十代の暗さを孕みながらも、同じ者にしか持てない爽快感を持つ物語だった。
けれど肝心の「〇〇」に当てはまる言葉を、じつは私はまだ見つけられないでいる。
それは、大人になって知ったことが増えたから、なのか。
あるいは案外それもまた、いまだ消えない青春の残り香ゆえ、なのか。
だって、ただ一つの正解が見えてしまっては、まだつまらないから。
そう感じてしまう私は、いい大人なのに、けっきょくまだ子どもなのかもしれない。
作者様の「遊び」で生まれたという本作。
その真意は、けっきょくのところ作者様にしか、分からない。
とはいえ、考えてみれば、「遊び」という言葉には、古来からいろいろな意味、
含意が付与されてきた。
その歴史はあまり知られていないが、私が素人講義をするなど、
無粋に過ぎる(というか、迷惑にもほどがある)。
この物語を読めば、十分だろう。
いろいろな意味で、面白い作品だった。
その詳細は、ご自身の目で確かめていただきたい。
もうね、笑うしかない。
先に忠告しておくが、私には物を見る目がない。
伏線なりギミックなりがたくさんありそうだけど、これらは全部スルーさせてもらう。ごめんね。
五十嵐葉月と一色先生の明るいとは言えないやり取りから始まる本作を読み終えた後には、から笑いしか出なかった。
なんていうのかな……ある種の諦め?
『諦めたらそこで試合終了』なんてよく聞くけど、諦めというのはアオハルを終わらせる唯一の方法でもあると私は考える。
いずれはたどり着く青春の終わり。そこに向けて進んでいく登場人物たちの言動には、心をつかまれるものがあった。
作者の近況ノートによるとこの作品は『暇を持て余した野々宮の遊び』として執筆されたらしい。
『なんか最近純文学とは何かを考えている人が多いから野々宮さんなりのアンサーを出したよ( -`ω-)✧』
と語った本作には、作者なりの純文学、しいては芸術への考え方が込められているともいえるだろう。
正直に言おう、この作品は素敵だ。
私には到底まねできそうにない。だからこそ、から笑いしか出なかった。
青春と芸術。どちらも真っ盛りであろう実力派作家による一作だった。