第6話

 何となくマスクを付けていても分かっていたが、マスクを外した伊藤さんは端正な顔立ちだった。エリートな上にルックスまで良いとは。


「笠原さんは今仕事は忙しい方なんですか?」

「全然忙しくないですね。むしろ暇なほうです。会社に出社してればある程度は仕事はあるんですが、シェアオフィス通いの時は顧客先から呼び出しがない以外はすることなしですよ」


 ちょっとしたパソコン作業を進める以外は、と章は付け足す。


「やっぱり外資系だと忙しいですか?」

「……そうですね、常にやる作業はあるにはありますが、やっぱり在宅とかだとこちらもやる仕事、作業が限られてしまう所はありますね。別に外資系と言っても、一般の企業と変わりありませんが」


 こめかみを掻きつつ伊藤は章へ苦笑する。


「でもやること終えて読書するくらいには自由時間を使えるのは良いですね」

「読書も本当はグレーというかアウトなんですけどね。周りに同僚の視線がないんで読んでるだけで、社内で就業中に読むことは絶対ないです」


 カフェモカの入ったカップに両手の指先を添えながら、章は驚く。


「あ、やっぱ駄目なんですね。会社にいる時も読んでいるのかと思ってました。外資系なら許されるのかなって」

「いえいえまさか。そんなことしたらやっかみが酷いですよ」


 伊藤は自分のコーヒーカップに入った黒い液体に目を落とし細める。目の明度が濃くなったような嫌悪の感を章は感じ取る。


「そういえば、先週は読みながら寝てましたね?」


 空気を読み取り、章は話の方向を変える。ちょっとわざとらしく口角を上げ、目を細め意地悪顔を向けた。


「見てましたか。つい眠くなってウトウトしてましたよ。実は今日も読んでる時、ウトウトしてました」

「あ、今日は気付かなかったです。ちなみに何の本を読んでるんですか? もちろん差し支えない範囲で結構なんですが」


 もちろんの言葉を変に強調させ、目をちょっと開きふざけた様子で章は言う。

 伊藤はその様子を見て唇をちょっと上げ、鼻で微かに笑った。


「ええ、全然問題ないですよ。何一つとして差し支えありませんので」


 章の調子に合わせつつ柔らかく笑いながら、伊藤はカバンから先程しまい込んだ本を取り出し、付けていたカバーを外し章へと手渡す。

 どうも、と単行本を受け取りビジネス本か自己啓発本だろうかと章は表紙を見る。


「ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』です。知ってますかね?」


 知らない。ハンナさんが誰かも全体主義が何のことかも理解出来なかった。脳内を引っ掻き回しても全体主義なんて語彙は俺の脳内にないだろう。


「……いや、ちょっと分からないですね。難しそうですね」


 中をパラパラと開くも文字が多く書かれており難しそうだった。漢字だけじゃなくカタカナも多かった。

 辟易するような感じを出すのは失礼だと章は意識しておくびにも出さず、本を真面目な顔をして伊藤へと返す。


「難しい本はよく読まれるんすか?」

「そうですね、読むほうですね。理解出来ているかは私自身怪しいですが」


 伊藤は笑いつつカバーをかけ直しカバンへとしまった。


「最近だとどんな本を読まれました?」

「……最近だと、『隷属への道』、『自由からの逃走』、『選択の自由』なんかを読みました。政治・経済や思想関係についての本ですが、どれも知らないですよね?」

「……そうですね」


 映画化された小説など何か話せる話題でも掴もうと思って聞くも、聞き覚えがない書名に章は撃沈する。


「どんな内容の本なんですか?」

「社会不安の高まりが招くものは赤の奔流ほんりゅうだけではない、といったようなこととかです。笠原さんは本は読むほうですか?」

「いいえ。聞いといてなんですが全くと言っていい程読まないですね……」


 ハハハと乾いた笑いを返す。本の内容の話が一切理解出来なかったので、敢えてそこには触れないようにすることを章は決断する。


「本は全然読まないし周りの知り合いでも読む人は皆無ですね」

「そうですか、残念です。趣味とかはあります?」

「趣味って程の趣味はないですかね、ゲームは好きでよくしますけど。後は半年くらい前からシューズ集めを始めたりしてます。まだ五足しかないですが……」

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