風の栞

sui

風の栞



駅前の小さな古書店に、不思議な棚があった。

一番奥の窓際、午後の光だけが差すその棚には、背表紙のない古い本たちが並んでいる。誰も手に取らないし、店主もそこは「風まかせの棚」と呼んでいた。


ある日、少女・澪は偶然そこから一冊の本を選んだ。

ページの間に挟まっていたのは、淡い緑色のしおり。

紙ではなく、まるで風をそのまま結晶にしたような、透ける素材。


家に帰ってページを開くと、内容が少しだけ変わっていることに気づく。


そこには、「知らない誰かの旅の記録」が綴られていた。

でも、それはどこかで読んだ気がする。いや、読んでいたはずだ。

“まだ知らないはずの物語”なのに、なぜか懐かしい。


しおりを挟んだページだけが、毎晩少しずつ違う内容に変わっていく。


“風が吹いていた。彼女は駅で手を振った。名も知らぬままに。”

“海辺の町で、彼は詩を一篇だけ置いて去った。誰にも渡さずに。”

“きみがこの本を読む頃、わたしはもう旅の途中。”


澪は気づき始める。

この物語は“読まれるたびに記憶を取り戻す”本なのだ。


ある晩、夢の中で、澪は本の中の誰かと出会う。

それは帽子をかぶった青年で、「この風は、君が昔忘れた言葉だよ」と言った。


「だから、ページが変わるんだ。思い出すたびに、少しずつ。」


目が覚めた朝、本の内容は静かに元に戻っていた。

ただ、しおりだけが、少し色あせていた。


その日から澪は、あの古書店に通うようになる。

風のしおりを挟んで、忘れた誰かの旅を、少しずつ辿るために。


ページをめくるたびに、

やさしい風が、ふっと頬をなでていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風の栞 sui @uni003

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る