五月の空に、君は。

竹道琢人

五月の空に、君は。


 六年前。異常としか表現できない記録的な暴風雨が俺たちの街を水浸しにしていた。

 テレビ画面に表示され続ける『大雨特別警報』の文字。小学校は休校。重い責任がつきまとう管理職の父は出勤せざるを得ず、俺は自宅で一人過ごしていた。

 映像が伝える各地の氾濫河川と荒れ狂う海。その光景は当時の俺の心を不思議にも高揚させ、父が残していった『絶対に家から出るなよ』の一言は抑止にならず、これからイケナイことをする少年の背中を押すには十分すぎてしまった。

 かくして俺は親の言いつけをためらうことなく破り、雷轟く土砂降りの雨の中を河川敷めがけて走っていった。

 河川敷の高架下に到着すれば、見たことのない迫力の濁流に心が奮え躍った。そして暴れるように流れていく水の誘いに何の疑問もなく吸い込まれていったことをよく覚えている。

 ここから先は想像に難くない。小学生の非力な身体など水位の増長した河川は容易く流してしまう。抗うことも生きて帰ることも許さないと言わんばかりの猛烈な水流。子どもの抵抗など虚しく激流は身体を飲み込んでいく。

 許可されない呼吸。遠くなる高架下。言いつけを守れば良かったという後悔。濁った水が口内への侵入を繰り返し、身体は重く鈍く水に飲み込まれていく。

 ああ、もうダメだ。家には帰れない。と悟りながら言葉にもならない『たすけて』を振り絞ったとき——。

 俺の身体は誰かの胸に抱き寄せられた。


 その後のことはよく覚えていない。

 気が付いたら俺は病院の天井を見上げていて、そばにいた父が泣きじゃくっていたという状況だった。

 ひとつだけ言えるのは、誰かが無茶で無謀で愚かな俺の生命をつなぎとめてくれたということ。

 しかし、その『誰か』が高校生になった今でも判っていない。

 父はかつて泣きながら言った。お前は命の恩人に一生感謝しながら生きていくんだ、と。

 それなのに命の恩人がどこの誰なのかを一向に明かさない。明かしてくれない。釈然としない。

 感謝しようにも礼すら言えない矛盾に苛立ちを覚えながら、俺は密かに決めたことがある。


 ——いつか必ず命の恩人に『ありがとう』を伝える、と。


  ◆ ◆ ◆


 五月七日火曜日。最高気温二十五度、天気は晴れときどき曇り。

 人の出会いと別れ。その隆盛を極める春が過ぎ去り、大型連休を満喫した人々が退屈な学校や会社に行きたくないと思いながら自らに鞭を打ち始める頃。

 腹ただしい目覚まし時計が残酷にも朝を告げている。それは即ち、1週間近く続いた自由が終わったということだ。

 学校に行くしか選択肢のない高校生の俺は例に漏れず制服に腕を通す。ああ、眠い。ダルい。でも本の続きは読みたい。学校という苦行が存在しない世界はどこかにないものだろうか。

 読みかけの本を携えて一階に降り、洗面台でクマのひどい顔を冷水で洗い流すと父親の声がした。


はやて、テーブルに朝食置いといたからちゃんと食ってけよ」

「ああ、うん」

「それと今日は父さん帰りが遅いから、悪いけど夕飯は出前でも頼んでくれ。お金もテーブルに置いといたからさ」

「うん」

「じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい」


 バタバタとネクタイを締めて出発するものの、父は玄関先の母の写真に手を合わせていく。マメで律儀なところが父らしい。

 俺は支度を済ませてテーブルに着く。ほんのりと温かみが残る不恰好な目玉焼きと少し焦げたソーセージ、粗く刻まれたキャベツに豆腐とワカメの味噌汁、そして白米。

 不器用ながらも家事をこなす父。その背中を実は密かに尊敬している。毎日忙しいはずなのにキッチリとこなすのだ。感謝してやまない。が、改まって言葉にできるわけもない。伝える日は果たして来るのだろうか。……まあ、いっか。そのうちに。

 ぼんやりと考え事をしながら父の朝定食を平らげる。空腹を満たしたところで食器を流し台に運んだ後、リビングの時計を見ると時刻は午前八時十五分だった。


「行くか」


 スクールバッグを肩にかけ、玄関のところで父に倣い手を合わせる。写真の母は写真であるが故にいつも同じ微笑みを浮かべているはずなのだが、今日はどこか輪郭が朧げで儚く見えた。きっと寝不足のせいだろう。そうだ、そうに違いない。


「いってきます」


 戸締りを済ませてから軒先の白いクロスバイクにまたがり自宅を後にする。

 変速して重くなったペダルと少し強くなった陽射しが憂鬱な気分に拍車をかけてくる。

 欠伸あくび。重い瞼をこすりながら俺はふと思う。

 また何の変哲もない日常が始まるのか、と。

 

 じんわり暑い夏日に突入見込みの今日は大型連休明けの学校初日。『連休明け』というワードだけでどれだけ家から出たくなかったか多くの人が分かることだろう。

 ふと手元の時計を覗けば、時刻は午前八時二十分。

 朝のショートホームルーム開始まであと二十分だが、普通にペダルを漕げば余裕で間に合う計算だ。

 いままさに愛車と走っているこの河川敷道は、我が家から高校までの最短ルートでありながら人通りもほぼない。一年前の入学早々に気付けたことは幸運だったと思う。

『人がいない』ということは俺にとって大事な要素だ。それはつまり自分の居場所になることであり、愛してやまない読書の時間を捧げられる場所になる。

 例えば学校の屋上、図書室、使われていない旧部室棟、そして河川敷の高架下は俺にとって特別な場所で……。ん? なんだ?

 高架下を通過する直前、見慣れない光景が視界に入った俺はブレーキを握った。


「あれ……? いまここに誰か……」


 殺風景な高架下には見合わない華奢で可憐な後ろ姿を見かけた気がしたのだが、クロスバイクが止まる頃にはいつもと変わらない空間がそこに広がっていた。


「気の……せいか」


  ◆ ◆ ◆


 神奈川県立柏田高校。教室。二年F組。

 ひとまず朝の予鈴と同時に到着した俺は、窓側の最後部にある自席へと座った。

 ……妙に高架下での出来事が引っかかる。誰もいなかったはずなのに、誰かがいた様に思えてしまう。この不思議な感覚に顔をしかめていると、隣席の女子が声をかけてきた。


「颯〜、学校来れたんだ? 五月病かと思ったぞ〜このこの〜」

「うっせ」


 にこやかに脇腹をツンツンするこの陽キャ女子は幼馴染の高岩寧々たかいわねね。なぜか小中高と同じ学校で気付けば近くにいるヤツだ。今日も無駄絡みしてくるところが些か鬱陶しい。が、唯一まともに話せるクラスメイトはコイツくらいなもので、それに時に救われることもある。



「ニシシシ、今日もクールだねん。それより颯、顔どした? クマひどいよ?」


「ほっとけ。遅くまで本読んでたんだ。続きが気になっちまってな」

「ほほう、さてはエッチな本だね」

「ちげーよ」


 少々鬱陶しい陽キャの無駄絡みをかわしていると、本鈴の響きと共に担任が入ってきた。

 雑談で賑わっていた教室は緩やかに静まり、崩れた座席は速やかに元に戻っていく。


「はい、おはよう。出欠取るから座れ〜」


 担任の松本先生が点呼を取っていく。一見、適当かつ感情が希薄なロボットみたいな先生に思えるが、ただ一歩引いて生徒を見ているだけの冷静な大人だ。必要以上に干渉してこないスタイルは他人と距離を作りがちな俺にとってはありがたく思える。そういう雰囲気は父と似ている気がしなくもない。


「はい、全員いるな。連休明けでしんどいと思うけど、まあほどほどにやってくれ。以上」


 松本先生の一言とともに、俺の退屈な一日が幕を開けた。

 それにしても……眠い。眠すぎる。


  ◆ ◆ ◆


 気絶するように意識を失った俺はチャイムで目が覚めた。朝のショートホームルーム以降の記憶がさっぱりない。一体、どうしていたというのか。

 瞼が重く視界がぼやけて見えると、からかうような寧々の声が聞こえた。


「おやおや? お目覚めですかな〜? 今日は最初から最後までぐっすりのご様子で」

「……え、いま何時?」

「さんじさんじゅうごふん」

「え⁉︎」


 教室のデジタル時計はまさにその時刻を表していた。ということはつまり……朝から自席で七時間も眠っていたというのか。


「マジか……起こしてくれてもよかったのに」

「起こしたよー? でも颯がまったく起きなかったんだって」


 寧々が言うことに間違いはないらしく、変な姿勢で眠った後の身体の痛みが節々に伝わっていた。痛テテテテテ。

 丸一日授業をスルーしてしまった。そのことで多少の罪悪と動揺がひしめき合っていると、松本先生が教室に入ってきた。


「えー、連絡事項は特にない。今日からまたいつもの学校のリズムが始まるから、連休で生活リズムが乱れた奴は早めに寝て体調を整えるように。以上。気ぃつけて帰れよ」


 一瞬、先生の視線が俺に飛んできたような気がする。いや、気のせいではなく遠回しに俺へ言ったのだろう。ぐうの音も出ないとはこのことだ。


「颯〜言われてんぞ〜」

「うっせ」

「くぅ〜思春期だねぇ」

「お前も同じだろうが。早く陸部行けって」

「はいはい、行きますよ〜。颯は放課後どうすんの? 直帰?」

「あー、図書室だな。司書の上杉さんいないし、連休中ほったらかしだったわけだから」

「そか! よく働く図書委員だわな! そんじゃまた明日〜」


 台風のような幼馴染が去っていき、クラスメイトたちも自由に放課後を堪能し始める。

 長らく眠っていたバキバキの俺の身体は、節々の痛みの他にある異変を知らせていた。そう、腹がへっているのである。人間どんな時でもどうやらお腹は空くらしい。

 とはいえ購買は昼には終わり、最寄りのコンビニまで行くのは流石にダルい。つまり咀嚼できるものは現時点で入手できない。

 故に俺は飢餓感マシマシの胃袋をスルーしながら、二階にある職員室で鍵を受け取りそのまま図書室へ向かった。

 晩メシについて考えながら図書室に到着。開錠して扉を開くと埃っぽい匂いが舞った。

 連休前と変わりない誰もいない図書室。時の止まった空間に風を流すため、俺は窓を開けた。夕方に向かう空気と生き物が躍動する五月の青っぽい匂いが図書室の時を進めた。

 蔵書整理と掃き掃除。貸し出しの確認……といった、ごく少ない図書室タスクをこなした後、俺はカウンターに居座って小休止を入れる。

 そうして己も整えた俺はスクールバッグから一冊の本を取り出す。この本は昨夜の俺を寝かせなかった張本人で、大好きな作家さんの一冊だ。

 居場所がなく地方の島から東京に家出してきた少年が100%の晴れ女に出会い、社会の理不尽に抗いながら二人で世界の秘密に触れる……と、かなりざっくり言うとこんなあらすじ。

 寝ずにページをめくっていたものの、物語が大きく動き始める後半で睡魔に襲われてしまって最後まで読めていなかったのだ。いまこの瞬間、俺を妨げるものはない。よし。

 俺は栞を挟んだページから空想の旅を再開することにした。 


 聞こえるのは、微かに窓に触れる風の音。遠くの陸上部の声。時計の秒針。ページをめくる音。

 静寂の図書室で物語と共に時が進んでいく。陽光がほんのりとオレンジ色を帯びていて、もうまもなく下校アナウンスが聞こえる頃だった。図書室には相変わらず俺以外誰もいない。


「……帰るか」


 司書のおっちゃんが不在の今日、図書室の開放権は手中にある。それはつまりクローズするタイミングも独断専行できるということだ。

 片付けを早々に切り上げ、鍵を職員室に返還すると部活終わりと思われるジャージ姿の寧々にバッタリ遭遇してしまった。


「おっ! 颯いま帰り? そんなら一緒に帰ろ!」 

「お、おう……」


 俺は駐輪場で愛車を迎えてから寧々に合流すると、この陽キャは何やら突拍子もないことを言い始めた。


「颯さー、最近学校で話題の都市伝説知ってる?」

「またしょーもない噂が流行ってんのか。そういうの好きだな、お前」


 都市伝説。現代で口承される根も葉もない噂話。誰かの妄想や思い込みが人から人に伝言ゲームとなってそれっぽい話に仕上がるアレだ。幼馴染がせっかく話題を提供してくれるのだから、無粋なマネをせずありがたく乗っかることとしよう。


「ニシシシシ。では、颯殿にも教えてしんぜよう。これは……」

「その喋り方やめれ」


 帰路で歩きながら寧々が熱弁する。どうやらここ最近学校で流行っているのは、幽霊の話らしい。夜ではなく日中に現れる若い女性らしく、すこぶるルックスの偏差値が高いのだとか。話しかけようと接近しても微笑んだ後にいつの間にか消えてしまうことから幽霊の話として広まっている……と。なんともティーンが好きそうな与太話である。


「へえ。そんな美人な幽霊なら会ってみたいもんだな」

「ウケる! 学校近辺とか川沿いで目撃されてるらしいから、そのうち会えるかもよ?」

「だといいな」

「あ〜、その言い方は信じてない時のヤツじゃん。まあ、都市伝説だからね」


 噂話や都市伝説が大好きなくせに寧々は時々妙に冷めたトーンで喋ることがある。それはどこか『エンタメとして割り切ってます』と言わんばかりに。ちょっぴり垣間見える現実主義と、そういう盲信しすぎないスタンスが寧々と長く関われている理由なのかもしれない。


「んじゃ、私こっちだから。スケベな本ばっかり読んでないで早く寝ろよ〜」

「だから読んでねえって」


 ヘラヘラしたジャージの後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、手元の時計に視線を移してみる。午後五時四十五分。陽はかなり傾いているが、まだ明るい。……となれば、俺が行く場所はひとつ。そう、河川敷の高架下だ。

 夕暮れに向かう柔らかい光、日中の火照りを冷ます風。極上の読書タイムがそこにある。


「……ちょっと寄ってくか」


  ◆ ◆ ◆


 河川敷の高架下。夕暮れ。一日中陽光を浴びた葉の匂い。流れゆく水の音。

 休み明けの身体に鞭打って出かけた人たちがクタクタに帰りゆく時間。

 そんな時間でさえもこの場所に人の気配はない。そう、俺を除いては。

 愛車を停め、コンクリート製の段々にあぐらを組んだ俺はただただ水面を眺めていた。

 無数の宝石が砕けて散らばるような夕陽色の河川はひどく美しい。

 しかし、美しいだけではない。当たり前だが河川は自然の一部。こんな穏やかな表情だけではなく、時に人間に牙を向く裏の表情もあることを俺は知っている。


 ——ふと、まだ見ぬ『命の恩人』に想いを馳せる。


 再会できるかは正直わからない。自信もなければ根拠もない。

 だが、その人にとってここが生活圏で縁のある人ならば……ここで待ち続けることで出逢える可能性がある。少なくとも俺はそう信じている。いや、そうであれと願っていると言うべきか。

 ……まあ、今となれば読書が目的になりがちなのは否めないのだが。

 いかんいかん。たおやかに流れる水面のせいで考え込んでしまった。

 どこか遠くへ行ってしまったような意識を再起動させ、スクールバッグから本を取り出した。

 空想の旅の続きが俺を待っている。栞の挟まったページから旅を再開。

 しばらく無心でページをめくっていると、耳元で聴いたことのない声が小さく響いた。


「なに読んでるの?」


 振り返ると——若い女性が脚を抱えるようにしゃがみ込んでいた。

 白シャツとジーンズをシンプルながらもスタイリッシュに着こなす装い。セミロングで艶のある美しい髪。優しく温かい吸い込まれそうな瞳。


「あ……えっと、その……」


 ダメだ。上手く言葉が出ない。至近距離で見る女性の端正な顔立ちと鼻先に届く薔薇のような甘い香りが思考回路を撹乱させる。


「見せて見せて」


 女性は俺の手元の本をひょいと手に取り、読みかけのページに華奢な指を挟んだまま表紙や裏表紙に視線を落としている。


「へ〜、この作家さん新作出てたんだね。はい、ありがと」


 そう言って女性は俺を見つめながら両手で本を差し出した。あまりにも麗しい表情がこうも近いと三秒も保たず、俺はつい目を背けてしまう。


「あ。君、私のこと変な人だと思ってるでしょ。春先によく出る変質者とかじゃないから大丈夫よ。安心して?」


 女性は俺の緊張を解きたいのか、穏やかな声で冗談混じりに話を続けた。ひとつひとつの動作や声のトーンに俺の心拍は上がり続けてしょうがなくなる。


「その制服、柏田高校だよね? 私も昔通ってたんだ」

「え……そうなんですか?」


 意外な共通点につぐんでしまっていた口が開く。こんな眉目麗しい人が先輩にいるなんて学校の伝説に残っていてもよかったのに。


「あ、やっと喋った! そう、元生徒。だからキミからすると……先輩になるのかな?」

「先輩……。その……失礼な態度ですいませんでした。俺、先輩みたいな綺麗な人と喋ったことなくて」


 同じ学び舎で育った人ならばそれはもう身内だ。この一瞬の非礼を詫びると、先輩は口をポカンと開けた後に何故か笑い出して俺の肩をバンバンと叩き始めた。


「ふふふ、キミお世辞が上手だね〜。こんなに笑ったの久しぶりだよ」

「お世辞なんかじゃないです。本心で言いました」


 再びキョトンとした表情の先輩。一呼吸置いてからまた優しいトーンで語りかけた。


「ごめんごめん。私もそんな真っ直ぐに言われたことなくてさ。驚いちゃったの」

「あ、いえ。謝らないでください。俺もその……言い方がアレだったというかなんというか」

「……キミ、いい子だね。名前は?」

「颯です。小鳥遊颯」

「颯くんか……。カッコいい名前だね」

 凪のような優しさと陽だまりのような温もり。母性にも似た包容性に子どもみたいな無邪気さ。それから瞳の奥のどこかに感じる切なさを俺は感じ取ってしまった。

「先輩の……お名前は?」

「私はね、みお黒川澪くろかわみおって言うの」


 黒川澪。学校では聞き覚えのない名前。やはり世代に開きがあるからだろうか。


「先輩、あの……」

「澪でいいわ。どうしたの?」


 反射的に『いくつなんですか?』と声に出してしまいそうだったが、初対面の相手……しかも女性に向かって聞くのは失礼だと思い立ってやめた。


「あ……なんでもないです。すみません」

「ふふふ、変な子」


 イタズラっぽく笑う先輩、改め澪さん。その仕草や表情にどうしても見惚れてしまう。そんな様子を察してなのか、澪さんが会話を続けてくれようとする。……大人だ。


「颯くんは本、好きなの?」

「……はい。時間ができると気付いたら読んでるって感じです」

「そっか。私も昔はそうだったなぁ」


 澪さんはずっと遠くの手の届かないものを見る様な寂しい表情で対岸を見ている。……なぜだろう。このまま話が途絶えると、澪さんが今にもどこか消えてしまいそうな気がしてしまう。


「もう、今は読まないんですか?」

「そうだね。読めなくなっちゃった……って言えばいいのかな」


 それが社会人で時間的余裕がなくて読めないのか、はたまた余暇に活字を読むほどの気力が湧いてこず趣味嗜好が変わってしまったからなのか、俺には分からなかった。


「そうなんですね。まあ、色々ありますよね。大人になればきっと」


 澪さんは口角を上げながら俯き、何も言わなかった。しまった。失言だっただろうか。

 俺の背筋に一滴の汗が流れたとき、彼女はクスッと笑って口を開いた。


「キミ、本当にいい子だね。高校生とは思えない気遣いだなぁ」

「……気遣いというかなんというか」


 彼女はいたずらに俺の顔を覗き込み、おもむろに立ち上がり言った。


「じゃあさ、キミが教えてよ」

「……え?」

「キミの読んだ物語を私に聞かせて? キミが味わった感動を私にも分けてほしいの」


 風に揺られる髪を耳にかけながら澪さんは言った。凛とした佇まいは水面が映す夕陽色の輝きを受けてひどく美しく幻想的だった。こんな光景は初めてなのに懐かしく、胸が高鳴るのに安らぎを覚えてしまうような不思議な感覚があった。


「ダメ……かな?」


 断る理由を己の中で検索してみる。……見当たるはずもない。


「……ダメじゃないです。ダメな理由がありません。俺の話、よかったら聞いてください」

「ふふ。よかったぁ、断られるかと思ったよ」


 前屈みで俺の顔を覗く澪さんはクシャッとした笑顔でそう言いながら手を差し伸べた。

 俺は少しだけ躊躇してその細く柔らかい手を取り、ゆっくり立ち上がる。手に伝う感触と体温が心拍を加速度的に上げていく。


「じゃあ、よろしくね。颯くん」

「こちらこそです。先輩……じゃなくて、澪さん」


 交わした手を解いた後、澪さんは何かに気付いたように急に顔を近づけた。鼻筋の通った御尊顔が死ぬほど近い。そして魅惑的な甘い香りが理性を挑発する。


「あ、あのぅ……澪さん? 何を?」

「しっ! ちょっとだけ目瞑ってて。まつ毛にゴミついてる」

「は、はい……」


 言う通りに瞼を閉じる。頬に伝わる柔らかい手の感覚と、まつ毛の方で伝わる指先の感覚。そして微かに感じる澪さんの吐息。こんな恥ずかしくこそばゆい体験はしたことがない。この状況でじっとしているなど、思春期のオスにとっていかに酷なことか容易に想像できよう。


「はい、取れた〜。もう開けていいよ」


 両手拳を作り小刻みに震えること十数秒。かろうじて耐え抜き瞼を開ける許可が降りたのだが——。


 彼女の姿は最初からなかったように跡形もなく消え去っていた。

 時刻は午後六時三十三分。


  ◆ ◆ ◆


 自宅。居間。陽も沈みきった午後七時半過ぎ。


「はぁ……」


 漏れ出てしまう溜め息と、出口のない自問自答。

 澪さんは一体何者なのか。考えたところで答えは出ない。

 確かなのは、あの時間あの場所で俺は澪さんと過ごしたという事実だけだ。

 それだけで……今はいいかもしれない。

 ひとまずの決着をつけて自分を納得させたとき、見計らったように胃袋は悲鳴を上げた。

 俺はソファに寝そべりながらスマホを開き、出前アプリで無数のメニューを流し見る。

 タップとスワイプの繰り返し。唐揚げ弁当の大盛か特盛かの選択を一瞬悩んだ後、注文確定ボタンを押す。

 居間の天井を見つめる時間。晩メシが届くまでの時間。空腹を満たす時間。

 ベッドの中で今日という日に別れを告げる時も、俺は澪さんのことを考えていた。


  ◆ ◆ ◆


 五月八日水曜日。最高気温二十四度。天気は曇り。時刻は午前五時半過ぎ。

 無情に鳴り響く目覚まし時計よりも早い起床。こんなことは滅多にない。

 己の瞼をパチパチと動かしてみる。睡眠に過不足は感じられず、比較的眠った後のコンディションに仕上がっているようだった。

 ベッドでだらだらしてもしょうがない。俺は手早く着替えと支度を済ませ、一階へ降りた。

 洗面。昨日のひどいクマは幾分か和らぎ、よく見る普通の男子高校生が鏡に映っていた。


「呑気な顔してるねぇ」


 自分の顔に触れながら呟く。顔に触れた手は洗い流した水で冷たいはずなのに、澪さんの体温が残っているかのようにほのかに温かく感じた。

 そんな錯覚を覚えながら歯を磨いていると、パジャマ姿の父が入ってきた。


「おお、今日は早いな。日直か何かか?」

「いあちあうへほ。あんらふぁあくおひふぁっへ」

「そうか。いま朝メシ作るから、テレビでも観て待ってなさい」

「ふぁい」


 口をゆすいでから改めて感じた。『いや違うけど。何か早く起きちゃって』を寸分違わず聞き取ってしまう父は正真正銘自分の親なのだ。当たり前だけど。

 居間でテレビをつけてみる。普段観ない時間帯のお天気お姉さんが『本日は曇りの空が続き、明日と明後日は一日雨。週末は晴れ間が広がるでしょう』と手際よく伝えていると、着替えた父がキッチンで調理を始めた。

 トースターのタイマーが動くジリジリジリという音。まな板と包丁がぶつかる音。油のひかれたフライパンに食材を乗せるジューッという音。キッチンであらゆる音色が重なって食のコンサート会場になっている。

 ごく普通のありふれた光景。何の変哲もない景色。これが我が家の通常運転……と思ったところで俺の口が自然と動いた。


「澪さんも今頃起きてるのかな」


 脳裏に浮かぶ彼女の姿はどこか儚げで寂しそうに微笑っていた。あの人の何がそうさせてしまっているのだろうか。もちろん考えたところで答えはわからない。

 昨日の余韻に浸る自分に気が付いて赤面していると、独り言に反応した父が尋ねた。


「何か言ったか?」

「ううん、何も! 何も言ってない!」


 慌てて誤魔化す俺を不自然に思ったのか、父は近況を尋ねてくる。


「颯、高校はどうだ? 楽しいか?」

「んー、まあ普通」

「そうか」


 他人からすれば、この父が非常に淡白で子どもに興味関心が薄い親に映るかもしれない。だが、俺はそうは思わない。父は俺のことを常に気にしてくれている。

 それは毎日食事を作ってくれていることや、今みたいに様子を聞いてくることからも明らかだ。淡白に見えてしまうのは、グイグイと踏み込まれるのが苦手な俺に対して気を遣ってくれてるだけなのだ。


「何か困ったことがあったら、父さんか寧々ちゃんにでも話すんだぞ」


 父がテーブルに朝食を並べる。バターの乗った加熱過多なトースト。ちょっぴり硬いベーコンとボロボロのスクランブルエッグ。不恰好に刻んだトマト。千切ったレタス。

 うむ、父は今日も絶好調だ。『いただきます』と言ってトーストを齧り始めると、時計を見た父はネクタイを締めて動きが素早くなっていった。


「父さんもう出るけど、晩メシは何か希望あるか?」

「うーん、豚汁?」

「渋いなお前……。わかった。そんじゃ行ってくる」

「いってらっしゃい」


 ——ふと、時計に目をやる。時刻は午前六時四十五分。いつもより一時間余り余裕がある。

 朝食をいつもの三倍多く咀嚼してもこの時間。俺は珍しく流し台で食器を洗い、落ち着かない自分のために早々に出発することを決めた。


「いってきます」


 父と同じように母の写真の前で手を合わせ、俺は自宅を後にした。


  ◆ ◆ ◆


 河川敷の高架下。時刻は午前七時。

 鈍色の雲は昨日の空気をどこかに閉じ込めて厚く重く広がっていた。

 何の気配もない静まり返った空間。誰もいないことがこの場所の常なのだが、俺の心はどこかであの人がいることを期待していた。小さな落胆が胸の内側でひしめいている。


「また……会えるんだよな?」


 水流は流れゆくだけで当然何も応えない。俺は瞼を閉じて深く息をする。


『キミの読んだ物語を私に聞かせて?』


 彼女の言葉が熱を帯びて蘇る。その言葉は何の取り柄もない俺を必要としてくれるようだった。

 瞼をゆっくり開ける。眼前にはただ灰色の世界が広がるだけで、凛として空間を彩る澪さんはいない。次に会う目処もない現実に嘆息が漏れる。


「はぁ……」


 しゃがみ込みうなだれた瞬間、しきりに俺の名前を呼ぶ声がした。


「お〜い、颯〜! 颯ってば〜」

「澪さん⁉︎」


 振り返ると……ジャージ姿の寧々が大きく手を振っていた。

 期待と落胆のジェットコースター。そんな俺の心情を他所に陽キャは今日も朝から元気いっぱいである。


「颯、おは! こんなとこで何やってんの?」


 小走りで近寄ってきた寧々が言う。それはこちらが聞きたい。問いに答えつつ同じことをそのままそっくり返してやった。


「早く起きすぎちまったから本でも読もうかと思ってな。お前こそ何やってんだよ?」

「ほほう、朝から精が出ますな! ワタシはごく稀に取り組む自主的朝練の最中であります!」

「精が出てるのはお前だろうが」

「ニッシッシ! 確かに!」


 爽やかな汗を首元のタオルで拭う寧々。自主練するほど真面目に部活に取り組むとは意外な発見である。

 関心している俺を差し置いて、どこか落ち着きのない寧々は辺りを見渡して俺に尋ねた。


「颯、ここよく来るの?」

「中学入ってくらいから割と来てるな。高校入ってからは通学に便利だから頻繁にって感じ」

「(ここって確か……)」


 キャラに似合わず神妙な面持ちの寧々。先までのハツラツとした元気はどこかへ失せてしまっていた。


「どした?」

「あ、ううん。なんでもない! 早く起きすぎてちょっとボーッとしちゃったかな!」


 取り繕った笑顔。不自然な言い訳。何かの思惑の片鱗を感じたが、本人がなんでもないと言うのだ。それ以上を問うことは出来まい。


「のんびりしすぎて学校遅刻するんじゃないザマスよ〜」

「お前がな。そんで変な喋り方やめれ」

「ニッシッシ。そんじゃあばよ〜」


 そう言い放って寧々は走り去っていった。なんなんだ、あのマイペースの化身は。

 再び静まり返る高架下。時刻は午前七時十二分。

 俺はコンクリートの地面に座り込み、時間の許す限り澪さんに話す物語のページをめくった。


  ◆ ◆ ◆


 時は流れて放課後。窓から見える雲は今朝より黒く厚くなって空に敷き詰められていた。

 教室の掃除当番が回ってきた俺は、寧々や他のクラスメイトとともに掃き掃除の真っ最中。

 男子は『ソシャゲのURの排出率が渋い』だの『はやくバイト代入らねぇかな』といった物欲に支配されたトークを繰り広げ、一方の女子は『ダンス動画がプチバズった』だの『推しにいいねもらえた』といった承認欲求トークで盛り上がっていた。

 寧々は器用に両陣と親睦を深めるものの、当の俺はただ黙々とひたすらに床の埃を集めてゴミ箱へ捨てるだけだった。

 この状況は珍しいことでもない。同年代と興味関心や価値観が少々異なる俺は、必然的に浮いた存在となってしまう。『飄々とした振る舞いが気に入らない』とか『全てを知った気でいるようでウザい』とか、一方的な思い込みをする勢力に疎まれることも過去にはしばしばあった。

 故に俺はクラスメイトと距離を置く。近づきすぎて摩擦が生まれるくらいなら、近づかず影となりお互いが平和な距離を保った方が良い。それがいつからか体得した俺の処世術だった。誰だって穏やかに過ごせるならその方がいいだろう?

 そんな俺を見かねてなのか、寧々は時々会話のパスを回してくる。クラスメイトとの距離を縮める機会を作ってくれているのだが、俺は毎回『ああ』とか『そうだね』と済ませてしまう。

 気を遣ってくれる幼馴染には申し訳なく思う。ただ、他者に踏み込むのも踏み込まれるのも億劫に感じてしまうのが今の俺なのだ。それなのに——。


 澪さんのことは知りたいと思ってしまう。


 己から生まれている矛盾にもどかしさを感じながら、ゴミ袋の口を固く結び暗に掃除終了の合図を放つ。掃除より雑談にシフトしてしまったクラスメイトたちも流石に気が付き、それぞれ手持ちの道具を掃除用具箱に戻していく。

 スクールバッグを肩にかけ大きく膨らんだゴミ袋を両手に持つと、名前も朧げな男子が『小鳥遊、俺もゴミ捨て行くよ』と口にした。

 俺はただ一言、『大丈夫。一人で行ける』とだけ答えて教室を後にした。


  ◆ ◆ ◆

 

 多くの生徒に忘れ去られたような閑散とした図書室。

 ゴミ捨てという一仕事を終えて図書室を開けた俺は、カウンターでひとり突っ伏していた。

 瞼を開けてても閉じてても彼女のことばかり考え始めてしまう。

 一方で彼女について何も知らない自分に気が付くと、溜息は止まることを忘れて永遠に空気中を彷徨い続けていた。

 柄にもないセンチメンタルな自分に失笑していると、図書室のドアが開いた。


「おや、小鳥遊くん。今日も開けてくれたんですね」


 物腰柔らかな笑顔でいるのは司書の上杉さん。ファンタジーものに出てくるホビットにもどこか似ていて、とにかく気の優しいおっちゃんだ。


「他の皆さんは中々お忙しいみたいですからね。ありがたいですよ」


 幽霊委員がほぼ全てを占めている影響で、放課後はいつの間にか上杉さんか俺のどちらかが開けるようになっていった。読書環境を確保したい俺としては願ってもないことである。


「私がいますから、後は好きなタイミングで上がって大丈夫ですからね」

「ありがとうございます。本の続きが読みたいのでもうちょっと居ますね」

「ええ、もちろん。好きなだけ居てください」


 上杉さんのおかげで幾分か思考をリセットできた俺は、スクールバッグから読みかけの本を取り出して空想の旅を再開させた。


 図書室でいくつかの音が小さく響く。

 紙が擦れる音。頁をめくる音。静かに確かに進む時計の音。柔らかく流れるボールペンの音。

 心地よい静寂の中で物語を味わい終えたとき、上杉さんが何かに気付いて窓へと寄った。


「あらら、降ってきちゃいましたねぇ。予報では明日だったのに」


 微かに聞こえる雨の音。優しく降り注ぐ雨を見て、上杉さんはどこか微笑んで見えた。


「雨、好きですか?」


 俺は読み終えた物語を大事にしまって上杉さんに尋ねた。


「ええ、好きですよ。雨には思い出が詰まっています。それはもうたくさんと」

「どんな……ですか?」


 普段なら他人の過去には踏み込まないのだが、上杉さんの表情を見ると聴きたくなってしまった。一体、どんな記憶がその表情を作らせるのか。


「ホッホッホ。老いぼれの話などきっと面白くないですよ」

「いいです。良ければ聞かせてください」


 ポリポリと人差し指で頭を掻いた後、雨空を見上げて上杉さんは語ってくれた。


「あれはですね——」


 雨の追憶。セピア色の回想。

 かいつまんで言うと、どうやら雨という気象は学生時代の恋の背中を押してくれたらしい。

 夏の急な通り雨。バスの停まらない旧停留所。雨宿りする高校生の上杉さん。そこに偶然、憧れのクラスメイトの女の子が雨から逃れるように駆け込んできた。話してみると『読書』という意外な共通点。雑談に華が咲く二人。

 時を忘れて話し込むと空には晴れ間が戻り、虹の橋がかかった。自分のすぐ隣で七色のアーチを見上げていた人が——今の奥さんになった、と。


「……どうです? 面白くもなんともなかったでしょう?」


 照れ笑いながら上杉さんは言う。


「いえ、そんなことないです。映画みたいなことが現実にも起こるんだなって」

「ホッホッホ。『事実は小説より奇なり』なんて言いますからね。生きていれば不思議な縁や運命に遭遇することもあるのでしょう」


 図書室の天井を見上げて彼女を浮かべる。

 そんな俺を気にかけてくれたのか、上杉さんは言葉を続けた。


「小鳥遊くん。いま好きな人でもいるのですか?」

「え……どうしてですか?」

「どこか恋をする若者の顔をしています。違っていたら申し訳ないのですが」


 遠回しでもなくオブラートにも包まれなかった直球の言葉。上杉さんは自らの過去を明かしてくれたのだ。俺も多少は自分を明かさねばなるまい。


「好き……なんですかね。昨日初めて会って話した人がいて、それからずっとその人のことが頭から離れないんです」

「……なるほど。四六時中その人のことを考えて時に切なく時に胸が苦しくなりながらも、それでもその人にまた会いたいと思うようなら……それはもう立派なひとつの恋ですよ」


 上杉さんは仏の笑みで言う。俺の中のぼんやりした気持ちがまとまってどこか輪郭を持ったような気がした。


  ◆ ◆ ◆


 自宅。自室。時刻は午後十時過ぎ。予報よりも早い外の雨は降り続いている。

 リクエストした通りの豚汁と歪に刻まれた野菜炒めを平らげた俺は、父との歓談をロクにせず早々に自室へと籠り溜息の生産工場となっていた。

 寝そべりながら暗い天井に浮かべた澪さんの影に手を伸ばす。

 彼女の手の柔らかさ、香り、声、熱、吐息……瞼を閉じるとすぐそこにいるような錯覚。

 上杉さんの言葉がいつまでも脳内で反響する。


 俺は未知の世界への不安と淡い期待を掛け布団の中に閉じ込め、きつく抱きしめるように眠った。


  ◆ ◆ ◆


 五月十一日土曜日。最高気温二十七度。晴れ。時刻は午後二時過ぎ。

 照りつける陽射しが露出した腕をジリジリと焼いていく。

 水曜日から続いた雨は悶々とした俺の心を慰めていたが、夏を前借りした太陽に勝てるはずもなくあっさりと空を明け渡していた。

 道端の水たまりが車輪を湿らせる。撥ねた水飛沫が光の泡となって消えていく。


「あっちいな……」


 クロスバイクを河川敷の茂みに沿うように停め、すぐさま高架下の日陰に避難する。初夏とはよく言ったもので、日向の暑さはほぼ夏のそれ。日陰はこの世の極楽浄土だった。

 マチ付きの白のトートバッグからハンドタオルとペットボトルの水を取り出す。額と首の汗を拭いながら、コンクリート製の段々に腰を下ろした。


「ふぅ。風があってよかった」


 久しい晴れ間を踊るように風が通り過ぎていく。心地よい清涼を覚えた身体は、渇きを潤せと要求してくる。要求に従いペットボトルの水を口元へ運ぶ。喉が鳴る。全身に水がめぐっていく。

 己が瑞々しく整ったところで、俺はバッグからまだ真新しい文庫を取り出して開く。

 栞がセーブポイントを教えてくれる。

 そして、薫風がページをめくるとき——聴きたくてやまない声がした。


「颯くん」


 優しいのに悲しくて胸が高鳴るのになぜか懐かしい声が耳元で聞こえた。

 甘い花の香りが間違いなくあの人だと肯定する。

 声の方に振り向くと、会いたくてしょうがなかった彼女が過ぎゆく風の如く微笑んでいた。


「……澪さん」

「やっほ。元気してた?」


 白いシャツに向日葵色のスカートでしゃがみ込む澪さんは、俺の顔を窺い覗き込む。

 見たものを虜にしてしまう澄みきった瞳。眩しくて直視できなかったのに、今日はただ眺めてしまう。


「……あれ? 颯くん? おーい」


 目の前で手の平を振る澪さん。おどけた表情さえも瞼の裏に焼き付けたいと思ってしまう。


「あ、すみません。ボーッとしちゃって……」

「あれ、もしかして元気なかった?」


 今度は心配そうに澪さんが言う。確かに元気はなかったかもしれない。主にあなたのせいで……ということで少々イジワルに返答してみせた。


「はい。澪さんが何も言わず急にいなくなるから、夜も眠れませんでした」


 澪さんは目を見開きポカンとした表情で固まっている。しまった。今度こそ失言だっただろうか。……あれ? めちゃめちゃ笑ってる?


「ハハハ、ごめんごめん! 思ってもない返事だったから驚いちゃった」

「笑い事じゃないですよ。本当に心配したんですから」


 これは本音だ。次に会う約束もできないまま去ってしまったことがひどく気掛かりだった。


「その節はごめんね? 門限が近かったから慌てて帰っちゃったの」

「……いいですよ。許します。またこうして会えたので」

「生意気言うのはこの口かな〜?」

「……痛い、痛いっす」


 彼女はその華奢な両手で俺の頬を挟み、結構な力でグリグリとこねくり回した。気になるワードがあったのは事実だが、この話題を広げたところでしょうがない。今はこの時間を堪能していたかった。


「ふふふ、ほんとキミ面白いね」

「そうですかね? どちらかというと寡黙でつまらない人間な気がします」

「ううん、そんなことない。キミはキミが思うよりずっと面白くて豊かな人だよ。自分のことをつまらないだなんて言わないで?」


 彼女は真剣な眼差しで言う。嘘でもお世辞でもなく心の底から本音を言う人の眼をしていた。この人の声と瞳には何か魔法めいた不思議な力がある。


「はい……」

「よろしい! それで……読書の方はどう? なにか読み終えた?」


 少女のように輝く瞳で彼女は言った。


「……なるほど。主人公の男の子は自分と世界を犠牲にしてまで晴れ女の少女を助けた、と」

「はい。主人公の行動原理はその女の子への強い想いや自責の念なんですけど、もし同じ立場だったら自分はそんな風に行動できたかなぁ……って。主人公の無茶だけど一本筋の通った行動に感動しましたね」


 昨日読み終えた物語を感想と共に澪さんへ伝える。彼女は膝を抱え込むように座り込み、水面をじっと見つめながら耳を傾けてくれていた。


「きっとさ、その男の子にとって女の子の存在が自分以上に大切だからできたことなんだろうね。人って強い感情があるとそういうことできちゃうから。……うん、分かるなぁ」


 遠い昔を噛み締めるように彼女は言う。澪さんにも自己犠牲してまで他人のために動いた過去があったのだろうか。あるいは……身悶えるほど恋焦がれた相手でもいたのだろうか。

 俺の知らない何かに馳せるその横顔を見ると、上手い言葉が見つからなかった。


「ありがとう、話してくれて。颯くんの話は聞き入っちゃうな。私まで物語の世界にいるみたい」

「いやいやそんな……」

「褒めてるんだぞ〜? そういう時は素直になっときなさい」

「イダイイダイイダイイダイ……わ、わかりましたって」

「ふふん」


 彼女は俺の両頬をつまみ引っ張りながら言う。イタズラな表情がまたも俺の心をくすぐってくる。……それにしても顔が近い。


「颯くんはさ、もっと自分に自信持っていいよ。顔だってカッコいいんだから」


 赤面。身体中の熱が顔面に集中した。そんなことを間近で言われたら澪さんの顔をまともに見られるはずもない。


「あ! 顔真っ赤!」

「からかわないでくださいよ」

「わかったわかった、はいおしまい」


 頬を引っ張っていた力が緩む。意地悪な表情さえも魅力的に映ってしまうのは、俺の内側でくすぶる感情のせいだろうか。


「は〜、今日も笑ったな〜。キミといるとなんだか楽しいや。……なんでだろうね」

「またそんなこと言って」

「ホントだってば」


 笑い声が混ざり合う。この時間がいつまでも続けばいい。そんな我儘な願いを抱くほど、俺はこの時間に至福を感じていた。

 ……だが、驚くほど時間は残酷だった。


「改めて今日はありがとう。すっごく楽しかった」


 澪さんは立ち上がり言う。気が付けば向日葵色のスカートが夕陽色の光を浴び始めていた。


「俺も楽しかったです。……すごく」

「他人と話すってそんなに悪いことでもないでしょう?」

「……はい」


 彼女は俺の何かを見透かすように言った。このまま口をつぐめば、きっと彼女は俺の知らないどこかへ去っていく。そして、またいつ会えるかわからない日々を過ごすことになる。

 俺は恐らくこれまで使ったことのない種類の勇気を振り絞って、言った。


「俺、澪さんともっと喋っていたいです。もし迷惑じゃなかったら……連絡先教えてください」


 彼女は嬉しそうに、だけれど悲しそうな表情で丁寧に言葉を紡いだ。


「ありがとう。そう思ってくれて嬉しいな。でも私ね……携帯ないんだ。許してもらえなくて」


 門限、携帯電話未所持。気になるワードが思考を飛び交う。いわゆる箱入り娘というやつなのだろうか、それとも何か特別な事情があるのだろうか。

 いずれにしても、俺には落胆を薄めることくらいしかできなかった。


「……そうなんですね。じゃあ、しょうがないですよね」


 沈黙。しかし、気まずさの空気で満たされる前に俺は彼女を見上げて尋ねた。


「また……会えますか?」


 彼女は微笑んで白い手を差し出す。その手を取りながらゆっくり腰を上げると、風になびく髪をかき上げてら彼女は言った。


「会えるよ。よく晴れた風のある日に、ね」


 そう告げた彼女は沈みかけた陽光に照らされて、消えた。

 時刻は午後六時三十六分。


  ◆ ◆ ◆


 五月十三日月曜日。最高気温二十三度。天気は曇りのち雨。

 帰りのショートホームルームが終わって間もない午後三時五十分頃。

 クラスメイトたちは放課後を謳歌しようとそれぞれ散らばっていく。

 そんな中で俺は根を張った植物のように動かず、窓の向こうの泣き出した空を眺めていた。

 不思議で不可解な澪さんとの時間。あの時間は夢か幻か。

 脳が不意に科学的にあり得ない仮説を提示する。が、肌の記憶は真っ向からそれを否定した。

 己の中で対立する思考によって溜息が再生産されると、寧々が怪訝な表情で声をかけてきた。


「颯〜、なんだか溜息が多いすなぁ。どうした? 恋でもしたか?」

「……うっせ」


 この陽キャは時にあまりにも鋭いことを口にする。女の勘、というやつなのだろうか。根掘り葉掘りされる面倒を想像して俺は窓の向こうに視線を移した。


「おやおや? これは図星なのかねぇ……そうなのかねぇ?」

「はやく陸部行けって」

「チッチッチ。本日はご覧の通り雨! 陸部は休みになったのです!」


 高らかな休み宣言で解放感に浸る寧々の顔。早々に話題を変えねば面倒だと悟った俺は、寧々の好きそうな話題で誤魔化す作戦に躍り出た。


「なぁ、幽霊って触れられると思うか?」

「どしたいきなり? うーん、どうだろな。透けてそうだから無理なんじゃん? 知らんけど」

「……そうだよな」


 見解の一致で安堵する。そうだ。幽霊であるなら触れられない。そして幽霊が活動するなら夜が更ける丑三つ時だったりする……はずだ。


「まさか颯殿……例の幽霊見たんでごわすか⁉︎」

「ちげーよ。幽霊なんかじゃなくて……すっげー美人となら会ったけど」


 うっかり。余計なことをボソッと漏らしてしまう。案の定それを聞き逃す寧々ではなかった。


「え、なになに美人⁉︎ どこで会ったの⁉︎ まさかその美人に惚れちゃったとか⁉︎」

「やめいやめい。鬱陶しい」


 食い気味にまとわりつく寧々。そんな幼馴染を振り払って立ち上がり、スクールバッグを肩にかけた。


「えー、どこ行くんだよ颯ー。その話詳しく聞かせてよー」

「お前がもっと落ち着いて大人びた女性になったらな」

「……ばーか」


 寧々の言葉を最後まで聞くことなく俺は逃げるように教室を後にした。


 図書室の鍵を開けて照明のスイッチを押す。

 何の気配もない蒼然な空間に明かりが灯ると、ここが自分の居場所のひとつだと安堵する。

 頬杖をつきながらカウンターの定位置でだらしなく座っていると、珍しく来客があった。


「……こ、こんにちは。入って大丈夫ですか?」

「はい。どうぞ」


 眼鏡をかけた大人しそうな女子が入ってきた。上履きの色から察するに下級生らしい。

 観察。図書室内の……主に文学棚をウロウロと彷徨っている。なにか目当てでもあるのだろうか。何冊か手に取りパラパラとめくっては棚に戻している。

 十分ほど過ぎたあたりで下級生はカウンターに近づいてきた。手元に本はない。


「あ、あの!」

「はい」

「本が……読みたいんですけど」

「後ろに腐るほどありますけど?」


 意図のわからない言葉に困惑する。この子は一体何を求めているのだろうか。


「あの、えっと、そうじゃなくて……ごめんなさい。なに言ってるんだろう私」

「何か探してる本でもあるんですか?」

「えっと、その……」


 要領を得ない回答。噛み合わないコミュニケーション。成立しない会話ほど耐え難いものはない。


「オススメの本……ありませんか?」

「はい?」


 急にレコメンド本を要求する下級生。薦めるにしてもヒントが少なすぎる。


「その……読みやすくてどんでん返しが面白くて、それでいてちょっとグロかったりする小説……ありませんか?」

「ああ、そういうことですか」


 言葉足らずの理由が腑に落ちる。人には言いにくい嗜好があるから聞きづらかった、というわけか。


「じゃ、ちょっと来てください」

「……え?」


 俺は下級生を再び九類の文学棚へ連れていく。一冊の本を手に取り、レコメンドする理由と共に手渡した。


「江戸川乱歩の短編集。現代語に近くて読みやすいのと、基本は推理小説だからどんでん返しが面白い。グロ描写のある作品もあるから恐らく希望に沿うかと」

「そうなんですね! 面白そう!」


 浮き立つ表情の下級生。最初からそう言ってくれればいいのに、と思いながらも口に出さずカウンターで貸し出し処理を行う。ああ、やっと静かに読書ができる。


「返却は一週間後です」

「ありがとうございます!」


 下級生は宝物でも抱きしめるように本を持って出て行った。役に立てたのなら嬉しいが、今度からは要点を先に言ってほしいものである。

 滅多にない一仕事を終えて安息すると、入れ替わるように上杉さんがやってきた。


「小鳥遊くん、今日も開けてくれましたか。いつもありがとう」

「いえ、暇なので」

「ホッホッホ。何やらさっき珍しくお客さんがいたみたいですが、大丈夫でしたか?」

「はい。どんでん返しとグロ描写味わいたいような人だったので、ひとまず江戸川乱歩貸しておきました」

「それはそれは。小鳥遊くん、いい仕事をしますね」

「……ありがとうございます」


『他人に褒められたら素直に受け取れ』……確か、こんな趣旨のことを澪さんは言っていた。普段なら言葉の裏を探ってしまう俺だが、澪さんの教えに倣って恥じらいつつも言葉を受け取った。

 図書室に静けさが戻る。俺は引き続きカウンターに居座って読書を、上杉さんは隣で事務仕事をこなしていた。

 ページをめくる。何枚もめくっていく。読み進めるうち滲むように澪さんの顔が浮かぶと、両頬を含む顔全体に火照りを感じ始めた。恐らく俺の顔は熟したりんごの様相なのだろう。

 集中力を切らした俺は文庫をパタリと閉じて室内をぼんやり眺めた。顔の熱が引いたとき、ふと思う。澪さんのことを知る人はどれだけいるのだろうか、と。

 本人の知らないところで詮索するのはいかがなものかと思うタイプの俺ではあったが、衝動に駆られて隣の上杉さんに尋ねてしまった。


「上杉さん」

「どうしました?」

「黒川澪さん……って知ってますか? 卒業生なんですけど」

 上杉さんは腕を組み考え始めた。記憶の中のフォルダを探しているのだろう。

「残念ですが、心当たりがありませんね。お知り合いなのですか?」

「まあ……その、はい」


 三年前に赴任してきたという上杉さんが彼女を知らない。……ということはそれより上の世代の可能性がある。もちろん司書である上杉さんは生徒とふれ合う機会が図書室に限られるから、被っていたとしても彼女が図書室を利用していなければ単純に出会っていない可能性もある。

 本人に聞いてしまえば一発で解決する話なのだが、いつも彼女のペースに乗せられてそれどころではなくなってしまう。それに余計なことを聞いて嫌われてしまうのも避けたい。……うーむ。


「小鳥遊くん、どうしました? そんな難しい顔をして」

「あ、なんでもないです。今の話は忘れてください」


 俺はそそくさと立ち上がり誤魔化すように窓を覗く。

 図書室の外は俺を嘲笑うように雨が降っていた。


  ◆ ◆ ◆


 五月十四日火曜日。最高気温二十六度。天気は曇りのち晴れ。時刻は午後四時五十分。

 いつも通り図書委員の仕事をゆるくこなしていた俺だが、『今日は私が閉めますから、たまには羽根を伸ばしてきてください』と上杉さんに言われ素直に学校を後にした。

 午前中は雲に覆われていた太陽が午後から本気を出し始め、夏を予感させる陽射しが街を照らした。時は流れて夕刻。街を涼ませようと心地よい風が吹き始めている。

 少しずつ茜色に染まろうとする晴れた空。身体を通り抜ける風。こうなれば直帰する理由などない。車輪が向かう目的地はただひとつ。

 そう、——高架下だ。


 変速後の重たいペダルを漕いだ甲斐あって随分と早く到着できた。

 数メートル先にあの人がいる。会いたくてたまらなかった不思議で淑やかなあの人が。

 クロスバイクを道端に停め、水面を眺めて凛と立つ後ろ姿に声をかける。


「澪さん」


 彼女は髪を耳にかけながら名前を呼ぶ声に応え、薄い水色のワンピースが煌めく様に揺れた。

 今にも消えそうな麗しく儚い微笑み。そして、切なく透き通った魅惑の瞳。

 ……何度でも何回でも心を奪われてしまう。


「やっと来た。もう帰ろうかと思ったとこだよ」


 からかう様に彼女は言う。それが本心ではないと表情や声色から汲み取れるのは、この人の人柄が少しだけ理解できたからかもしれない。

 俺たちは話を続けながらいつものコンクリート製の段々に並んで腰掛ける。


「すみません。図書委員の仕事を手伝ってて……」

「ううん、謝らなくていいよ。冗談だから。それより颯くん図書委員なんだ? ピッタリだね」


 どんな話でも気持ちよく耳を傾けてくれる澪さんはコミュニケーションの達人だ。俺には到底真似できない。


「まあ、静かに本が読める場所を確保したいっていうだけなんですけどね。仕事はほとんど司書の人がやっちゃいますし」

「司書の人って……畠山さん? あのぶっきらぼうな?」


 知らない名前が挙がる。やはり澪さんとの間にはそれなりの世代差があると見ていいだろう。


「いえ、今は上杉さんっていう妖精みたいな優しいおっちゃんです」

「……そっか。畠山さんいないんだ」


 澪さんはまたあの表情を作る。自分ではもう二度と手に入らないものを見るような、あの表情を。うら寂しいその顔を見れば、掘り下げた話を聞こうとはとても思えなかった。


「澪さん?」

「あ、ううん。なんでもない。ごめんね」


 作ったような笑顔を見せた彼女に俺は何も言うことができなかった。ほんのわずかに沈黙が流れたものの、俺に気を遣わせないためか大人な彼女がリードした。


「図書委員の仕事はどう? やっぱり大変なのかな?」

「そうですね——」


 俺はひとまず彼女に無理した表情をさせないよう、他愛ない話を繰り広げることにした。

 大半の図書委員がサボっていること、故に上杉さんと二人三脚で図書室を運営していること、だがメリットとして図書室をほぼ独占できて読書天国なこと……といった図書委員の話から、幼馴染の寧々の変な口調の話、父の料理の話、最近読んでいる本についてまで話題が広がった。

 他人からすればクソどうでもいい退屈な話の連続なのだが、澪さんは笑いながら終始相槌を打ち続けてくれた。そして挙げ句の果てには……。


「俺、これまで同級生と分かり合えたことなくて……いつも距離作っちゃうんですよね。ぶつかるのを恐れて最初から交わらない様にしているというか」


 と、俺の話はもはや人生相談の領域に達していた。男子高校生の胸中なぞ大人の女性からすれば知ったことではないはずだ。が、しかし。


「もしかしたらさ、分かり合えないっていうのは意外と思い込み……だったりするかもよ?」


 彼女は適当に聞き流すでもなく、極めて真剣な声と表情で向き合ってくれた。


「颯くんのことを見てくれている人たちは必ずいてさ、その中に分かり合える人だっているはずだよ。もちろん、どうしたって分かり合えない人も一定数いるんだけどさ」


 優しく諭す様な言葉。その言葉の端々に説教じみた響きはない。抵抗なく受け取れるのは、彼女の言霊に力があるからだろうか。


「颯くんと仲良くなりたいって思う子たち、実は近くにいるかもよ? キミが気付いてないだけでさ」

「そんなもんですかね」

「うん。そういうのことわざで何て言うか知ってる?」

「灯台下暗し」

「正解。よくできました♪」


 イタズラが好きでしょうがない少女の様な表情で彼女は俺の髪をわしゃわしゃと撫でながら乱す。ふいに誰かから見られているような視線を感じたものの、気のせいということにしてそのまま頭を預けた。

 本当はいつまでもそうしていて欲しいのに、俺はつい天の邪鬼なことを言ってしまう。


「やめてくださいよ〜」

「はい、おしまい♪」


 彼女に自然な笑顔が戻る。俺はボサボサの髪を手で整えながら、頭の片隅にあった素朴な疑問を尋ねてみようかと考えた。

 思わぬ地雷を踏んで嫌われてしまう可能性も考慮したが、今の和やかな空気なら変なことにはなりづらいだろう。先の澪さんが言っていたように、思い込みで人と交わるのを避けるのは俺の悪いクセだ。


「話がガラッと変わるんですけど、澪さんのお家ってこの辺だったりするんですか?」

「……気になる?」


 瞳は優しいままだが、それまで上がっていた口角がフラットに戻る。プライベートを探るのはやはり何かまずかったのだろうか。


「この前、門限って言ってたから家が遠いならそろそろ解散なのかな……と思って」


 手元の腕時計が午後六時三十分を示す。このくらいの時間帯に彼女はいつも去ってしまう。

 澪さんは腰掛けていた段々から立ち上がり、夕陽色の空を見上げてポツリとこぼした。


「遠いよ」

「え?」

「私の住んでる場所。◾️のままだと届かない……遠い遠い場所」

 風に消されて彼女の声を上手く聞き取れなかった。遠い遠い場所……車や飛行機を使わないとたどり着けないという意味だろうか。いや、周囲に車は見当たらず空港へ行くならモタモタしている場合ではない。それにどこかこう、もっと違うニュアンスな気がしてしまう。

 言葉の意図がつかめず困惑する。そして——。


「私ね、人を探してるの。たぶん男の子だと思うんだけど……」


 そう言って風の迎えに応えるように、彼女は甘い香りだけ残して消えた。

 時刻は午後六時三十八分。


  ◆ ◆ ◆


 同日夜。自宅。暗く狭い自室に一人。聴覚は呼吸の音だけ捉えている……が。

 階段を登り来る重い足音。ゆっくり慎重に、そして優しさを持って近づいてくるのが分かる。

 食事が喉を通らず口もきけなかった俺を心配したのか、父が自室のドアをノックして言った。


「颯、何かあったのか?」


 俺に返答する気力はなく、脳や思考は全て澪さんのことで占められていた。

 すぅ、とドア越しに聞こえる深呼吸。父は言葉を選ぶようにゆっくりと静かに言った。


「父さん頼りないと思うけど颯の味方だから、何かあったら遠慮なくいつでも相談しなさい」


 ドアの前から気配はなくなり、階段を下る低く鈍い音が聞こえた。

 父へ申し訳ない気持ちが募る。だが、ここ一週間のことを上手く言語化する自信がない。


「はぁ……」


 溜息に混じって澪さんの言葉が蘇る。彼女は去り際に言った。人を探している、と。

 それは俺と同じだった。命の恩人をあの場所で待ち続け探している俺と。

 この意外な共通点を語り合いたいという願望と、これまでの不可解な言動や現象が交錯する。


「澪さんって、なんなんだろう……」


 彼女への疑問が小さく溢れたとき、スマホの通知音が久しぶりに鳴った。

 寧々からのメッセージだった。


『はやてー』 21:13

『なに』 21:13 既読

『はやいな』 21:14

『だからなに』 21:14 既読

『今日さ、河川敷いた? 高架下のとこ』 21:15

『いたけど』 21:15 既読

『やっぱりはやてだったかー。なんかキレイな女の人もいたよね?』 21:15

『それがなに』 21:18 既読

『昨日言ってた美人さんってあの人? まさか付き合ってるとか⁉︎』 21:42

『だったらどうする』 21:44 既読

『え』 21:50

『それだけ?』 21:51


 無駄に含みを持たせてからかうと寧々の返信はなくなり、スマホはピタリと鳴らなくなった。


「なんなんだよアイツ……」


 静まり返る自室。天井を眺めているとオーバーワーク気味の脳が休息を訴えてくる。

 ああ、瞼が重い。俺は気を失うように夢の誘いに乗って堕ちていった。


  ◆ ◆ ◆


 五月二十一日火曜日。最高気温二十一度。天気は曇りのち雨。時刻は午後三時五十四分。

 教室の窓の向こうに見える雲は、黒く重く広がって青空を閉じ込めていた。こんな空模様は何か大事なことを訴えかけてくるのだが、低気圧の影響か頭がぼんやりしていて思考がはたらこうとしない。

 テレビのお天気お姉さんが言うには、夕方頃はところによって雷を伴う強い雨が降り出すらしい。空だってやはり思いきり泣きたいときがあるのだ。……俺だってできるなら泣きたい。

 なぜならこの一週間、澪さんに会えていない。風がそよぐ晴れた日はいくつもあった。それなのに姿さえ確認できていない。

 やはりプライベートを詮索するような質問が原因だろうか。いや……そんな気に障るような問いだっただろうか。内側の自分と自問自答の応酬を繰り広げていると、様子のおかしさに気付いた寧々が例のごとく話しかけてきた。


「むむむ、どうした颯〜? 眉間にシワがよせよせしてるぞ〜」

「うっせ」


 あの夜の連絡以降、口数が減ったり素っ気なかったりと寧々の様子がどこかおかしかったのだが、数日前に『本が恋人の颯に年上の彼女なんかできるはずないか!』と勝手にゲラゲラ笑いだしてからは、こうして通常営業に戻っている。

 女心と秋の空なんていう言葉があるがほどほどにしてもらいたいものである。まだ初夏だぞ。


「陸部はどうしたよ? 休みか?」

「なんかさー、雨ひどくなりそうだから今日は休みにするんだって。そんで早めに帰れってさっき連絡回ってきたよ」


 わざわざスマホのグループチャット画面を見せてくる寧々。休みになったのが嬉しいのか表情はニコニコしている。


「颯は今日も図書室? 早めに帰れって言われるんじゃん?」

「どうだかな。上杉さんに会ってないからなんとも言えん」

「そかそか。お役御免だったら一緒に帰ろーぜい。降られる前にたこ焼き屋寄ってこ」


 そうして職員室へ鍵を取りに行く俺。その後ろを寧々が歩きながら謎の歌を口ずさんでいる。この生物は口を開けていないと死んでしまう呪いでもかけられているのだろうか。


「たこたこた〜こた〜こたこた〜こ♪」


 妙に中毒性のあるタコソングを永遠に聞かされながら職員室前に到着。スライド式の手動ドアを開けると、目当ての人物にバッタリ遭遇した。


「あ、上杉さん」

「これはこれは小鳥遊くん。ちょうど連絡しようと思っていたところでした」

「上杉さん、こんちは〜」

「高岩さんもご一緒でしたか。こんにちは」


 今日も仏のような御仁は健在で寧々にも挨拶をしてくれる。職員室の入り口を静かに閉めると、上杉さんは業務連絡を始めてくれた。


「小鳥遊くんは確か自転車通学でしたよね? 今日はまもなく雷雨の予報ですから、降り出す前に上がっちゃってください」

「でも……」

「大丈夫ですよ。そんなにやることも多くないですからね。気をつけて帰ってください」


 上杉さんはそう言って図書室へ向かっていった。俺としては雨音を聞きながらの読書も好物なのだが、確かにズブ濡れで帰るのもしんどい。上杉さんの心遣いをありがたく頂戴することにした。


「いえーい! やったね颯〜、たこ焼きパーリーだぜ」

「……お前は少し黙ってろ」


 一秒でも早くたこ焼きを貪りたくてしょうがない寧々を適当にあしらいながら、俺たちは下駄箱へと向かった。


 一階。玄関。足早に帰路へ着く生徒たち。

 空はゴロゴロと鳴き始め、機嫌を損ない始めている様だった。

 俺は早々に靴を履き替えたのだが、肝心の寧々が陸部の友達らしき女生徒に遭遇。たこ焼きを忘れていつまでも駄弁り続けては笑い転げていた。

 ルーズな幼馴染に待ちぼうけを喰らう俺は、来校者受付のそばで存在感を放つ棚に目を奪われていた。ガラス製の大きな棚——生徒たちのトロフィーや表彰が飾られた棚だった。

 そこまで自分の学校に興味をもってこなかった俺は、諸先輩方が残していった成績や成果の多さに関心してしまう。

 そして、並べられた多くの栄誉の中でも一際大事そうに高貴な額縁へ納められた感謝状と俺は対峙した。




 感謝状

 黒川澪 様


 あなたは平成三十年五月二十一日藤花市柏田三丁目付近の多摩川水上で発生した

 少年の水難事故に際し勇敢に救助活動へ尽力した功労顕著であります

 ここに哀悼を捧げるとともに深く感謝の意を表します


 平成三十年六月十八日

  蘭町地区一部事務組合

  柏 田 消 防 署

   消防署長 山田善次郎




「なんだよこれ……」


 知った名前。六年前の日付。多摩川。少年の水難事故。哀悼……という散りばめられたワードを飲み込めず、目を見開いたままその場から動けなくなってしまう。

 強制的に彼女のパズルのピースが揃い始める。だが、真実にたどり着きたくないと心が抵抗する。

 動けない。呼吸は浅く、心拍は速くなっていく。

 全身に冷たい嫌な汗を感じていると、淡白で低い声が俺を我に返した。


「小鳥遊、どうしたこんなところで」


 担任の松本先生だ。どうやら玄関先でたむろする生徒たちを帰している最中だったようだ。

 俺はとにかく誰かと答え合わせをしたくて、事情を知っているかも分からない先生に一方的に尋ねてしまう。


「先生、この感謝状の人って……」

「ああ、黒川か。六年前に受け持っていた生徒でな——」


 無関係どころか直接の関係者らしい先生が言葉を続ける。同姓同名の別人の話であってくれと心は祈る。


「生徒会長で水泳部のエース。文武両道で成績も優秀な絵に描いたような生徒だった。相手の話を良く聞く人柄の良さがありつつ茶目っ気も備えている子でな、生徒にも教師にも慕われていたよ」


 普段はそこまで感情を出さない先生が寂しく悲しそうに昔を懐かしむ。そして、一致してほしくないのに俺の知る彼女の人物像とリンクしていってしまう。


「だがな、六年前に亡くなったんだ。大雨の日に。確か川に流された小学生を助けて……っていう話だったな。……ちょうど今日が命日。七回忌だな」


 全てが一本の線で繋がってしまう。そんな。馬鹿な。それなら俺が出会った彼女はなんだと言うのだ。そうか。夢だ。これは夢だ。悪い夢を見ているに違いない。

 覚めろ。覚めてくれ。夢なら早く覚めてくれ。


「この感謝状は親御さんの意向でここに……。おい、小鳥遊大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


 全身から血の気が引いていく。肩で呼吸をしてしまうほど動揺が露呈するとき、空気の読めない寧々が合流した。


「颯〜お待たせしやした〜。あれ、先生までどうしたの?」

「おお、高岩か。小鳥遊にその感謝状の生徒について話したんだがな、様子がおかしいんだ」


 寧々が俺の腕を揺すり眼前で手のひらを振る。それでも俺の身体は微動だにせず、感謝状に記された女性の名前を凝視する。


「え、待って。これって……」


 俺の視線の先をたどった寧々は何かに気付いた様子で口元を抑える。あの開いた口が塞がらないはずの寧々が言葉を失っている。これは明らかに真実を知っているときの人間の反応だ。


「寧々、お前……知ってたのか」


 寧々は何も言わず目を伏せ、六年前を凝縮した記述から顔を背ける。


「おい、寧々……知ってたんだよな? 俺を助けた人が……もうこの世にいないって」

「……うん。私のお母さんと颯のお父さんが学校で話してるとき……聞こえちゃった」

「お前たち何を言っ……」


 松本先生の言葉を遮って俺は寧々の両肩を掴み、どうしようもない想いをぶつけてしまう。


「なんで……なんでだよ! なんで早く言わなかった⁉︎ 俺は……ずっと……」

「自分のせいで他人が亡くなったって知るのは小学生じゃ受け止めきれないから……ってそのとき颯のお父さんが。だから……言えなかった。颯がツラくなっちゃうって思うと……中学になっても高校になっても言えなかったんだよ」


 これまでの想いが打ち砕かれ、心の深淵まで衝撃が走る。丁寧に描いてきた設計図が一瞬で消されるように、思考は真白くなり何も考えられなくなってしまう。


 ——刹那。視界は一面、光に包まれた。間髪なく轟音が鳴り響く。

 雷鳴。空が大量の涙を零し始めたことで俺は平静を取り戻す。


「……行かなくちゃ」

「え、ちょっと颯!?」

「小鳥遊! 待ちなさい!」


 俺はスクールバッグも持たず、学校を飛び出した。


 愛車のクロスバイクが道を駆け抜ける。

 聞こえるのは、無数の雨粒が地面を叩く音。車輪が裂く水の音。雷音。浅い呼吸音。

 そのどれもが六年前を彷彿させる。

 向かう先はあの日と同じ。河川敷の高架下。

 あの人が居るかは分からない。再び逢えるのかは分からない。

 だが俺は、行かねばならない。あの人に伝えなければならない。

 今日伝えなければ——もう二度とチャンスはない。直感がそう言い続けている。

 しかし現実は、彼女へ続く道を阻もうと立ちはだかった。


「痛ェ……」


 転倒。車道と歩道の境目のブロックを乗り越えられず派手に横転。負荷が蓄積していたのか左ペダルは破損。前輪の膨らみは無くなっていった。もう愛車と共に進むことはできない。


「ちくしょう……なんでだよ。なんで俺は……もっと早く気付かなかったんだ」


 心が、挫けそうになる。左脚と左肘の痛みが俺を諦めさせようと追い打ちをかけるが、止まるわけにはいかなかった。いや、止まってはいけなかった。

 六年前の彼女の苦しみは——きっとこんなものではなかったのだから。


「行かなきゃ。あの人のところに……行かなくちゃ」


 傷だらけでずぶ濡れの身体を無理やり起こして立ち上がる。

 向かい風に乗った雨粒が視界を遮ろうと、轟く雷鳴が間近に迫ろうと俺は自分の足だけで彼女の元へ走った。


「澪さんッ!!」


 高架下で立ち尽くす後ろ姿に向かって呼びかけた。

 セミロングの髪、白いシャツに向日葵色のスカート。間違いない。彼女だ。彼女がいる。

 ゆっくりと振り返る彼女の表情は——いつものように寂しそうに微笑んでいた。


「珍しいね、こんな雨の日に。……って、どうしちゃったのその格好⁉︎」

「俺のことは、いいです。それよりも聞きたいことがあるんです」


 彼女は何も言わずにじっと俺を見つめる。いつになく真剣で覚悟した人の表情に見えた。


「澪さんが探している人——それは六年前、あなたが命と引き換えに助けた小学生の少年……ではないですか」

「……どこで気付いたの?」


 自分の正体に気付かれてもなお、彼女は取り乱すことなく優しい声のトーンで問いかける。


「高校に澪さんへ贈られた感謝状があって……。それと、松本先生も教えてくれました」

「そっか。ふふ。まっちゃん先生、今も学校いるんだ」


 また寂しそうに微笑う。その理由がいまやっと分かったとき、彼女は自ら語り出した。


「そう……私が探しているのはね、六年前にこの場所で流されてた少年なの。もう助けるのに必死だったから、私はその子が結局無事だったのかどうかも分からないまま……死んでしまったんだけど。感謝状があるなら助かってるってことよね?」


 彼女は自分の死後でさえ他人のことをずっと気にしていた。その優しさに想いに胸が張り裂けそうになる。だが、俺は今日ここで伝えねばならない。


「……俺です」

「……え?」

「俺なんです。あなたが命懸けで救ってくれた少年は……俺、小鳥遊颯なんです」


 彼女は驚きを隠せない表情のまま、俺を見ていた。


「あの日の俺、親の言いつけも守らないで一人で勝手に外に出て……氾濫する川にバカみたいに興奮して喜んで……。こんなことになるなんてちっとも想像できてなくて……それで、澪さんを巻き込んで……」


 彼女は何も言わず目を逸らすことなく、ただじっと俺の言葉に耳を傾け続ける。


「俺が……俺が死ねばよかったんです。そうすれば優秀で綺麗でみんなに好かれる澪さんが亡くなることなんて……」


 ——抱擁。ずぶ濡れで泥だらけの俺を澪さんは両腕いっぱいに抱きしめた。


「そっか……キミだったんだね。……よかった。無事でいてくれて……本当によかった。大きくなったんだね」


 彼女は膝から崩れ落ちる俺を抱き寄せながら、濡れた頭を撫でてそう言った。叱責でも罵倒の言葉でもない。ただ俺が無事でいてくれて良かったと彼女は言った。

 母の懐のようなその言葉の響きに俺は耐えられず、堰き止めていた瞳の雫が溢れてしまう。


「……ごめんなさい。俺は……どれだけ謝っても許されないことをして……」

「ううん、いいんだよ。キミが無事でいてくれて今日まで元気に育ってくれてるなら、私のやったことは無駄じゃなかったってことでしょ? それに、私がキミを助けたいって勝手に思って助けたんだよ。だからキミが気に病む必要なんてないわ。大丈夫よ」


 聖母のような慈愛に満ちた彼女の胸の中で、俺は涙が乾くまで泣き続けてしまった。


 気が付けば、雨は止んでいた。

 太陽を閉じ込めていた黒雲も、心臓まで響く雷鳴も全てどこかへ去っていた。

 時刻は午後六時十分。もうまもなく沈む陽光が川の水面を幻想的に彩っている。

 澪さんが子どもの様にはしゃぐ。そして、俺の手を引く。どうやら空に何か見つけたらしい。


「颯くん見て!」


 彼女が指差す方向——西の向こうの空に巨大な七色のアーチが架かっていた。


「……キレイだね」


 感慨深げに空を見上げる澪さん。俺はそのあまりの美しさに言葉を失ってしまう。

 手を繋ぎながらしばらく空を見上げていると、風が二人の髪をなびかせた。


「そろそろ……時間かな」


 この手を離せば、きっと澪さんはどこかへ消えてしまう。

 そう思うと、この手の感触を強く記憶するように握らざるを得なかった。


「また……会えますか?」


 心の底から溢れ出る素直な想いで俺は澪さんに尋ねる。

 叶うなら許されるなら、彼女ともっと一緒にいたい。そんな気持ちを込めた。

 だが——彼女は悲しそうに首を横にふる。


「……ごめんね。この身体は仏様から賜った仮初めのものなの。六年の修行を乗り越えたご褒美にっていうので、特別に現世への現界を許してもらえたんだ。だから、目的を果たしたら……カタチのない私に戻るの」


 澪さんの瞳に溜まっていた雫が頬に流れていく。

 上手い言葉も気の利いたセリフも言えない俺は、咄嗟に澪さんを両腕で抱きしめた。

 彼女の香り、吐息、温もり、柔らかさをキツく胸に寄せて記憶に刻む。


「もう……行かなくちゃ」


 彼女の身体が次第に薄く淡く光の粒と化していく。

 完全に消えてなくなる前に——これだけは伝えなければ。


「澪さん。俺は、あなたを……生涯忘れません。本当に……本当にありがとうございました」

「……ちゃんと生きるんだぞ」


 彼女だった光の粒はそう言って風と一緒に舞い上がり、茜色の空に消えていった。

 時刻は午後六時四十四分。


  ◆ ◆ ◆


 時は流れて一週間後。

 俺は例の如く掃除当番で黙々と教室の埃を集めていた。

 よくもまあ一日でこんなに塵が積もるものだとある種の関心を抱いていると、クラスメイトの男子が話しかけてきた。確か——佐々木っていうあまり目立たないヤツで以前も話しかけてきた気がする。


「小鳥遊、今日は俺がゴミ捨て行くよ。いつも行ってもらって悪いからさ」


 思わぬ申し出に少々思考が停止してしまう。これまでの俺なら『いい。一人で行けるから』などと突っぱねてしまうのだが——。


「ありがとう。じゃあ、一緒に行かないか? そこそこゴミの量あるからさ」

「ああ、うん。もちろん」


 佐々木と二人でゴミをまとめ上げ、教室を後にしようとすると……やはり嵐のような陽キャが現れるのだった。


「待て待て待てーい! 何やら二人でもしんどそうなゴミの量ですなぁ。拙者が持ってあげても……ぐぬぬ」


 後ろから追いかけてきた寧々に軽いゴミ袋を投げ渡す。コイツが出てくると騒がしくてしょうがない。……まあ、やっぱりそれに救われている部分もあるのだが。


「小芝居はいいから手隙なら持て。そんで変な喋り方をやめれ」

「ハハハ、高岩さんって面白い人だね」

「そうだろうそうだろう」


 三人で賑やかにゴミ集積場へ向かっていると、今度は一階の階段踊り場でメガネの女の子に遭遇した。図書室で江戸川乱歩を薦めた下級生だ。


「あ、図書室の……」

「えっと、乱歩の人……だよね?」

「高田……って言います。あの、その……江戸川乱歩とっても面白かったです。またオススメあったら教えてください!」


 と、よっぽど内気で恥ずかしがり屋なのか、それだけを言い放って高田は走り去っていった。なんなんだあの子。


 ゴミ捨てを難なく終えた俺たちは、歩きながら購買の一番美味いパンについて論じていた。

 寧々がエビカツドッグ、佐々木がシュガートースト、俺がコロッケパンだとそれぞれ主張していると、この時間に珍しく父からメッセージが届いた。


『父さん、今日早く帰れそうなんだが何かメシのリクエストあるか?』 16:10

『うーん、豚汁』 16:11 既読

『お前それ好きだな……。わかった。材料買って帰る』 16:11

『父さん』 16:12 既読

『どうした?』 16:12

『いつもありがとう』 16:14 既読


 俺は肺にたまった恥ずかしい気持ちを吐き出してから、足早に図書室へ向かった。


                                   了

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五月の空に、君は。 竹道琢人 @takemichitakuto

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