○○たくなるような歴史となる

野々宮 可憐

全力で生きたこの春はいつか○○たくなるような歴史となる


 セミの煩わしいほど騒音も、広い校庭へ響く運動部の声援も、廊下を満たす吹奏楽部の努力の音色も、五十嵐いがらし葉月はづきは全てを無視して目の前のキャンパスへ意識を向けていた。


 サラサラと筆を滑らせて、色を切り替えるために透き通る水の中に筆を押し込んで、ぐるぐるぐるぐるかき混ぜた。透明は一気に薄い青に染った。


 筆を色水から引き上げて、筆洗の縁でコンコン、と筆を叩いて水気を切って、パレットから緑の絵の具を先っちょにつけて、キャンパスへ叩くように色を載せた。 窓の外は見ず、広い世界と壮大な自然を想像して創造していく。


 狭い白の世界に、吸い込まれるような鮮やかな青空と、生命が弾けるように満ちる緑の葉がだんだんと現れていく。


 次。次はここに何を創ろう。


 葉月がそう考えて、ぼうっと小さな世界を眺めていたその時だった。


 カラリ、背後からそんな軽い音が聴こえた。葉月は振り向く。そこへ立っていたのは、紙の束を両手に抱えた細身の中年女性だった。年季の入ったメガネの先に、茶色がかった黒の瞳が見える。


一色いっしき先生」


 葉月は美術部顧問である彼女の名を呟いた。一色は薄ら笑って、葉月のキャンパスのすぐ側にある椅子に腰掛け、机にドンと紙束と筆箱らしきポーチを置いた。


「なんでここに?」


 葉月は訊く。一色はポーチを漁って、赤いボールペンを取り出しながら応えた。


「職員室、冷房がうまく作動しなくて。美術室は涼しいから、ここで補習プリントの採点をしようと思ってね。五十嵐さんは、1人で何していたの?」


「何してたって、見ればわかるでしょ? 絵画コンクール用の絵を描いてるんです。今年は金賞とりたいので。テニス部との掛け持ちとはいえ、一応顧問なんだから毎日私がここで描いてるの知ってますよね?」


 少し悪態をついて、また葉月は筆をとった。また筆洗いに緑が付着している筆を突っ込んで、ぐるぐると絵の具を青色の水に溶かした。青色だった色水は緑が混ざって、ヘドロのような暗い色に変わっていく。


「去年の銀賞じゃ満足できないよね。応援してるよ」


 それだけ言って、一色は丸とチェックマークを答案用紙に描き始めた。


 葉月は少しばかり、ボールペンが紙を走る音が耳障りに感じた。けれどそれも無視してパレットから赤をとって、キャンパスを叩くように塗った。ただの景色じゃつまらない。もっと独創的で、奇抜で、誰も知らない絵を描きたいという欲望のまま手を動かした。


「他の部員は来てないの?」


 一色の質問が飛ぶ。ボールペンを走らせる音が止んでいないので、作業をしながら訊いているらしい。集中力が削がれる。そう思った葉月は、キャンパスから目をそらさないまま短く言った。


「来てません」


「ふーん、そうなの? 夏鈴かりんちゃんは漫画大賞に応募するからここで作業してるって聞いてたけど」


「ああ、一昨日まで来てましたよ。昨日は来ませんでした。やる気ないんじゃないですか?」


 葉月はまた、筆洗いの中の濁った水に赤を溶かした。更に暗く、黒に近い色になっていく。乱雑に筆を振って色を落としたので、色水が跳ねて床を汚した。ボールペンが走る音が止む。


「聞いたよ。あなたが、夏鈴ちゃんに言ったこと」


 思わず葉月の手が止まった。心当たりはあった。あいつ、告げ口したのか。めんどくさいな。そんな気持ちが溜め息として漏れ出た。また手を動かす。


「私は教えただけですよ。夏鈴さんが私の絵と夏鈴さんの描く漫画を同じように扱うから、それは違うって」


 葉月は興味なさげに返して、チューブをぐにりと押してパレットに白色を出した。世界に理想の桜を咲かせるために真珠ほどの大きさの白とてんとう虫ほどの小ささの赤を混ぜる。


「あなたのは芸術じゃないって言ったんだって?」


「違う。そんなこと言ってない」


「じゃあなんて言ったの?」


 悪いとは微塵も思ってなかった。それでも、何か後ろめたさを感じて、一色の方を見ることはなかった。


「……私の純粋な絵と、夏鈴さんの描く娯楽やエンタメを重視した絵を一緒にしないでと言っただけです」


 葉月は吐き出すように言い放った。心のどこかでふつふつと苛立ちが込み上げてきていた。あの時の夏鈴のいかにも傷つきましたよという表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。


「見下してるの?」


 一色はさも純粋な疑問かのように、葉月の心臓を刺すような事を言った。葉月は勢いよく振り返る。ようやく、2人の透明な視線が交差した。葉月は否定の言葉を紡ぐことができなかった。


「……だって、そうじゃないですか。夏鈴さんよりも私の方が実力があって知識もある。フェルメールやモネすら知らない格下の相手と同じになんかされたくない」


 ぼそぼそ、小学生の言い訳のような態度で言う。一色は1枚の紙を掲げた。採点途中の答案用紙だった。謎の行動に困惑する葉月に、ひとつ質問をした。


「この色、何色に見える?」


 そう言いながら答案用紙の右上の点数を指さした。葉月の瞳に映ったのは、赤色の細い線で書かれた82という数字。


「──赤色ですが?」


「そうだね。これは赤だよね。じゃあ、これは?」


 一色はポーチから緑色のマーカーペンを取り出して、また葉月に見せつけた。


「……緑色です」


 見たままに答えた。一色は心底満足そうに頷いた。


「そうだね、これは緑色


「え? らしい?」


 一色の謎の行動と発言に、葉月はただ首を傾げることしかできない。一色は自分のメガネを外しつつ話し出した。


「五十嵐さんには、絶対色感があるんだったよね。些細な色の違いにも気づける能力。私はその逆。私にはね、色覚障害があるの。この赤ボールペンと緑マーカーの区別がつかない。どちらもあなた達がいう茶色に見えるらしくてね。この赤ボールペンに目印ついてたの、気づいてた?」


 葉月はポカンと口を開けたままただ一色の話を聞いていた。一色と出会って1年、そんな事実を一度も聞いたことがなかった。


「あまり美術部に顔出さなかったから、知らない人の方が多いんだよね。2年生で知ってるの、夏鈴ちゃんだけかも?」


「……それで? 何が言いたいんですか?」


 少し驚きつつも、平静を繕って一色を軽く睨んだ。説教されているようで気に入らなかった。それに単に気づいてないのか気づいてない振りをしているだけなのか葉月は分からなかったが、平然と一色は続けた。


「人にはそれぞれの視界があって、視野があって、価値観ある。絶対色覚のある五十嵐さんと、色覚障害のある私とは見えてる景色が違うんだよ」


「だからなんですか?」


「私にとっては、葉月さんの絵も夏鈴ちゃんの漫画も素敵な作品なんだ。だから、知ってて欲しいの。正解なんてないんだから、採点なんて誰にもできない。あまり、頭ごなしに否定しないで欲しいな」


 刃の上を歩くような、慎重で柔らかい口調で言い切った。葉月は淡々と語られる説教の最中に舌打ちをしないよう、口をつぐんだ。


「まぁ、今は分からなくても大人になればわかるよ。いや、分かったら大人になるのかな。どちらでもいいけど、後悔をしないように。まぁ、青春は黒ずんでいくのが醍醐味だけどね」


 一色は静かに立ち上がって、紙を集めて整えた。そっぽを向く葉月に笑いかける。


「採点終わったからもういくね。五十嵐さんも無理しないように。絵、楽しみにしてるから」


 ゆったりと歩いて、来た時と同じように静かに扉を開けて、ばいばい、と小さく挨拶をして姿を消した。それを確認した葉月は、持っていた筆を勢いよく床に叩きつけた。


 筆が音を立てて跳ねて、筆先に付着していた桜色が散った。ひたすらに何かに当たりたくなってしまった。


「なんなの、ほんとに。ばっかじゃねーの」


 誰かに聞かせるように、葉月は叫んで天を仰いだ。荒くなった呼吸を整えたくて、ひとつ深く深呼吸をした。すると頭にまで上っていた血がだんだんと落ち着いて、次は指先が冷たくなったのを感じた。


 少し冷静になって、誰かに聞かれたのではないかという発想が浮かんだ。はっとして周りを見渡すと、もはや黒と呼べるような色に変わった筆洗が目に映った。

 これを機に水を変えよう。そう思った葉月は零さないようにゆっくりそれを持ち上げて、流し台に向かった。


 あらゆる絵の具やらペンキやらで汚れたステンレスの流し場に、濁った水を捨てて、また透明な水を中に注いだ。


 ふと、葉月は顔を上げて窓の外を見てみる。野球部がなにやら盛り上がってるようで、1箇所に円になるように集まって飛び跳ねて回っているのが見えた。滑稽に思えた。でも楽しそうだった。また怒りが沸いた。一色へ向けたのと別の種類の怒りだった。


 蛇口をきつく閉め、水をこぼさぬように踵を返して筆洗を元あった場所まで運んだ。もう一度座って、己の世界と相対する。


「なに、これ」


 瞳に映ったのは紛れもない己の描いた絵のはずだった。なのに、どうしようもなく気に入らない。思わず黒色の絵の具を手に取って、鮮やかな青が光る空へ目掛けてぶちまけてしまった。筆を上へ下へ乱雑に動かして、世界を黒で染めていく。


 葉月が気づいた時には黒絵の具のチューブが凹んでいて、キャンパスはまだ乾いていない黒が光を反射してテラテラと光っていた。


「自信作だったのに、あーあ……」


 一色のせいだ。顧問のくせに、邪魔しやがって。いや、夏鈴のせいか? 私を悪者みたいに扱いやがって。


 葉月は苛立ちと、世界を塗りつぶしたことへの絶望を覚えた。ただ、心のどこかですっきりとした爽快さを感じていた。なにしてるんだろうな、なんて思いながら呆然と絵を眺めていると、扉が開いた音がした。視線をそちらへ移すと、そこに居たのは丸いメガネをかけて、三つ編みを結んだ芋っぽい少女がいた。夏鈴だった。


「あ、お、おつかれさま」


 躊躇いがちに手を小さくあげて、夏鈴はささやかな挨拶を口にする。突然かつ意外な来訪者に、葉月の頭は真っ白になって、咄嗟にそっぽを向いてしまった。無視された夏鈴の表情を、葉月は見ることができなかった。夏鈴は何も無かったかのようにヨレヨレのトートバッグを葉月からかなり離れた机に置いて、美術室の中を徘徊し始めた。


 葉月はちらりと夏鈴の荷物を見た。いつも持っている大量の漫画や原稿用紙は入っていないようだった。作業しに来た訳ではない。それだけは一瞬で理解できた。


 葉月はとりあえずパレットに適当な色を出し、気まずい空気を払拭するために作業の真っ只中ですよという雰囲気を出すことにした。


 その間も、夏鈴はうろちょろと美術室の中を歩いている。何かを探しているらしい。少しだけ気になって、葉月は夏鈴を盗み見ようとした。タイミング悪く、夏鈴も葉月を見ていたらしく、葉月と夏鈴の目が合ってしまった。


「あ、あの、えーと……資料、どこにあるか知らない? 画家とかの……」


 苦しそうに夏鈴は言葉を紡いだ。


「なんで?」


 純粋な疑問が、葉月の口から飛び出た。夏鈴は恥ずかしそうに、俯きつつ答えた。


「あ、あのね、私、馬鹿だから。葉月ちゃんより絵、めちゃくちゃ下手くそだから。……上手く言えないけど、気になったの。その、勉強? してみようかなって……。全然、私の分野とは違う画風だけど、同じ絵だから」


 ごめんね。最後に、何に対してかわからない謝罪の言葉を付け加えた。葉月は呆然と夏鈴を見ていた。少しの間、静寂が訪れていた。あまりの気まずい空気に耐えきれなくなったのか、夏鈴は話題を捻り出した。


「あ、その絵って、コンクールのやつ?」


 指さしたのは真っ黒のキャンパス。葉月が両手で隠そうとした時にはもう遅かった。あぁ、馬鹿にされる。なにそれって、言われてしまう。最悪だ、最悪だ、最悪だ!


「それ、夜空描こうとしてるの?」


「は?」


 あまりにも斜め上の回答に、またしても葉月の思考が止まった。違ったの? と呟く夏鈴はどうやら慌てているらしい。


「なんでそう思ったの?」


 そう聞けば、夏鈴は首を傾げて言った。


「キャンパスの上に、青色の絵の具が付いてるから、もしかして青い空を描いてから黒を塗ったのかなって。違ったのならごめん、忘れて」


 また俯いた。葉月は己の塗りつぶした世界を見た。どうやらこれは、夏鈴には夜空に見えるらしい。


「ふ、あははは!」


 どうしようもなく面白くなって、どこからか、笑いが込み上げてきた。夏鈴が驚き、困惑しているのが見えた。そのまま少しの間笑って、満足した葉月は、真っ直ぐ美術室の本棚へ向かった。取り出したのは世界の有名画家の画集と、葉月が昔読んだ絵の参考書。


 その2冊を夏鈴に持たせた。


「これ、オススメのやつ。綺麗に返してくれるなら持ち帰ってもいいって、一色先生言ってたから」


 ぶっきらぼうな言葉だった。それでも、夏鈴は誕生日プレゼントを受け取った子供のような表情をした。


「あ、ありがとう! 家で読む! 今度、私のオススメの漫画持ってくるね!」


 そう言って、夏鈴は駆け出した。用事は本当にこれだけだったようで、そのまま廊下へ走って帰って行った。


「別に、貸してほしいなんて言ってないけど」


ㅤ独り言を呟く。聞かせるつもりは無い言葉だった。


 葉月はしばらく夏鈴が消えた扉を眺めていた。少し経ってから、先程適当にパレットに出した色を見た。赤、白、黄、緑、そして青色。


 筆洗に黒が付着した筆を入れて、色を落とす。水は濁って、筆は綺麗になった。筆の先端に青を付けて、少し乾いた黒の世界に夜を訪れさせる。夢中で色をつけて行けば、いつのまにか夜空に大輪の花が咲いていた。


 一息ついて、窓の外へ視線をやる。青とオレンジのグラデーションが美しい空の下で、野球部が生き生きと試合をしているのが見えた。


 セミの煩わしいほど騒音と、広い校庭へ響く運動部の声援と、廊下を満たす吹奏楽部の努力の音色を五十嵐いがらし葉月はづきは聴きながら、夜空を彩った。

 

 

 



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