井戸の中の子守唄

あきせ

村はずれの古い家

私は大学の夏休みを利用して、久しぶりに故郷の村へ帰省することになった。

都会の喧騒になれた身には、夜になるとカエルと虫の鳴き声しか聞こえないこの山間の小さな村は、異様なほど静かだった。


山の空気は、久しぶりに吸うには少し重すぎた。

昼間は容赦のない日差しが降り注ぎ、地面の湿気がむわりと立ち上ってくる。

夕方になると空気はひんやりするが、それが不思議と心地よくない。

冷たいのに、どこかじめっとしているのだ。

まるで土の中に寝かされた布団にくるまれているような、そんな気配。


夜になると、その“冷気”が家の隅々まで忍び寄ってくるようだった。

どこかの窓が開いているわけでもないのに、畳の下から冷たい風が這い出してくるような感じ。

祖母の家は古い木造で、壁も床もわずかに反響する。

なのに、その夜だけは、物音ひとつ聞こえなかった。

まるで音そのものが、この家を避けて通っているかのように。


蒸し暑い夕暮れ、蝉時雨の中を歩きながら、私は幼い頃に聞いたある「怪談」を思い出していた。

村はずれにぽつんと建つ一軒の古い家――今では誰も住んでいない廃屋には、昔から幽霊が出るという噂があったのだ。

幼い頃、友達同士で肝試しをしようとその家に近づいたことがあったが、結局誰も中に入る勇気はなく、庭先で泣き声のような音を聞いた気がして逃げ帰った記憶がある。

それ以来、その古い家は私にとっても「近寄ってはいけない場所」となっていた。


夜、家で夕飯をとりながら、私はふと祖母に尋ねてみた。

「ねえ、おばあちゃん。村はずれの古い家って、今もまだそのまま残ってるの?」

祖母は箸を止め、しばらく考え込むような表情を浮かべた。

「……ああ、あの家のことかい。誰も住んどらんよ。もう何十年もね。近所の者も関わり合いになりたがらないし、村でもほとんど話題にせん」

祖母は声を落として続けた。

「昔ね、あの家に住んでいた家族がいたんだけど…不幸なことが起きてねえ。それ以来、あそこには霊が出るって。だからみんなあまり近寄らんのさ」

その言葉を聞いて、私は子供の頃友達と聞きかじった噂話を思い出した。

「夜になると女の人のすすり泣く声が聞こえる」――子供心に恐ろしくて震えた噂話だ。


「何があったのか、詳しく知ってるの?」

私は興味を抑えきれずにさらに質問した。

祖母は一度私と目を合わせたが、すぐに視線をそらし、

「もう昔のことだよ…詮索しない方がいい」

とだけ言って話を終わらせようとした。


その夜、私はなかなか眠れなかった。

窓の外ではひぐらしがカナカナと鳴いている。

村の夜は暗く、新月の空には星がびっしりと瞬いていた。

あの廃屋は、村外れの林の近くにあるから、窓からは見えないはずだ。

それなのに、私はなぜか窓越しにそちらの方角へと意識が向いてしまう。


枕を抱えて耳を澄ましていると、遠くで誰かがすすり泣いているような、か細い声が聞こえた気がした。

はっとして身を起こし、窓を細く開けて耳を澄ます。

しかし、聞こえるのは風に揺れる草木のざわめきと、虫の声だけだった。

気のせいかもしれない、と自分に言い聞かせながらも、不安な胸騒ぎが収まらず、私はなかなか寝付けなかった。


翌日、私は居ても立ってもいられず、あの廃屋へ行ってみることにした。

祖母には「散歩に行ってくる」とだけ告げ、昼下がりの陽射しの中、一人で村はずれへと向かう。


田んぼ道を抜け、小川に架かった古い石橋を渡ると、ぽつんと一軒だけ朽ちかけた日本家屋が現れた。

空気が急に変わった気がした。湿気が濃くなり、まとわりつくような重い風が肌を撫でていく。

周囲の草はぼうぼうと生い茂り、セミの声が一切聞こえなくなっていることに気づいた。

まるでこの家を中心に、音が吸い込まれているようだった。

さっきまで喧しく鳴いていた夏の音が、ここだけごっそりと抜け落ちている。

背筋にぞくりと寒気が走る。にもかかわらず、なぜか足が止まらない。


それどころか、家の前に立った瞬間、かすかに……湿った土と古い紙の匂いに混じって、甘ったるい匂いがした。

線香?それとも…腐った果物のような……。

草をかき分けて進むたびに、地面がぐじゅりと音を立てた。

濡れている。数日前に雨が降ったのだろうか?

いや、違う――空は晴れているし、ほかの場所は乾いていた。

この家の周囲だけ、妙に湿っている。

草に触れた指先にも、べたついた何かがまとわりついていた。

水気…ではない。何か古く、腐ったような、染み込んだ“感触”。


私は喉の渇きを覚え、生い茂る草をかき分けて玄関の前まで進んだ。

玄関の引き戸に手をかけ、ゆっくりと引いてみる。

すると、錆び付いた金具がぎしりと音を立て、戸がわずかに開いた。

中からひんやりとした空気と、湿気を含んだ土と木の匂いが流れ出してくる。

その中に、ほんの一瞬だけ、冷たい水のような匂いが鼻をかすめた。

井戸水のような匂い。


私は小さく息を吸い込み、「失礼します……」と誰にともなく声をかけて中へ足を踏み入れた。

薄暗い土間には、古い長靴と小さな子供用の赤い下駄が揃えられて残っている。

それを見た瞬間、心臓がどくんと跳ねた。

何十年も人が住んでいないはずなのに、まるで家族が今でもここに暮らしているかのように靴が置かれている。

埃に埋もれていない。誰かが定期的に並べ直しているかのように、きちんと整えられていた。


土間から上がり框を踏んで居間へとのぞくと、畳には埃が厚く積もり、壁の柱時計は止まったままだった。

ふすまを開けるたびに、空気が少しずつ重くなっていく。

まるで部屋ごとに密度が違うかのようだった。

座敷に入った瞬間、喉が詰まるような感覚に襲われる。

“濡れた紙”のような匂いが鼻に絡みつき、何かがじっとこちらをうかがっているような視線の感覚が、背中をなぞる。


薄明かりの射す座敷には古びた座卓がひとつ、傍らの棚には色褪せた家族写真が飾られている。

写真立てに収まっていたのは、若い夫婦と幼い女の子の三人家族の笑顔だった。

少女は五歳くらい、大きなリボンをつけて笑っている。

幸せそうなその笑顔と、今の荒れ果てた家の様子との落差に、思わず息を呑んだ。


私は座卓の上に目を移した。そこには黒ずんだ日記帳のようなノートが一冊、埃を被って置かれていた。

私は喉を鳴らし、恐る恐るそれを手に取った。

ページを開くと、ふわりと埃と湿ったインクの匂いが漂った。

紙はふやけ、インクがにじんでいる。

指先にじっとりと貼りつくその感触が、なぜか“体温”のように思えてならなかった。


私はその場にしゃがみ込み、日記の表紙をめくった。

古いインクで綴られた文章を追っていくと、ある夏の日付の箇所で手が止まった。


「7月18日

花が行方不明になって一週間が経った。警察も村の人たちも懸命に探してくれたが、手がかりは何ひとつ見つからない。まるで神隠しだ。皆は川に流されたのだろうと言う。でも私は信じない。夜になると家のどこからか花の笑い声が聞こえる気がするのだ。気のせいだろうか? いいえ、あれは確かに花の声だ。どうか姿を見せておくれ。」


「7月21日

昨夜、物音がして目を覚ますと、庭の方から花の声で『ママ……ここだよ』と囁くような声がした。夢ではない。私は縁側から外に出た。月明かりの下、庭の井戸の傍らに白いワンピースを着た花が立っていた。『花!』と叫んで駆け寄ろうとしたが、あの子はスーッと井戸の中へ消えてしまった。愕然として井戸を覗き込んだが、暗くて何も見えない。あれは本当に花だったの? それとも……。」


「7月30日

もう限界だ。花がいない世界で生きていく意味なんてない。毎晩、花が私を呼んでいる。あの井戸の底から手を振る小さな手が私を狂わせる。隼人さん(夫)は怯えて神社からお守りをもらってきたけれど、何になるというの? 今夜、私は花に会いに行く——」


ページをめくるたびに、空気が重く沈んでいくのがわかった。

まるで、部屋全体がこの日記を一緒に読んでいるかのような錯覚。

紙の隅に滲んだインクのシミが、じわじわと広がっていくように見えた。


そして——


バタンッ!


突然、家全体が揺れるような音が響いた。

私は悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえ、凍りついたように動けなくなった。

音のした方向をじっと見つめる。二階から聞こえたような、あるいは……廊下の奥。

誰かが、ゆっくりと歩いているような、ギシ……ギシ……という床の軋み。


何かが、確実に“いる”。


私は反射的に日記帳を胸に抱え込むと、立ち上がって玄関の方へと駆け出した。

後ろでミシ…ッ、ミシ…ッと床板の軋む音がゆっくりと近づいてくる。

その音は、確実に“私の背中”を追っていた。


堪らず玄関から外へ飛び出し、そのまま一目散に家まで逃げ帰った。


家に戻った私は、荒い息を整えながら自室の布団に倒れ込んだ。

胸にはあの日記帳がしっかりと握られている。

夢中で読み進めていたが、書かれていた内容はあまりにも悲惨で、頭の中が混乱していた。

幼い娘が忽然と姿を消し、母親は狂気の末に井戸に身を投げたのだろうか。

あの家に囚われた母親の霊は、今も娘を探し続けて泣いているのかもしれない。


私は震える指で日記帳を撫でながら、居ても立ってもいられない衝動に駆られていた。

何か…何か自分にできることはないのだろうか。

このまま恐れて逃げていては、きっと夜毎聞こえる泣き声からも逃れられない気がした。


私は日記帳をそっと鞄にしまうと、意を決してもう一度あの廃屋へ行ってみることにした。

今度は夜。きっと彼女の霊が現れる時間に。


月が雲間に隠れ、辺りは暗闇に包まれていた。

私は懐中電灯を片手に、再び田んぼ道を抜けて古い橋を渡った。

昼間とは打って変わって、廃屋の佇まいは闇に溶け込み、不気味な影の塊のように見える。

吹き抜ける夜風に草むらがざわめき、背後の林からフクロウの鳴く声がした。

それでも私は足を進め、震える手で懐中電灯を握りしめながら玄関へ向かった。

引き戸は先ほど自分が出てきたときのまま半開きになっている。

私はごくりと唾を飲み込み、静かに中へと踏み入れた。


家の中は真っ暗だった。懐中電灯の細い光が畳の上を揺れ動き、壁に伸びた自分の影がいやに大きく見える。

私は居間を通り抜け、縁側へと出た。庭には日記に書かれていた古い井戸がぽっかりと口を開けているのが見える。

雑草に覆われ苔むした井戸だ。

私は縁側に膝をつき、そっと井戸に近づいて中を覗いた。

懐中電灯の光を投げ入れるが、深い闇が広がるばかりで底は見えない。

ただ、水気を含んだ冷たい空気が吹き上がってきた。

ぞくりと背筋に寒気が走ったその時——。

「…ママ…?」

背後で小さな子供の声がした。


私は動けなかった。

あまりにも自然な、だけど異様な“声”だった。

あの高さ、あのトーン……間違いない。

日記に書かれていた、あの「花」という少女の声だ。


背後から足音が近づいてくる。

ぽた……ぽた……と、濡れた足が畳を踏みしめるような音。

ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる気配に、私は全身を強張らせた。


「ママ……ここにいるの……」


その声に、思わず私は振り返ってしまった。


縁側の先、闇の中から現れたのは、白いワンピースを着た小さな女の子だった。

顔は……見えない。

髪が長く垂れ下がって、表情は隠れている。

だけど、その手だけは見えた。

小さなその手は、ぐっしょりと濡れていた。まるで、井戸の底から這い上がってきたばかりのように。


少女はじり……じり……と私に近づいてくる。

逃げなければ、と思っているのに、足が動かない。

そのときだった。


——バサッ。


少女の後ろから、何かが現れた。

その“何か”は、這うようにして縁側を横切り、私の前にぬるりと姿を現した。


血だらけの顔。

両目は真っ黒に塗りつぶされたようで、どこを見ているのか分からない。

長い髪は濡れて肌に張りつき、口元には笑っているとも、苦しんでいるともつかない歪んだ表情が浮かんでいた。


——母親だ。


私は悟った。

この女は、日記を書いたあの母親。

花を失い、狂い、井戸に身を投げた……あの“母親のなれの果て”なのだ。


女はゆっくりと口を開いた。


「……返して……」


ぞわり、と空気が凍った。

その声は、冷たく、湿っていて、耳ではなく“骨の内側”に直接染み込んでくるようだった。


私は咄嗟に後ずさりし、転がるようにして廃屋を飛び出した。


あれからどうやって家まで戻ったのか覚えていない。

気がつけば私は自室の布団の中で震えていた。

窓の外はかすかに白み始めている。もうすぐ夜が明ける。

「助かった……」私は荒い呼吸を整えながら呟いた。全身が汗でびっしょりだった。


それでも、生きて家に戻れたことに安堵し、重い瞼を閉じる。

まぶたの裏には、井戸端に立つ少女の姿や、血まみれの女の顔が焼き付いて離れない。

もう二度と、あの家には近づかない――そう心に誓いながら、私はなんとか眠ろうとした。


……カタン。


不意に、部屋の押し入れのあたりから、小さな音がした。

まるで何か硬いものが、ゆっくりと床に落ちたような音。

反射的に目を開ける。部屋の中はまだほの暗い。

窓の隙間から差し込むわずかな朝の光が、天井をぼんやり照らしている。


じわじわと、肌の表面に嫌な汗がにじみ出る。

部屋は静まり返っているのに、なぜか空気が濡れているようだった。

ぬるい霧の中に放り込まれたような、まとわりつく重さ。

喉の奥にカビ臭い空気が引っかかって、息を吸うたびに咳き込みそうになる。


押し入れの前から、かすかに“湿った音”がした。

ポト……ポト……と、水が畳に染みこむような音。

聞き違いだと思いたかった。でも、確かにその音は、そこにあった。

ゆっくりと頭を動かして押し入れの方を見る。

障子の隙間は、わずかに黒く開いていた。


そして——


「ねんねんころりよ……」


子供をあやすような、低く、掠れた女の声が、暗い押し入れの奥から聞こえてきた。

一言一言が、まるで空気そのものに染み込んでいくように重く響く。

「坊やはよい子だ……ねんねしな……」


私は声を出そうとしたが、喉が固まり、息が詰まった。

体が重い。腕も、足も、金縛りにあったように動かない。

目を閉じたくても、まばたきさえできなかった。


息ができない。


押し入れの方から、ずる……ずる……と何かが這うような音が近づいてくる。

畳の上を濡れた布が引きずられているような、生ぬるい音。

耳元の空気が妙に冷たい。まるで冷蔵庫の扉が開いたときのような、じっとりとした冷気が這い寄ってきた。


そして——


「……返して……」


耳のすぐそばで、冷たい女の囁きが響いた。

まるで耳の中に直接吹き込まれるような、湿った吐息。

私の肩に、冷たく濡れた指が、そっと触れた。


恐る恐る目を動かすと——

布団の中で丸くなった私の肩越しに、血まみれの女の顔が、真っ黒な瞳でじっとこちらを覗き込んでいた。


その瞳には、底知れない“水の闇”が宿っていた。

そして、ゆっくりと口を開きながら、女はもう一度囁いた。


「あなたが……代わりに……」


目を覚ましたのは、それから何時間もあとだった。

まぶしいほどの朝日が差し込む部屋で、私は布団にくるまったまま、冷や汗でぐっしょり濡れた体を震わせていた。

窓の外では、昨日と変わらない村の風景が広がっていた。

セミが鳴き、遠くで子供たちの声がする。

何もかもが、まるで「最初から何もなかった」かのように。


私は恐る恐る押し入れを見た。

ぴたりと閉じられていて、隙間も何もない。

昨夜の出来事が本当に起きたのか、それともただの悪夢だったのか、区別がつかない。

けれど一つだけ、確かに“違っている”ものがあった。


畳の上に、濡れた小さな足跡が残っていたのだ。

子供の足跡のような、それは押し入れから始まり、私の布団の脇まで続いていた。

そしてその脇に、赤い子供用の下駄が、左右きちんと揃えて置かれていた。

あの廃屋の土間にあったものと、全く同じだった。


私は声も出せず、ただじっと、それを見つめていた。

遠くでまた、子守唄のような旋律が、風に紛れて聞こえた気がした。


「ねんねんころりよ……」


私の肩には、まだ“あの冷たい手”の感触が、うっすらと残っていた。

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