障子

白河雛千代

第1話

障子から手が伸びてゐた。

 

 障子といふものを知らん子らのために注釈すると、それは木の枠に和紙など貼り付けて、薄く灯りを通さんと設えたもの。升目の大小に違いはあれど、大抵は格子状の木製の桟に白い和紙が貼り付けられておる。


 ある時、高六といふ男が気付いた折、すでにその一角に穴が空いてゐた。それで高六は手慰みにこれを修繕しようと思ひ立ち、上から被せる新しい和紙と糊を持って、居間に戻ってきたところじゃった。

 ふと高六はその場に立ち止まり、耳を澄ませた。

(はて……何やら妙じゃ。なにぞ物の気配がしおる……)

 そのやうに思ひ、障子の一角に空いた穴を注意深く眺めてゐると、なんと、穴の向うから手が、そろりそろりと伸びてくるではないか。

 まるでこちらを伺うやうな動きじゃ……ひょっとすると、近所の悪餓鬼か行き倒れの浪人かと思うて、高六はしばらくそのなまっちろい腕の動きを眺め、

(これは、はてさて、どうしたことか……さては穴をあけたのも此奴かの……?)

 しかし次第に哀れにも思へてきて、台所へいき、窯に米を落として炊き込み、やがて握り飯を一つ、二つこしらえると、口造りの欠けた古いおわんに乗せ、そっと……その腕の袂に置いてやったのじゃ。

 すると、その腕、飯の匂ひを嗅ぎつけたか、指先に握り飯を見つけたかと思ふと、一つ引っつかんで腕を引っ込め、しばらくするとまた腕を伸ばして、あっちゅうまに皿の握り飯を平らげてしもうた。

(やはり餓鬼か、行き倒れの浪人じゃったかの……仏になってしまわれるよりはよいか……)

 と、気づけばすっかり穴の修繕も忘れて、高六は障子から伸びた腕をほっておくことにしたのじゃ。

 しかし、腕は一向に帰らんかった。

 次の日も、そのまた次の日も、この腕は障子の穴を探るやうにして現れ、なにぞくれと催促するわけではなかったが、ほっとくと飽きもせず延々とそこにおったので、高六は飯時になると、その腕の分も米を炊き、握っては皿に出してやったのじゃ。

 右手の時もあれば、左の時もあった。

(しかし、よう見れば傷一つない綺麗な腕じゃ。これは浪人のものではあるまい、ましてや餓鬼でもないな、いやいや。じゃが……米や泥で汚しておくには惜しいのう……)

 洗いもせずに、毎度同じ手で喰らうもので、最初は綺麗に思へた指先も日毎、次第に汚れていった。それを忍びなく思うた高六はウェットティッシュで……あゝいや、水桶など出して拭いてやったりもしたものじゃ。腕も腕で、そうするとさっぱりと指を広げて見せたりもしてくるので、高六も悪い気はせなんだ。

 すると今度は、腕が何かを示すやうになり、仕切りに高六を呼びつけてきおった。

「なんじゃ……いったい、どうしたというんじゃ?」

 高六がその前に膝をつき、困り果ててゐると、その手は人差し指と親指を摘むやうにしてみせ、それで宙にくるくると円を描いてみせたのじゃ。

 やがて閃き、その指に今は亡き妻のかんざしを持たせてやることにした。そして高六がその場に寝そべると、腕はそれで高六の耳をかき始めたではないか。

「おお……なかなかどうして。上手いもんじゃあないか。何かと思へば、そうか。お礼のつもりなのかのう……」

 高六が呟くやうにいふと、手はひととき耳かきの手を止め、高六の頭を撫でた。

「そうかそうか……けれども、そんなことは気にせんでも良かったんじゃがのう……」

 しかし高六も、まんざらでもない笑みを浮かべて、その手の好きにさせてやったものじゃ。

 奇妙なことに高六はこの手に親近感を抱くやうになっておったのじゃ。

 地主の跡取りとはいえ、妻に先立たれ、子供もおらず、かといって新たに娶る気にもなれず、親戚からは離縁されてしもうた。広い屋敷に独り身の寂しい男だったこともあって、高六は次第にその腕とゐるのが楽しくなっておった。

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