美術館の眠らぬ少女たち
鈴宮縁
ベラの夢々
美術館の柔らかな暗さは秘密を隠すのに向いている。その中で一層輝くように照らされる美術品たちに人々の目は吸い寄せられていくのだ。期間の定められた特別展示でもそれは変わりない。都内の小さな西洋美術館。特別展示の会場の床は少し黄味がかった温かみのある色で人々から落ちる影を優しく受け止めていた。
企画展『ベラの夢々』。ベラ・ハーパーという画家の没後百年を記念して、彼女の作品の信奉者である館長が中心となって進めたものだった。彼女は決して高い知名度を誇る画家ではなかったが、世界中に館長のような熱心な信奉者が少なからず存在していた。美しい風景画を主としていた彼女だが、多くの人から強く求められているのはそれではなかった。稀に描かれる美しく儚げな少女たちの絵。彼女にしては珍しい人物の登場する絵である。彼女の夢にはたびたび美しい少女たちが現れたといい、そんな夢の中で観た幻想的な風景と、そこに現れる少女たちを描いた作品こそが、彼女に熱心な信奉者が存在する所以だった。
その日は、美術館に紺色のセーラー服の少女たちが多く訪れていた。一駅先が最寄りの中学校が学外活動の一環として訪れていたのだ。なんとなしに列になって、まとまって館内を歩く生徒たちは、常設展ですっかり集中力が切れたのか、企画展の中をひそひそ声で話しながらさっさと移動していく。すっかり飽きた様子でいる生徒ばかりであった。
そんな行列の後方に、静かに展示を眺めてゆったりと歩く少女二人がいた。展示の終盤、ふと二人が同じ絵の前で立ち止まる。前方を歩いていく他の生徒が遠のいていくのを感じながら、少しばかり二人の距離が近づく。セーラー服の裾が優しく手の甲を撫でる。遠慮がちに伸ばされた少女同士の指がひっそりと触れ合った。それに気づくのは、数多の美術品に飽き飽きしてしまい、ふらついていた幼い子どもくらいのものだった。二人の少女は目を見合わせ、再度目の前の絵画へと視線を戻す。『迷いの森に導く少女』という題のついた絵画である。オーロラのような不思議な色と、葉の形を持つ木々が生い茂る森への入り口に立ち、振り返ってこちらに微笑みかける長い黒髪、真っ白いAラインのワンピース姿の少女が描かれている。ベラ・ハーパーの作品の中でも、かなりの人気を誇る作品であった。もっとも、二人の意識はその間に繋がれた手へと注がれていた。その微笑みの美しさに気づくことなく、ゆっくりと、伝わる熱を壊さぬように、大事に歩みを進めていった。やがて、学友たちの後ろ姿が見えれば、その手は離される。失われていく熱を逃さぬように、拳を握って名残惜しそうな顔をする少女に向かって、もう一人の少女は自身の薄い唇に人差し指をそっと当てた。
零時を回った美術館の中は絵画たちのものである。日中、絵画の中で与えられた役割を務め終わると、絵画の中の人物たちはようやく束の間の自由時間を得る。彼ら彼女らの長い永い、いつ終わるかもわからない一生とは到底比べものにはならないほど短いその時間を使って、羽を伸ばすのである。絵画の外に出て、他の絵画の中へ遊びに出かけたり、他の絵画と一緒に人間の真似事をして遊んだり。それは『迷いの森に導く少女』の中の少女とて、同じことだった。絵画の中の少女の輪郭は夜の闇に溶け出して、白いワンピースの裾がくすんだ金の額縁をすべっていく。美術館の冷えた床へ、すとんと華奢な足が落ちた。
「オーロラ、今日も一人で行くの?」
隣の『森の妖精』が呼びかけてくる。『迷いの森に導く少女』と同時期に描かれ、セットで売り買いされてきたその絵画の少女は、オーロラと呼ばれた黒髪の少女とは既知の仲であり、フェアと呼ばれていた。地に着くほどの長い白髪の少女が木に腰をかけている絵画。その木はオーロラの絵画に出てくるものとそっくりな、不思議な木だった。その木を理由の一つとして、『迷いの森に導く少女』と『森の妖精』は他にもどちらも森が題に入っていること、そして同じ時期に描かれたこともあってセットとして扱われることが多くなったのだ。二人の髪色が白と黒で対応しているのではないかと考える者もいた。
オーロラはフェアへと微笑みを向けて「ええ」とだけ返事をしてそのまま歩き出す。フェアの眉の下がった不満げな顔に背を向けて、企画展が始まった昨日から行っている美術館の探検に勤しみに行くのだ。普段はコレクターの手元におり、オーロラたちは美術館にはあまり展示されてこなかったのだ。美術館というものは、オーロラにとって新鮮で目新しいものばかりだった。初日こそ、フェアが一緒に行動していた。だが、オーロラとフェアとはずっとセットでさまざまなコレクターの手に渡ってきた。今も同じコレクターに所有され、企画展が終われば同じところに帰り、百何十年と同じところにいつづけ、今後もまだまだ一緒にいる予定なのだ。たまにはちょっと離れてみたい。そんな風にオーロラは思ったのだった。目新しいものに囲まれてしまったとき、慣れ親しんだものに対して安心感を覚えるか、飽きを覚えるか。オーロラは後者だったのだ。
初日は企画展内の同じ作者に描かれた、いうなれば姉妹のような絵画のもとを巡った。中には久々に会う絵画もいた。たとえば、ライラである。オーロラが描かれる日よりずっと前に描かれ、生涯ベラの手元に置かれ続けた、『ベラの恋人・ライラの肖像画』だ。オーロラが描かれたときにはすでにライラは存在しており、ライラがオーロラという呼び名もつけてくれた。フェアの呼び名もまた然りである。ライラは肖像画のモデルである「ベラの恋人・ライラ」の人格をほとんどそのまま有していた。生みの親であるベラ、そのパートナーであった「ベラの恋人・ライラ」に続いて、ライラのことをオーロラやフェアは母のように慕っていた。久々の再会にオーロラは大喜びだったが、それはどの絵画も同じようだった。ライラのところには他にも集まってきていた。しかし、オーロラとライラとの実際の会話はほんの少しだけで終わった。大半は、他の絵画は誰も立ち会えなかった、生みの親であるベラの人生をライラがみんなに語り聞かせる時間だったのだ。企画展の期間はほんの一ヶ月しかないのに、ライラは毎日それを少しずつ話していくという。オーロラはそれを聞いてその白い肌に皺を作った。
「久々の再会なのに、ベラベラって、バッカみたい」
「それがライラなのをオーロラだって知っているだろう」
フェアにそう諫められても、オーロラの不満は解消されなかった。ベラのことが絡むと、ライラはいつもベラの好きなところを事細かに話し続ける。ベラが存命の頃に聞くならばまだマシだった。たかが百年前とはいえ、もういない存在の話を聞かされてもオーロラにとってはなんの意味もなかった。それよりも、ライラにはベラの元を離れてから何を見たかを話したかったし、聞きたかったのだ。ベラの絡んだ話など、容易に想像がついてしまう。オーロラはベラの話が終わるまでライラには会いに行かないと決めた。
そして二日目。企画展内の他の絵画との交流を深めた。大半の絵画はライラのところに行ってしまう。それ以外の絵画はちょっと変わったものが多かった。その中で、オーロラが気に入ったのは、『天の川に沈む』という題のついた絵画のミルキーだった。まるで天の川のような星の流るる川の中に、一人沈み、流されていく、流れ星のように輝くブロンドの少女が描かれている絵画である。オーロラに負けず劣らず美しいミルキーは、不思議なことに絵画の仲で退屈そうに過ごしていたのだ。黒地に銀で装飾を施されたワンピース姿の美しい少女が川の中の星を足でかきわけ、太陽のように赤い瞳は川の中のどこか一点を見つめ、無表情でいる。それは一際目を惹く光景だったのだ。
「あなた、なんでまだ中にいるの?」
オーロラがそう問えば、ミルキーは少しばかり視線を彷徨わせた。そうして、眉毛を下げて、オーロラに視線を戻して答える。
「……あまり、外に出る習慣がないだけよ」
展示されている絵画は、世界中の美術館やコレクターの手から集められていたが、『天の川に沈む』だけは別だった。企画展の開催が発表された際に、コレクターでもなんでもない個人からの提供があったのである。提供者の祖母が一目惚れして購入してから、ずっとその家のダイニングに飾られ続けていたというのだ。そして、鑑定されたその絵はたしかにベラ・ハーパーの作品であった。その家には、他にはなんの絵画もなかった。ミルキーは自由時間を得て、絵画の外に出て他の絵画と遊ぶことはできず、ただただ自身の絵画の中で過ごすか、外に出ても家にある本を持って絵画の中に戻り、一人読み耽っているということが多かったらしい。まだベラの手元にあった頃や画廊に飾られていたような期間こそ遊んでいたが、それはもう百五十年ほど前の話だ。遠い記憶であり、その感覚はいつの間にか忘れてしまっていたというのだ。
あちこちのコレクターの手元を転々としてきたオーロラからすれば、それは退屈で気の毒なことだった。オーロラは、『迷いの森へ導く少女』が描かれてから今の今まで、セットで売り買いされているフェアといつでも行動を共にしていた。オーロラが飽き飽きしてしまうほどではあるが、だからこそ孤独を感じることは全くなかった。オーロラは自分に負けず劣らず美しいミルキーから漂う哀愁に、なんとしてもそれを消し去ってやりたいという気持ちが芽生えた。
「じゃあ、私と遊ばない? この後は少しだけ常設展へ行く予定なの。一緒にどう?」
「いいの?」
「もちろん。私、あなたと仲良くなりたいって思ったの」
オーロラはそう言うと、『天の川に沈む』の中へと手を伸ばす。川辺でぎゅうっと握り締められていたミルキーの手の甲に自身の手を添え、優しく握る。そして、絵画の外、オーロラ自身へとミルキーのことを引き寄せる。ミルキーの白い足が慌てて川の中から引き上げられ、そのまま絵画の外へと滑り出た。黒いワンピースの裾が揺れ、星のように散りばめられた銀の装飾がまばゆく光った。
オーロラは今までのどんな時間よりもこの時間が楽しくなることを予感していた。きっとあちらもそうであろう、思わず足取りも軽くなる。改めて絵画の外に出たミルキーに目を向ける。ミルキーは、きらきらとした目でオーロラを見つめていた。その表情の眩しさに思わず目を細める。
「常設展へ行くのだったかしら? 私、美術館は初めてなの! わくわくしちゃうわ!」
ミルキーは退屈そうで、どこを見ているのかすらわからない無感情にも見えるのにどこか悲しげだった、つい先ほどまでのあの姿からは想像できないほど、楽しそうに、朗らかに話しかけてくる。オーロラは何度もまばたきしていたが、「あなた、外にいる方が素敵よ。はやく行きましょう」と笑って、ミルキーの前を歩き出すのだった。
「ねえ、そういえばあなたも見た?」
常設展へと向かう途中、ミルキーは手を繋いで歩いていた少女たちについて話す。セーラー服姿の少女たちのことだ。
「ああ、見たと思う。きっと私の目の前で止まっているのに、うわのそらだった子たちね」
「やだ、根に持っているの?」
ミルキーがころころと笑うので、オーロラは決まりが悪そうにうつむく。オーロラは、自身がかなりの人気を誇っていることを知っていた。目の前に立つ人間が、その感動を言葉にできずにただ息を漏らすことに慣れきっていた。彼女からも自身が見えるほどに潤む瞳を見たことも一度や二度ではなかったのだ。そんなオーロラを前に、オーロラを見ているというのに、オーロラ以外に感情を向けていることが明白な人間を彼女は初めて見たのだった。納得がいかない、プライドが許さない。そんな気持ちだったのだ。
「別に、不思議な子たちがいると思っただけ」
「きっとあの子たち、デートしていたのよ。仕方が無いわ。デート中は相手しか見えないって本に書いてあったの!」
ミルキーは赤い目をうっとりと細めながら、オーロラの顔を覗き込む。少したじろいで、オーロラもミルキーを見つめ返す。
「デートって、何よ」
「知らないの?」
「知っているに決まっているじゃない。デートだから仕方ないっていうのが納得いかないだけ」
もちろん知識としてデートが何かは知っていた。散々ライラから聞かされたことがあるのだ。人間が愛する人と一緒に過ごすこと。だからといって、なぜ私を観て感嘆の表情を浮かべずにいられるのか……それがオーロラにはわからないことだった。
「なら、私たちもデートしましょう。そしたらわかるんじゃない? なんて、私がデートをしてみたいだけだけれど!」
ミルキーが媚びるようにオーロラの瞳を見つめてくる。大きなため息をついて、オーロラは頷く。
「いいけれど……あなたって本当に子どもみたいね。あなたのほうが十年はお姉さんのはずでしょうに」
「そんなこと知らないわ、こんなチャンス、百年以上なかったのよ! はしゃがせて頂戴! ね、どんなデートをする?」
オーロラの口からでた小さな嫌味はミルキーにさっさと笑い飛ばされた。そんな状況に、オーロラの口元は思わず緩んだ。ミルキーとのデートというのは、正直な話まんざらでもないのだ。彼女が今こんな風に笑うのは、確実に自分と遊んでいるからだという事実と、自身の姉たる作品が、無邪気に慕ってくる様子は甘い優越感に浸ることができた。とはいえ、デートをすることで、オーロラに感動せずにいた人間の気持ちがわかるとは到底思えていなかった。気乗りしないのはただその一点だけだ。
「デートね……聞いたことがあるのはカフェとか」
オーロラは以前話に聞いた夜のカフェテラスを描いた作品のことを思い出した。夜の闇を表す青とカフェを照らす灯りを表す黄色のコントラストが美しく映える、それは世界的にも著名な画家の作品らしい。オーロラと同じコレクターに所有される絵画が展示された美術館の常設展にあったという。帰ってくるなり、そこが素敵だった、いつかデートで行きたいものだと聞かされたのをよく覚えている。だが、それは今展示の行われている美術館ではない。その絵はもちろんのこと、カフェの絵が他にあるかもわからない。
少なくともベラの作品内にカフェの絵は一つもないことがオーロラにはわかっていた。
「あら、いいわね。カフェ! お茶を飲んだりケーキを食べたりする場所って聞いたことがあるわ。行ってみたかったのよね」
「常設展にあると良いけれど」
常設展につけば、そこは企画展よりもさまざまな絵画たちで賑わっている。見ない顔に対して、物珍しそうに眺めてくるものも多かった。ミルキーは居心地悪そうに歩いていたが、オーロラはその中へとズンズンと歩いていくと、口を開いた。
「ねえ、私、今企画展にいるオーロラっていうの。カフェの絵画がないか探しているのだけれど、あるかしら?」
「無いのよ〜! しけてるわよね!」
「お茶会の絵画ならあっちにあるよ」
口々に絵画たちが答えた。カフェの絵画は無いようだった。ミルキーの食いつきも良かったし、自身も行ってみたかったもので、オーロラは落胆を追い出すように息を吐いた。オーロラは「ありがとう」とそれぞれの絵画に言い終えると、ミルキーに向き直る。
「ですって、お茶会はデートになる?」
「どうかしら……?」
首を傾げていると貴婦人のいでたちをした女性が話しかけてくる。
「なに? あなたたちデートの場所を探しているの? それならそうと言いなさいな!」
ミラーと名乗ったその女性は、オーロラとミルキーの手を引き、海の絵画の前へと連れて行った。白い砂浜が広がり、透き通った海の上にはヨットが浮かび、灯台も見える。
「夜の海や夕方の海ならよりロマンチックなのだけれどね」
ミラーはそう言って笑うと、「良い時間をね」と言って立ち去っていく。その背中を見送り、顔を見合わせ、オーロラたちはひとまず海でデートをすることにした。
その絵画の中ではそよそよと風が吹いていた。ちょうど、誰もおらず、二人で砂浜を散策する。
「来たはいいけれど……海って何をすればいいのかしら」
「人間は水に入ったり、景色を眺めたりするって聞くわ! そういえば私、普通の水の中って入ったことないのよね」
ミルキーはそう言って、足の先で波をつっつくように触る。そして、ゆっくりと足を沈めていくとオーロラへと呼びかけた。
「私のいる川と感触はそんなに変わらないわ! 不思議ね、見た目はこんなに違うのに……」
「ふうん……」
オーロラはしゃがみこんで恐る恐る水に手を伸ばしてみる。水のある絵画にはあまり入ったことがなく、水を触るという経験自体が初めてだった。ひんやりとした水の感触は気持ちが良い。気分の良くなったオーロラが手首まで水に沈めてみたところで、ミルキーがぱしゃんと両足で飛び込んだ。飛沫はオーロラを直撃する。髪から滴り落ちた雫が、水面へ落ちるのを確認すると、手に水を掬い上げ、ミルキーめがけて手を振り上げた。きゃあと小さな悲鳴をあげたあと、ミルキーは楽しそうに笑い声をあげる。
「こういうやりとりを本で読んだことがあるの! たしかこのあとはね、追いかけっこをするのよ!」
ミルキーがそう言って突然走り出すのを、オーロラは慌てて追いかける。
「ち、ちょっと! 走るならそう言ってよ!」
オーロラは走ることに不慣れだった。広いところに行くことも少なく、なおかつ走るほど時間に追われることがなかった。その行為自体を知っていても、見よう見まねでは不恰好な走り方になってしまう。
「ふふっ、オーロラってば、変な走り方!」
「うるさい! あなたが急に走るからでしょう!」
しばらく、ミルキーによる追いかけっこは続いた。さすがに疲れたオーロラが、悲鳴にも近い静止の声をあげて座り込んだことでようやく終わったのだった。
「本当にこんなことデートでやるの?」
「さあ? 本では追いかけっこしていたわ」
はたしてその本の知識は鵜呑みにしていいことなのか、オーロラはそこを聞く気はまるでなかった。ミルキーはきっとそんなに深く考えずに行動しているに違いない。そう思っていたのだ。フェアを振り回し続けてきたオーロラにとって、振り回されることは未知の体験だった。
「もっと落ち着いて、ゆっくりできることはないの? ほら、景色を見るだけでもいいじゃない」
「う〜ん……そうね、一回そうしてみる?」
波が揺らめく水面を眺め続ける。オーロラはまったく、この行為になんの意味があるのか見いだせなかった。それでも不思議なことに、オーロラの胸には甘くてくすぐったいものがじんわりと広がっている。デートというものは案外悪くない……なんてことも思い始めたときだった。
「ねえ、オーロラ。手を繋いでみない? 今日のあの子たちみたいに」
ミルキーはいつの間にか、海から視線を外して、オーロラを見つめていた。視線がぶつかると、微笑むミルキーからは、初めて会ったときとはまた違った、哀愁が漂っているように感じられた。オーロラは、手を繋ぐことでそれを打ち消せるような気がしていた。
「それは……良い考えかもね」
絵画の中にいたミルキーを引き寄せたときぶりに、手に触れる。オーロラのものとたいして変わらぬ小さな白い手。柔らかい手のひらに指が触れれば、ぴくりと小さな反応をみせる。ゆっくり指を這わせていけば、細い指にすぐに重なる。関節を曲げれば、自然と隙間へとすべり落ちていく。こんな感じなのね、と呟くミルキーの頬が、薔薇色に染まるのがわかる。手を握る力を少し強めれば、同等の力が返ってくるのが心地よい。オーロラは絡めた指の先で、ほんの少しミルキーの手の甲をくすぐるように触る。
「なあに?」
「なんでも?」
くすくすと笑いあって、甘い視線が交わる。オーロラは、ほんの少しだけではあるが、これならば、本当に絵画のことなど見えないかもしれないと思えた。実際あたりを見渡せば、そんなことはないのだが、二人だけの世界というものが確かに存在するような気がした。
朝も近くなり、オーロラたちは絵画の中へと戻った。オーロラはいつもより、軽い足取りだ。
「なにか面白いものでもあったの?」
すでに戻ってきていたフェアが絵画の中から顔を出す。少し面白くなさそうに、オーロラを見る。
「拗ねているの?」
「いいや、別に」
オーロラはフェアの頭に手を添える。
「私たちはいつだって遊べるじゃない」
「わかっているよ」
「じゃあ、どうしたの?」
フェアは目を閉じ、なんでもないよと小さくつぶやいて、絵画の中に戻っていく。問いかけにごまかしの返答をするフェアを、オーロラは初めて見た。
翌日はミルキーがオーロラの元にやってきた。
「今日はこっちが来てみたわ、デートに行きましょう!」
「ほんの一日でずいぶん変わるじゃない」
くすくすと笑いあう二人の隣から、「初めまして」とフェアが声をかける。貼り付けたような笑みは、オーロラには向けられたことのないものだった。銀色の額縁から顔を出したフェアの長い髪が滝のように落ち、下に溜まっていく。
「初めまして、私はミルキー」
「あたしはフェア。よろしくね」
ミルキーの気安い雰囲気に反したフェアの明確な敵意に、オーロラは眉をひそめる。やはり拗ねているのではないか、強がるくらいならば言えば良いのにという不満である。長い付き合いを蔑ろにされたようだった。
「フェア、言いたいことがあるなら言いなさい。どうしたのよ昨日から」
フェアはいや、そんな、と散々言い淀み、眉は下がったが笑顔はそのままにようやく口を開く。
「ただ、うん、そうだね……いきなりデートっていうのはどうなんだろう。デートっていうのは、特別な関係の二人がするものだって、あたしは聞いているけれど。まだ二人は出会ってほんの少しだろうに」
不躾かもしれないけれどね、とフェアが笑う。
「私にとってオーロラは特別よ? あ、オーロラにとっては違う?」
ミルキーは自信満々にフェアの言葉に答えた。しかし、次の瞬間には一転して、不安げな表情でオーロラへと振り向いた。虚をつかれたオーロラはしばしミルキーを見つめ返す。ミルキーの赤い瞳がゆらゆらと風に吹かれているかのように震えているのがオーロラにはわかった。笑いが込み上げ、オーロラの身体を揺らす。
「オーロラ?」
「そんなに不安そうに馬鹿なこと聞かないでよ」
そう言ってケラケラと笑い続けるオーロラから視線を逸らし、ミルキーは大理石の床を足の先でつっつき始めた。その様子がオーロラの気持ちをより一層愉快にした。フェアは、不満そうにそれをただ見つめていた。
「はあ、あ……笑った笑った。こんなに笑うのは久々」
「そんなに面白かったかしら」
ミルキーはいじけや苛立ちを通りこして、すっかり呆れていた。
「ごめんなさい。でも、あなたってば当たり前のことを聞くんだもの。特別じゃなきゃ、こんなにあなたに構わないのに」
「そういうの、意地悪って言うのよ」
微笑むオーロラをミルキーは睨みつけようとした。が、微かに上がった口角は、ミルキーの機嫌がすっかり直っていることをオーロラに伝えてしまった。オーロラは笑いを堪えながら、隣にいるフェアへと視線を移す。その視線に気づいたフェアはさっと反対側へと視線を逸らした。
「……ごめんね。ちょっとしたからかいのつもりだったんだ」
「拗ねないでちょうだい。あなただって私の特別よ。わかってるでしょ、どれだけ一緒にいると思っているの?」
「……そうだよね、うん。そうだよね!」
フェアはようやく、いつもオーロラに見せている明るい表情を取り戻す。そうして、ミルキーへと向き直る。
「オーロラと一緒に過ごすのは楽しいでしょ? あたしはいつでも一緒だからね。君はほんの少しの期間だもの、拗ねるのはやめにするよ」
じゃあ楽しんで、と言ってフェアはミルキーとオーロラに手を振る。そうして、返事も聞かずに鼻歌を歌いながら、ライラの絵画の方向へと向かっていった。オーロラはまったく……と肩をすくめてそれを見送る。
「あの子、単純でかわいいでしょ? 私が離れるのなんて初めてなのよ。きっと私をとられると思ったのね。許してあげて」
それを聞いてミルキーは曖昧に笑った。
その日はミルキーの希望で、企画展から常設展まで、とにかく絵画同士のカップルを探した。
「あなたも特別だと思っているなら、私はあなたとそうなりたいわ」
ストレートなミルキーの物言いにオーロラは思わず、「想像がつかないから、考える材料を頂戴」とだけ言ったのだ。じゃあ、いろいろなカップルを探せば良い。それがミルキーの主張だった。
「ああ、あたしは経験豊富よ!」
最初に声をかけたのは踊り子の絵画だった。実在の踊り子をモチーフに描かれたという彼女は、恋多き踊り子の性質を完全に引き継いでいるらしい。
「企画展が来るたび心躍っちゃうの! そのたびそのたび、新しい恋ができるのよ!」
踊り子は花が咲くように笑う。企画展に来る絵画は一定期間が過ぎれば、また元いた場所に戻っていってしまう。だからこそ、そのほんの一瞬だけのお遊びに興じるのだという。気楽だが、切ないそのほんの一瞬の恋は、娯楽として最大の刺激を誇るのだ! という主張だった。二人の関係には、それが一番近いとオーロラは感じた。
「でもね、たまあに。たま〜によ? もっと続けたかったなと思うの。あれがきっと本当の恋ってやつなのかしらね!」
どこか遠くを見て、思いに耽り始めた踊り子にオーロラは問いかける。
「実際あったの?」
「ええ。今はそれを忘れるために恋しているようなものね! ね、企画展にいるあのライラって子。あの子はよっぽど一途だわ。ぜんぜん振り向いてくれないの」
不満げにライラの話をしだす踊り子を適当にあしらい、オーロラはミルキーの手を引きさっさと移動を始めた。
「どこに行ってもライラの話だわ」
「嫌?」
「ええ。ライラとベラの話は食傷気味なの」
そう言って、オーロラはミルキーを連れて別の場所へと向かう。ミルキーは残念そうに笑う。ミルキーはまだライラのところに行っていないらしい。オーロラは「ベラの話が終わった頃に一緒に行きましょう」と微笑んだ。
企画展の中へと入る。制作年はオーロラよりもずうっとあと、オーロラたちの妹のような存在の絵画だった。晩年に描かれたそれは、小舟に乗って虹のような鮮やかな色彩の川を渡る二人の少女の絵画が飾られている。『夢の中で揺蕩う』という絵画。オーロラが企画展を回っている最中、一度だけ話したことがある絵画だった。レイとリムという名の、肩までの青い髪を揺らしている、そっくりで見分けがつかない二人は、恋仲であると聞いていた。
「昨日ぶりね」
しかし、オーロラがそう声をかければ、二人は顔を見合わせて首を傾げる。その動作は鏡のようにそっくりで、気味が悪いとも美しいとも取れた。
「ごめんなさい、私たち、覚えてないわ」
「いえ、いいの。あなたたちって互い以外に興味が無さそうだったもの」
本心だった。オーロラが初めて話したとき、彼女たちは産みの親であるベラのことすらもよく覚えていないらしく、ライラのところにも行っていない数少ない絵画だったのだ。オーロラと話している間も、二人の話題は二人のことだけであり、ミルキーとは違って、絵画の中に引きこもってはいても、満ち足りた顔をしていたのだ。だからこそ、大してオーロラも興味を持っていなかった。ただ、カップルと聞いたときに頭に浮かんだのはこの二人だった。
「昨日、あなたたちは恋仲だって言っていたのよ。詳しく聞いてもいい?」
「ああ、なんだそんなこと……大した話じゃないのに」
二人はまた顔を見合わせ、今度は笑う。
「そうだから、としか言えないの。だって描かれて、目を開けたら、互いがいたの、それだけ」
「私たちはずっと一緒で、これからもそうってだけ」
「この中は、私たちしかいない楽園だもの」
そう言って甘い視線を交わしあう。
「そう……」
いくら恋仲といえど、この二人に話を聞くのは間違いだった。オーロラはそう思い、「邪魔して申し訳なかったわ」とだけ言ってミルキーの手を引いて歩き出す。
「なんの参考にもならなかったわね」
「……そうね。あの二人はそう描かれてるんだもの。恋仲でいて当然よ」
ミルキーの言葉に首を傾げれば、会話の最中、ついミルキーは絵画の隣にあった説明を読んでいたという。そこにはベラが「きっとこの二人は恋仲なのだ」と思って描いた作品だということが明記されていたらしい。
どうりで参考にならないわけだと、オーロラは大きなため息をついた。
参考になる絵画はいないものか……そう思いながらオーロラがミルキーの手を引きながら歩いていると、常設展の片隅に飾られた肖像画の中から、少女が話しかけてくる。
「あなたたち、今ちょっといいかしら?」
貴族の娘を描かせたという肖像画。赤毛でウェーブがかった髪を揺らす少女に対して、オーロラが「なに?」と反応する。少女は目を輝かせた。オーロラはほんの少し、少女がミルキーに似ている、と感じた。
「あなた、雰囲気だけじゃなくて声まで私の恋人にそっくり」
「私に似ているなんて、よっぽど良い絵画じゃないと認めないわよ」
オーロラは、少しつんとした態度で返す。本心だった。自分にそっくりなものがあるなんてたまったものじゃない。それはオーロラの気分をわずかばかり害すものだった。彼女はミルキーに似ている、と感じてしまった自分に対しても苛立ちを感じていた。
「やだ、雰囲気だけよ。久々に会いたくなっちゃったの、呼び止めてごめんなさいね」
「あなたの恋人は今どこにいるの?」
ミルキーの問いかけに、少女は「さあ?」と首を傾げる。
「企画展で一回来たきりで、それ以来なの。だから、元いたっていう美術館に戻っているか……また別の美術館に行っているか。なにも知らないわ」
最後に会ったのは八十年前だと笑った彼女は、次いつ会えるかもわからない恋人を思い浮かべているのか、優しく眉尻を下げた。
「……私たちって、彼女たちみたいになれるのかしら」
先ほどまで会話していた絵画の方向へとミルキーが視線を向ける。オーロラは「なれるんじゃない?」と言いかけたが、「なれる」まで発したところで、視線が自分へと向けられて、取りやめた。
「私はね、百年以上一人だった。八十年だって、きっと今までみたいに、退屈に、あっという間に過ぎるはずよ。でもね、でも、あんなに幸せそうに、笑えるのかしらって……。少し不安になったの」
絵画はそれを鑑賞する人間の都合で移動をするものだ。それはオーロラもわかっている。オーロラはいくつもの人間の間で売り買いされ、世界の至るところで展示をされたことがある。しかしそこには一度たりともオーロラの意思など無かった。
「私はまた展示されるかすらもわからないもの」
この企画展が終われば、元の場所に戻り、ミルキーとは永遠に会えないかもしれない¬¬。ミルキーの言葉を聞きながら、オーロラは改めてその事実に気づいた。最初からわかっていた、今もなお前提としてずっとあったもので、忘れていたわけではない。気づかないわけがない。オーロラは、無意識のうちに自分がその事実に気づかないふりをしていたことに気づいた。
どうしたいか、それはこの期間の間に決まればいい。少し考えるのが怖くなった二人は、もう恋人のいる絵画を訪ねるのをやめた。最初の日のように海や森、お茶会などの絵画の中にデートしに行った。何も考えず、束の間の幸福な時間に身を委ねるのは心地がいいものだった。
ある日、オーロラが自身の絵画に戻ると、フェアが「ライラの話、終わったみたいだよ」と声をかけてくる。オーロラはただ「そう」と小さく呟く。フェアにバレないよう、上がろうとする口角を押さえつけていた。
「オーロラはもう来てくれないのかと思った」
「そんなわけないじゃない。ベラの話が終わればいつでも来るわ」
「いじわるな子!」
ライラが大袈裟に声をあげ、そののちに「反抗期の娘みたい」と楽しそうに笑う。
「でも思ったよりはやく終わったのね。展示が終わるまでずっとあの調子だと思ったわ。ベラがどうこうって、延々と」
「オーロラってば、そんなにベラのことが嫌い?」
「いいえ、ベラのことは好きよ。もちろんライラのことも好き、でもベラの同じ話をいつまでもいつまでもするライラは大嫌いよ。いくら大好きな二人の話でも飽きるの」
「仕方がないじゃない、話したいんだから」
ライラはわざとらしく頬を膨らませたあとに、「オーロラも恋すればわかるよ」と微笑んだ。
「……ねえ、ライラはもうベラと会えないのに、どうしてそんなに楽しそうなの?」
オーロラの問いに、ライラは目を瞬かせる。栗色のウェーブのかかった髪の毛の先に指を何度も通す。そして、何度目かにようやく口を開いたかと思えば、息だけを漏らす。
「むずかしい……寂しくないわけじゃないの。ベラが自画像を描き残していてくれれば、性格にきっと差異はあるけれど、ベラと永遠に一緒だったはずだと思うし……差異があるくらいなら描き残してくれなくてよかったとも思うし……」
ぽつりぽつりとライラは語り出す。
「でも永遠に一緒にいたら、きっと私はベラの嫌なところばっかり目につきそう。だって、あの人ったら死ぬ間際にも私のことを放って絵のことばっかり……。あの人が死ぬ前にしたいことなんていっぱいあったのに……」
頬に手を当てて大きなため息をつく。それでもライラの目は幸せそうに、細められていた。
「でもねえ、それでも完成するたび、子どもみたいに見せてくるのがかわいかったの。わかる? そういうところに絆されてたの、私。でもそれって、寿命っていう制限があったからだと思う。永遠にそんなこと繰り返してたら……そうね、飽きちゃう」
「そうでしょう」
オーロラが頷くと、ライラは少しだけオーロラを見て笑う。そして、目を閉じた。
「うん……。だから、そうね。寂しいけど……もうもらった幸せだけで、私一人でもご機嫌に生きれちゃう。もともとずいぶんと放っておかれていたし。今もそう、放っておかれているだけ……なんて、思ったり」
ライラはそうしてしばらく黙って目を閉じていた。きっと気を遣って話さないだけで、ベラとの思い出を反芻しているのだと、オーロラは気づいた。ライラの口元には幸せが滲んでいた。
「……そう考えると、絵画は不憫ね。永遠だもの、永遠の時間の中で、一人に恋をし続けるのは難しいもの……」
「あら、ライラはやってのけてるじゃない」
「私はね。ベラの思う、ベラのことが大好きな私が少なからず……ううん、私の力ってことにしようかな」
「そう……」
オーロラは、自分にはミルキーを永遠に特別に想っていられるかはわからなかった。企画展はオーロラたちにとっては瞬きのうちにすぎるような出来事だ。それだけで、描き手の意図していない感情を持ち続けられる自信はなかった。オーロラがまったく自信を持てないのは、本当に初めてだった。
「オーロラ、もしかして恋してる?」
気づけばライラは、声が弾まぬように、顔が弛まぬようにとしているのか、ぎこちない様子でオーロラの目を覗き込んでいた。
「ライラには教えないわ」
「してるじゃない! どこの子? ああ、面倒くさいって顔をしないで?」
ライラは、オーロラは素敵な子だから相手もイチコロ、でも変な相手だったらベラになんて言えば……と一人で盛り上がり続ける。しかし、オーロラが立ち去ろうとすれば、手を引いて留まらせる。
考え事も満足にできない、とオーロラがライラのことをじっとりと睨みつけていれば、「オーロラ?」とミルキーの声がする。
「あら、今日は行けなくてごめんなさいね。見ての通り……捕まっているの」
ミルキーはオーロラから視線をライラへとずらし、オーロラの手を握って離さないライラの手を見る。そして、再度オーロラへと視線を戻すと「そうね、しっかりと……」と困惑した様子で呟いた。
「ミルキーが美術館にいるのなんて初めて見た! ベラの手元を離れて以来じゃない?」
ライラはしばし二人を眺めていたが、ハッとした顔をしてミルキーに飛びついた。
「ええ、あのとき以来よ。ライラ、久しぶり!」
ライラとミルキーが再会を喜ぶのを眺めながら、オーロラはミルキーとの関係について、一人でまた考え始めていた。ふと、人間だったらと考えてみる。あと数十年しかない時間の中で、自分の意思でミルキーと過ごす。それならば、自信を持って幸せになれるはずだ。そこに絵画がなくとも、ミルキーとカフェに行くことだって、海に行くことだって……。
オーロラの頭の中は、その考えで埋め尽くされ始めていた。ライラの「絵画は不憫ね」という言葉が頭の中に響く。永遠の時間の中で、いつまでも美しくあり続ける自分自身を不憫だと思ったことは、一度もなかった。それが、恋が関わると途端に不憫な存在になってしまう。
「オーロラ、明日はあたしとデートしてよ」
絵画の中へ戻ろうとしたとき、横から聞こえたそんな台詞にオーロラの思考は引き戻される。フェアが何かを要求するのは珍しかった。
「デート?」
「うん! だって、ミルキーとはしてるでしょ? ずるい、あたしはしてもらったことないなって……だんだん、思って、きて……」
フェアの言葉尻はどんどん弱く、小さくなっていく。慣れないわがままはフェアの顔を真っ赤に染めるには充分なものだったらしい。
「な、なんか言ってよ!」
「そ、そうね! デート……デートね……」
オーロラが呆気に取られているうちに、フェアが痺れをきらして少し大きな声を出す。オーロラは急いで驚きで止まっていた思考を動かす。今フェアとデートしても、オーロラは楽しみきれない気がした。今はゆっくり、ミルキーとのことを考えたい。今後のことを考えて、関係をどうしていくか、決めたい。いや、きっとデート中もそのことが頭の片隅にあるだろう。企画展の終了は、あと一週間後に迫っていた。
「……あ〜考え続けるのは苦手。明日全部すっきりさせるから、帰ったらしましょう。そのほうがゆっくりできるわ」
「え〜……なにをすっきりさせるのさ。……まあ、わかったよ。オーロラが言うなら、そっちのほうが良い」
不満げな様子を装って返事をしているが、フェアはにこやかな笑顔をオーロラに向けていた。そして「でも行き先はあたしの行きたいところね!」とだけ言って、いそいそと絵画の中へ戻っていった。
そして翌日、オーロラはミルキーの元に向かうと、「今日はどこに行く?」と微笑むミルキーに、微笑み返す。
「そろそろどうするか考えましょう」
ミルキーは少し怯えた顔をした。怖がる必要はないと伝えるために、オーロラがミルキーの右手に触れると、少し震えていた。震えを止めたくて、両手で包み込むように握る。
「ずっと考えていたの。私、あなたと来世で人間になって、ずうっと一緒にいたいって。永遠の中で、一生会えないより、寿命の中で、最後まで一緒に……。それに、人間だったら、必要なのは私たちの意思だけ。人間の意思であちこちに移動させられることなんてないのよ」
「来世って私たちにもあるのかしら」
「無いでしょう。人間じゃないもの」
オーロラは首を振る。わかりきったことを肯定するほど馬鹿ではない。でも、言っておきたかった。叶わぬ夢でも、そう夢に見たことは伝えておきたかった。そうしなければ、その気持ちは離れてからも永遠に心の中で渦巻いてしまいそうだと思った。デートの約束を喜ぶフェアを見てから考えていた。愛する人がそばにいなくても、愛しい人の思い出とこの飽きるほど共にいる友人があればきっと耐えられる。そのためにも、心のうちにある願望を吐き出したかった。
「無理なことはわかっているけれど、そのくらい、一緒にいたかったってことよ」
「……ねえ、私のわがまま聞いてくれるかしら?」
「ものによるかしらね」
オーロラはそうは言っても、もうどんなわがままだって聞き入れるつもりだった。ミルキーと離れる日はもう間近に迫っているのだ。それを聞いたあとはこちらも思いきりわがままを言って困らせてやろうとも思っていた。
「私ね、本で読んだことがあるの。人間は想いが叶わないと心中っていって、一緒に死んでみるらしいわ。それがしてみたいの」
羽が床へと落ちるような、微かな声でミルキーが言った。オーロラの手の中で、ミルキーの手が強ばるのを感じて、オーロラは優しくその手をほぐすように、左手で指を絡めとる。
「私たち、死ねないのよ?」
「ええ、わかっているの、わかっているわ……」
ミルキーは一度小さく息を吐く。そして、もう一度言い聞かせるように「わかってる」と呟いた。そして、オーロラと繋いだ手に力を入れては緩め、絹を触るように手の甲を撫でる。甘くくすぐったいその感覚に、オーロラは微笑む。
「……いいわよ」
その返事をすることが自分達にとって正しいのか。オーロラにはまったくもってわからなかった。それでも、オーロラにとって今この瞬間大切だったのは、目の前にいる恋人に安心して笑ってもらうことだった。星が瞬くような笑顔を、ただ求めていた。
脳裏にはフェアとの約束がよぎる。いくらフェアでも————オーロラのわがままをすべて受け入れてきたけれど————きっと自身の初めてのわがままが果たされぬまま、オーロラがいなくなってしまう。そんなことは受け入れられないかもしれない。でも、すでにミルキーの言葉を肯定してしまっていた。せめてほんの少しでも、あの約束を叶えてあげなくては。オーロラは、目の前で嬉しそうに笑うミルキーに微笑みかけながら、そんなことを考えていた。
「フェア、明日デート行くわよ」
自身の絵画に戻るなり、オーロラはフェアにそう声をかける。フェアは両手で自身の頬をぎゅうと押し込むようにしてから、笑ってオーロラの下へと駆け寄る。
「帰ったらって言ってなかった? どうしたの?」
「気分が乗ったから」
「ふうん……。まあ、オーロラだもんね。どこ行く?」
「好きなところに連れてってちょうだい。最後は私の行きたいところに行くけれど」
フェアは「どこでもいいなあ、オーロラとなら」と笑った。
「オーロラたちは今までどこに行ってたの?」
そうフェアに問われて、オーロラは海の絵画やお茶会の絵画といった、さまざまな絵画のところへとフェアを連れていく。オーロラとの時間を満喫するフェアとは逆に、オーロラはその間、ずっとミルキーとの思い出を心の中でなぞってしまう。フェアが「帰ってからもまたデートしよう」と言うフェアに、オーロラは曖昧に微笑んだ。
オーロラが最後に行きたいと言ったのは、とある絵画のある部屋だった。燭台の飾られた豪華な食卓の絵画。オーロラがミルキーと心中することを約束したとき、ミルキーはここを待ち合わせ場所として指定した。ミルキーなりに、なにか算段はあるらしかった。
「あら、フェアも一緒?」
待っていたミルキーが、オーロラたちに気づいて微笑む。足元には一人で運んだのか、『迷いの森に導く少女』と『天の川に沈む』が並んで置かれている。
「ええ、フェアにはちゃんと知っていて欲しいもの」
オーロラとミルキーが言葉と視線を交わして、笑みを零す。それを、フェアは蚊帳の外で訝しげに眺めていた。が、ミルキーの足元に並ぶ二つの絵画を見て一層その顔は歪んだ。
「何?」
「さあ、私も具体的なことは知らないわ。でも、そうね、今日でお別れなのは、多分たしかよ」
「何言ってるの、お別れって」
フェアは思わず、といったように笑う。冗談をと笑い飛ばしたかったようだった。冗談よと笑い返してほしかったようだった。
「そのままよ」
平然と言ってのけるオーロラの顔を見て、フェアは乾いた笑いやめた。それを見てオーロラはほんの少し、あやすように笑った。
「私たち、心中ってやつをしようと思っているの。だからね、お別れよ」
どうやって。そう言葉にしようと、フェアが口を動かすが、そこから音が出ることはなかった。フェアの目には、並べられた二つの絵画、そしてその部屋の中に存在する絵画の中の燭台の火だけが映っている。ミルキーが何をしたいか、フェアにははっきりとわかっているようだった。オーロラも、そのフェアの目線で気づくことができた。ミルキーはもう本当の本当に、オーロラを独り占めしてしまう気だ。二人の絵が火に包まれ、消えていったとして、ミルキーとてもちろんオーロラを見ることは叶わなくなるけれど、他の誰だってオーロラを一目見ることはできなくなるのだ。
何も言わないうちに、ミルキーが絵画の中から燭台を取り出す。
「もう全部準備しておいたわ」
ミルキーの表情は幸せそうに蕩け始めていた。オーロラはそれに応えるように隣へと移動し始めた。オーロラの腕になにかが掠る。振り返れば、空気を掴んだフェアの手と、縋るような目。
「わかってるでしょ」
オーロラの言葉に、フェアは手を自身の胸元へと引っ込める。オーロラにとって、ずっとそばにいたフェアの様子は、心を痛めないわけではなかった。それ以上のことがあっただけなのだ。
「……ねえ、フェア。フェアが、私たちのことを燃やしてちょうだい」
「何言ってるの?」
オーロラの言葉に、フェアは声を震わす。残酷だ、フェアの目がそう言っているのがオーロラにはわかった。でも、そうして欲しいと思ったのだ。一番近くで、ずっとオーロラを見ていた彼女に、オーロラの唯一になることを夢見ていた彼女に、最初で最後の特別な役を持たせたかった。信頼しているのだと、伝えたかった。
「フェア、あなたがいいの。私の最期よ。美しく、燃やしてちょうだい」
オーロラが微笑めば、フェアはようやく覚悟を決めたように笑う。自嘲気味で寂しそうな目で、オーロラを見る。
「ずるいよ。あたしがオーロラの頼みを断れないなんて、わかってるんでしょ」
フェアは、ミルキーから燭台を受け取る。
「ミルキー。あたし、あなたのこと許さない。やっぱり、あのときもっといじわるでもなんでも言って引き離しちゃえばよかった」
ミルキーは「許されなくても、いいわ」と悲しそうに笑う。フェアは唇を噛んで、ミルキーから顔を逸らすと、オーロラをもう一度見る。頬に触れて、髪をすく。
「もう、絶対こんなことさせないでよ」
フェアはそう言って、燭台から手を離す。落ちた火が、オーロラの足元をじりじりと熱する。だんだん、それはパチパチと音を立て、絵画にも移る。ミルキーにも移る。大きくなっていく炎の中で、オーロラとミルキーは、もうお互いしか見ていなかった。
フェアは、その視線を天井の消火装置に向けていた。こんなことしたって、どうせあれが火を消してくれる。そう信じていた。……けれど、いつまでもいつまでも、動く気配はない。フェアがたまらず動き出した。
「フェア。お願い、火を消さないで」
そう言って、走り出したフェアを止める言葉を発したのはライラだった。
「私が壊したの」
「な、なんで?」
「ミルキーに頼まれたの、火が消えちゃ困るからって」
ライラは「かわいい娘の頼みだもの」と微笑む。
「でも、このままじゃ……」
「二人は消えてなくなる。……でもそれでいいじゃない。
「あたしの、恋は?」
フェアがそう呟いて、堪えきれず涙をこぼす。ライラは黙って、すすり泣く声に呼応するように揺れる白い髪を撫でた。
燃え盛る絵画から舞い上がる灰がまだほんの少しだけ燃えている。灰は光の粒のように、きらきらと輝いていた。光の粒に変わって消えていくように、燃えて、燃えて、燃え続けていた。すべてが灰になって、火が周りを巻き込もうとさらに燃え広がろうとした頃、ライラはようやく海や川を描いた絵画から周りの絵画が消火のために汲んできた水を利用しての消火を始めた。そしてすべてが終わって、それぞれ絵画に戻る前、ライラは燃え殻を撫でるように触って微笑んだ。
「大丈夫よ、あなたはベラに恋心まで決められていないもの」
抜け殻のようになったフェアの肩を優しく抱いて、ライラはそう一言囁いた。
美術館の眠らぬ少女たち 鈴宮縁 @suzumiya__yukari
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