花と回遊魚

@ksmzw_5

言わぬ花たち

家を出てから合流して、既に二十分は過ぎている。けれども一向に彼が口を開くことはなく、私もただ横に並んで歩いているだけだった。


彼から連絡を貰ったのはつい昨日の事だった。"来週引っ越す、伝えたいことがあるから明日時間欲しい。" 短いながら、それ故に重みを感じるメッセージに、心に波風がたち息がすっと止まるのを感じたことを覚えている。


春の夜風は未だ冬の後ろ髪を引いており、坂の上からやってくる風はまだ雪を含んでいそうなほど冷えていた。四つ分の足音がひたすらにこだましていて、その重く独特な空気感にあてられた私は、街灯から視線を感じてしまうほどに過敏になっている。


「あの…。」


幼馴染ともなれば、沈黙も心地よく感じるものだと思う。しかし今この沈黙は、少なくとも今の私にとって心地の良いものでは無かった。私の声に驚いたのか、彼は少し肩を震わせこちらを見た。


「…芝公園まで行かない?」


彼はそう言うとまた黙ってしまった。芝公園というのは近所でも有名な場所で、小さい頃彼と一緒に何度も遊びに来た場所だ。


引っ越しという別れのタイミングで"伝えたいこと"と来たのだから、つまりはそういう事だろう。しかし私は高校生になってもそういった事にはあまり興味がなく、いまいち理解の及ばない感情だった。彼と特別な関係になる想像をしたことが無い訳では無いけれど。


「…。」


ここから芝公園へ行く道はいくつかあり、この道は小、中学校で使っていた通学路だった。この道には一際大きな木が生えていて、彼はその木陰に座って本を読むのが好きだった。一緒に登下校をしていた私は、学校の帰り道その木陰で本を読んでいる彼の隣に座り、持て余した足をぶらぶらと揺らすか、本を読んでいる彼の横顔をながめるくらいの、活発な女の子だった。彼は当時にしては難しい本を読んでいて、色々な漢字やことわざを知っていた。私は授業中でも構わず彼に話しかけて、この文字はどんな意味なのか、この漢字の読みはなんでこうなのかなど、とにかくたくさんの質問をした。


「…。」


芝公園に着くと、彼と私は細長い焦げ茶色のベンチに腰を掛けた。それから五分くらいは夜の静かな公園を眺めていて、葉が音を立てて揺れるのを聞いていたり、その隙間から漏れる濃い緑の空気が肺を満たすのを感じていた。


「その…引っ越す事、言ってなくてごめん。」


私は返答に少し困ってしまった。気にしていないから大丈夫、と返すのも冷たい気がするし、第一本当に気にしていないわけでもない。ずっと一緒に過ごしてきた友達が遠くへ行ってしまうのは寂しい。


「うん。」


結局それだけ返して私と彼は再び黙りこくってしまった。他に何か言おうとしても、うまく言葉が出てこないことに少し驚いた自分がいた。ふと目をやると破れたフェンスが見えた。


「あれ、今もまだ直ってないんだね。」


「え?あぁ、本当だ。」


あのフェンスは私たちが小学生低学年の時にはすでに壊れていたもので、この公園に入るためにはあの位置からは少し遠回りする必要がある。私たち地元の小学生は、あの破れたフェンスから近道だと言ってその穴から公園に入るのが流行っていた。

ある日私と彼と他の数人でこの公園に遊びにきた時、私がそのフェンスの穴に服を引っ掛けて転んだことがあった。いつもと比べてその日は母に薦められて女の子らしい服を着ていて、慣れない格好のために転んで尻餅をついてしまったのだ。

そんな私に彼は手を差し出してくれて、せっかく可愛い格好をしているのだから、汚したら勿体無い。と言ったことがあった、周りの子たちはそんな様子を見て恋人みたいだと揶揄ってきて、彼は頬を真っ赤にして手を引っ込めてしまった。

見上げた彼の顔は、陽の光を透過したもみじの木の葉を背にして、キラキラと光っているように見えたのを覚えている。

私はどんな顔をしていたのだろう。もし今そんなことを言われたら、私はどう思うんだろう。私は彼を、どう思っているんだろうか。


彼の横顔をじっと見ると、道路の向こう側に止まっている車のヘッドライトを逆光に、あの日の景色が重なって見えた。変わっていないようにも見えるし、少し輪郭が太くなって、大人びた気もする、男の子の顔だ、彼も一人の男の子なのだ。じっと見ていると、視線に気づいた彼がこちらを見て、目と目が合わさる。

時間が止まったようにも思った。緩やかな風の音が止まって、彼の唇が開く音がして、彼は何かいいかけて視線を逸らしてしまった。

それまで私は頭がぼーっとして、目が合ってハッとした。熱を帯びた血液が顔に上ってくるのを感じた。

私は今、どんな顔をしているのだろう。

あぁ、そうか、私はもう。



「えっと…そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなると、おばさん心配しちゃうよ。」


「あ、う、うん。そうだね。」


二人は公園を出て、何も言わずに歩き出した。自然と遠回りをする、あの道を選んで。


桜並木の道だった。毎年桜が舞うたびに、この道を二人で通った。


遅刻をした日、彼はここで桜を頭に乗せて待っていた。

桜が散った頃、私は彼を待たせまいと早く起きるようになった。


傘を忘れた日、肩を寄せ合った。

梅雨になる頃、私は傘を忘れた。


喧嘩をした日、彼は少し前を歩いた。

緑が芽吹く頃、私は勇気を出して彼に駆け寄った。


恋に落ちた日、私は隣を歩いている。

この桜がまだ咲いている頃、彼はこの街にいない。


この並木道を抜ければ、分かれ道に続いている。そこを逃せば、きっと再会は数年後。ここで伝えなければ、この恋は死んでしまうだろう。

足音がゆっくりになって、止まる。彼は振り返って、私と目が合う。

桜が落ちていって、アスファルトを染めていく。

そうか、私は今日彼を好きになったわけではないのだ。重ねていった日が、小さな思いたちが、私が彼を好きにさせていった。ずっと昔に植えられた花の種に少しずつ水をやって、そうして今日、やっと咲いたのだ。


ここで言葉を口に出せば、もう止まることはできない。

しかしそれでも、言わなければならない。

今日知ったこの気持ちを、一番に聞いてほしい人がいるから。

二人の声が重なる。


「あのさ…!

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