君の為だよ
「ねぇ、君」
あの中性的なダンスの人。
「なんですか」
視線だけ向けた。昨日より蒸すせいか半袖のオーバーシャツを着ていた。体のラインからして女性だろう。
「どうして来ないの」
売り場のカウンターつかつかと近づいて、カウンターを爪でトントンと叩くので、僕はそれから逃れようと体を引く。
「仕事なんで」
「なんで?」
「なんでって、これ。仕事で」
知っているこの目は、責任とか義務に追い詰められていない。無責任でぬる湯のような目だ。
「アルバイトなら休めばいいじゃない。今日くらいいいでしょう。ダンス踊ってよ。今日は誰も来ないわよ」
トントンと鳴らした指がすぅっと引いた。
僕はため息をつきつつ無視をした。
「それにしても節操がないわね。ここの民宿、去年は天下統一だったんでしょ」
「その方がさっぱりしていて良かだです」
「それは私も同感。ねね、今日は二人だけで飲みましょう」
「明日、朝から仕事なんで」
「なんでそんなに働くの?」
そんなの。
何かしたいわけでもない。
何か夢があるわけでもない。
「老後の蓄えと」
お母さんの療養費。
「今から考えているの?」
「それくらい普通では」
「それで踊れるの?」
「踊りとうないです」
「しゃるうぃー!」
「分かった。踊るから」
奥のばあちゃんを起こしたくない。これだから夢物語を生きているぜみの人は嫌だ。
売店の鍵を閉めて外に出た。僕は外に行った友人をも信用していない、何か悪いことをするのが若さだと思っているからだ。そういう経験をたくさんしてきた。
「それでその」
「両手を私に預けたら私が全部してあげる」
勝手にしておけ。そう私は両腕を差し出した。
「腕じゃないよ。手」
抱き寄せられて驚いて引こうとした。
「ダメだよ」
耳元に囁いた声にはかすかに覚えがあった。
足もとがおぼつかなくて、引っかかりそうになるのを上手くリードされた。水の上を歩いているという感覚はこういうことをいうのかもしれない。
同じ町で育って、小学校に入るころにはわかめしかない海を泳いで、中学では友達の一個アップしたカップルというものが出来て、都会と同じやぁと盛り上がった。高校はカブで通学して、同じ町の同級生のうち私以外の四人が進学した。
みんな経緯を知っていたので、何も言わず必ず帰ってきた。最初はどこに行こうかと話をしていたけど、空白の時間は多いとそれぞれの生活も変わる。
やってくる移動車の商店にはこの時期ともあって、魚は冷凍ものだ。それで困らないし、そうであってくれた方がいい。
だから都会でたまにおしゃれして行く生の寿司は想像出来ない。車の免許をとればいいのか。そうしたらマグロくらいは刺身で食えるのか。
知らない横文字や店の名前にビジネス用語が増えていく。同級生が年々どんどん顔も姿も変えていく。
「踊っとる」
「そうね、踊っているわ。どう?」
どうって言われても自分の体じゃないみたいだから、よく分からない。
「私ね、今修士で就職するの。あなたは知らないだろうけど、私ずっとあなたを見ていたの」
私はその楽し気な声に恐怖を覚えた。慌てて身を固くした。それでもダンスは続く。
「私、四年間かけて大学のおじさん食べちゃった。おねえさまも時間の問題。そのうち天下統一しちゃうから設備の整ったうちの大学病院にお母さん入れて、うちの大学においでよ」
意味の分からない恐怖だった。
抵抗して後ろ手に転んだ。逃げる、何から、何をどうして、どうやって、なんで。
あんなに温かくて嬉しい海が、外は暑いはずなのに冷たい。
あの人が飛び込んできた。そして優しく触れるように冷たく絡み付いた。
「明後日までに決めて、すぐにお金が出ないなら何とかするから」
そう言って、私の手を引いて器用に陸へ出る様は私が僕になる理由を作った女性を思わせた。
「あの頃と一緒、涙を拭いて、ほらキスをしたあなたは本当に可哀そうな顔をしてる」
感覚がなくなるくらい私は何でも口づけをされた。
あの人は子どもを妊娠して中退したと人づてに聞いていた。
「お母さん、奨学金貰いながら進学出来て、病院代をもってくれる大学探して来たよ」
あなたってかわいそう ハナビシトモエ @sikasann
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