすぐに彼女の側に駆け寄った。二人は手を繋ぎ、ソフィアが訓練で身につけた「融合の光」の技を実行し始めた。彼女たちの周りに金と銀が混ざり合った輝きが広がり始め、次第に強くなっていった。
イザベラはそれを見て声を上げた。
「その光を、中央のテーブルに向けて! あれが彼らの力の源よ!」
ソフィアとエレナは意志を集中させ、二人の間に生まれた強烈な光の流れを円形のテーブルに向けて放った。光がテーブルに当たると、まるで水晶が砕けるような音とともに、テーブルの中央に刻まれていた「黒の玉座」の象徴が粉々に砕け散った。
「いいえ!」
マルゲリータは絶望的な叫び声を上げた。
テーブルが壊れると同時に、「黒の玉座」のメンバーたちの力が急速に衰えていくのが感じられた。彼らが操っていた黒い霧や炎が消え始め、彼ら自身も衰弱したように膝をつき始めた。
兵士たちはこの機に乗じて、彼らを取り押さえていった。しかし、マルゲリータはまだ抵抗していた。彼女は最後の力を振り絞り、イザベラに向かって黒い光線を放った。
イザベラは杖を使ってそれを防いだが、その衝撃で後ろに倒れてしまった。マルゲリータは乱れた髪を振り乱しながら、狂気の表情でイザベラに近づいていった。
「あなたのせいで……すべてが台無しに……」
彼女は怒りに震える声で言った。
「何世紀も受け継がれてきた知識と力……すべてが」
イザベラは静かに立ち上がり、マルゲリータを真っ直ぐに見つめた。
「その知識は歪められていたのよ、マルゲリータ。本来の錬金術は他者から奪うものではなく、自らの内に見出すものなのに」
マルゲリータはさらに激しい怒りを見せ、イザベラに飛びかかろうとした。しかし、その瞬間、ソフィアとエレナの放つ光がマルゲリータを包み込んだ。彼女は悲鳴を上げて足を止め、その場に崩れ落ちた。
闘いはあっけなく終わった。「黒の玉座」のメンバー全員が捕らえられ、兵士たちによって拘束された。彼らの顔には敗北と絶望の色が浮かんでいた。長年にわたる彼らの計画が、一夜で崩れ去ったのだ。
ソフィアとエレナは力を使い果たし、互いを支え合うようにして立っていた。二人の周りにはまだかすかな光の残滓が漂っていた。
イザベラが二人に近づいてきた。彼女の顔には安堵と誇りの表情が浮かんでいた。
「あなたたち、よくやったわ」
彼女は優しく言った。
「『融合の光』を完全に使いこなすなんて……本当に驚くべきことよ」
ソフィアは疲れた表情で微笑んだ。
「エレナがいてくれたからこそ。彼女がいなければ、何もできなかったわ」
エレナも同じように微笑み返した。彼女の瞳には深い愛情が宿っていた。
「私もあなたがいなければ、この力は発揮できなかった」
イザベラは二人を見つめ、そっと頷いた。彼女の眼差しには、何か悟ったような表情があった。
「さあ、ここを出ましょう」
彼女は言った。
「もう何も心配することはないわ」
三人は兵士たちに見送られながら、修道院を後にした。夜はまだ深く、満月が彼らの帰り道を照らしていた。待っていたボートに乗り込み、彼らはヴェネツィアの方角へと戻り始めた。
ボートの上で、イザベラは二人に説明した。
「マルゲリータたちは特別な牢獄に収容されるわ。彼らの力が完全に消えるまでは、通常の牢獄では危険すぎるから」
「彼らはどうなるのでしょう?」
ソフィアは尋ねた。
「裁判にかけられるでしょうね」
イザベラは応えた。
「何人もの若い女性を犠牲にしてきた罪は重い。おそらく終身刑に処されるわ」
エレナはソフィアの手を握りながら、静かに言った。
「これで学院は安全になったのね」
「ええ」
イザベラは微笑んだ。
「カペッロ校長にも全てを説明します。彼女も長年マルゲリータのことを疑っていたの。ただ、証拠がなかっただけよ」
ボートはゆっくりとヴェネツィアの灯りに近づいていった。夜明けはまだ遠かったが、東の空がほんのりと明るくなり始めていた。
学院に戻ると、アレッサンドラとベアトリーチェが中庭で待っていた。二人は心配そうな表情で三人を迎えた。
「無事だったのね!」
アレッサンドラは安堵の表情でソフィアを抱きしめた。
「心配で心配で……」
「大丈夫よ」
ソフィアは友人を優しく抱き返した。
「すべて終わったわ。マルゲリータたちは捕まったの」
ベアトリーチェは目に涙を浮かべていた。
「本当に良かった……あなたが無事で」
イザベラは静かに言った。
「さあ、皆さん。今夜はゆっくり休みましょう。明日からは新しい日々が始まるわ」
彼女は学院内へと向かっていった。おそらくカペッロ校長に報告するためだろう。
アレッサンドラとベアトリーチェも疲れた表情を見せながら、自分たちの部屋へと戻っていった。残されたソフィアとエレナは、中庭の静寂の中に二人きりになった。
月の光が二人を柔らかく照らす中、エレナはソフィアの手を取った。
「信じられないわ、私たち……」
彼女の声には感動が滲んでいた。
「ええ」
ソフィアは頷いた。
「あの『融合の光』……あれは私たちの魂が一つになった証よね」
エレナは優しく微笑んだ。
「ソフィア、あなたを初めて見た時から感じていたの。私たちが特別な絆で結ばれているって」
彼女はソフィアの頬に触れた。その指先は温かく、やさしかった。
「錬金術師たちは魂の輪廻を信じているわ。私たちは何度も何度も出会い、別れてきたのかもしれないわね」
ソフィアはエレナの言葉に深く頷いた。彼女も初めて会った時から、何か言葉では説明できない親密さを感じていた。それは単なる好意や魅力だけではなく、魂レベルでの認識だったのだろう。
「もうこれからは、離れることはないわ」
ソフィアは誓うように言った。
エレナは彼女を抱きしめ、そっと耳元で囁いた。
「永遠に」
### 第5章 黄金の薔薇の誕生
マルゲリータ・ゼノと「黒の玉座」のメンバーたちの事件は、ヴェネツィア中に衝撃を与えた。特にヴェネツィアの貴族社会では、彼らが裁判にかけられ、最終的に終身刑に処されたことは大きな話題となった。
サンタ・ルーナ錬金女学院では、カペッロ校長の判断により、事件の詳細は生徒たちに公表されなかった。しかし、マルゲリータが突然学院を去ったことで、様々な噂が広まった。真実を知る者は限られていたが、それはソフィアたちにとってはむしろ良いことだった。
事件から一ヶ月が経った春の穏やかな日、カペッロ校長はソフィア、エレナ、アレッサンドラ、ベアトリーチェを校長室に呼び出した。イザベラも同席していた。
校長室は学院で最も優雅な部屋の一つで、壁には数百年にわたる学院の歴史を物語る肖像画や文書が飾られていた。窓からは大運河の景色が一望でき、朝の陽光が水面に反射して部屋を明るく照らしていた。
カペッロ校長は立派な机の前に立ち、厳かな表情で四人の生徒たちを見つめた。彼女は全身を黒いドレスで包み、銀糸の刺繍が施された襟だけが彼女の地位を表していた。
「皆さん、お呼びした理由は、あなたたちの勇気と献身に対して、正式な感謝を表明するためです」
彼女の声は力強く、部屋に響き渡った。
「マルゲリータ・ゼノの事件は、私たち学院にとって大きな傷跡を残しました。しかし、あなたたちの行動がなければ、さらに多くの悲劇が起こっていたことでしょう」
彼女は一人一人の顔を見つめながら続けた。
「特にソフィア・モロシーニとエレナ・ファリエーロ。あなたたち二人の勇気と力は、私たちすべてを救いました」
ソフィアとエレナは軽く頭を下げた。二人は事件以降、より親密な関係になっていたが、それを公にはしていなかった。しかし、彼女たちの間に特別な絆があることは、周囲の人々も薄々気づいていた。
「そして、アレッサンドラ・コンタリーニとベアトリーチェ・グリマーニ。あなたたちの協力と支援なくしては、この事件の解決はなかったでしょう」
カペッロ校長は机の上に置かれた四つの小さな箱を手に取った。
「これは学院からの感謝の印です」
彼女は四人にそれぞれ箱を手渡した。
「開けてごらんなさい」
四人は同時に箱を開けた。中には美しく細工された銀のブローチが入っていた。それぞれのブローチには、生徒の名前と「勇気と知恵の象徴」という言葉が刻まれていた。
「これからは、あなたたちは学院の特別な評議会のメンバーとなります。『光の守護者』と呼ばれる秘密の評議会です」
カペッロ校長は説明した。
「この評議会は、過去にも存在していました。学院の創設時から、特別な才能と勇気を持つ生徒たちが選ばれて、学院と知識を守ってきたのです」
イザベラが一歩前に出た。
「私もかつてはその評議会のメンバーでした」
彼女は微笑みながら言った。
「そして今、あなたたちに杖を渡す時が来たのです」
四人は驚きと誇りの表情で、互いを見つめ合った。特にソフィアとエレナの間には、言葉にならない理解が交わされた。
「光の守護者……」
ソフィアは小さく囁いた。その言葉には不思議な重みがあった。
カペッロ校長は続けた。
「そしてもう一つ、特に素晴らしいお知らせがあります」
彼女はイザベラに目配せした。イザベラはうなずき、部屋の隅にあった小さな箱を持ってきた。それは黒檀で作られ、金の象嵌細工で装飾された美しい箱だった。
「この箱の中には、学院の最も重要な遺産の一つが入っています」
イザベラは静かに箱を開けた。中には一輪の薔薇が入っていた。しかし、それは普通の薔薇ではなかった。完全に黄金で作られているように見えたが、その質感は生きているかのように柔らかく、花びらは本物の薔薇のようにしなやかだった。
「『黄金の薔薇』」
カペッロ校長は厳かに言った。
「この薔薇は学院の創設者が錬金術によって創り出したものです。それは単なる金属の花ではなく、生命力と知恵を象徴する生きた錬金術の傑作なのです」
四人は息を呑んで薔薇を見つめた。それは確かに黄金でできているように見えたが、中から微かな光を放っていた。まるで内側から生命の光が輝いているかのように。
「伝説によれば」
イザベラが説明を続けた。
「この薔薇は特別な魂の持ち主の前でのみ、その真の姿を現すと言われています。そして、その者に知恵と力を与えるのです」
彼女はソフィアとエレナを見つめた。
「さあ、二人とも、薔薇に触れてごらんなさい」
ソフィアとエレナは互いに視線を交わし、同時に手を伸ばして薔薇に触れた。
その瞬間、驚くべきことが起きた。薔薇が突然輝き始め、その光は部屋全体を金色に染め上げた。薔薇の花びらが開き、その中心からより強い光が放たれた。
光が収まると、薔薇は以前よりもさらに美しく輝いていた。そして不思議なことに、一輪だったはずの薔薇が、今や二輪に分かれていた。完全に同じ形の二輪の黄金の薔薇が、箱の中で寄り添うように咲いていたのだ。
「見事だわ……」
カペッロ校長は感嘆の声を上げた。
「『黄金の薔薇』が分かれるなんて……学院の歴史の中でも初めてのことよ」
イザベラは静かに微笑んだ。
「これは二人の魂の絆の証です。古代の錬金術師たちは、魂には伴侶があると信じていました。二つで一つの完全な魂。あなたたちが発揮した『融合の光』も、それを示しています」
彼女はソフィアとエレナに向かって言った。
「この薔薇はあなたたちのもの。これからの人生で、力と知恵の導き手となるでしょう」
ソフィアとエレナは言葉もなく薔薇を見つめていた。その輝きは、彼女たちの心に刻み込まれていった。
カペッロ校長は最後に言った。
「今日からあなたたちは新しい責任を持ちます。知識を守り、次の世代に伝えていく責任を。そして何より、真の錬金術の精神――調和と変容の精神を守っていってください」
四人は厳かに頷いた。特にソフィアとエレナの表情には、強い決意が表れていた。
校長室を出た後、四人は中庭に集まった。春の陽光が暖かく彼女たちを包み込み、水盤の水面に反射する光が柔らかな模様を描いていた。
「信じられないわ」
アレッサンドラは興奮した様子で言った。彼女は胸につけた銀のブローチを指でなぞっていた。
「私たちが『光の守護者』になるなんて」
「確かにすごいことね」
ベアトリーチェも同意した。彼女の茶色の瞳には新たな輝きがあった。
「でも、一番驚いたのは薔薇のことよ。二つに分かれるなんて……」
彼女は好奇心に満ちた目でソフィアとエレナを見つめた。
ソフィアは静かに微笑みながら、エレナの手を取った。二人の手には、それぞれ一輪ずつの黄金の薔薇があった。二つの薔薇は、互いに引き合うかのように微かに光を放っていた。
「私たちの間には特別な絆があるの」
ソフィアは率直に言った。
「それは説明できないけれど、感じることができるもの」
エレナも微笑んで頷いた。
「古代の錬金術師たちは、魂には前世からの記憶があると信じていたわ。私たちはきっと、以前にも出会っていたのね」
アレッサンドラとベアトリーチェは優しく二人を見つめた。彼女たちの間に特別な感情があることは、もはや隠しようもなかった。
「それにふさわしい場所を知っているわ」
アレッサンドラは提案した。
「学院の東の角にある小さな庭園。そこなら二人きりでゆっくりできるわ」
ソフィアは感謝の気持ちで友人を見つめた。アレッサンドラは幼い頃からの親友だったが、彼女の理解と支援は今も変わらなかった。
「ありがとう」
彼女は静かに言った。
その日の夕方、ソフィアとエレナはアレッサンドラが教えてくれた庭園を訪れた。それは学院の敷地の東側、高い石垣に守られた小さな空間だった。庭園の中央には古い大理石の噴水があり、周囲には香りのよいハーブや花々が植えられていた。
夕陽が運河の向こうに沈みかけ、空は赤と金の色に染まっていた。二人は噴水の縁に腰掛け、互いを見つめた。
「ソフィア」
エレナが優しく呼んだ。
「あなたと出会えて、本当に幸せよ」
彼女の金髪は夕陽に照らされて輝き、その横顔は陶器の人形のように完璧だった。彼女は今日、淡い青色のドレスを着ており、その襟元には母から譲り受けたというエメラルドのペンダントが光っていた。
「私も」
ソフィアは心からの言葉で応えた。彼女は深緑色のドレスを着て、黒髪を緩くまとめていた。首には例の水晶のペンダントがあり、中の金色の筋が夕陽を受けて輝いていた。
「これからどうなるのかしら」
ソフィアは少し不安げに尋ねた。
「学院を卒業した後……」
エレナは彼女の手を取り、優しく握った。
「一緒にいるわ」
彼女は確信を持って言った。
「学院の後も、私たちはともに錬金術の道を歩み、『光の守護者』としての使命を果たすの。世界には、まだ私たちのような存在を必要としている場所がたくさんあるわ」
ソフィアは頷き、安心感に包まれた。エレナの言葉には常に不思議な説得力があり、彼女に力を与えてくれた。
「ねえ」
ソフィアは黄金の薔薇を取り出した。
「この薔薇、何か特別な力があると思う?」
エレナも自分の薔薇を取り出した。
「きっとあるわ。でも、その力が何なのかは、これから私たちが発見していくものね」
彼女は自分の薔薇をソフィアの薔薇に近づけた。二つの薔薇が触れ合うと、それらは互いに引き合うように、自然に一つになろうとした。そして、再び金色の光が放たれた。
光が収まると、二輪の薔薇は再び一輪になっていた。しかしそれは単に元に戻ったのではなく、より大きく、より美しい一輪の黄金の薔薇となっていた。
「見て……」
エレナは息を呑んだ。
薔薇の中心には小さな水晶のような球体があり、その中で金と銀の光が渦巻いていた。まるで宇宙の縮図のように。
「私たちの魂の結合……」
ソフィアは小さく囁いた。
エレナはソフィアの方を向き、彼女の両手を取った。夕陽の光が彼女たちを金色に染め上げる中、エレナは静かに言った。
「ソフィア・モロシーニ、私はあなたと永遠に結ばれることを誓います。この世界でも、次の世界でも、あなたの伴侶であり続けることを」
その言葉は古代の誓いのように響いた。ソフィアの胸に温かいものが広がっていくのを感じた。
「エレナ・ファリエーロ、私もあなたと永遠に結ばれることを誓います。この命が尽きても、魂は常にあなたを求め続けることでしょう」
彼女はエレナの顔を両手で包み、そっと唇を重ねた。二人のキスの周りに、黄金の薔薇から放たれた光が美しく広がった。その光は次第に二人を包み込み、まるで金色の繭のようになった。
その瞬間、ソフィアとエレナは特別な幻影を共有した。彼女たちは過去の時代で何度も出会い、別れ、そして再び見つけ合う姿を見た。古代エジプト、古代ギリシャ、ローマ帝国の時代、中世の修道院……様々な時代と場所で、彼女たちは異なる姿をしていたが、魂は同じだった。そして常に、彼女たちの出会いは世界に新たな光をもたらしていた。
幻影が消え、二人が現実に戻ると、もう夕陽は完全に沈み、最初の星が空に瞬き始めていた。しかし、庭園は黄金の薔薇から放たれる柔らかな光で明るく照らされていた。
「私たちの魂の旅は、これからも続くのね」
ソフィアは感動に満ちた声で言った。
「ええ、永遠に」
エレナは答えた。彼女の顔には深い愛情と平和な微笑みがあった。
二人は再び手を取り合い、夜空を見上げた。満天の星が彼女たちを見下ろしていた。それぞれの星は、宇宙の中の無数の魂を表しているかのようだった。
ヴェネツィアの夜は静かに深まり、二人の若い錬金術師の新たな旅の始まりを、優しく包み込んでいった。
### エピローグ
十年後、ヴェネツィア共和国のはずれに建つ小さな館。そこは「黄金の薔薇」と呼ばれる学校となっていた。錬金術と自然哲学を学ぶ少女たちが集まる場所である。
中庭では若い生徒たちが輪になって座り、教師の話に聞き入っていた。教師は輝くような黒髪を持つ美しい女性で、深い緑色のドレスを着ていた。彼女の首にはかつてと同じ水晶のペンダントが下がっていた。
「錬金術の真髄は変容にあります」
ソフィアは生徒たちに語りかけた。彼女の声は十年の経験を経て、より深みを増していた。
「しかし、それは単に物質の変容ではなく、内なる自己の変容なのです」
生徒たちは熱心にノートを取り、時折質問を投げかけた。ソフィアはそれに丁寧に答え、時には実演を交えて説明した。彼女の手のひらには、かつてイザベラに教わった「精神の炎」が小さく灯っていた。
授業が終わると、金髪の美しい女性が中庭に姿を現した。エレナは柔らかな青色のドレスを身にまとい、首元には銀の三日月のペンダントが輝いていた。十年の歳月は彼女の美しさをさらに洗練させ、その眼差しにはより深い知恵が宿っていた。
「皆さん、今日の授業はここまでです」
エレナは生徒たちに微笑みかけた。
「明日は実践錬金術の時間ですから、教科書の第七章をよく読んでおいてくださいね」
生徒たちはそれぞれ挨拶をして散っていった。中庭には二人だけが残された。ヴェネツィアの柔らかな春の陽光が、運河の水面に反射して二人を優しく照らしていた。
「今日の生徒たちは特に熱心だったわね」
エレナはソフィアに寄り添い、その手を取った。
「ええ、特にマリアは驚くべき才能を持っているわ。彼女の『精神の炎』はすでに私たちが十代の頃よりも洗練されているもの」
二人は中庭の石のベンチに腰かけた。十年前、サンタ・ルーナ錬金女学院での事件以来、彼女たちは「光の守護者」としての使命を果たしながら、自分たちの学校を設立していた。それは新しい時代の錬金術を教える場所であり、同時に特別な才能を持つ少女たちを守る聖域でもあった。
「アレッサンドラからの手紙が届いたわ」
エレナは言った。彼女はポケットから封された手紙を取り出した。上品な細字で宛名が書かれている。
「どうしているの?」
ソフィアは微笑んで尋ねた。アレッサンドラはヴェネツィア政府で働くようになり、現在は錬金術と科学の研究を支援する部門の責任者を務めていた。
「順調みたいよ。彼女の支援のおかげで、西の島に新しい研究所が建設されることになったんですって」
エレナは手紙を読みながら言った。
「そして、ベアトリーチェがギリシャから戻ってきたらしいわ。彼女の研究も実を結びつつあるようね」
ベアトリーチェは古代の錬金術の秘法を求めて、数年前からギリシャやエジプトを旅していた。彼女もまた「光の守護者」の一員として、失われた知識の回収と保存に努めていたのだ。
ソフィアは満足そうに微笑んだ。
「私たちの『光の守護者』としての絆は、時間と距離を超えて続いているのね」
エレナは優しくソフィアの手を握った。
「そして、私たち二人の絆も」
彼女はもう一方の手で、自分の首から下げていた小さなロケットを開いた。その中には黄金の薔薇の小さな花びらが一枚収められていた。ソフィアも同じように自分のロケットを開く。中の花びらが互いに近づくと、二つの間に金と銀の光の糸が浮かび上がった。
「十年経っても、まだ不思議ね」
ソフィアは感嘆の声を上げた。
二つの花びらは、かつて一つだった黄金の薔薇の一部だ。あの夜、庭園で二人が永遠の契りを交わした後、薔薇は花びらに分かれ、二人のロケットに収められた。それは彼女たちの魂の絆の象徴であり、また強力な護符でもあった。
「昨夜見た夢のこと、覚えている?」
エレナは静かに尋ねた。
「ええ」
ソフィアは頷いた。
「同じ夢を見ていたのね」
二人はしばしば同じ夢を共有した。それは過去生の記憶であったり、未来の啓示であったりした。昨夜の夢では、彼女たちは古代エジプトの神殿にいて、星々の動きを観察していた。
「あの夢が示すのは、私たちの次の旅かもしれないわ」
エレナは言った。
「エジプトへ?」
「ええ、失われた『エメラルド・タブレット』の原本を求めて」
『エメラルド・タブレット』は錬金術の最も古い経典とされ、その原本は何世紀も前に失われていた。しかし、ベアトリーチェの最新の報告によれば、その手がかりがエジプトのある寺院で見つかったというのだ。
「旅の準備を始めましょう」
ソフィアは決意を込めて言った。
「学院はルチアに任せられるわ。彼女はもう十分な経験を積んだもの」
ルチアはかつての彼女たちの生徒で、今では重要な助手となっていた。錬金術と教育の才能に長けた彼女なら、二人の留守中でも学院を管理できるだろう。
二人は立ち上がり、館の奥へと歩み始めた。やがて彼女たちは小さな私的な庭園に足を踏み入れた。そこには一輪の実物の薔薇が咲いていた。しかし、それは普通の薔薇ではなかった。花びらは純金のように輝き、しかし生きた植物のようにしなやかだった。
これは彼女たちが共に錬金術の力で創り出したもの――現実の「黄金の薔薇」だった。それは単なる象徴ではなく、真の錬金術の成果であり、彼女たちの絆の証でもあった。
「新しい旅が始まるわね」
エレナは薔薇に優しく触れた。
「そうね」
ソフィアは微笑んだ。
「でも私たちが共にいる限り、どんな旅も恐れることはないわ」
彼女はエレナを抱きしめ、そっと唇を重ねた。二人を包む金色の光が、静かに広がっていった。それは彼女たちの魂の光であり、何世紀にもわたる絆の象徴だった。
薔薇の花びらが風にそよぎ、その光が二人を祝福するかのように輝いた。
この瞬間、彼女たちは永遠の一部となった。過去と未来、魂と物質、光と影――あらゆる二元性を超えた一つの存在として。
そして、彼女たちの物語は続いていく。永遠に。
(了)
【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り ―ヴェネツィア錬金女学院奇譚―(約40,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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