レベル1からの共闘

神崎諒

レベル1からの共闘

 週末の深夜。柏木湊はノイズキャンセリングヘッドセット越しの喧騒に意識を沈めていた。

「Null《ヌル》さん、右翼頼む」

「了解、カバーする」

 仲間たちの声に応えながら指先が目まぐるしくキーボードとマウスの上を滑る。モニターの中では緻密にデザインされたモンスターが派手なエフェクトと共に咆哮していた。今日のレイドボスは手強い。だが、この予測可能なルールと役割分担による達成感の方が現実の曖昧なコミュニケーションよりもずっと性に合っていた。


 外では、数日前から断続的に強い雨が降り続いていた。窓を叩く雨音は完全に遮断されている。天気予報が「線状降水帯」「記録的な大雨」「河川氾濫の危険性」といった言葉を繰り返しているのは知っていたが、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。自分の生活圏とはレイヤーが違う、そんな感覚だ。

 そもそも他人の感情や不確定要素に振り回される現実は効率が悪い。少なくとも良くはない。湊が都内のゲーム会社にプログラマーとして勤め始めて五年、ロジカルな思考と効率を重視する性格はコードを書く仕事には最適だった。バグを見つけて潰すように、無駄を削ぎ落として最短経路で結果を出す。そのやり方で評価され、同世代の中では比較的早く小さなプロジェクトのリーダーも任されるようになった。だがそれは同時に、社内のウェットな人間関係や非合理的な「調整」「根回し」といったものを、より一層煩わしいと感じさせる結果にも繋がった。飲み会は時間の無駄、雑談はノイズ。人付き合いなんて、結局は消耗するだけのコストでしかない。そう割り切ることで傷つくことから自分を守ってきたのかもしれない。だからこそ休日は自室に籠り、こうしてオンラインゲームの世界に没入するのが常だった。ここなら余計な感情の機微を読む必要も裏切られる心配もない。決められた役割を果たせば、それで完結するのだから。


 ふと、飲み物を取ろうとヘッドセットを外した瞬間、ゴボゴボと水が流れるような普段聞き慣れない音が耳に入った。窓の外に目をやるとマンション前の道路が茶色い濁流に覆われていた。街灯の光が不気味に水面に反射している。そこだけが別世界のようだった。

「これは……さすがに、まずいか」

 思わず声が漏れた。

 スマホを手に取るとエリアメールの通知が数件。『警戒レベル四、避難指示』。

 このマンションは築三十年とはいえ鉄筋コンクリート造りだ。自分の部屋は三階。まだ大丈夫だろう、という希望的観測と避難という面倒な行動を避けたい気持ちがせめぎ合う。


 その煮え切らない思考を打ち破るようにマンション全体がガタンと大きく揺れた。直後、プツン、と音を立てて部屋の明かりが消え、モニターもブラックアウトした。

「停電……」

 数秒の完全な静寂の後、壁の非常灯がぼんやりと緑色の光を放つ。それだけだ。ルーターのランプも消え、ネットも完全に遮断された。ゲームは強制終了。

 セーブデータは? そんなことを考えている場合ではない。急に現実世界に引き戻された感覚と腹の底からじわじわと湧き上がるような不安が胸に広がる。窓の外の水位はさっきよりも明らかに上がっているように見えた。一階のエントランスホールはもう完全に水没しているかもしれない。遠くでサイレンの音が聞こえるが近づいてくる気配はない。行政の対応も追いついていないのだろう。


 その時だった。

 ドン、ドン、ドン。

 隣の部屋から壁を叩くような鈍い音が聞こえた。そして、声。

「……助けて」

 か細く、しかし切羽詰まった響き。隣の住人、女性の声だ。フリーのウェブデザイナーで、たまに廊下で会えば人懐こそうな笑顔で挨拶してくる女性。引っ越してきたときに自己紹介を兼ねて部屋を訪れてきたことがあった。律儀だが警戒心の薄い人だなと思ったのをよく覚えている。湊にとっては「隣人」という属性以上の関心はなかった。挨拶を返すのも、どこか義務的にこなしていた。

 今の声は明らかに異常だ。普段の彼女からは想像もできない、恐怖に染まったトーン。

 ……関わるべきか。

 一瞬、躊躇する。面倒だという気持ちが先に立つ。だがこの状況で聞こえないふりをするのはさすがに人としてどうか。湊は小さく息を吐き、重い腰を上げて玄関のドアを開けた。


 薄暗い共用廊下も、非常灯だけが頼りだ。隣の三〇ニ号室のドアを叩く。

「大丈夫ですか、えーと……」どうしても名前を思い出せなかった。そこまで関心がなかったのだ。

 ドアの向こうから嗚咽混じりの声が返ってきた。声は震え、途切れがちだ。

「か、柏木さん……よかった……」

 彼女は必死に言葉を紡ごうとしている。

「助けてください……さっきの揺れで、本棚が倒れて……足が、挟まれて、動かせないんです」

 予想以上に深刻な事態に、湊の背筋が冷たくなる。

「鍵は開けられますか」

 湊は努めて冷静に訊いた。パニックは状況を悪化させるだけだ。

「無理です……鍵、あっち側で……手が、届かなくて……」

 ドアノブを回すが当然ロックがかかっている。内側からしか開けられない。


 管理人室に助けを求めようにも、この時間では無人だろう。それに一階はもう浸水しているはずだ。念のため階段を確認しに行くと、予想通り、二階の踊り場あたりまで濁った水が迫っていた。エレベーターはもちろん動いていない。完全に孤立無援だ。

 どうすればいい……。焦りが思考を鈍らせる。湊は自室に戻り、ドアを破壊できそうなものがないか必死で探した。工具箱には、安物のドライバーセットしかない。ゲーム用に買った重いメカニカルキーボード。ほとんど使っていないゴム製ダンベル。どれも、頑丈なマンションのドアをこじ開けるには力不足だ。


 諦めかけたその時、玄関の隅に立てかけてあった一本の傘が目に入った。数年前に急な雨でコンビニで買った、骨太で先端が尖った金属製の傘。ほとんど使わず放置していたが、これならテコの原理でわずかな隙間でも作れるかもしれない。

 湊は傘を掴み、再び女性の部屋の前に立った。

「いいですか、今からドアをこじ開けてみます。音、うるさいですけど我慢してください」

 ドアの向こうから弱々しい返事があったような気がした。一刻を争う。

 湊は傘の先端をドアとドア枠の隙間にねじ込み、全体重をかけて押し込んだ。ミシミシと嫌な音がするがドアはびくともしない。金属製の傘が逆にしなってしまいそうだ。

 だめか……。額に汗が滲み呼吸が荒くなる。

 無力感が全身を襲った。プログラムなら、デバッグすればいい。だが現実はそうはいかない。リアル世界での自分の非力さを突きつけられた。


 その時、頭上から声がした。

「もしもし、下の階の方かね。大丈夫かい」

 四階の階段の踊り場から老夫婦が心配そうにこちらを見下ろしていた。上階の住人だ。顔は知っているが名前は知らない。

「停電したし、水も上がってきとるようじゃが」

 老人の落ち着いた声が不思議と少しだけ冷静さを取り戻させてくれた。

「隣の人が家具の下敷きになってるんです。ドアが開かなくて」

 それを聞いた老夫が「おお、それは大変じゃ」と目を見開いた。

「ちょっと待っとれ。昔、日曜大工で使っとったバールがあるかもしれん」

 

 待っている間が、ひどく長く感じられた。マンションは時折、ギシ、と不気味な音を立てて軋む。構造は大丈夫なのか。彼女の部屋からは、か細いうめき声のようなものが聞こえる。

「しっかり、もう少しの辛抱です」

 湊はドア越しに声をかけ続けた。それは彼女を励ますと同時に自分自身を奮い立たせるための言葉でもあった。面倒だと思っていた隣人。今、その命が自分の行動と見ず知らずの老人の善意にかかっている。


 どれくらいの時間が経っただろうか。息を切らせた老人が錆びついた、しかし頑丈そうなバールを手にして戻ってきた。

「あったぞ。これでどうじゃ」

「ありがとうございます」

 湊はバールを受け取ると、ずしりとした鉄の重みを感じた。今度こそ、いけるかもしれない。

 再びドアの隙間にバールの先端を差し込み渾身の力を込める。

 ギギギ……バキッ。

 破壊音と共にドア枠の一部が砕けて隙間が大きく広がった。

 思わず安堵の息が漏れる。隙間から中を覗くと、倒れた本棚の下で顔面蒼白の女性がぐったりとしていた。女性は湊の顔を見ると、かすかに表情が柔らかくなった。

「足を隙間から抜け出せますか」

「……うん……なんとか」

 女性は弱々しく頷いた。

 湊は女性の部屋に入ると、さらにバールで隙間を広げて女性が本棚から足を抜くためのスペースを確保した。彼女は歯を食いしばりながら、ゆっくりと足を抜き出した。

「よし」

 湊と老夫が手を貸し、彼女を部屋の外へと慎重に引きずり出す。足首は痛々しく腫れ上がっていたが幸い骨折は免れたようだった。

「ここじゃ狭すぎるし、本棚も倒れていて危ない。ひとまず、ぼくの部屋の玄関へ行きましょう」

 湊は女性の肩を支えて老夫婦にも助けられながら、隣の自分の部屋へと避難した。

 部屋に入ると、湊は戸惑いながらも棚から清潔なタオルと未開封のミネラルウォーターを取り出して彼女に差し出した。

「これ、使ってください」

「ありがとう……ございます……」

 女性はそれを受け取り、震える声で礼をいった。恐怖と安堵と、おそらく痛みとで、まだ混乱しているようだった。老夫婦もそのまま玄関に座りこみ、ようやく一息ついた。

「ありがとう……本当に、ありがとう、柏木さん」 

「……別に。こういう時は、お互い様ですから」

 ぶっきらぼうにいいながらも湊の胸には、これまで感じたことのない種類の温かい感情が込み上げてきていた。ゲームで難関をクリアした時の達成感とは違う、もっと生々しく手触りのある感覚。すぐそばにいる他人の存在感。

「あなたも、お怪我は?」

 老婦人が心配そうに湊に訊いた。

「俺は大丈夫です。それより、皆さんが無事でよかった」 

 窓の外を見ると、いつの間にか雨足は弱まっていた。水面も心なしか少し下がったように見える。遠くでボートのエンジン音のようなものが微かに聞こえ始めていた。救助が近づいているのかもしれない。

 レベル一の俺でも少しは役に立てたかな……。

 湊は心の中で呟いた。人付き合いはコストで面倒事。そう定義づけて壁を作っていた自分が必死で隣人を助けようとしていた。

 オンライン上の協力プレイよりもずっと不確実で、非効率で、だけど、何よりも確かな「共闘」だったのかもしれない。


 窓から夜明け前の薄明かりが差し込んだ。

 攻略不可能に見えた状況を、ただ力を合わせて乗り越えた。名も知らぬ隣人たちとの間に生まれた、不確かだが確かな繋がり。それはモニターの中の繋がりとは違う、質量を持った温もりだった。この関係が明日どうなるかは分からない。それでも夜明けの光は、ただ静かに、すぐそこまで来ている。

 閉じていた玄関扉が、開け放たれていた。

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