黒猫と魔女
小林左右也
黒猫と魔女
「ちょっとお出かけしてきますね」
この魔女は気まぐれで、ちょいちょいと箒に乗っては出掛けて行く。どこへ行くのかは知らないが、大抵夕暮れ前には戻ってくるので、大して気にも留めていなかった。
『わかった。勝手にしろ』
「今回は少し帰りが遅くなります」
『ふうん?』
「お腹が空いたら、その辺のネズミでも食べておいてくださいな」
『馬鹿も休み休みいえ』
「ええー、駆除していただけると、わたしとっても助かるんですけれど」
『知るか』
魔女の提案を一蹴すると、魔女は首を竦める。
「ネズミ駆除は諦めます。それでは行ってまいります」
空を仰いだ魔女は、紅い瞳を輝かせる。そのわくわくとした様子に、嫌な予感を覚える。
『お前、どこへ行くつもりだ?』
「ええ、ちょっとお隣の国へ」
『と、隣りの国だと?!』
「とある国で大きなお祭りがあるそうですよ。その国の王女様が、自国の公爵家ご令息とご結婚されるとか。せっかくですから見学でもしてこようかと」
隣りといえど、我が国の国土は広大だ。隣国へ行くには徒歩でひと月。馬車なら二週間はかかる。魔女の箒ならばもっと早く行けるかもしれないが、一日二日では戻っては来れないだろう。
「ほら、幸せな風が流れてくるのを感じません?」
『知るか! それよりお前、俺を野垂れ死にさせるつもりか?』
怒りを露わに怒声を上げる。しかし、魔女は紅い瞳を細めるとクスクスと笑う。
『何がおかしい!』
魔女は笑いながら、俺の鼻先をぴんと指で弾いた。
『いてぇ、何をする!』
「こんなに可愛らしい子猫ちゃんに睨まれましてもね。ちっとも怖くありませんわ」
そう今の俺は黒猫の姿をしている。子猫が毛を逆立てて唸ったところで、怖いはずもない。
『……誰がこんな姿にした!』
「まあまあ、品が無くてよ王子様?」
『お前に品を語られたくはない!!』
少女の姿をした魔女は鈴を転がすように笑う。
「あら寂しいのですか?」
『馬鹿を言うな』
「ひと月は帰らないので、それまで頑張って生きてくださいまし」
『おい待て』
可愛らしい子猫になり果てた俺を、この魔女は見捨てて旅立つつもりらしい。
情けない話だが俺には生活力はない。
猫になる前までは王族として不自由のない生活を送り、猫になってからはこの魔女の庇護下にいたわけだ。
これから冬を迎えるという季節。ひと月といえども、ひとりで生きていく自信はない。皆無だ。
ネズミを食うなんて御免だし、そもそも捕まえられる気がしない。
さらに吹きっ晒しの屋根の上や、冷たい石畳の上で眠るのも御免である。
『お前がどこへ行こうと構わない。だがその前に、俺の姿を戻せ』
「あらぁ……絶対に御免ですわ』
満面の笑顔で魔女は拒絶を告げる。
『だってお妃様と約束したんだもの。『愚息が心を入れ替えるまで、人間に戻さなくていい』って」
『お前……』
ギリギリと歯噛みする。怒りを露わに尻尾が逆立つのを感じる。
「あら。恨むならご自分の尊大かつ傲慢なご自分を恨んでくださいまし。乙女の心を踏みにじっておきながら、なんのお咎めも無いなんて有り得ませんことよ?」
『あれは……』
「言い訳は無用ですわ。聞いても無駄ですから」
魔女の言うとおりだ。今更何を言っても取り返しがつかない。
『……わかった。勝手にどこへでも行ってこい』
「はい、勝手に行ってまいります」
急に大人しくなった俺を鼻で笑うと、魔女は手にした箒に飛び乗った。
***
俺が踏みにじった相手というのは、隣国の第二王女だった。
そう、魔女が言っていた自国の令息と結婚するという王女のことだ。
歳は近く、幼い頃はずいぶんと親しくしていたが、時が経つにつれ彼女と過ごした記憶は美しい思い出と化していた。
そして十年の月日が流れ、結婚適齢期を迎えたこともあり縁談が舞い込むようになってきた
俺は第三王子だから王位は継がないが、母方の祖父の爵位を継ぐことが決まっていて、幸い容姿にも恵まれていた。
優良物件と見なされた俺の元には、山のような縁談が持ち込まれ、その中に例の第二王女との縁談もあった。
幼い頃の記憶だ。彼女を愛称で呼んでいたし、成長した彼女の姿を見ても気付かなかった。
――……様、ずっと、ずっとお会いしたかったですわ。
会った途端に涙ぐみながら微笑む王女を、俺は冷めた目で見つめていた。
初対面なくせに「ずっと会いたかった」だと?
うっとりした表情を浮かべる令嬢も、媚びを売る令嬢も山のように見てきてうんざりしていた頃だった。
傷つくだろうと思う言葉を存分に浴びせた。真っ青な顔をして震える彼女の姿に、胸がすく思いだった。
己の行為が過ちだと知ったのは、ほぼ直後と言っていい。
俺の暴言の一部始終を、侍女が母上にいち早く報告したからである。
すっ飛んできた母上に、強烈な平手打ちを食らった。しかも往復で。
そこで初めて、彼女がかつて親しくしていた姫君だったことを知った。
母上は我が国唯一の魔女殿を召還し、俺を猫の姿に変えさせただけでは物足りないと思ったのだろう。この気紛れな魔女に、俺の身柄を引き渡した……ということだ。
『あーあ……』
そして現在、この有り様である。
魔女が飛び立った空を仰ぐ。しかし、もうその姿はゴマ粒のように小さかった。
幸い今日は天気がいい。柔らかな日差しが降り注ぐ屋根の上は、なかなか心地よい。
魔女が戻るまでの間、どう過ごせばいいのかは、後で考えることにしよう。
俺はひとつ欠伸をすると、屋根の上で惰眠を貪ることにした。
この後、魔女が戻るまでの苦難と苦労の日々については、またの機会に語るとしよう。
黒猫と魔女 小林左右也 @coba2018
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