銀翼のリリと暁の嬰児

@kudakitsune

風、始まりを告げる場所

第1話 森の奥、運命の赤子

世界樹の呼吸が、ここエルドラの森の奥深くまで届いている。木々は天を突き、その枝葉は幾重にも重なって陽光を緑の濃淡に濾過する。苔むした大地は太古からの記憶を吸い込み、湿り気を帯びた空気は生命の匂いで満ち満ちていた。風が渡るたび、葉擦れの音は囁きとなり、森全体が一つの巨大な生き物のように息づいている。


リリアーナ・シルヴァリウス――リリと呼ばれることを好む若い竜は、その森の一角にある巨木の根元に座り込んでいた。陽光を受けて白銀に輝く鱗は、周囲の緑に映えて宝石のようだ。今はまだ完全な竜の姿ではなく、どこか少女の面影を残す、人と竜の中間のような姿をとっている。繊細なつくりの角がこめかみから伸び、背には畳まれた翼が陽の光を弾いていた。彼女の一族――シルヴァリウス家は、古より光を司る竜として知られ、その中でもリリの鱗の色は格別に澄んでいた。


彼女はこの広大な森で、独りだった。否、独りであることを「選ばされて」いた。これは試練なのだと、長老たちは言った。かつて人間と深く関わり、それゆえに深く傷ついた一族の末裔として、世界の現実と、力を持つ者の責任を知るための。だが、リリにとってそれは、果てしない退屈と、胸の奥に微かに疼く好奇心を閉じ込める檻でしかなかった。


「……今日も、同じ」


吐息と共に漏れた言葉は、風に溶けて消える。祖母から教わった古い歌を口ずさむ。それは情報伝達の手段でもあり、心を落ち着けるためのものでもあったが、今はただ、静寂を埋めるためだけの音色だった。彼女の瞳は、遠く、森の切れ間から覗く空を見つめている。そこに広がる世界への、漠然とした憧れ。人間という、恐ろしくも、どこか惹かれる存在への、禁じられた興味。


その時だった。


風向きが変わり、これまで森に満ちていた生命の匂いとは明らかに異なる、微かな、しかし無視できない異質な気配が鼻腔を掠めた。それは血の匂いであり、そして、もっと微かだが、生まれたばかりの生き物の匂いでもあった。


リリは弾かれたように立ち上がった。竜としての鋭敏な五感が、その発生源を探る。遠くない。風上だ。人間か? いや、もっと弱い、脆い気配。危険な香りと、守らねばならないようなか弱さが混在している。


好奇心と警戒心が胸中でせめぎ合う。長老たちの「人間に近づくな」という言葉が脳裏をよぎる。だが、この森は彼女の領域であり、試練の場だ。何が起きたのかを確認する責任がある。そして何より、その異質な気配の正体を知りたいという欲求が、彼女の足を突き動かした。


翼を広げるまでもない距離。リリは音もなく木々の間を駆け抜けた。しなやかな肢体は、密集した下生えを滑るように進む。気配の源に近づくにつれて、血の匂いは強くなり、そして、赤子の微かな泣き声のようなものが聞こえてきた。


視界が開けた場所に出る。そこは、普段は穏やかな獣たちが水を飲みに来る小川のほとりだった。だが、今はその面影はない。草は薙ぎ倒され、土は荒々しく抉られ、そして――数体の、見慣れぬ獣の骸が転がっていた。その獣たちの間、泥と血に塗れた布にくるまれた、小さな存在があった。


赤ん坊だ。


人間の、赤ん坊。


なぜ。どうして、こんな森の奥深くに?


リリは息を飲んだ。赤ん坊は、か細い声で泣いていた。しかし、その泣き声すら弱々しく、生命の灯火が消えかかっているように感じられた。周囲の状況から察するに、何者かに襲われたのだろう。赤ん坊を連れた人間が、この森で何らかの理由で命を落とし、赤ん坊だけが奇跡的に生き残った……。


リリはゆっくりと近づいた。警戒を解いたわけではない。だが、目の前の小さな存在からは、敵意はおろか、しっかりとした意識すら感じられなかった。ただ、生きようとする本能だけが、微かな鼓動として伝わってくる。


布に触れる。ひどく汚れていたが、質は悪くないように見えた。赤ん坊の顔を覗き込む。泥と涙で汚れていたが、整った顔立ちをしているように思えた。閉じられた瞼が微かに震え、小さな手が何かを掴もうとするかのように空を切る。


このまま放置すれば、確実に死ぬだろう。森の掟は厳しい。弱き者は淘汰される。だが……。


リリの脳裏に、祖母から聞いた古い物語が蘇る。かつて、シルヴァリウス家が人間と交流を持っていた時代の話。そこには、悲劇だけではなく、種族を超えた絆や、温かな交流もあったのだという。その血が、リリの中にも流れている。人間への興味は、単なる好奇心だけではなく、この血筋ゆえの「性(さが)」なのかもしれない。


「……仕方ない、か」


誰に言うともなく呟き、リリはそっと赤ん坊を抱き上げた。驚くほど軽く、そして温かい。壊れ物を扱うように慎重に、しかし確かな力で腕に抱く。赤ん坊は、一瞬泣き止み、小さな身体をリリに預けるように力を抜いた。その無防備さが、リリの胸を強く打った。


守らなければ。この小さな命を。


それが、この森での新たな「試練」になるのかもしれない。あるいは、退屈な日常を打ち破る、何か新しい「始まり」なのかもしれない。理由はまだ、判然としなかった。ただ、衝動に従うことにした。


リリは踵を返し、自身の住処である洞窟へと向かった。赤ん坊を抱いた腕には、微かな温もりと共に、ずしりとした責任感が宿っていた。



洞窟は、巨大な岩の裂け目に自然に形成されたものだった。中は意外に広く、リリが竜の姿でも窮屈さを感じない程度には天井も高い。壁には、彼女自身が描いたのか、あるいはもっと古い時代のものか、不思議な文様や、竜らしき姿が線刻されている。中央には、焚火の跡があり、その周囲には寝床代わりの柔らかな苔や枯れ葉が集められていた。


リリは赤ん坊をそっと寝床に降ろした。まずは汚れを落とし、傷がないか確認する必要がある。幸い、洞窟の奥からは清らかな湧き水が滲み出ており、小さな泉を作っていた。


布を解くと、小さな裸の身体が現れた。男の子のようだ。目立った外傷はないように見えるが、衰弱しているのは明らかだった。リリは、汲んできた水を含ませた柔らかい葉で、そっと身体を拭いていく。赤ん坊は、最初は身を捩ったが、水の冷たさよりも、拭われる感触が心地よかったのか、次第に落ち着きを取り戻した。


その時、リリは赤ん坊の瞳が開いていることに気づいた。


それは、ただの赤ん坊の瞳ではなかった。色は深い藍色。そして、その奥には、生まれたばかりの生命が持つ無垢さとは異質の、静かで、何かを観察し、分析しているかのような理知的な光が宿っていた。


リリは思わず動きを止めた。見つめ返されている。まるで、対等な存在であるかのように。


(まさか……)


赤ん坊は、ただリリを見つめている。泣きもせず、騒ぎもせず、ただ静かに。その視線は、リリの姿形、鱗の輝き、洞窟の壁画、そしてリリ自身の感情の揺らぎすらも見透かしているかのようだ。


(気のせい、だよね……?)


リリは自身に言い聞かせ、作業を再開した。だが、背中に突き刺さるような視線は消えない。


この赤ん坊は、一体何者なのだろうか。



――意識が、浮上する。


ひどく曖昧で、断続的だ。まるで、古いブラウン管テレビの砂嵐の中から、かろうじて映像を拾い上げようとしている感覚に近い。


(ここは……どこだ……?)


思考は存在する。相川悠(あいかわ ゆう)としての記憶も、SEとして培ってきた論理的思考能力も、確かにここにある。だが、それを格納している「器」が、絶望的に言うことを聞かない。


視界はぼやけ、焦点が合わない。手足を動かそうとしても、微かに震えるだけ。声を出そうとすれば、意味のない母音のような音しか出てこない。そして、猛烈な空腹感と、不快感。


(……赤ん坊、か)


状況を理解するのに、それほど時間はかからなかった。死んだはずの自分が、なぜか赤ん坊として、見知らぬ場所にいる。いわゆる、異世界転生というやつだろうか。ファンタジー小説で読んだような荒唐無稽な話だが、現実にこの身体で体験している以上、受け入れるしかない。


問題は、現状だ。森の中で、何らかの争いに巻き込まれ、親らしき人物は死亡(あるいは行方不明)、自分だけが生き残った。そして、信じられない存在に拾われた。


(ドラゴン……だよな、あれは)


視界が少しだけはっきりした時、自分を世話している存在の姿を捉えた。銀色の鱗、角、翼。間違いなく、ファンタジー世界のドラゴンだ。しかも、人型に近い姿にもなれるらしい。言葉は……理解できない。おそらく、日本語ではない独自の言語(竜語?)を話している。


彼女(声の響きから女性だろうと判断した)は、俺を敵視している様子はない。むしろ、献身的に世話をしてくれている。身体を拭き、何か温かいものを与えようとしてくれている(それは、残念ながら今の俺の消化器官には合わないらしく、すぐに吐き出してしまったが)。


(分析……分析……)


SEとしての習性が頭をもたげる。現状把握、リスク分析、最適解の模索。


状況:異世界転生。赤ん坊の身体。言語不通。ドラゴンの少女(?)に保護されている。

リスク:餓死、病気、ドラゴンに見捨てられる、他の危険生物、人間との接触(この世界の人間が友好的とは限らない)。

目標:生存、成長、意思疎通手段の確立、情報収集。


(まずは、このドラゴンとの信頼関係構築が最優先か……)


だが、どうやって? 言葉は通じない。できることは、赤ん坊として、できるだけ「手のかからない良い子」を演じることぐらいか。空腹や不快感は正直に泣いて伝えるしかないが、それ以外は、彼女の行動を観察し、意図を汲み取ろうと努める。


彼女が俺を見つめる時、その瞳に戸惑いや好奇心の色が浮かぶのが分かる。俺の「普通じゃない」視線に気づいているのかもしれない。


(解析眼……なんて便利なものはないが、観察と推論なら)


彼女は、時折、洞窟の壁画をじっと見つめている。古代の記録か何かだろうか。そして、美しい旋律の歌を口ずさむ。それは、単なる歌ではなく、何か特別な意味を持っているように感じられた。彼女の感情が、その歌に乗って微かに伝わってくるような気さえする。孤独、憧れ、そして、俺という異物に対する戸惑い。


光を操るような力も持っているようだ。俺が寒そうにしていると、彼女の手のひらから淡い光が放たれ、周囲の空気が暖かくなった。治癒能力もあるのかもしれない。これが、この世界の魔法、あるいは竜固有の能力なのだろう。


(情報は、少しずつ集まっている)


今はただ、この小さな身体で生き延びるしかない。そして、この銀翼の竜――リリ、と彼女が自分を呼称しているような響きが聞こえた――との関係を築いていく。それが、この異世界で生きるための、最初のステップだ。



夜が訪れ、洞窟の中は焚火の微かな光と、壁際から滲み出る湧き水の音だけが支配していた。リリは、すやすやと眠る赤ん坊の隣に座り、膝を抱えていた。


赤ん坊は、結局、リリが森で摘んできた栄養価の高いとされる木の実をすり潰し、水で溶いたものを少量だけ受け付けた。それでも、ないよりはましだろう。


昼間の出来事が、まだ夢のように感じられる。森での孤独な日々は、予期せぬ形で終わりを告げたのかもしれない。この小さな存在が、リリの世界に波紋を投げかけている。


(この子、名前、なんていうのかな……)


聞いても、今は答えられないだろう。そもそも、人間の言葉が通じるのかどうかも怪しい。


リリは、傍らに置いてあった滑らかな石板と、先の尖った黒曜石の欠片を手に取った。これは、彼女の日記代わりだった。竜文字で、日々の出来事や、胸の内を書き留めている。誰に見せるでもない、彼女だけの秘密。


カリカリ、と石を削る音だけが響く。


『今日、森で人間の赤子を拾った。男の子。とても小さくて、温かい。不思議な目をした子。見ていると、吸い込まれそうになる。名前はまだない。わたしがつけた方がいいのかな。』


『長老たちには、まだ内緒。きっと、反対されるから。でも、放っておけなかった。これは、試練の一部なのだろうか。それとも、ただの気まぐれ?』


『少しだけ、怖くもある。この子がいることで、何かが変わってしまうかもしれないから。でも、それ以上に、明日が来るのが、少しだけ楽しみになった気もする。』


書き終えると、リリは石板をそっと元の場所に戻した。そして、再び眠る赤ん坊に視線を落とす。その寝顔は、昼間の理知的な光を宿した瞳が嘘のように、無垢で安らかだった。


(大丈夫。わたしが、守るから)


根拠のない自信が、胸の奥から湧き上がってくる。それは、光竜としての本能か、あるいは、孤独だった少女の中に芽生え始めた、新たな感情なのか。


リリはそっと赤ん坊の隣に横になり、翼で優しくその小さな身体を包み込んだ。伝わる温もりは、確かな生命の証。


洞窟の外では、風が木々を揺らし、世界樹の歌が囁くように響いている。エルドラの森の奥深く、銀翼の竜と、暁を迎えたばかりの嬰児の、奇妙で静かな夜が更けていった。二人の物語は、まだ始まったばかりだった。

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