第12話「ありがとう、いただきます」

春の陽気に包まれた「キョンフェスティバル」の会場は、予想を上回る人出で賑わっていた。川沿いの公園に設置された白いテントが風に揺れ、「千葉キョンサイクル」の横断幕が青空に映える。


修は本部テントで、来場者の対応に追われていた。地元の人々はもちろん、東京や神奈川、埼玉など関東各地から訪れた人々で、会場は活気に溢れていた。


「こちらがパンフレットです。会場内にはキョン料理の屋台が12店舗、料理実演コーナー、獣害対策の展示ブースなどがあります」


修は笑顔で来場者に説明しながら、心の中で感慨に浸っていた。「キョンの日」から半年、この日のために様々な準備を重ねてきた成果が、今目の前で花開いている。


本部テントの隣では、竹内が猟友会の若手と共に、わな猟の実演と展示を行っていた。初めて見る罠の仕組みに、都会から来た家族連れが興味津々の様子だ。


「キョンを捕獲するだけでなく、自然との付き合い方を学ぶことが大切なんだよ」


竹内の渋い声が、真剣に聞き入る子どもたちに届く。かつての厳格な表情は和らぎ、後継者を育てる師匠として穏やかな雰囲気を醸し出していた。


会場の中央では、静江を中心とした「キョン料理研究会」のメンバーによる調理実演が行われていた。


「キョンのコロッケは、肉をしっかり下茹でして、玉ねぎと合わせるのがポイントよ」


静江の実演を、大勢の人々が取り囲んでいる。地元のベテラン主婦たちだけでなく、エプロン姿の若い女性や男性の姿も見られた。


「静江さんの弟子が増えましたね」


修の横に現れたみのりが、笑いながら言った。


「みのりさん!忙しいでしょう?」


「ええ、でも一息つけそうなので、様子を見に来ました」


みのりは「キョンフェスティバル」の実行委員長として、準備段階から当日の運営まで中心的な役割を担っていた。彼女の行政経験と調整能力が、このイベントの成功に大きく貢献していた。


「思った以上の人出ですね」


「ええ、予想の倍以上です。メディアの露出効果は大きかったようです」


フェスティバルの開催は、地元紙だけでなく、全国紙や食の専門誌、さらにはテレビのローカル番組でも取り上げられた。「害獣を地域資源に変える取り組み」として注目を集めていたのだ。


「宮川さんのブースも大人気みたいですよ」


みのりが指差した先では、「晴屋」の出店ブースに長い行列ができていた。宮川が提供する「キョンバーガー」は、フェスティバルの目玉商品の一つだった。


「あれは『千葉キョンソーセージ』を使ったバーガーです。地元の野菜と一緒に食べれば、この地域の恵みを一度に味わえます」


近くにいた年配のカップルに修が説明すると、二人は感心した様子で頷いた。


「じゃあ、ぜひ食べてみなきゃね。都会じゃ食べられない味でしょ?」


「はい、ここでしか味わえません」


カップルが宮川のブースに向かうのを見送り、修とみのりは笑顔を交わした。


「本当に盛況ですね」みのりは満足そうに言った。「市長も喜んでいましたよ」


「清水市長もいらしてるんですか?」


「ええ、さっき挨拶に来てくれました。『こんなに多くの人が集まるなんて、最初は想像できなかった』と仰っていましたよ」


修は嬉しそうに頷いた。当初は懐疑的だった市長も、今では「キョンサイクル」の強力な支援者となっていた。


「あ、龍太郎さんも来てますよ」


みのりが人混みの向こうを指差した。龍太郎はカメラマンを連れて会場内を回っていた。


「今回も記事にしてくれるそうです。『美食探訪』の特集として」


「それは嬉しいですね」


龍太郎の記事は、前回の「キョンの日」でも大きな反響を呼んだ。東京の飲食業界でのキョン肉の評価を高めるきっかけとなり、現在では複数のレストランと継続的な取引が実現していた。


「修さん、少し休憩しませんか?ずっと立ちっぱなしですよ」


みのりの気遣いに、修はようやく自分の疲れに気がついた。


「そうですね...少しだけ」


二人は本部テントの裏手に移動し、準備してあった椅子に腰かけた。少し離れた場所からは、フェスティバルの賑やかな声が聞こえてくる。


「信じられないですね」修は遠くを見つめながら言った。「あの日、白菜が荒らされて怒っていた僕が、今はキョンのおかげでこんな素晴らしい経験をしている」


みのりは優しく微笑んだ。


「修さんが来てくれたからこそ、このプロジェクトが生まれたんです。東京での経験と、この土地への新鮮な視点。それが素晴らしい化学反応を起こしました」


「いえ、みのりさんや竹内さん、静江さん、宮川さん...皆さんの協力があってこそです」


修は心からの感謝を込めて言った。


「そうですね。一人では何もできません」みのりは頷いた。「でも、修さんが『触媒』になってくれたんです」


二人は静かに、周囲の景色を眺めた。春の日差しが川面を煌めかせ、桜の花びらが舞う光景は絵画のように美しい。


「これからも続けていきたいですね」みのりが静かに言った。


「はい、もちろん」


修は力強く頷いた。この一年で、「キョンサイクル」は彼の人生の重要な部分になっていた。畑仕事と並ぶ、新しい生きがいだった。


「そろそろ戻りましょうか」


みのりが立ち上がり、修も続いた。二人が本部テントに戻ると、地元の高校生たちが待っていた。「キョン食育プログラム」の参加者たちだ。


「早乙女さん、質問があるんです」


背の高い男子生徒が、緊張した様子で言った。


「キョンの捕獲から料理までの一連の流れを、自分たちもやってみたいんです。どうすれば参加できますか?」


修はその質問に、心から嬉しさを感じた。若い世代が関心を持ってくれることは、プロジェクトの未来にとって最も重要なことだった。


「もちろん、参加できますよ。実は来月から、若者向けの『キョンサイクル体験プログラム』を始める予定なんです」


高校生たちの目が輝いた。修は彼らに詳細を説明し、パンフレットを渡した。


「最初は難しいこともあるかもしれないけど、一緒に学んでいきましょう」


高校生たちが去った後、修は深い満足感を覚えた。自分が学んだことを次の世代に伝えていく。それは竹内から修へと繋がれた知恵の循環であり、この土地で生きていくということの本質なのかもしれない。


---


フェスティバルは夕方まで続き、最後には予想を上回る来場者数を記録して成功裏に閉幕した。片付けを終えた後、中心メンバーたちは「晴屋」に集まり、打ち上げを行った。


「皆さん、本当にお疲れ様でした」


宮川がグラスを掲げた。テーブルを囲んでいたのは、修、みのり、竹内、静江、そして宮川夫妻。「キョンサイクル」の中核メンバーだ。


「乾杯!」


グラスを合わせる音が響き、和やかな雰囲気が広がった。


「来場者は当初予想の2.5倍だったそうだ」


みのりが報告した。


「素晴らしいじゃないか」


宮川は満足げに言った。


「販売したキョン料理も全て完売。『晴屋』のバーガーは正午には売り切れてしまったよ」


「私たちのコロッケも大人気だったわ」


静江も誇らしげに言った。


「次回はもっと作らなきゃね」


「次回?」修が尋ねた。


「もちろん」静江はくすくす笑った。「もう来年の話が出てるじゃない。『第2回キョンフェスティバル』よ」


「本当にそうですね」


みのりは頷いた。


「今日の成功を受けて、市長から『来年はもっと規模を拡大しよう』と言われました。県の観光協会も興味を示しているそうです」


皆が喜びの声を上げる中、竹内だけが少し考え込んでいた。


「どうしました、竹内さん?」


修が心配そうに尋ねると、竹内はゆっくりと口を開いた。


「いや...急に大きくなりすぎるのは心配だな。このプロジェクトの良さは、地に足をつけた取り組みだということだ」


竹内の言葉に、皆が黙って耳を傾けた。


「自然と向き合うということは、謙虚さが必要だ。キョンはただの『資源』ではなく、命ある存在。その事実を忘れてはならない」


修は深く頷いた。竹内の言葉には重みがあった。


「竹内さんの仰る通りです。いくら規模が大きくなっても、『命をいただく』という原点は忘れてはいけませんね」


「そうだな」宮川も同意した。「商業的な成功も大切だが、自然との共存という哲学を忘れないことだ」


みのりも真剣な表情で頷いた。


「今後の展開を考える上で、大切な視点をありがとうございます。規模拡大と理念の維持、両方のバランスを考えていきます」


打ち上げは深夜まで続き、皆がそれぞれの思いや今後の展望を語り合った。「キョンサイクル」は確かな一歩を踏み出したが、まだ始まったばかり。これからも様々な課題や新たな発見があるだろう。しかし、この仲間たちと共にならば、乗り越えられないことはないと修は確信していた。


---


フェスティバルから一週間後の早朝、修は一人で山に入っていた。昨日、竹内から「いいキョンが捕れた」との連絡を受け、一緒に解体作業をした後、肉の一部を分けてもらったのだ。


山の中腹にある小さな開けた場所に到着した。そこには石で作られた簡素な焚き火台があり、修はそこに薪を組んで火を起こした。


「静かだな...」


朝霧の立ち込める山中は、人の気配はなく、ただ鳥のさえずりと、木々を揺らす風の音だけが聞こえる。修はその静寂に身を委ねながら、焚き火の準備を整えた。


バックパックから、昨日処理したキョン肉のロース部分を取り出す。シンプルに塩とハーブだけで味付けし、鉄板の上に置いた。


炎が安定してきたところで鉄板を火にかけ、肉を焼き始めた。「ジュッ」という音と共に、香ばしい香りが立ち上る。


この一年間で、修のキョン料理の腕前は格段に上がっていた。最初の頃のような失敗はなく、今では肉の状態を見極めて、最適な調理法を選べるようになっていた。


焼き色が付いた肉をひっくり返し、もう少し焼く。鉄板から立ち上る湯気が、朝の冷たい空気の中で白く渦を巻く。


「よし、ちょうどいいな」


肉を鉄板から取り、木の皿に盛りつけた。シンプルなローストキョン肉。添えるのはわずかな塩と、自分の畑で摘んだハーブだけ。


修は焚き火の前に座り、静かに手を合わせた。


「いただきます」


最初の一口を口に運ぶ。薪の香りがほのかに付いた肉は、野生の風味と共に口の中に広がる。適度な弾力と旨味が調和し、自然の恵みを感じさせる味だった。


「うまいな...」


修は呟きながら、ゆっくりと噛みしめた。一年前、腐りかけの肉に悪戦苦闘していた自分が、今ではこうして山の中で一人、満足のいく料理を作れるようになった。その成長の過程が、まるで映画のように頭の中で再生される。


猟師との出会い、免許の取得、失敗と学び、地域の人々との交流、そしてプロジェクトの誕生と発展。


「全て、キョンから始まったんだな」


修は微笑みながら、空を見上げた。朝日が山の向こうから差し始め、霧を黄金色に染めていく。


「ありがとう、キョン」


心からの感謝の言葉を、修は静かに口にした。それは獲物への敬意であり、この土地への感謝でもあった。


焚き火を囲みながら、修はこの一年を振り返った。東京での疲弊した日々、田舎への移住、キョンとの出会い、そして新しい人生の発見。


あの日、白菜が荒らされた怒りが、今では深い感謝に変わっていた。人生は時に思いがけない方向に進むものだ。


「修さーん!」


遠くから声が聞こえてきた。修が振り返ると、山道を上がってくる人影が見えた。みのりだった。


「みのりさん?どうして...」


「竹内さんに聞いたんです。修さんが山で朝食を取るって」


みのりは息を切らしながら近づいてきた。


「すみません、突然来て。でも...」


彼女は少し恥ずかしそうに言った。


「私も修さんの焼くキョン肉が食べたくて」


修は嬉しそうに笑った。


「ちょうどいいタイミングです。まだたくさんありますよ」


みのりを焚き火の横に招き、修は再び鉄板を火にかけた。


「ここからの景色、素晴らしいですね」


みのりは目の前に広がる山々を見渡した。朝霧が徐々に晴れ、新緑の美しい風景が現れてきていた。


「ええ、特等席です」


修が鉄板で肉を焼きながら言った。


「この山にキョンがいて、僕らがいて...全てが繋がっているんですね」


みのりは静かに頷いた。


「自然の循環の一部になる...それが田舎で生きるということなのかもしれません」


二人は静かに景色を眺めながら、焚き火の温かさを感じていた。やがて肉が焼けると、修は木の皿に盛りつけ、みのりに渡した。


「どうぞ」


「ありがとうございます。いただきます」


みのりが一口食べると、驚いた表情になった。


「これ...とても美味しいです!レストランで食べるのとまた違う...」


「山の中で食べるとまた格別ですよね」


二人は美味しさに感嘆しながら、静かに食事を楽しんだ。穏やかな風が二人の周りを吹き抜けていく。


食事を終え、修が片付けを始めようとしたとき、みのりが言った。


「あの...修さん」


「はい?」


「実は、新しい移住者が来るんです。東京から」


「へえ、それは良いですね」


「はい。三十代の女性で、キョンサイクルに興味があるそうです。フェスティバルの記事を見て連絡してきたとか...」


修は嬉しそうに頷いた。自分たちの活動が新たな人を呼び寄せている。それは確かな手応えだった。


「宮川さんのところでアルバイトをしながら、猟の免許も取りたいと言ってるんです」


「そうですか。ぜひ竹内さんの講習に参加してもらいましょう」


みのりはさらに続けた。


「それで...その方が明日到着するんですが、修さんに最初の案内役をお願いできないかと...」


「もちろんです、喜んで」


修は即答した。かつての自分のように、新しい一歩を踏み出した人の力になれるなら、これほど嬉しいことはない。


「ありがとうございます」


みのりは安心したように笑った。


二人は焚き火の残り火を確実に消し、山を下り始めた。朝日が完全に昇り、新しい一日が始まっていた。


---


翌日、修は駅のホームで電車を待っていた。東京から来る新しい移住者を迎えるためだ。


電車が到着し、乗客が次々と降りてくる。修はみのりから聞いた特徴を頼りに、相手を探した。


「早乙女さんですか?」


声をかけてきたのは、短いボブヘアの若い女性だった。スマートでありながらも、どこか自然体の雰囲気を持っている。


「はい、修です。あなたが...」


「田中です。美咲と呼んでください」


彼女は明るく笑って手を差し出した。


「よろしくお願いします。キョンの捕獲から料理まで、全部教えてください!」


その積極的な姿勢に、修はかつての自分を重ねた。約一年前、自分もこうして新しい土地に降り立ったのだ。


「もちろんです。でも最初は失敗の連続かもしれませんよ」


修は笑いながら答えた。


「罠の設置、教えてください!」


美咲の目は輝いていた。新しい挑戦への期待と不安が入り混じった、あの懐かしい表情。


修は笑顔で頷いた。そして二人は駅を出て、新緑眩しい道を歩き始めた。


「まずは畑を見せましょうか。実はキョンとの出会いは、白菜が食べられたことから始まったんです...」


修は自分の物語を語り始めた。それは一人の都会人が自然と向き合い、命の循環の中で新しい生き方を見つけた物語。そして今、その物語は新たな章を迎えようとしていた。


彼らの背後では、山々が静かに佇み、その懐には今日もキョンたちが息づいている。人と自然の絶妙なバランスの中で、命を回す小さな循環は、これからも続いていくだろう。


(完)

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キョンと共に生きる セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon

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