第5話 名を失い、名を継ぐ
重たい両開きの扉が音もなく開いた。
書斎と呼ぶにはあまりにも広く、そして静かすぎる部屋だった。
壁一面の本棚、深紅のカーテンに覆われた窓に高い天井。
すべてがどこか冷たく美しい。
その部屋の奥、ひときわ大きな肘掛け椅子にシャルモント侯爵は座っていた。
フィリーヌが一歩足を踏み入れると、侯爵の視線が動いた。
だがその目は彼女の顔をまっすぐに見ることなく、まず首元——そして、手に持った銀のスプーンに向けられた。
「確かに、家紋は本物のようだな」
低く、硬い声だった。
まるで長年使い込まれた剣が、鞘の中で軋んだような音。
フィリーヌは思わず息を飲んだ。
声を出すのに、少しだけ時間がかかった。
「フィ……フィリーヌ、と申します」
その瞬間、侯爵の眉がぴくりと動いた。
「フィリーヌ、だと? そんな名は我が家には存在しない」
彼は淡々と、切り捨てるように言った。
「今日からおまえは“リリエット・ド・シャルモント”だ。シャルモント家の血を引く者として、それ以外の名を名乗ることは許されん」
フィリーヌの胸の奥がきゅうっと締めつけられた。けれど、声をあげたり否定したりはしなかった。
ただ、そっと目を伏せた。
院長先生がつけてくれた名前。
「フィリーヌ」には、花のようにすこやかに育ってほしいという願いを込めたのよ。
そう言って、やさしく頭をなでてくれた手のぬくもりを思い出す。
誰の子かもわからないわたしに、はじめて与えられた居場所みたいなものだった。
でも、シャルモント家で生きていくにはそれではいけないのだと、理解はできた。
侯爵は椅子に深く身を預けたまま、机の上に組んだ手を動かさずに続けた。
「シャルモントの名を与える以上、それにふさわしくふるまえ。言葉遣い、立ち居振る舞い、衣服、礼儀——すべてを改めることだ。」
淡々と放たれるその言葉が、冷たい霧のようにフィリーヌのまわりを覆っていく。
彼女は胸に抱えた小さな花籠を、そっと抱きしめた。
すると侯爵の目が、その籠に止まった。
「……それは、なんだ」
フィリーヌは、声がふるえないように、答えた。
「これは町の方たちからいただいたお花と、わたしが束ねたものです。」
一瞬、侯爵の目がわずかに動いたように見えた。
「シャルモント家には不要だ。そのようなものを持ち歩くことは、品格を損なう」
胸の奥が、きゅっとつかまれたように痛んだ。けれど、それを顔に出すことはしなかった。
「ラヴレー」
侯爵の呼びかけに応じて、控えていた執事がすっと歩み出る。
「お嬢様、お預かりいたします」
フィリーヌは、花籠をじっと見つめた。
どうしても渡したくなかったけれど、シャルモント家の人としてふるまわなければいけない。そう思って、両手でゆっくりと籠を差し出した。
ラヴレーは黙ってそれを受け取ると、一礼し、足音もなく部屋を後にした。
扉が閉まる直前、フィリーヌはもう一度、花籠を見送った。
まるで、あのやさしい香りまで、この屋敷の中に吸い込まれて消えていくようだった。
「下がれ」
侯爵の声が、低く響いた。
執事ラヴレーが再び現れ、「お部屋へご案内いたします」とだけ告げる。
フィリーヌは一礼し、書斎をあとにしようとした——そのとき。
「……おまえの母は、わたしの一人娘だ」
背中に届いたその言葉に、フィリーヌの足が止まった。
振り返ることはできなかったけれど、静かに耳を傾ける。
「身分違いの男と出会い、家に背いて出ていった。わたしは勘当を言い渡した。二度と名を名乗るな、と。それが最後だった」
声には、感情を押し殺したような重たさがあった。
「娘は町に姿を隠し、病で命を落としたと聞いた。その男も、事故で命を落としたと……。だが、子を産んだとは、知らなかった」
「なぜおまえが孤児院にいたのか、それも分からぬ。……正直なところ、確信はなかった。けれど、見れば分かる。おまえは娘と同じ目をしている」
フィリーヌは、そっと目を閉じた。
名前も、誕生日も、両親の顔も知らなかった。
けれど、お母さんの目をしていると言われた今、少しだけ、胸の奥があたたかくなる。
フィリーヌはそっと、小さくうなずいた。
――わたしは、リリエット・ド・シャルモント。
けれど、フィリーヌの心を忘れずに、ここでちゃんと咲いていこう。
花の手紙をひとひら 月森こもれ @kjks0830
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。花の手紙をひとひらの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます