煉獄の終わり

鍋谷葵

煉獄の終わり

 バラックの街並みを見下ろす小高い丘に建つ木造病院。その二階のバルコニー越しの窓から見える桜は、晴れ渡る青空にその花弁を散らせていた。

 開けっ放しの窓を吹き抜けてくる快い風は、白桃の花弁を彼らの一室にもたらす。ベッドと木棚が置かれているだけの部屋に。

 風の音だけ響く静謐な洋室には、二人。いや、一人と言った方が正しいのだろう。一人は健やかな寝息を立てているのだから。

 柔らかなマットレスで仰向けに寝ている彼女は、寝返りを打って、枕もとの椅子に座る彼の方を向いた。肩までかかる濡羽色の髪が、彼女の横顔を覆った。彼と言えば、骨ばったほっそりとした手で、その髪を優しく彼女の耳にかけた。労苦が滲み出ている彼の顔には、それを霧散させるような穏やかな微笑が浮かんでいた。彼は自身の微笑をなぞるように、優しく彼女の額を撫でた。

 繊細な織物を触れるような彼の仕草は、その雰囲気を一層お淑やかなものとした。中性的で美麗な顔立ちと、すらりとした撫で肩の痩躯が纏う儚さは、春霞に包まれているようだった。ことに、彼が愛でている彼女の顔立ちも整っている点が、その空気を一層醸し出した。夢幻と現実の境界線が、その一室にひかれていたのだった。

 曖昧模糊な存在は、二人の世界を色濃くした。和やかな空気と静けさが満ちる部屋には、二人の存在のほか、何も必要としなかったし、彼らはそうあってほしいと願っていた。

 若草と土の匂いを含んだ強風が、桜の花弁とともに部屋を鳴らした。薄紗の白いカーテンが靡き、カーテンレールは金属音を立て、開け放たれていた窓は喧しく「ガシャン!」と音を立てて閉じた。

 衝撃の後には、強烈な自然の匂いが残り、それは彼女を目覚めさせた。


「また眠ってしまっていたのですね」


 彼女は、長いまつげを称える瞼をゆったりと開けると、男に向かって微笑みかけた。まだ、微睡の中にいる声音は、彼の微笑みを一層緩くした。


「昨日は疲れたでしょう」

「いいえ、みなさんに比べれば……」


 彼と同じように微笑む彼女は、目を伏せながら起き上がろうとする。純白の掛布団が、さらりと彼女の体から落ちる。そこから現れるのは、ゆったりとした白色の病衣を纏った痩せた体。

 柔らかな日差しを浴びる彼女の体は、彼の目に冷たく映った。それは水面を覆う薄氷のごとき繊細な冷気である。彼はそれを沈めるため、落ちた布団を拾い、彼女の肩にかけた。


「御奉公にいかないと」

「三年も前に終わったんだよ」

「いいえ、終わってませんわ」


 美麗な顔に似合わない深い皺を眉間に作った彼女は、自分をマットレスに寝かそうとする彼の手に抵抗した。だが、弱弱しい抵抗は間もなく制圧された。

 安らかな寝床に、彼女は不快と焦燥が交った表情を浮かべ、彼に自身の感情を訴えかける。そんな彼女の汗ばんだ額を彼は優しく摩る。


「本当に、もう、全部終わったんだ。赤紙も、空襲も、もう来ないんだ」

「いいえ、違いますわ。終わってません、お兄様も、あの人も、死んだというのに、戦争に負けるなんて……」


 彼女の見開いた目から覗くのは、三年前の三月に取り残された憎悪に似た狂気であった。それは麗しい彼女の顔と声を歪ませた。


「あの人は死んでいないよ。玉砕の報は確かだけれど、生き残りがいたんだ」

「いいえ、私の恋人は亡くなりました」


 頑として恋人の死を肯定する彼女の声は、徐々に甲高く、耳障りな音に変化した。眼の奥には、煌々と燃える焼夷弾の炎が映っていた。頭巾とモンペを身に着け、祖父の手を引いて帝都を駆け抜けたとき、刻み込まれたあの光景が。

 幻想と現実の間で揺れる彼女は、彼のか細い手首を力強く握った。女性の、しかも痩せた者の把持は、それが全力であったとしても痛みにはならなかった。その悲しいほど弱弱しい彼女の手の指を一本一本、彼は丁寧に撫で、指に宿る無機質な硬さに心を震わせた。すべてを焼かれ、すべてを剥奪された末娘の手は、途方もなく憐れだった。

 一滴の涙が、彼の頬を伝い、木床に落ちた。涙滴は、一瞬にして古い木床のシミと同化し、憐憫の物的証拠は消え失せた。しかし、涙に籠る情の残滓は、部屋に充満した。

 殺戮の光景が生み出した狂気に閉ざされた彼女の世界に、注射器の針ほどの風穴が空けられた。麗らかな現実の粒子は、その穴に向かってなだれ込み、蚕を愛でるように自身の手を摩る彼の顔を描き出した。

 彼の肖像がくっきりと彼女の世界に描き出されると、彼女は目を丸くして、涙を零す彼を見つめた。そうして、彼の手首から手を放し、その手を痩せこけた彼の右頬にあてがった。春の陽だまりに似た彼女の掌は、憐憫の情を彼から取り上げた。


「すっかり、お痩せになって」

「……僕がわかるのかい?」


 愕然とした彼は、彼女の手の甲を自身の掌で覆った。


「ええ、ずっとお待ちしていましたから」


 痩せ、硬くなった指の腹で、彼女は自分の待っていた人を確かめるように、何度も彼の顔を摩る。深く黒ずんだ目元に、欠けた耳たぶに、骨が浮き出た青髭塗れの頬に、彼女は慈愛の温もりを注いだ。

 彼は彼女の温もりを自らの体に染み込ませる様に、涙を零しながら、彼女の掌に頬を擦り付けた。掌を往復する青髭のこそばゆい感触に、彼女は目を細めた。

 の母親のごとき慈愛は、憔悴の極致にあった彼の心に微かな安らぎを与えた。それは代え難い良薬であった。マラリア熱にいまだ悩まされる彼の肉体的、精神的な不和は彼女の温もりを肌身に感じている間、彼の中から消え失せた。


「ねえ、君。君は、これからどうしたい?」


 彼女の温もりを放さぬように、彼女の手に自分の手を絡めた。瘦せた手と手は、絡み合って一つとなった。


「御前様と一緒に暮らしたいです」


 彼は彼女の手を力強く握ったが、すぐさま、弛緩させて自分と彼女との間にある心身の融和を分離させた。この刹那、彼女はこのやり取りに対するデジャヴを覚えた。それは予感ではなく、脳に刻み込まれた記憶に基づく確信であった。

 弛緩する手を放さぬように、彼女は精一杯の力で彼の手を握った。その力強さは、自身の欲望から遊離していた彼を再びそこへと融和させた。


「わたくしの時間が短いのでしょう?」


 自らを哀れむのではなく彼を哀れむ彼女の言葉は、彼の心に一切の抵抗なく浸透していった。彼としても自身の惰弱さに悔恨の念を抱かなければならない状況に対し、どうして落ち着いていられるのか、不思議でならなかった。

 凪いでいる胸中を察した彼女は、ゆったりと微笑み、手を緩めた。そうして春陽にあてられ、微かに汗ばんだ自身の額に、彼の手の甲をあてがった。


「わたくしは御前様の道に従います」


 手の甲に感じる湿り気には、妙な粘っこさや水っぽさはなかった。それは平生の心持から紡がれる本能の言葉の証明であった。

 彼は笑わず、ただ、決して険しいというわけではなく、非常に穏やかな表情を浮かべた。その視線は、自身の意思を奥ゆかしく証明する恋人へ注がれていた。


「僕は死ぬべきだった。学問を道半ばで奪われた同胞とともに。最期まで『桜をもう一度みてみたいなあ』と言っていた君のお兄様のように」


 平然とした彼の言葉には、嘘一つ滲んでいなかった。


「それはわたくしも同じです。わたくしも、空襲の折に死ぬべきだったんです。お屋敷を守れず、お爺さま、おばあさま、お母さまに、お父さまを見殺しにしたのですから」


 両者の声は妙に澄んでいた。互いに必然的な死を自覚し、その機会を剥奪され、それゆえに苦しめられているという点を深く理解していた。心を通わせた二人は、ゆっくりと手を弛緩させ、互いに微笑みあった。


「この国に僕らはもう必要とされていない。熱帯病に侵された復員兵も、気が触れた華族の末娘も」


 彼女は「そうですね」と頷き、彼はスラックスのポケットに手を突っ込み、真新しい一本の注射器と褐色の薬瓶を取り出した。


「向こうでお世話になった軍医の方からもらったんだ」


 ばつが悪そうに笑う彼の持つ小瓶の中身が、何なのか彼女にはわからなかった。ただし、これから彼が何をしたいのか、それがわからないわけではなかった。


「お礼、言わなければなりませんね」


 高貴な麗人にふさわしい落ち着いた声音は、彼の顔をほころばせた。


「向こうで会えたら一緒に伝えよう」


 彼は薬瓶と注射器を傍らの木棚の上に置いた。そこには白桃色の花弁が一片、落ちていた。彼はそれに視線を落とし、玉砕を指揮した連隊長たる彼女の兄の姿を思い出した。彼の視線を追う彼女も同じように、ぎらりと輝く銀色の傍らに佇む花弁を懐かしそうに見た。


「御前様、最期に桜を見ませんか?」

「ああ、そうしよう」


 痩せた体をベッドから起こした彼女は、彼の手を取って立ち上がった。二人は支え合いながら窓を開け、バルコニーに出た。二人の視線の先には、満開の桜並木。絢爛なる花弁の鮮やかさは、彼らの心身に刻まれた病を浄化した。


「綺麗ですね」


 彼の肩に持たれる彼女は、安らかな微笑を浮かべた。それは彼も同様であった。全身に感ずる愛おしい温もりは、互いの心を満たした。

 暇乞いの必要はなく、彼らは柔らかな日差しのもと、顔を合わせ、互いの疲れ切った相貌を愛おしそうに見つめた。暫時、二人は眼を見つめ、そこに自分たちの永遠の幸福を見出した。


「戻ろうか」

「はい」


 平穏な心のもと、二人は窓を開けたまま病室に戻った。


 その後の二人については言うまでもない。

 二人は幾枚かの桜の花弁で飾られた病室で、塩化カリウムの注射を薄い皮膚に浮かぶ青い静脈に打ち、死を迎えた。そして、二度と動くことのない二人の表情は、生前からは考えられないほど安らかであった。

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煉獄の終わり 鍋谷葵 @dondon8989

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