貴女と生きるということ

日月烏兎

貴女と生きるということ

 ただただ歩く。

 縦に並んで、歩くこと数時間。

 最初こそ戸惑った。

 訝しみもしたが、それ以上に歓喜した。

 だが、それだって上も下も右も左もないような空間をただ心の示すままに歩きなさい。

 ただしゴールは教えませんと言われるとなると。


「ねー、何か面白い話して」


 流石に飽きてきた。

 特に美咲は飽きていた。

 北にイベントがあると飛んでいき、南に祭りがあると走っていく。そんな刺激に餓えた人間が、むしろよく数時間も同じ背中の後ろを歩くだけの作業をこなしたと、前を歩く翔也は呆れ半分感心していた。

 とは言えだ。


「そんな雑なフリあります?」

「だってさー、そろそろ飽きてきたなって」


 スベらないことを生業とする人間でもなければ、関西に生まれを持つ人間でもない。何なら、面白みのない人間だと自負すらある翔也にとってそれは雑を通り越して無謀ですらある。

 無茶であるということを重々分かっているであろう人間が、無理を強いてくる。

 場所が場所であれば面と向かって小一時間何のつもりかと問い詰めたいところだった。


「まぁ気持ちは分からなくはないですけど」

「でしょ!」

「だからと言って面白い話をしてはありません」

「じゃあドキドキする話」


 盛大な溜息が零れた。

 この状況で尚、刺激を求める。

 この、あからさまに在りえない空間と、ありえない状況で、尚。


「この状況が既にドキドキする話だと思うんですけど」


 眠りから覚めれば白いだけの空間に放り込まれ、振り向くなと命令するのは数か月前に死別したはずの恋人の声。

 黄泉の国から妻を連れ帰ろうとしたギリシャ神話をなぞらえているのだと辛うじて理解はした。それはあり得るはずのない話だ。 

 にもかかわらず頬を抓っても叩いても、どうも寝ているわけではないという事実が分かるだけの状況で。


「もー、ユーモアが足りてないよ」


 こんなところでユーモアを発揮できる人間はむしろ異常だと言いたい。

 美咲が終始この調子なので翔也も諦め半分、平静を取り戻せたとも言える。


「じゃあそんな先輩はさぞドキドキする話をしてくれるんですよね?」

「私今裸」


 別の混乱が頭を支配した。

 翔也は起きて、命令され、訳が分からないまま、歩かされること数時間。

 美咲の声はする。

 気配も感じる。

 だが、その命令により一度たりと振り向いてはいない。

 だからあり得る。

 普通ならあり得なくても。

 だがここは普通じゃないのだから。

 だから、裸でも。


「はい想像した、むっつり―」

「振り返れないルールで良かったですね!」


 きっと親愛のハグより先に、再会のキスよりも先に、拳がでていた気がする。


「振り返れないルールで残念だったね?」


 もしかしたらそこに居るのは、一糸纏わぬ最愛の人だったかもしれない。

 見たいか見たくないか、などと問う必要はない。


「……上着、貸しましょうか」


 答えは片方しかなく、そしてそれを堪えるのが紳士であり、彼氏であり、翔也である。

 ジャケットに手をかけた翔也の後ろから、おかし気な笑い声が漏れた。


「服は着てるよ、当然でしょ?」


 こんな場所でも翔也だってカジュアルないつもの服装にジャケットだ。

 なら、美咲だってそうであると考える方が自然だ。

 と言うか、もし服を着ていないなんて面白い状況だったなら、美咲はもっと早々にそれをカミングアウトして翔也を弄んだろう。

 冷静に考えれば当然で、分かり切って、当たり前。

 なるほど、落ち着いたように思えて、案外この状況に平常心を呑まれていたか、などと考えるのは地団太を踏む面白姿を提供しないための自己コントロールである。


「もしかして今、自分の好感度の高さを確かめてます?」


 長い溜息の後、翔也は美咲に皮肉を投げかけた。

 人間性やら愛情やらいろんなものを天秤にかけて、振り向くわけがないという強い信頼に。


「そんなことしなくても私、めちゃくちゃ愛されてる自覚あるけど」

「あ、はい」


 戦う相手を間違えていた。


「それとも私が思ってる以上に君は私のことが好きだと」


 戦い方も間違えていた。


「私の想像を越えられると!?」

「あ、やっぱり無理かもしれません」


 白旗。

 無謀な戦いなどしないに限る。

 無暗に戦うよりも平和に生きるべきなのだ。

 惚れてるうちはきっと勝てない。

 翔也は肩を竦めて降参と両手を挙げた。


「何でそこで引いちゃうの!」

「いや、先輩の想像を超えるのは流石に難しいかなって」


 想像がつくなら、こんなに振り回されていない。


「私の想像なんて大したことないよ」

「僕の想像を遥かに超えてく人なのは確かですよ」

「そんな褒めても、魂くらいしか出ないよ」


 現状、魂しかないであろう人間が言うといろいろ不穏である。


「今絶賛化けて出てるんですよね」

「この場合化けてと言うのか、降りてと言うのか……登って……?」


 ここが何なのか分からない翔也に、美咲が分からないものを分かるわけもない。


「先輩、地獄に居たんですか」


 化けたのか降りてきたのか登ってきたのか知らないが。

 ギリシャ神話をなぞらえるなら地獄という認識もおかしいのかもしれないが、そもそもこの状況がよく分からない。そして死んでもない翔也には確かめようもない。


「わりと快適だったから天国だと思ってたけど、そう言えば真っ赤な池とかとげとげした山とかあったなって」


 思ったよりこてこての地獄の様相だった。

 確かめようがないからと言ってめちゃくちゃである。


「何で今までそれを天国だと思えたんですか……」

「角つけたイケメンがお世話してくれるから……」


 ホストにでも遊びに行ったかのような言い草である。

 いくら何でも嘘だ。

 これは嘘だと分かる嘘だ。


「鬼の罰を世話って……」

「でもイケメンだよ?」

「あ、はい」


 もしかしたら少し本当が混じっているかもしれない。

 鬼のイケメンくらいは本当にいるかもしれない。


「でも君の方が好き」


 耳元で囁くような、揶揄うような、誘惑するような。


「……そこで比較されてもコメントに困るんですが」


 翔也の気分としては、二次元のキャラクターと比較されたのと大差ない。


「そう言うわりに耳赤ーい、かわいー」


 大差ないが、彼女からの好きに平然とできるほど大人でもない。


「もしかして振り向かせようとしてます!?」

「そろそろ君の顔が見たいなって……」


 明らかにからかっていた。

 姿が見れるなら、シナをつくって口元に手を当てて、流し目とかしていただろう。

 容易に想像がついた。


「見たらこの時間が終わるんで我慢してください」

「ゴールするまでオアズケかー」


 からかっていたくせに、美咲はどこか寂し気にぼやいた。

 何かに迷うような、決めかねているような。


「そういうルールでいいんですよね?」

「何か偉そうなおっちゃんはそう言ってたよ?」


 訝し気に尋ねた翔也に、美咲は普段通りあっけらかんと返した。

 そこにさっきまでの不穏さはない。


「何という雑さ……命がかかっている自覚ありますか?」

「久しぶりに君に会えて舞い上がっちゃ……」


 そこで言葉が途切れた。

 見渡す限り、何かが変化したような節はない。

 後ろを確認するわけにもいかない。


「先輩……?」


 何か、失敗をしただろうか。

 嫌なものがじわじわと胸中に広がる。


「いや、死んでる私が舞い上がるってと思って」


 膝から崩れるほどどうでもよかった。


「笑えないんですが……と言うか、結局先輩は地の底に引きずり込まれたのか、ちゃんと天に舞ったのかどっちなんですか」


 死者の国、なんてものがあるのかは定かではないが、あるのだとするなら気にはなる。


「あ、さてはさっきの鬼のイケメンに実はちょっと妬いてるね? 確かめようとしてるね?」


 すごく誤解された。

 あげてもない足を無理やりに狩りに来られた気分である。


「別にそこに興味はありませんけども」

「ちなみに私はずっとそっちに居たよ」


 そっち、と言うのが何を指すか。

 考えて、翔也は言葉に詰まった。

 こっちに居て、だとするならば。


「油断してたでしょ。男の一人暮らしだって!」


 翔也の思考を遮るように、別の意味で会話が不穏な方向に走り出した。


「油断はしてないですけど」

「そう? 夜な夜なあんなことやこんなこと……エッチ!」

「してない罪で糾弾されるの本当に解せない」


 本当にこっちに居たのかすら怪しいくらいの言い分に翔也がげんなりする。


「世の中は冤罪だらけなんだよ」


 でっち上げている自覚があった。

 極悪である。


「何ですかその最低な認識」

「こんな世界、滅ぶべきなんだよ!」


 何かに目覚める美咲。


「変な電波受信しました?」

「私と一緒に世界を滅ぼそう!」


 魔王美咲。


「もう滅ぼされた後ですよね、先輩」


 そして世界は守られた。


「……それを死んでる人に向けて言うにはちょっと」


 理不尽に糾弾された。


「僕、先輩にデリカシー指摘されるの本当に納得できません」


 この数時間の会話を思い出してほしい。


「私、リテラシーとデリカシーの象徴だよ?」


 そしてここでリテラシーという単語が出てくる時点で。


「リテラシーの意味知ってます?」

「そんなこと知ってるなら、きっと学生時代の社会科とかもう少し成績良かったと思う」

「あぁ……」

「もうちょっとフォローしてよ!」

「僕のフォローも虚しくなるような点数取ってきてたなって今思い出しました」


 夏休みのデートプランが補習によって狂わされたのも今となっては良い思い出である。

 その後、冬休みのデートプランが補習によって崩れたときは流石に正座してもらった。


「そんなことよりもっと思い出すべき記憶があるでしょ!」


 そんな翔也の苦い記憶を振り払うかのように、美咲が声を張り上げる。


「例えば?」

「桜の下で食べた手作りお弁当の味とか」


 初めて出会った学生時代。

 学生を終えて、美咲がいなくなるまでの数年。


 そんな記憶は存在しない。


「先輩」

「何?」

「お腹空いてきたんですね」


 歩くこと数時間。

 肉体的な疲労感は然程ないが、何となく何かを食べたいような気分になるのは翔也も同じである。

 疲れたような気はするし、最初よりも空腹になっている。ような気がする。


「そろそろご飯が食べたいなって思ってるのは確かだね」

「時間間隔もあてにならないですけど、そこそこの距離歩いてるのは確かですしね」


 時計も何もないが、会話量と移動スピードを考えれば、少なくない距離なことだけは間違いない。

 それでも先は見えず、何にもない空間なことに変わらないという事実に辟易する。


「本当だよ、ここを出たら待遇に文句言わないと」


 誰に言うんですか、と問う前に気になる音がした。

 翔也の足が思わず止まる。


「……先輩、何か袋開けた音がするんですけど」


 わりと、聞き慣れた音がしていた気がする。


「君も食べる?」


 何かを頬張る音。

 聞き慣れた、音。


「食べません」

「そう?」


 そして、プシュッ。

 よく知っている音。


「先輩、もしかして炭酸……」

「ぐ……ん?」


 明らかにこみ上げた何かを誤魔化した。


「いえ、何でもありません」


 どこから出したとか、霊体でも食べるのかとか、いろんなものを飲み込んだ。

 翔也はいろんな意味でお腹いっぱいになった。


「美味しいよ、コーラ」

「僕がわざわざ濁した意味……」

「飲む?」

「やめておきます、ヨモツヘグイとかザクロの可能性もありますし」


 この世界観で、何が正しいのか分からないが、少なくとも死者の差し出す食べ物に手をつけるのが安全だとは思えない。

 万が一の可能性を考慮し難しい顔をした翔也に、美咲は『違うよ』と笑う。


「ポテチだよ?」


 美咲はヨモツヘグイの意味を理解していなかった。


「ザクザクきこえるなぁとは思いましたよ!」

「食べる?」

「食べません!」


 食べた途端に全て台無しになったっておかしくない。

 という危機感はあまり美咲にはないようだった。


「もー、真面目だなぁ」

「先輩が自由すぎるんですよ」


 自分の命がかかっている自覚すらないかもしれない。

 狂おしいほどに、奔放。


「肉体を超越してるからね、私は自由なんだよ」

「ただでさえ自由な先輩がより自由に……」

「私は翼を手に入れた」


 天使のような美咲を想像して、翔也は鼻を鳴らす。


「その翼を捨てて帰ってきてもらうんですけどね」

「帰ってきてほしい?」


 帰る。

 ふたりで。

 翔也は思わず拳を握りしめた。


「だからこんな何もない道を延々と歩く苦行を我慢しているんですけど」

「私との小粋なトークがあるから余裕で耐えられるでしょ」


 それは、そう。

 一緒に居られるから。

 一緒に居られれば。


「コメントを差し控えさせてもらいますね」

「振り向いたら並んで歩けるよ」


 振り向いたオルフェウスは死んだと云う。

 翔也も別に詳しいわけではない。

 本当はどうだったか。妻を取り返せなかったことは知っているが、その後のオルフェウスのことまで知らない。

 確か、死んでいた気がする。

 死んだなら、妻と再会できていればいいねと、そんな話を道中しただけだ。

 死んだなら、また一緒に居られる、だろうか。


 翔也は、振り払うように首を横に振った。


「残念ながら生きて一緒に居たいんですよ。と言うか、まだ死にたくありません」

「私と一緒でも?」

「一緒でも」


 断言した。

 嘘つきだと思いながら、翔也はそれでも言い切った。

 ふーん、と返事する美咲は、どこか嬉しそうだ。

 だから、翔也は間違ったことに気づいた。

 気づいても、そう言うしかなかった。


「だって、僕の知ってる先輩は、ここで先輩を選んだ瞬間『その選択肢はトラップでした!』って言って盤面ひっくり返す人ですから。僕の好きになった人はそういう人です」

「案外寂しがりだから袖引っ張るかもよ?」

「知ってます。でも振り向いたら逆ギレして殴ってきますよ、確実に」


 それはもう、容赦なく殴るだろう。

 何のつもりだと本気で怒って殴るに違いない。

 これだけ振り返れと誘惑しながら、振り向くこと許してはくれないだろう。


「嫌な奴だね!」

「楽しい人ですよ」


 だから好きだった。


「でも、そっか……生きてたいんだね」

「じゃないと先輩、怒るでしょ」


 大好きだから。


「複雑な気分」

「乙女心は難しいらしいので」

「よく分かってるね」


 この時間がもう然程長くは残っていないことを、翔也は気づいていた。




 それは、唐突だった。

 何かが変わったわけではない。

 ただ、何かを踏み越えたことだけは、理解した。


「……ゴール、で良いんですよね」


 この時間が終わるということは、理解したくなかった。


「そうだね、ゴールだよ」


 それは、今までよりもずっと優しい声だった。


「これ、僕どこまで歩いたら振り返って良い感じですか。僕だけゴールしたら良いんですか、それとも先輩も? 先輩がちゃんと聞いてこないでルールが曖昧なままなので不安なんですけど」


 自然、早口になる。

 何かを、遮るように。


「分かってるくせに」


 揶揄うような口ぶりだった。


「……振り向いたら怒ります?」

「知ってるでしょ?」


 諭すような、口ぶりだった。


「そりゃ、そうですよね……」


 死者が生者になることはない。

 生者が死者になるだけだ。


「絶望してたらね、連れて行ってあげても……」


 美咲は「違うか……」と小さく零した。


「私が、一緒に居れたら嬉しいなって思ってた」


 それはまるで、絶望してくれれば良かったのに、ともとれるような。

 自由で、奔放で、滅茶苦茶な、本音。


「僕もそうですよ。偉そうなこと言いましたけど、一緒に居たいです」


 このまま死んだって、いいほどに。


「でも、君はちゃんと生きようとしてたから」


 美咲が死んでから、死んだように生きていたけど。

 死ぬ気はなかった。

 ここに来てしまったのは事故だ。


「だからね、いってらっしゃい」


 それは別れの言葉だ。

 だけど、それはふたりらしくない言葉だ。

 翔也は、無理やり笑みをつくった。


「先輩」

「振り返っちゃダメだよ」

「化粧してないからですか?」


 軽口。


「あーあ、最後までそういうこと言う」

「僕はすっぴんでも好きですけど」

「鬼のイケメンと浮気してやるからな」


 軽口。


「そっち戻ったら取り返すんで」

「うん、待ってるね」


 とてもふたりらしく。

 振り返ることなく。


 翔也はだから、生きることにした。

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