もう一人の僕が住む街

夜月 朔

もう一人の僕が住む街

「おい、これ見てみろよ。蓮にそっくりじゃね?」

放課後の教室で、友人の祐樹がスマホを突き出してきた。画面には、見慣れない地方都市の駅前で、誰かが歩いている様子が映っていた。

「……なにこれ」

一瞬、自分の動画かと思った。だが背景も知らない場所、服も見たことがない。だけど、その顔は間違いなく蓮自身だった。

「なんか、スレで話題になっててさ。“分身説”とか“ドッペルゲンガー”とか、オカルト扱いされてる」

祐樹は笑っていたが、蓮は笑えなかった。冗談にしては、顔の作りや歩き方まで自分に似すぎていた。胸の内側で、じわじわと不安が広がっていく。現実が、ほんの少し軋んだような感覚。

その夜、蓮は動画を繰り返し再生し続けた。小さな違和感が心に刺さって、離れなかった。

——あの人間は、俺じゃない。

でも、あの顔は確かに俺の顔だ。

翌朝、蓮は家族に何も告げず、スマホに保存した動画の情報だけを頼りに電車に乗った。行き先は、動画に映っていた「御影町」という地方都市。

人づてに聞いたこともなければ、これまで一度も縁のなかった街だ。

——ただの偶然。似てるだけ。

何度も自分に言い聞かせた。だが胸の奥で、何かが囁いていた。

——違う。それは偶然じゃない。

電車に揺られる間、蓮は窓の外をぼんやりと見つめていた。緑の山並みや古びた無人駅が過ぎていく。車内には数人の乗客がいるだけで、静寂が車両を支配していた。そんな静けさの中、蓮は過去を思い返していた。特別なことのない日常。家族と過ごす穏やかな生活。クラスでは目立たず、成績も中の上。友人は数人。恋人はいない。

「これって、普通ってやつだよな……?」

独り言のようにつぶやく。だが“普通”のはずの日常が、あの動画を見た瞬間から少しずつ崩れ始めている気がしてならなかった。

御影町の駅に降り立つと、空気は薄曇りで肌寒く、どこか異様に静かだった。看板の色は剥げ、張り紙は黄ばんで風に揺れている。建物の壁面にはどこか人工的な修復の跡があり、まるで過去の記憶を隠そうとするようだった。都会と違って人通りはまばらで、通行人は皆、何かを避けるように蓮と目を合わせなかった。

「すみません……この人、知ってますか?」

スマホに映した動画の一時停止画面を見せながら尋ねたが、数人に声をかけても皆同じ反応をした。通行人たちはくすんだコートや作業着を身につけ、どこか所在なげに歩いていた。顔は伏せがちで、目は曇っていた。

「知らない」「見たことない」

早口にそう返すと、立ち去っていく。まるで何か禁じられたものを見せられたかのように。

蓮の中で、恐怖にも似た好奇心が強まっていく。足を止めるたびに、まるで自分がこの街の“異物”であるかのような目で見られている気がした。

だが、蓮はあきらめずに駅前から商店街、住宅街へと足を運び、動画の背景と一致する場所を一つ一つ探し歩いた。

ポケットの中のスマホが熱を帯びていく。バッテリーは残りわずかだった。

そして、夕暮れが迫った頃、ついに見つけた。

あの動画に映っていた通りだ。郵便ポストの横にある自動販売機、サビついた街灯、黄色い壁の薬局。自分が見ていた世界が、そのまま現実として目の前にあることに、蓮は鳥肌が立った。

その瞬間、目の前を誰かが通り過ぎた。

「——!」

蓮は目を見開いた。

それは、まぎれもなく“自分”だった。

だが向こうは気づく様子もなく、素通りしていった。まるで赤の他人のように。蓮はその瞬間、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。見知った顔でありながら、そこには自分が知っている“自分らしさ”が存在しなかった。

蓮は立ち尽くし、その背中が曲がり角に消えていくまで見送った。

「……どういうことだよ」

心の中がざわめいた。理屈では説明できない恐怖が、喉元を締めつける。目の前で起きた出来事が現実なのか幻なのか、自分でも判断できなかった。

自分と同じ顔、同じ身長、同じ髪型。

そして、見覚えのない穏やかな表情。

蓮の胸に、不気味な違和感が広がっていった。

彼は、何者なんだ。

俺は、誰なんだ。

その疑問が、蓮の世界をゆっくりと侵食していった。

* * *

蓮は混乱しながら、さっき自分とすれ違った男の姿を追って商店街の奥へと足を運んだ。だが、すでに人影はなかった。

「絶対に俺だった……あれは……」

通りの先には小さな広場があり、その中心には古びた時計台が建っていた。針は止まったまま、時を失っていた。

蓮は一息つくと、近くのベンチに腰を下ろした。あの“自分”がどこに行ったのか、なぜあの街にいるのか。考えても考えても答えは出なかった。

そのとき、ふと視線を感じて顔を上げる。向かいの建物の陰から、一人の少女がこちらをじっと見ていた。

「……誰?」

蓮が立ち上がると、少女はくるりと背を向けて小道へと消えていく。その背中を追うように蓮は走り出した。

少女は華奢な体に薄いカーディガンを羽織り、足音も立てずに街の裏路地へと進んでいく。蓮は距離を保ちながら追い続け、やがて一軒の古い書店の前で彼女が立ち止まった。

「さっき……なんで、俺を見てた?」

蓮が問いかけると、少女は静かに振り返った。大きな黒い瞳が、じっと蓮を見据えている。

「あなた、部外者でしょ」

その言葉が、蓮の中で鈍く響いた。まるで、この街にいるべきではない異物だと宣告されたようで、足元がふらつく感覚に陥った。

「……部外者?」

「ここは“影の街”。あなたみたいな“本物”は、長くいられないよ」

「影の街? どういう意味だよ」

少女は蓮の質問には答えず、代わりに書店の扉を開けた。中は薄暗く、古い紙とインクの匂いが立ち込めている。本棚は天井近くまでびっしりと積まれ、わずかな照明が木の床を淡く照らしていた。扉の鈴が鳴る音すら、どこか遠い世界のもののように響いた。まるで時間が止まった空間だった。

少女は一冊の古びたノートを棚から取り出すと、蓮の前に差し出した。

「この街には、“影武者”がいる。表向きには存在しない人たち。けど、確かにここで生きてる」

「影武者……?」

ノートの表紙には何も書かれていなかった。蓮がページをめくると、そこには「代役名簿」とだけ手書きされていた。中には、写真と名前、そして「入替済み」と朱色で記された日付が並んでいた。

「これは……誰の……」

「この街の“住民”たち。皆、どこかの誰かの代わりなの」

蓮は背筋に寒気を覚えた。

「じゃあ、あの“俺”は……」

「本物のあなたを、真似して生きてる。けど、ただの模倣じゃない。あなたの“役”を、街が選んで与えたの」

「……意味がわからない」

少女は目を伏せた。

「わたしも詳しくは知らない。ただ、小さい頃からそう教わった。この街にいる人のほとんどは、本物の誰かから派生した“影”なの。あなたみたいな“本物”がここに来ると……バランスが崩れる」

「バランス……って」

「この街が、壊れちゃうの」

その言葉の意味を咀嚼する暇もなく、書店の扉が突然開いた。

「誰かいるのか?」

低い男の声がした。警備服を着た中年男が、鋭い目つきで中を見回す。

少女は蓮を手招きし、店の裏口へと導いた。

「早く、見つかったら連れていかれる」

裏通りに抜けると、少女は足を止め、振り返った。

「蓮、だよね?」

「……どうして知ってるんだ」

少女は悲しげに微笑んだ。

「こっちの蓮は、あなたよりもずっと有名なの。町内の掲示板には彼の写真が飾られ、住民はその存在を中心に振る舞っている。私は構成庁の記録閲覧権を持ってる。あなたが街に入ったとき、システムから“本物の蓮が侵入した”って通知が来た。街では、あの子が“本物”だから」

その言葉が、蓮の頭の中で反響した。

——あの子が“本物”?

現実がぐらつく感覚に、蓮は思わず壁に手をついた。だが、少女はもうそれ以上は語らず、小道の先へと姿を消した。

翌朝、蓮は再び街を歩いた。薄曇りの空の下、濡れたアスファルトが光を鈍く反射していた。新聞配達のバイクの音だけが静かな街に響いている。今度は、昨日見かけた“もう一人の自分”を探すために。だが、まるで消えたかのように、影も形も見えなかった。

諦めかけたとき、交差点の向こうで、ふと視線が交わった。

——いた。

今度は確信があった。向こうもこちらを見つめていた。

蓮は駆け出した。もう、はっきりさせるしかなかった。

「待て!」

だが、“自分”はゆっくりと背を向け、群衆の中へと消えていった。

蓮は人混みに身を投じ、肩をぶつけながら追いかけた。何度も見失いかけ、そのたびに再び姿を捉える。

やがて、廃墟のような倉庫の前にたどり着いた。

扉が開いていた。中は真っ暗だ。

蓮は一歩足を踏み入れた。

そして、そこで——“もう一人の自分”と対峙した。倉庫の中はかび臭く、天井の隙間からは細く差し込む光が埃を照らしていた。鉄骨がきしむ音と、足元に積もった砂埃が踏まれる音だけが空間を支配していた。

* * *

「……おまえは、誰なんだ」

薄暗い倉庫の中、蓮は絞り出すように声をかけた。目の前に立つ“もう一人の蓮”は、蓮と同じ髪型、同じ背丈、同じ表情をしていた。だが、何かが違った。言葉にできない微細な違和感。蓮自身の“模倣”にしては、あまりに完成されすぎていた。

「……どうして来た?」

その“蓮”が初めて口を開いた。声も同じだった。だが、その声の奥にある“何か”は、蓮の知る自分のものとは異なっていた。

「おまえ……俺のことを知ってるのか」

「知ってるよ。全部、記憶も感情も、おまえの人生も、俺はコピーされてる」

「コピー……?」

影の蓮は、小さく笑った。

「正確には、抽出って言うらしい。おまえの行動パターン、表情、言葉遣い。そういうのを全部、分析されて、俺が生まれた」

「ふざけるな……俺の人生を、勝手に使って……」

蓮が詰め寄ろうとしたその瞬間、影の蓮が静かに手を挙げた。

「違う。俺は奪ったわけじゃない。選ばれたんだ」

「誰に……?」

「この街にさ。御影町には、“役割”を割り当てる何かがある。“本物”が来なければ、俺はただの影だった。でも、おまえが来たことで、おまえと俺の間に“どちらがより本物らしいか”っていう基準が生まれた」

「……それで、なにを証明したいんだよ」

「逆だよ。おまえがそれを証明しに来たんじゃないか?」

蓮ははっとした。影に問いを投げかけていたつもりが、気づけばそれは、自分自身への問いだった。“本物でありたい”と願ったのは、他でもない、自分だったのだ。

沈黙が落ちる。蓮は言葉を失った。

たしかに、自分は“あれが本物か”を確かめに来たのではなかった。“自分が本物である”と、認めてもらいたかったのだ。

「なあ……おまえは、幸せなのか?」

蓮が問いかけると、影の蓮は一瞬、何かを迷うような目をした。

「……たぶん、わからない。でもこの街で、人と関わって、笑ったり、泣いたりして……それが本物かどうかなんて、もう気にならなくなった」

影の蓮はそう言いながらも、ふと目を伏せた。

「……いや、ちがうな。ほんとは、怖かったんだ。おまえが来るまで、この街で“蓮”として暮らせることに甘えてた。過去も、痛みも、全部コピーされたものでしかないって分かってたのに、それでも俺は、奪ったものでも構わないって……そう思ってた」

蓮は、影の蓮のその言葉に胸を衝かれた。

「だったら——」

「でも、いざおまえを目の前にしたら分かった。俺は、ずっとおまえになりたかっただけなんだ。なれないくせに、なったつもりでいた。だから、怖い。おまえを見て、自分が偽物だって突きつけられるのが……怖いんだよ」

その声は、震えていた。影の蓮の目に、ほんのわずかに涙が滲んでいた。

——俺になりたかった?

蓮は驚いた。そして、それ以上に痛みを感じた。それは同情ではなかった。あまりに自分に似ていたからこそ、他人事にできなかったのだ。

「……そっか」

言葉に詰まる蓮の胸の奥に、じわりと熱いものが込み上げた。これは自分が戦うべき敵ではない。この街に与えられた“もう一つの自分”が、自分なりに生きようとしていた——いや、必死に存在しようとしていた証だった。

そのとき、倉庫の外から足音が聞こえた。

「蓮、逃げて」

声がした。観測者の少女だった。彼女は息を切らしながら駆け込んできた。

「街の中枢が反応した。あなたが“異物”として認識された。もう時間がない」

「……中枢?」

「この街を維持するための意識体みたいなもの。存在がバグると、影も本物も、両方処理される」

影の蓮も顔を曇らせた。

「蓮、行け。おまえまで消える必要はない」

「おまえは……?」

「俺は、ここで生きていく。たとえ影でも、それが俺の役割なら、選ばれた意味がある」

「ふざけるな、勝手に納得するなよ!」

蓮は影の蓮の胸ぐらをつかんだ。何かがこみ上げてくる。憎しみでも、怒りでもない。説明できない何かが、蓮の心を締めつけた。

「……でも、俺はおまえに会えてよかった」

影の蓮は微笑んだ。その表情は、蓮が今まで自分の顔で見たことのない穏やかな笑みだった。

「おまえは……俺を超えてるよ」

倉庫の天井が軋む。外からサイレンのような音が響き始めた。

少女が叫んだ。

「早く出口へ!」

蓮は迷った。だが、影の蓮の背中を見て、決意を固めた。

「ありがとう、もう一人の俺」

走り出した蓮の耳に、かすかに「さようなら」という声が届いた気がした。

そして、蓮は闇の中を抜けて、再び光のある場所へとたどり着いた——。

* * *

蓮は光の中へと飛び出し、廃倉庫を背にして荒い息を吐いた。太陽は雲に隠れたままで、街全体が静止しているような感覚に包まれていた。

だが、その沈黙の中に、確かな異変があった。通りすがりの人々が立ち止まり、無言のまま同じ方向を見ている。建物のガラス越しにも、無数の目が蓮を見つめていた。

「……街全体が、俺を見てる……?」

その直感は間違っていなかった。観測者の少女が駆け寄ってきた。

「街の意識に触れた以上、あなたは“存在の異常値”として記録された。放っておけば、存在そのものが上書きされる」

「存在が……上書き?」

少女は頷いた。

「この街は、“役割”で構成されている。人の意志や記憶は二の次。最も安定したパターンだけが残される。それゆえに、誰もが自分の感情を表に出さない。それが崩れたとき、街全体の均衡が乱れるからだ。それ以外は、排除されるの」

「じゃあ、影の俺は……?」

「彼は、“安定した蓮”だった。だから選ばれた。でも……あなたは、揺れる蓮。だから、この街では危険因子と見なされてしまう」

蓮は拳を握りしめた。喉の奥に熱いものがせり上がり、叫び出したい衝動を必死に押し殺す。構成庁の中は冷たい光が差し込み、人工的な静寂が空気を支配していた。無機質な壁と床、微かに響く機械の作動音。それらすべてが、彼の存在を拒絶しているように思えた。ここにいる意味、存在の正当性——誰に否定されたとしても、自分自身だけは疑いたくなかった。

「そんなの、納得できるかよ……俺は俺として、生きてるだけなのに!」

少女の目に一瞬、哀しみの色が浮かんだ。

「わたしも……そう思う。だけど、この街は変わらない。少なくとも、今はまだ」

二人の間に沈黙が落ちた。

そのとき、街中のスピーカーから音声が流れた。

《異常個体“蓮”を確認。記録との不一致が多数検出されました。該当個体を“再構成”の対象とします》

「来る……!」

少女が手を取って走り出した。蓮はその手を握り返し、ただ黙ってついていった。狭い路地を駆け抜ける。看板の錆びた店、シャッターの閉まった店舗、ちらりと覗く人影の視線。街全体が彼らを監視しているような錯覚に襲われた。

たどり着いたのは、御影町の中心部にある巨大な建物——「構成庁」とプレートに刻まれた、まるで病院と研究所を足して二で割ったような無機質な施設だった。

「ここが……?」

「街の意志が宿る場所。この街の構造と記憶、そのすべてが管理されてる」

扉は少女が持つ小さなペンダントをかざすと、音もなく開いた。中は無人だった。だが、どこからともなく目に見えない“意識”が蓮を見下ろしている気配があった。

「蓮、この中枢にある端末にアクセスすれば、あなたが“本物”であるという記録を残せるかもしれない」

「……俺が、本物であると?」

「でも同時に、“影”の蓮の存在は消去される」

蓮は息をのんだ。ようやく辿り着いた「証明」の方法。しかしその代償は、あのもう一人の自分の“存在の消去”だった。

「俺が本物であるって証明して、それで誰かが消えるってのかよ……?」

「この街では、重複は許されない。ひとつの“役”に、ふたりはいらない」

それが、この街の絶対的なルール。たとえ影であっても、もう一人の蓮には“生きてきた記憶”がある。蓮は葛藤した。

そんな蓮に、少女は小さくつぶやいた。

「……でも、あなたの心は、まだ揺れてる。それは、あなたが“人間”である証拠よ。私はね……私も“影”だったの。でも今は、統合されないまま街に残された、ただの観測者。だから、あなたを見ていた」

蓮はその言葉に、心のどこかを突かれた気がした。

「ねえ、教えて。あなたは、自分の存在をどうやって証明する?」

その問いが、静かに蓮の中に沈んでいった。

どちらが“本物”か、という問いは、どこかでもう意味を失っていた。影もまた、自分の一部。過去の後悔や、理想、憧れ。それらを投影したもう一つの鏡。たとえば、あの静かに微笑む顔。人との繋がりを恐れ、うまく言葉にできなかった自分の“なりたかった姿”だったのかもしれない。

「俺は……俺自身でいることでしか、証明できない。でも、だからこそ、もう一人の俺の存在も否定したくない」

「それは、この街のルールに反してる」

「だったら、ルールごと変えなきゃならない。俺だけじゃない、今後同じように迷う誰かが現れたとき、少しでも選択肢がある世界にしたい」

蓮は端末の前に立った。目の前に浮かび上がる膨大なデータ。画面は青白い光を放ち、周囲の壁面をぼんやりと照らしていた。反応するたびに、静かな電子音が室内に反響する。まるで街全体の神経がここに集約されているかのようだった。住民の記録、存在の履歴、入れ替えのタイミング、構成基準。

その中に、確かにあった。

“蓮(影)”

“蓮(本体)”

そしてその横には、点滅する一文が表示されていた。

《統合を選択しますか?》

「統合……?」

少女が画面を覗き込み、眉をひそめた。

「これは……異常処理コード。本来排除されるはずの重複存在を、“一つの役”として統合する処理。構成庁が周期的に影の存在を生成する際、情報源として収集されたあなたの行動記録やネット上の履歴が抽出元になっているの。だが、統合後に記憶や意識がどう変化するか、実例がないからわからない」

「やってみなきゃ、わかんないだろ」

蓮は、迷いなく《はい》を選んだ。

端末が低く唸り、部屋全体が微かに揺れた。天井に埋め込まれた光源がちらつき、どこからともなく風のような気配が吹き抜けた。

同時に、蓮の頭に鋭い痛みが走った。記憶が逆流する。断片的だったものがつながっていく。

見知らぬ街角での笑顔。人に何かを手渡す腕。静かに微笑む少女。

それは、自分の記憶ではない——影の蓮が体験してきた“もう一つの人生”だった。

「これは……」

感情が溢れてきた。怒りも哀しみも、歓びも。影の蓮の人生が、静かに、だが確かに、自分の中に流れ込んでいた。

——俺たちは、同じだった。

そして今、ようやく一つになれた。

そのとき、端末の表示が変わった。

《統合完了。再構成基準を更新しました》

街の空気が微かに変わった気がした。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、どこかの窓が開く音がした。それは、ほんのわずかでも世界が緩み始めた合図のように思えた。

それは、蓮の存在が“唯一”として、この街に認められた証だった。同時に、それはこの街の選択基準が変化したことを示していた。蓮の存在が前例となり、今後“重なり”を抱える者がいても排除されない可能性が生まれた。

蓮はゆっくりと目を閉じた。そこにはもう、自分自身への疑いも、影への憎しみもなかった。

これまで確かだと信じていたものは崩れ、再構築された。けれど、その過程で得た感情や記憶は、どれも無意味ではなかった。

彼の中には、影だった“もう一人の自分”の記憶が、今も静かに息づいていた。誰かの真似でもなく、押しつけられた役割でもない——彼は、自らの意志で“ここ”にいる。

窓の外では子どもたちが笑い、風に揺れる洗濯物の向こうで、花屋の店先に水が撒かれていた。街が生きている。わずかでも、変わろうとしている。

蓮は静かに歩き出した。自分の中に重なった“存在”を抱きしめるように、一歩一歩、確かめながら。

どこかから、年配の男性が「おはよう」と声をかけてきた。蓮は少し驚きながらも、うなずいて応じた。少女が言っていた“変化”とは、こういう小さな連鎖なのかもしれない。

郵便配達員が蓮の横をすり抜けていく。その背中を見送りながら、蓮はふと立ち止まった。そして振り返る。自分が歩んできた道、自分が選んできた“存在の軌跡”を。

もう、誰かに証明する必要はない。

ここにいていい。そう思えた瞬間、胸の奥が温かくなった。

ただ——“ここにいる”という確かな実感だけが、胸の中で脈打っていた。


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