第7話

「なるほどー」


 何となく関心がなさそうな相槌を打たれる。話しかけた時からそうだが、恐らく俺と伊藤さんは話が会うタイプじゃないのではないだろうか。


「伊藤さんの趣味は? 何があります?」

「私は何かコレクションしたりするといった趣味はないですね。……読書と自己研鑽が趣味になりますかね」


 涼んだ顔で自己研鑽が趣味と言う伊藤に、章は自分の考えが確実に正確性を持って高まったのを実感する。


「自己研鑽が趣味なんて凄いですね。休みになると俺はもうダラダラしてますよ」


 真面目ですね、と言いたくなる言葉を飲み込んで笑って答える。


「適度に私も息抜きはしつつですけどね。コロナ禍になってからは制限も多いので大変ですが」

「やっぱり仕事上、自己研鑽というか勉強は必要な感じなんですか?」


 そろそろ飲める頃合いになったであろうとカフェモカを章は口へ運び入れる。適度な甘さと風味が章の安心感を高める。


「私生活で学ぶことはそんなに業務で役に立つということは少ないですけどね。人事課なので情勢把握は大事ですが」


 伊藤も同様に白いカップを手に取り、コーヒーをゆっくりと飲んだ。


「なかなか気苦労は多そうですね。でも伊藤さんは優秀そうなので羨ましいです」


 人事課務めなのか。てっきり経理関係の仕事でもしているのかと思っていた。

 同時に、他に何の話を振ろうかとカフェモカを飲みつつ章は思案した。


「私は人並みですよ。私より優秀な人は沢山いますから。それに、私にしてみれば素直な気持ちを表に出す章さんの方が羨ましいというか、格好良く見えますよ」


 え、と下の名前を呼ばれたことに驚きつつ、笑い出しながらカップを口から離した章は右足に何かが触れたのに気付く。

 革靴越しに何かに挟まれる感覚を覚える。数秒でそれが伊藤の革靴であることを見なくても章は体感した。章の革靴を伊藤は両方の革靴で挟み込んでいた。優しく、だけれども確実に。

 持っていたカップを置くと真っ直ぐに伊藤は章の瞳を見た。射すように、一切ブレることなく視線は瞳を、瞳孔を捉えていた。

 これはどういうことか。何かのイタズラ、からかいだろうか?

 動揺しつつ相手の目を見るも、その目には遊び心が一切ない真剣な何らかの意思が宿っていた。

 章は静かにカップを置きつつ目から真意を探ろうとするが、その瞳には色気らしきものが宿っていることを感じ取った。


 ――これは誘惑?


 女性へ対する誘いと誘惑ではなく、目の前にいる伊藤さんは男である俺を確かに誘惑していた。柔らかい笑みを見せつつ微笑む顔。何故?

 章は今までの伊藤との関係を思い出す。何故彼がこのような行動を取ったのか、動機を見付けようと逡巡する。けれど、的確な確信を持った回答は出てこなかった。

 ただお喋りしてた。コーヒーを奢ってくれるから。ペンを渡したお礼に。ペンを拾ったから。二色のボールペンを。

 拾って返した二色のボールペンを先程も見たことを章は思い返す。小さい空の筆記用具入れにしまい込まれた二本のペン。

 つまり、普段から二本しかペンを入れていない。二本しか入れていないのに片付ける時に入れ忘れるなんてことはない。

 そもそも真面目でちゃんとしているであろう伊藤さんが、忘れ物をするような人ではないと章は同時に思い至る。

 つまりペンを落としたのはわざと? 敢えて落として拾わせた?

 何故か。俺に拾わせて返させるため。お礼をするために?


「……いやいや、全然俺なんて」


 ここに来た状況が伊藤に仕組まれたものであることを悟った章は不気味さを感じながらまず目を逸らし、ゆっくりとテーブル下で挟まれた足を引いた。


「私の周りにいる同僚って皆計算高い人ばっかりで疲れるんですよね」


 伊藤も章から目を逸らし、置かれた自分のコーヒーを見つめながら喋り出した。


「出世競争、人気競争、業績競争。競争を迫られる利益追求型社会の縮図のような場所です。人間関係が希薄化していますよ」


 何を言わんとしているか分からないが、適度に刺激しないようにしなければ。


「それに比べて人当たりがよくて愛嬌がある笠原さんは裏表がなく、とても羨ましいです」


 テーブル下で伊藤の靴の側面が章の足の裾に当てられた。

 章は何とも言えない奇妙な経験、体験に心がざわつき恥ずかしさを覚える。ドキドキするような緊張感と恥ずかしさから顔を赤らめた。章はうつむきながら狂しい程の非現実的体験に耳朶じだを赤くさせ、首筋をみるみると紅潮させる。

 伊藤はそんな章の様子を見て目の湿度を高まらせると、章のカップをゆっくりと取り、カフェモカを一口飲んだ。章が伊藤の顔を見ると、同様に伊藤も章を見つめた。そこには柔らかく笑って見つめる顔があった。

 彼は俺を見つめる。その真意を俺は理解しようとする。目の前にいる茶色い存在が、何故かトカゲのようであると錯覚を覚えた。

 そう、捕食者であるトカゲ。そして、俺は……。

 そんなつもりなんてなかった。俺はただ単に同じシェアオフィスを使用していた人と話しをしただけだったのに。

 どうしてこんな状況になる?

 そう、変な意図も悪意もなかった。ただ純粋に、ただ単に話しかけただけ。


 ――暇だったから。


(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くすんだ想い 頭飴 @atama_ame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ