第2話
しかしそんなある日のことじゃ。
いつものやうに高六が障子の腕に飯をやりにくると、なんと腕がぐったりとしておって、高六は立ち所に青ざめた。
「おい、おい! どうした? 何があったんじゃあ?」
腕を持ち上げると、じんわりと熱を感じて、高六はたまげた。
「こ、こりゃあいかん。ひどい熱じゃ……しかし、いったいどうしたものやら……」
少し前、高六が米を卸しに街へ降りた際のことじゃ。米問屋は、一寸ほどもない小さな小さな、黒い大豆のやうな粒を三粒も見せて、高六に言った。
「おめえさん、おめえさんよ。外郎とは違うがの、こいつもまた珍しい漢方っちゅうもんじゃ」
「漢方とな」
「そうじゃ。どんな病に伏せっても、これを飲んで三日三晩看病し続ければ、そりゃあ治らねえもんなんかねえっちゅう代物じゃあ。先日、京の都から薬師様がお見えになられて、気まぐれに私らに下さっていったのよ」
「そりゃ大層なもんじゃ。——しかし、こんなもん、ただでもらうわけにゃあ……」
「なに。いつも世話になっとるでぇな。おめえさんも女房の一人もいねえで、倒れられでもしたら、米の実入りがなくなるってんで、こっちとしても心配なのよ。気にせんと持っとけ」
「そりゃあ、ありがてぇ、ありがてぇ。恩に着る」
さうして、そこの米問屋の主人にもらってゐた漢方薬が茶棚に閉まってあったのをすぐに思い出したが、腕に力が無くてはきちんと呑めるかも分からん。
そこで、それまで固く禁じていた障子の裏を覗き、直接口に流し込もうとしたのじゃ。
高六は意を決して、戸を開け、障子の裏を確かめて、とたんに目をぱちくりさせた。
なんと、裏には何もゐない。
高六は夢でも見とるのかと、そのまま家の中を改めると、そこにはしっかり障子から腕が伸びてゐる。それなのに、外から見ると忽然とその先が消えておった。
(あれま。やはりこの腕、もののけの類であったか……ううむ、だがしかしな……)
高六は一度は頭を抱えたが、黙って戸を閉めると、
(障子なんじゃ。手の一つも出てこずして、何が障子か)
今見た光景を振り払うやうにさう思うてかぶりを振るや再び内側の、障子から伸びた腕に付き添うことにしたのじゃ。
まず漢方薬をしかと握らせ、引っ込んだのを見ると、空いたおわんに水を注ぎ、再び腕が伸びてきて、おわんを取り上げるのを待った。
間もなく腕は水のたんまり注がれたおわんをとり、それも空にし、再びだらりと桟に腕をかけようとした。しかし高六は、その腕を自分の手の上に受け止めると、まるで女房にかってさうしたやうに、慈しんで抱き寄せたのじゃった。
さうして高六は三日三晩、片時も障子の傍を離れることなく、腕の看病をし続けた。
やがて、四日目の朝になると、高六は額を撫でる優しい感触に目を覚ますや、飛び起きて、
「お、おめえさん……げ、元気になったんか? もう具合は……どこも悪くねえのか?」
手は応へるやうに、軽い動きで手首を振り、親指を立てて見せたといふ。
「そうか……そうか! そりゃあ、よかった……よかったなあ」
高六はしかし、涙ながらにこれを喜んだ。障子の手を両の手で包み込んで、薄く差し込む朝日を拝むやうに、何度も、何度も頭を下げたのじゃ。
それからといふもの、高六は仕事を終へると障子に寄り添い、家にゐる間は何事も腕と共に過ごすやうになった。
ある日の夜。高六は不思議な光景を夢現に見た。
その夜は月に一度、まあるいお月さんが天高く大地を照らす日で、その月明かりは障子を超えて高六の寝てゐた居間にまでしっかりと届いておった。
高六はふと目を覚まして、微睡みに瞼をこすりながら、月明かりの差し込む障子を見上げたのじゃ。
すると、なんとしたことか。
居間に伸びた腕に続いて、障子の向うに大層雅な人の影が映っておるではないか。
それは朧げに浮かび上がる輪郭一つでそれと分かるほどに清廉潔白、見目麗しい乙女の姿であった。それも着物の影は縁側に深く、なだらかにどこまでも広がって、あまつさえ背には、帯のやうに緩く揺蕩う光輪まで差して見えた。
さうかうと高六が瞬く間に、気がつけば朝であった。
再び身体を起こして、障子の腕を見ても、普段と変わった様子はない。
高六はまさかとは思いながらも、その日も朝から畑仕事に向かい、帰ると今度は古い棚からあるものを取り出したのじゃ。
(なぁ……おひなよ。あの子なら、ええじゃろう?)
高六は心の御仏にさう尋ねると、いつものやうに飯を炊き、その日は
「な、なぁ……ちょいと、左の手を出しちゃあくれんかの」
障子の手は困惑したやうに、一度動きを止めると、言はれたとほりに腕を引っ込め、代わりに左の手を差し出した。
そしてしばらくして、高六は懐から取り出したその古い指輪をそっと——障子の手の薬指にはめたのじゃ。
「ど、どうじゃろうか……ウチにはこんなもんしかありゃあせんで、ほんにすまんがのう……」
高六は照れくささに頭をぽりぽりやってゐると、しかし、その手は感極まってじっと眺めるように指をぴんと伸ばしたのち、慌ただしく右へ左へ手先を躍らせ、しまいに人差し指と親指で円を描いて、高六に答へてみせたのじゃ。
さうして、ほんに奇妙なことじゃが、高六は手と
しかし、当時、巷で流行り出しておった写真を撮るには些か恐れられた。
なにせ、その家族写真。
男が一人写ってゐるのみで、あとは皆、障子から伸びる無数の腕だったのじゃから……。
「待って待って」
「どうしたのじゃ?」
いい加減に僕は口を挟まずにはいられなかった。
僕は額に指をついて、ひどく思い悩んだ末、やっとの思いで切り出した。
「うん——……と。ほっこりすればいいのか、怖がればいいのか、気持ちが行方不明になる」
「見つけてこい」
「んなこと言われても」
「でも、しょうがない。そういう話だし」
友人はそう言うと続けて、一枚の古い古い白黒の写真を見せてくる。
「で、これがその写真」
「現存してるんだ……」
深呼吸しながら見ると、確かに、古めかしいお座敷の上座に座る笑顔の素敵なおじいさんと、背後の障子からは無数の腕が生えていて、何なら今にもおじいさんを絞め殺そうとしているようにも見える。
そんじょそこらの極めて一般的な大学生であるところの僕には、本当に申し訳ないが、普通に心霊写真にしか見えないのだった。
「……もう一個いい?」
「どうぞ」
僕は震えながら、その写真を指で挟みながら、続けた。
「え? てことは……君の先祖って、"手"なの?」
「…………」
友人はいたって無表情のまま、ちらりと僕の方を見るだけで、静かに写真を受け取ると、やや眉尻を下げて物憂げに語り出した。
「……正月さー」
「うん……」
「久しぶりに実家帰って、レポート片付けながら、大掃除も手伝ってたらこれ出てきて……」
「うん……」
「"お母さん、これなぁに?"ってきいたら、おばあちゃんから今の話聞かされて、何も聞き返せなくなった私を察して……」
「あぁ、そっかぁ……」
しかしこれまた一般人には果てしなく難しい……。僕はまた額を指先で小突きたくなりながらも、友人には努めて優しい声をかけてやらねばと苦心した。
「……うん、えっとなんか、ごめん」
「……いいよ」
新年早々、奇妙な友人のとんでもない秘密を垣間見てしまった僕だった。
障子 白河雛千代 @Shirohinagic
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