おにぎりと豚汁と、私の居場所

望月くらげ

おにぎりと豚汁と、私の居場所

 喧噪の中を早足で歩く。残業したせいでいつもよりも会社を出るのが十五分遅くなってしまった。この時間だと、もう祐大ゆうだいが帰っているかもしれない。私の方が遅く帰ればなにを言われるかわからない。ううん、言われるだけで済めばいい。虫の居所が悪ければ――。

 ようやくマンションの下まで辿り着き、確認するように見上げると、明かりの灯った自室が見えて、思わず肩を落とした。


 そっと鍵を回し、ドアを開ける。

 ――ガチャッ

 引っかかるような音が聞こえ、ドアの隙間から中を見るとチェーンがかかっているのがわかった。

 チャイムを鳴らしてみるけれど、反応はない。中からテレビの音が聞こえてくるから、いるのはたしかだ。

「祐大、いるんでしょ。ここ、開けてよ」

 通路から声をかける。二度三度と名前を呼ぶと、ヌッと現れた影で玄関が薄暗くなった。

「おかえり」

「ただいま。ねえ、ここ開けてよ」

「なんでこんなに遅くなったの? 浮気?」

「残業で遅くなるって言ったでしょ。それに遅くったって十五分だし……」

 思わず言い返してしまってから『しまった』と思った。

 ドンッという大きな音が聞こえ、反射的に肩をすくめる。逃げ出してしまいたいのに、足が震えて動けない。

 静かにドアが開いたかと思うと、中から伸びてきた手に腕を掴まれ、部屋の中へと引きずり込まれた。

「痛いっ」

「はあ? 俺のこと待たせておいて、最初に言うのがそれ? 人としてどうなの? ねえ」

「ご、ごめんなさい」

「謝るならそれ相応の態度があるって教えたよね?」

 掴まれていた腕を振り払うようにされると、私は体勢を崩し床に這いつくばるような形になる。恐る恐る見上げると、祐大は冷ややかな視線を私に向けていた。

「もうし、わけ……ございません、でした……」

 手をつき頭を下げる。額に触れる床の冷たさに、涙があふれてくる。どうしてこんなことをさせられているのかわからない。私がいったいなにをしたというのだろう。どうして、どうして――。

「うん、俺もごめんね」

 優しい声が頭上に降り注がれ、私の背中を祐大がそっと撫でるのがわかった。声色が変わったことで、いつもの祐大が戻ってきたことを感じゆっくりと顔を上げる。

 そこには微笑みを浮かべ、私を見つめる恋人の姿があった。

佐智さちがなかなか帰って来ないから心配になっちゃった。明日は俺が帰って来るまでに家にいてね。じゃないと不安になっちゃうんだ」

「そう、だよね。ごめんね」

「もういいよ。じゃあご飯にしようか。俺、お腹空いちゃったよ」

 機嫌良くリビングに向かう祐大の背中を見つめながら、私はホッと息を吐き出すと、廊下にかかった鏡に視線を向けた。そこには泣いたせいで化粧が崩れた、くたびれた顔の女が映っていた。

 並本なみもと佐智。三十二歳。優しくて少しだけ嫉妬深くて独占欲の強い恋人と二人暮らし。幸せな生活を送っている――そんな女の姿が。


 翌日、終業時間間際に振られた仕事をなんとか終え、私は帰路を急いでいた。昨日の今日で、怒らせるわけにはいかない。私さえちゃんとしていれば祐大は優しいのだ。

 朝だって「今日はオムライスが食べたいな」なんて可愛いことを言っていた。早く帰って準備をしよう。

「お先に失礼します」

 オフィスを出ると、タイミングよくスマホが鳴った。ディスプレイに表示された『お母さん』の文字にため息をつきながら受電ボタンを押した。

「もしもし」

『ああ、佐智? 元気してる? 最近、電話もないから心配になって』

「してるよ。大丈夫。お母さんこそ元気? 腰痛いって言ってたの治まった?」

『ええ、もうすっかり。この間も香月かづきがゆっちゃんを連れてきてくれてね。ゆっちゃん覚えてる? 香月の娘の。もう二歳になったのよ』

 嫌な話題になったと思った。こうなるから母親と電話なんてしたくなかった。けれど、そんな私の気持ちなんてお構いなしに母親は話を続ける。

「もうすっかり重くなっちゃって。お母さんも年だなって思ったのよ。あんたも早く結婚して子ども産まないと、お母さん見てあげられないわよ」

 別に見てくれなんて頼んでいない。そもそも子どもなんてホントはこれっぽっちもほしくない。でもそんなこと言えない。結婚だって、したいかと言われると……。

 でもしなきゃいけないものだから。せめて私がしたいときにさせてほしい。そう思っているのに、ひとつも言葉となって口から出てくれない。

「……わかってるよ」

「あんたももう三十二歳なんだから、いつまでもフラフラせずに早く今付き合ってる彼氏にもらってもらいなさい」

 言いたいことだけ言うと母親は電話を切った。重く、鉛のようになった足がなかなか一歩を踏み出せない。

 早く結婚した方がいいなんて、私だってわかってる。周りの子たちも、次々と結婚して子どもを産んでいく。後輩たちも私を追い越していく。

「結婚、かぁ」

 付き合って七年、同棲して五年。普通ならもうとっくに結婚していてもおかしくはない。何度かそれとなく祐大に言ってみたこともあったけれど『まだよくない?』と言われてしまった。あまりしつこく言うと、機嫌が悪くなり黙り込んでしまうからそれ以上は言えなかった。でもあのとき、ガッカリした、よりも安心した方が大きかったことを覚えている。

「……帰らなきゃ」

 帰ってオムライスを作らなくちゃ。

 私は重い足を引きずるようにして、マンションへの帰り道を急いだ。


「そろそろ、かな」

 キッチンに美味しそうな香りが漂いはじめ、私は時計を確認する。祐大からスタンプとともに『今から会社出る』という連絡が来たのが二十分前。そろそろ着くはず、なのだけれど。

「――遅いなぁ」

 カチカチという時計の音だけが部屋に響く。できたてで温かかったオムライスは、食卓の上でもうずいぶん前に冷めた。何度かメッセージを送ってみたけれど、既読になることはない。祐大の勤めている会社からマンションまではゆっくり歩いても十分ほど。普段ならもうとっくに着いている時間だ。まさか事故にでも遭ったのだろうか。急に具合が悪くなったのだろうか。心配して、何度もメッセージ画面をチェックしてしまう。

 ようやく既読を示すマークがついたのは、会社を出たというメッセージから二時間以上経ってからだった。

『同期と飯食ってた。今から帰る』

 書かれている文章の理解ができず、二度三度と読み直し、それから席を立った。オムライスにラップをかけると冷蔵庫に入れて、ソファーに崩れ落ちるように座った。

 どうしてこんな扱いを受けなきゃいけないんだろう。悲しくて涙があふれてくる。別れたほうがいいのかも。そう思ったことは一度や二度じゃない。祐大に酷い扱いをされるたびに頭をよぎる。でも――。

「ただいま」

「あ……」

 呆然と座り込んでいる間に時間が経っていたようで、気づけばすぐそばに祐大の姿があった。

「おか、えりなさい」

 一瞬、動揺したのが伝わったのか、祐大は眉をひそめた。

「なに、その顔」

「え、なにって……」

「俺が帰ってきたのが気に食わないの?」

「そんなこと……!」

 慌てて否定するけれど、そんな私の態度さえ、祐大は不満だったようでソファーを思いっきり蹴り飛ばした。

「……っ」

「働いて帰ってきて、どうしてそんな態度取られなきゃいけないわけ?」

「別に……」

「ああ、もしかして晩飯外で食ってきたこと? なに、待ってたとか?」

 祐大の質問に、私は小さく頷く。せめて祐大の帰りを待っていたことを知ってほしかった。そうすれば帰ってきてほしかったと思っていると、伝わるかと思ったから。

 でも、祐大の反応は想像と全く違った。

「ふっ、くっ、ははっ」

「え……?」

「あーっ、ははは。待ってたからそんな顔してんの? あー、笑わせてくれるじゃん」

「祐大……?」

 私には祐大が笑っている理由がわからなかった。楽しそうに腹を抱えて笑う祐大が、なにを考えているかわからず、不気味にさえ見えた。

「そんな顔見えるなら、外で飯食ってきた甲斐もあったってもんだわ」

「どういう意味……?」

「どうって、わからないの? お馬鹿さんだね、佐智は。それとも、昨日自分が俺になにをしたのか忘れちゃったの?」

「昨日って……」

「俺より遅く帰ってきて待たせたよね? 俺のこと」

 ソファーの手摺りに座ると、祐大はにんまりと楽しそうに口を歪める。

「どんな気持ちになったか伝わったでしょ? 自分がどれだけ酷いことを俺にしたかわかったよね?」

「それと、これとは……」

 違う、と否定したかった。でも、祐大の笑みが言葉を続けさせてくれない。

「一緒だよ。佐智に自分のしたことをわかってほしくて、俺は心を鬼にしてやったんだよ」

 そう言われてしまうとなにも言えなくなってしまう。本当にそうなのかもしれないと思ってしまう。

「ごめんなさい」

 謝る私に祐大の表情が和らいだ。その表情にホッとする。

「そうやって素直なところが佐智の良いところだよ。佐智は俺がいなきゃダメなんだから、余計なことなんて考えずにいればいいんだよ。わかった?」

「……わかった」

 いつもこうだ。祐大が悪いはずなのに、私が悪かったような気持ちにされてしまう。お前はダメなんだからと言われると、そうなのかもしれないと思ってしまう。

 祐大の言葉があっているのか、間違っているのかさえも、どうでもいい。ただ私が従っていれば祐大は機嫌良く笑っていてくれる。怒鳴られることも、不機嫌になって無視されることもない。ならそれが正解なのかもしれないと、そう思い込むようになっていた。


 フラフラとした足取りで歩く。昨日の夜、祐大の機嫌を損ねてしまって晩ご飯を捨てられ、今朝も朝ご飯を食べることを許してもらえなかった。

 それならせめて昼ご飯は、と思ったけれどどうしてかカバンに財布が入っていない。朝、行く前にたしかに入れたはずだ。なのに近くのコンビニで食べるものを買おうとカバンの中を見ると、財布だけが消えていた。疑いたくないけれど、こんなことができるのは祐大だけだ――。

 レジに持っていったおにぎりを、頭を下げてもとの棚へと戻した。恥ずかしいしお腹が空いたしで薄らと涙がにじむ。

『昨日の夜はごめんなさい』

 メッセージを送ってみるけれど、既読になんてなるわけない。結局、空腹のまま午前の仕事を終えた。

「どうしよう……」

 昼はいつも近くのコンビニで済ませていた。お弁当を作ることは祐大が許してくれない。祐大曰く、自分がお弁当ではなく社食で済ませているのに、私だけふたりの食費で買った食材を使って、ふたりで払っている光熱費を使いお弁当を作ることなど許されないという。それならその分余分に払うから、と言ってもそんなお金があるなら共同貯金に入れろと言われてしまう始末だ。

 祐大の社食は給料天引き、なのに私のお昼ご飯は自分のお小遣いからというのはおかしいのでは。そう言ったこともあるけれど――。

 自宅まではどれだけ急いでも四十分はかかる。財布を取りに戻るだけの時間はない。かといって、昼ご飯も食べずにオフィスにいれば、きっと周りの人からどうしたのかと聞かれてしまう。それならいっそ、と外に出てきたものの行き場なんてあるわけなかった。

 空腹を紛らわすように会社近くの裏通りを歩く。オフィス街だけあって、表通りを歩けば飲食店がひしめき合っているけれど、一本裏に入ってしまえば、少しだけ落ち着いた街並みが広がっていた。

 歩いていれば空腹も忘れられるかもしれない。冷静なときならきっとその考え自体がおかしいことに気づいただろうけれど、今の私はとにかくジッとしていたくなくて、ただひたすらに足を動かしていた。

 どれぐらい歩いただろう。いつの間にか、辺りは住宅街へと姿を変えていた。腕時計を確認すると、あと二十分ほどで午後の始業時間だった。あと五分ぐらい歩いたら戻ろうか。そんなことを考えながら歩き出すと、鼻腔を味噌の匂いがくすぐり思わず足を止める。

 普段ならいい匂いだと思うところが、空腹でしかも食べることができない私にとっては毒でしかない。きゅるきゅるとお腹が鳴る音が聞こえて来て思わず手で押さえた。

 恥ずかしい、誰にも聞かれていないだろうか。

 慌てて辺りを見回すと、一軒のお店が目に入った。お店が、というより暖簾を掛けようとした女性が、だ。

 距離があったからお腹の鳴る音は聞こえていないはず。なのに、女性はどうしてか私を凝視しているのがわかった。

「……っ」

 止めていた足を慌てて動かすと、一目散に店の前を通り過ぎた。――通り過ぎようとした。けれど。

「さっちゃん?」

「へ?」

 懐かしい呼び名に、思わず立ち止まってしまう。けれど、そんなわけないと思い直す。その名前で私を呼んでいたのは、地元の友人たちだけだ。高校を卒業して、実家を出てからは一度も帰っておらず、もうずいぶんとそんなふうに呼ばれていない。きっと他の誰かを呼び止めただけだ。そう思ったのに。

「さっちゃんだよね! わ、久しぶり!」

 声の主は私のもとに駆け寄ると腕を取る。『さっちゃん』は私のことで間違いなかったようだ。でも、私はその人物に心辺りがなかった。

「あの、どちら様、でしょうか?」

 失礼だと思いつつも、すぐそばに立つその人をジロジロと見てしまう。呼び止めたのは、先ほど暖簾をかけようとしていた女性だった。私よりも少し低い身長にふっくらとした体格。どれを見ても見覚えはない。ただ私を呼ぶその声だけは聞き覚えがある気がした。

「あ、わかんない? そうだよね、私すごく太っちゃったから」

 コロコロとした屈託のない笑顔。私を見つめる優しい瞳。もしかして――。

夏子なつこ……?」

「大正解!」

 両手を打ちながら女性――樋口ひぐち夏子はもう一度、当時と変わらない笑顔を私に向けた。


 樋口夏子は中学の同級生だ。高校は違っていたので一緒の学校に通っていたのはたった三年間。タイプも違ったし仲の良い友達も違っていたけれど、どうしてか気があって、放課後ふたりでよく過ごした。

 高校卒業後、地元で就職をしたと聞いていたけれど、どうしてここに?

 不思議そうに見つめていると、私のお腹が再び勢いよく鳴った。今度こそ夏子にも聞こえてしまうほどに。

「さっちゃん、お昼まだなの?」

「まだ、というか」

 久しぶりに会った友人に、財布を忘れてお昼を食べていないとは言いづらい。しかも暖簾をかけていたところを見ると、夏子は先ほどのお店の従業員なのだろう。ここでそれを言えば、まるでお昼ご飯を恵んでほしいと言っているようにさえとられかねない。

「時間がなくて、これから食べようと思ってたの」

「ホント? あ、じゃあよければうちの店に寄っていかない? ちょうど開けたところなの」

「いや、でも」

「再会の記念に私にごちそうさせて! っていっても、たいしたものは出せないんだけど」

 えへへ、と笑うと夏子は「こっちこっち!」と私の腕を引っ張っていく。こんなに強引な子だっただろうか、と思いつつも夏子の申し出は有り難かった。

「それじゃあ……ごちそうになろうかな」

「うん!」

 夏子に引っ張られて入ったお店はこじんまりとしているけれど、実家に帰ったようなどこか柔らかであたたかな雰囲気に包まれていた。

「素敵なお店だね」

 カウンター席に座りながら言うと、向かいに立った夏子が照れくさそうに笑う。

「ありがとう。やっと自分のお店が持てたんだ」

「自分のって、ここ夏子のお店なの?」

「そうだよ。ずっと私だけのお店を持つのが夢で頑張ったんだ」

 カウンターの向こうで夏子はお鍋に火をかける。店の外まで香った味噌のいい匂いは、どうやら味噌汁だったようだ。

「和食のお店?」

「惜しい! 豚汁とおにぎりのお店だよ」

「へえ。最近おにぎり専門店みたいなのもあるもんね」

「そうそう。ってことで、豚汁におにぎりをふたつつけられるんだけど、さっちゃんは――」

「「うめぼし」だよね!」

 答える私の声と、得意げに言う夏子の言葉が重なった。

「なんでわかったの?」

「だって昔から、さっちゃんといえば梅干しおにぎりだったでしょ」

 そうだっただろうか。夏子が言うのだからそうだったのかもしれない。

「うちの母親がお金もなにも置いて行ってくれないから、さっちゃんちでよくおやつ代わりにおにぎり食べさせてもらったよね」

「……そうだったっけ」

 本当は覚えていた。でも、それを私が口に出してしまえばどこか恩着せがましくなる気がして、忘れているふりをすることにした。

 そんな私の思惑がわかっているように「そうだよお」と透明な手袋をしておにぎりを握りながら夏子は言う。

「あのおにぎりのおかげで私は生き延びられたと言っても過言じゃないんだから」

「えー、大袈裟だよ」

「大袈裟なんかじゃないよ。だから今、こうやってさっちゃんにおにぎりを作ってごちそうできるのがすごく嬉しいし、やっと恩返しができるって思ってるの」

 母親とふたり暮らしだった夏子は、母親が男のところに行ってしまって帰ってこなくなるたびに食べるものに困っていた。最初の何日かは冷蔵庫に入っているものでどうにかするのだけれど、それもそう何日もは続かない。しかも中学校は小学校と違ってお弁当が必要だった。母親が帰ってこず、弁当を持ってくることができない夏子は昼休みになるたびに教室から姿を消していた。

「大人はなにも手助けをしてくれなくて、ひとりつらくて苦しい想いをしてたときに手を差し伸べてくれたのがさっちゃんだった」

 私の前に大きなおにぎりがふたつと、温かい豚汁が置かれた。

「だから、さっちゃんには本当に感謝してるんだ。ふふ、話が長くなっちゃった。昼休み終わっちゃうよね。さ、食べて」

「……ありがとう。いただきます」

 豚汁の椀は熱くて、温かくて、手のひらを通じてぬくもりが伝わってくる。そっと椀に口をつけ、お汁を口に含む。

「あったかい……」

 味噌と野菜の優しい味が口の中いっぱいに広がる。

「……っ、ふっ……」

 知らないうちに、涙があふれ出していた。あたたかい。あたたかくて、あたたかくて、胸の中が苦しくなる。

 誰かの作ったご飯を食べるのはいつぶりだろう。誰かの愛情を受け取るのは、いったい――。

 椀を置き、おにぎりを手に取ると口いっぱいに頬張る。塩で握られた、梅干しが入っただけのシンプルなおにぎり。なのに、どんな料理よりも美味しいと感じるのはきっと、空腹だからだけではない。

「おい、しい」

「そっか……」

「うん、美味しい。すごく、すごく美味しい……」

 涙で顔をグチャグチャにしながら、おにぎりと豚汁を一心に頬張った。そのぬくもりで身体と心を満たそうとするかのように。


 食べ終えた私は、足早に夏子の店をあとにした。

「ごめん! 次はちゃんとお客さんとしてくるから!」

「ふふ、ありがと」

 夏子は手を振りながら「いってらっしゃい」と声をかけてくれる。

「……いってきます」

 一緒に暮らしているのに、祐大からそんな言葉をかけられた記憶はもうずいぶんとない。どこか気恥ずかしさを覚えながら手を振り返すと、私は来たときよりも軽い足取りで会社への道のりを歩いて戻った。

 夏子のおにぎりと豚汁でお腹が満たされ、お昼からの仕事はいつもよりも捗った。味気なく食べるお昼ご飯よりもずっと美味しかった。祐大と食べるご飯は、あたたかいはずなのにどうしてか砂を噛んでいるような、悲しい気持ちになる。好きな人とご飯を食べているはずなのに、どうして……。

 マンションに帰る足取りは今日も重い。でも帰らなくちゃ。私が帰る家は、あそこしかないんだから。


 翌日から私はお昼になると、夏子のお店に通った。

「ごめんね、種類があるわけじゃないから毎日来ると飽きるでしょ? 義理で来てくれてるなら他のところに行ってくれても……」

「そんなことないよ! 私が来たいから来てるだけ!」

 夏子は申し訳なさそうに言うけれど、私はここがよかった。居心地の良さも、料理の美味しさも、なにもかもこの場所に勝るものはなかった。

 通い始めてから何日か経った頃、お皿の上に昨日まではなかったものが載っていた。

「このお漬物美味しい。これってもしかして自家製?」

「よくわかったね。そう、私が漬けてるんだ」

 おにぎりのお皿に載ったキュウリを口に放り込むと、酸味の効いた糠漬けだった。祐大が嫌いだから、自宅で出すときは浅漬けばかりだけど、本当は糠漬けの方が好きだ。久しぶりに食べた糠漬けは、懐かしい地元の味がした。

「やっぱり飽きることなんてないよ。それにほら、おにぎりだってまだまだ試してない種類たくさんあるし」

 初日に食べた梅干し、それからおかかに昆布、変わり種だと明太だし巻き卵なんていうのもあった。

 でも、その日は少しだけ店の様子が違っていた。私が行くのが平日のお昼ということもあり、客層は近くのオフィスで働く女性が多かった。男性客をほとんど見ないのは、おにぎりと豚汁だけでは足りないのだと想像がついた。

 そんな昼下がり、お店の一番奥にあるふたりがけの席に女の子が座っていた。親はトイレだろうか。姿は見えなかった。

 異質な存在につい視線を向けてしまうと、私に見られていることに気づいたのか女の子は小さく肩を振るわせ俯いた。

「あ、さっちゃん。いらっしゃい」

 立ち止まったままの私に、奥から出てきた夏子が声をかけてくれる。私が女の子を見ていることに気づいたのか、少し困ったような笑みを浮かべると、カウンター席に座るよう促した。

「夏子、あの子――」

「さっちゃん、今日はなににする?」

「え、あ、えっと、じゃあ明太だし巻き卵で」

「はーい」

 準備を始めながら、夏子は一枚の紙をカウンターの上に置いた。

「『子ども食堂』……?」

 そこに書かれていたのは、ニュースなどで見たことのあるセーフティネットだった。貧困や家庭の事情で食事が取れない子、孤食の子が無料または安価で食事を取ることができる場所。夏子のお店もどうやらその役割を担っているらしかった。

「お待たせ」

 おにぎりふたつと豚汁を夏子は女の子のところに運ぶ。漬物の代わりに小さなプリンの容器がお盆に載っていた。

 女の子は夏子と、それから私の方をチラッと見たあと「いただきます」と小声で言い、そのままおにぎりにかぶりついた。

「そんなに急いで食べたら喉に詰まっちゃうよ」

「んっ……ぐっ、ごほっ」

「ほらほら。大丈夫、誰もあなたのご飯を取らないし、足りなかったらもっとおにぎりを握ってもいいの。だからゆっくり食べてね」

 お茶を手渡しながら優しく語りかける夏子にコクコクと頷くと、お茶を一気飲みして、再びおにぎりを頬張りはじめた。先ほどより、少しだけゆっくりと、味わうように。

 私のおにぎりができあがる頃には、女の子はおにぎり二個と豚汁をペロリと食べ、プリンの蓋まで舐めそうな勢いで完食していた。

「あ、あの」

 おずおずと夏子に声をかけると、女の子は勢いよく頭を下げた。

「ありがとうございました!」

 夏子は「ちょっとごめんね」と私に声をかけると、カウンターの中から出て女の子のもとへと向かった。

「もうお腹いっぱいになった? もう一個握ろうか?」

「大丈夫、です。おにぎり、すごく美味しかったです。あ、豚汁も」

「そっか、ならよかった。お昼も夜も開いてるから、またお腹すいたらいつでもおいで」

「……っ、ありがとう、ございます」

 頭を下げる女の子の声が震えている気がした。

 女の子が帰るのをお店の外まで見送ると、夏子は「お待たせ」と言って店内に戻ってきた。

「子ども食堂なんてやってたんだね」

 カウンターに並べられたおにぎりと豚汁を受け取りながら私はチラシに視線を向けた。

「うん。自分のお店を持ったらやりたかったんだ」

 洗い物をしながら夏子は言う。そういえば、中学のとき『自分の子どもにはこんなひもじい思いを絶対にさせない』と言っていた。それが回り回って地域の子どもたちにまで愛情が向くなんて夏子らしい。おにぎりを手にしながらそう話すと、夏子は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。

「夏子……?」

「私ね、子どもができない身体なんだ」

「え?」

 一瞬、理解が追いつかず思わず聞き返してしまう。けれど、すぐに後悔する。

「病気でね、子宮取っちゃったの」

 あまりにもつらそうに言うその言葉に、言わせるべきじゃないことを言わせてしまったことに気づいた。けれど、気づいたところで後の祭りだ。

「……ごめん」

「なんで謝るの。別にさっちゃん、なにも悪くないでしょ」

「そうだけど……。そんなつらいこと、話させてごめん」

「……大丈夫だよ。ホントはずっと大丈夫じゃなかったけど、大丈夫になるように地元を出てこっちに来たんだ。可哀想な子って目から逃げるように」

 住んでいた街は小さくて狭くて、噂なんてすぐに回り回って自分のもとに還ってくる。いいことでも、悪いことでも。

「ほら、私すごく太ったでしょ。これ、抗がん剤の影響もあるんだけど、死ぬぐらいなら美味しいもの食べてから死んでやる! って思って、食べたいだけ食べてたら二十キロも太っちゃったの。人間ってそんなに太れるんだってビックリしちゃった」

 ケラケラとおかしそうに夏子は笑う。私は笑っていいのか、それとも悲しむべきなのか判断ができず、結局困ったような笑みを浮かべることしかできない。

「夏子は強いね」

 ようやく絞り出したひと言に、夏子は驚いたように目を丸くした。

「私が、強い?」

「強いよ。私なんかよりもずっと」

 夏子は気丈にも笑っていたけれど、もしも私が夏子の立場だったら笑えただろうか。いや、きっと笑えない。

 ある程度の年になったら、結婚するのが当たり前。子どもを持つのが当たり前。多様性だと言いつつも相変わらずそんな古びた考え方をする人間の多い中で、人と違うことをするのは怖い。別れたほうがいいと思いつつも、祐大と別れられずにいるのも、この年で彼氏と別れるなんて、という周りからの冷ややかな視線に耐えられないから。

「ふふ、そっか。強くなれたんだとしたら、きっとさっちゃんのおかげだよ」

「私の?」

 思いがけない夏子の言葉に、私は首を傾げた。

「そうだよ。あの頃、お母さんに見捨てられて、世界中全員が私のことなんて必要ないってそんなふうに思っていた私に、誰に見捨てられたって自分自身が自分のことを諦めなければいいんだって、自分の人生を生きればいいんだってさっちゃんが言ってくれたんだよ」

「そんなこと、言ったかな」

「言ったよ。その言葉がずっと私の支えになってたんだから」

 思い出せないけれど、当時の私はそんな生意気なことを言ったのかと思うと恥ずかしくなる。それでもその言葉が夏子を支えていたんだと思うと、否定するのも違う気がしてなにも言えなかった。

「自分で自分を諦めなければ、か」

 今の私は、自分を諦めていないと言えるのだろうか。あの頃の私に胸を張って、それから今目の前でキラキラとした表情で自分自身を生きている夏子に恥ずかしくない生き方ができているのだろうか。

「そんなふうに生きるには、臆病になり過ぎちゃった」

 ポツリと呟いた言葉は、少し冷めた豚汁と一緒にお腹の中に沈んでいった。


 会社を出る私の足取りは、心なしか軽かった。今日から四日間、祐大が出張のため不在にするのだ。定時後に慌てて帰らなくていいことも、帰ってから機嫌をうかがわなくていいことも、不機嫌を撒き散らかされることに怯える必要もない。そう思うだけで、心が晴れやかだった。

 晩ご飯をどうしようかと思ったときに、夏子の店が思い浮かんだ。今日の昼はランチミーティングがあったので、食べに行けなかったのだ。いつも昼にしか行けないけれど、たまには夜に行くのもありかもしれない。

 そうと決まれば、帰宅ルートとは反対方向へと歩き出す。夜に行くのは初めてで、客層も想像がつかない。いくら女性が小食とはいえ、夕方におにぎりと豚汁では少ないだろう。もしかするとこの時間は空いていて、もう少し遅い時間、普通のご飯を食べるには重いような、そんな時間帯に混み始める可能性だって考えられた。

 もし空いていれば、夏子と話をするのもありかもしれない。今の夏子がどうしているのかも聞きたかった。

 けれど私の予想が外れたことに気づくまでに、そう時間はかからなかった。店の前に立つと、中から昼よりも賑やかな声が聞こえてきた。

「混み合ってそうだなぁ」

 あまりに人が多いようであれば、せっかくの機会だけれど今日は諦めよう。明日も明後日もあるのだ。出直せばいい。

 そう思いながら店の扉を開けるとそこには会社帰りの大人たち――ではなく、ワイワイと騒ぐ小学生であふれていた。

「嘘でしょ……」

 入る店を間違えたのかと本気で思ったあと、ふとあの日見たチラシを思い出した。

 子ども食堂――。

「あれ? さっちゃん? こんな時間に珍しいね」

 カウンターの中にいた夏子が私に気づいて顔を上げた。

「あ、うん。今日は晩ご飯外で食べようと思って来てみたんだけど……」

 満席という程ではなく、むしろカウンターは全て空いていた。子どもたちはふたりがけや四人がけの席で教科書とノートを広げ、鉛筆を走らせていた。

「あー、今ちょうどみんな宿題してる時間なんだよね。カウンター席は空いてるからよければどうぞ」

 どうぞ、と言われれば出直しにくい。子どもたちを拒絶したように思われるのも大人としてどうかと思う。

 仕方なく扉を閉めると、私はカウンター席へと座った。カウンターの向こうでは、夏子が大量のおにぎりを握っていた。

「凄い量だね」

「まあね。ひとりふたつじゃ足りないから、少し多めに握ってるんだけど、それでもやっぱり全員をお腹いっぱいにしてあげることは難しいね」

 子ども食堂は安価な設定にしているところもあるけれど、夏子はお金を取っていないようだった。そうなると費用の問題も出てくるだろう。バイトを雇えばもっとたくさん提供することができる。けれど、そのために発生する支出は夏子が負担することとなる。その辺りの塩梅が難しいのだとニュースでやっているのを見た。

「……手伝おうか?」

 思わず申し出たけれど、夏子は「大丈夫」と言って笑った。

「さっちゃんはお客さんだからね。ゆっくりしてて。ご飯出すの少し遅くなっちゃうけど……」

「大丈夫。まだお腹空いてないから待てる」

「よかった。ありがとう」

 安心したように言うと、再びおにぎり作りへと戻る。これを慈善事業としてするには、お金もそして気力も必要だと思う。

 夏子は凄い。ただ流されるままに生きている私とは違って、こうやって自分を生きている。私は……。

「ねえ、お姉さん」

「え?」

 俯き、カウンターテーブルの木目を見つめていた私のスーツの袖口を誰かが引っ張った。そこには小学校低学年ぐらいの女の子がいた。

「わ、私? どうしたの?」

「あのね、わからない問題があるの」

 おずおずと尋ねてくるその子は、算数のワークを手にしていた。

「あー、えっと……」

 子どもは得意じゃない。いつかは産まなきゃいけないと思っているけれど、それは女として生まれたからにはそういうものだから、であって、私自身が望んでいるものではない。ただ、役割としての、社会常識としてのことだ。

「ダメ……?」

 とはいえ、目の前で子どもから質問を受けて嫌だと言えるほど心が冷たいわけではない。

「どの問題?」

 私が尋ねると、女の子はパッと顔を輝かせた。

「あのね、この分数の問題がわからなくて」

 どうやら通分で躓いているらしく、かけ算をしてから計算するのだと教えてやると「そっか!」と嬉しそうに頷いた。

「お姉さん、ありがとう!」

 ワークを片手に二人がけの席へと戻っていく。その姿を見送っていると、別の男の子と目が合った。

「お姉さん、俺も!」

「あ、ズルい! 次、私が聞きに行こうと思ってたのに!」

 ひとりに教えたせいで、次から次へと子どもたちが寄ってくる。

「ま、待って。私は……」

「えー、まっちゃんには教えてあげたのに俺にはダメなの?」

「そ、そういうわけじゃなくて……」

 順番待ちをするように並ばれてしまえば、もうどうすることもできなかった。

「わかった、教える。教えるからとりあえず席に戻って? 私が順番に回っていくから。待ってる時間がもったいないから、順番がくるまでわからない問題は飛ばして違うところを進めておいて」

「はーい」

 揃って返事をすると、子どもたちは自分の席へと戻っていく。どうして私がこんなことを、と思いつつ、言ってしまったからには仕方がないと腹をくくって、子どもたちの席の間を縫って回った。

 ようやく解放されたのは、夏子の「おにぎりできたよ!」というひと言でだった。

「やったー!」

 机の上に広げていた教科書やノートをランドセルに片付けていく子どもたちを尻目に、私はカウンター席へと戻った。なんだかぐったりしてしまう。

 夏子はというと、カウンターに並べたおにぎりと豚汁を子どもたちに配っていた。子どもたちに運ばせればいいのにと思いつつ、私はお盆に豚汁を載せた。

「……手伝う」

「え、でも」

「子どもたち、お腹空かせてるだろうし。ふたりでやったほうが早いでしょ」

「……うん、ありがとう」

 おにぎりと豚汁が配られると、子どもたちは歓声を上げる。

「めっちゃ嬉しい!」

「はー、幸せ」

「俺、今日学校休んだから朝から何も食べてなくてさ」

 口々に言う子どもたちの姿を、なんとも言えない気持ちで見つめていた。


「ごめんね、ホントありがとう」

 子どもたちが食べ始めてからしばらくして、夏子が私の前におにぎりと豚汁を置いた。

「さっちゃんのおかげで子どもたち嬉しそうだったよ」

「私は別になにも……」

「勉強教えてあげてくれたでしょ? 私ひとりだとそこまで手が回らなくて。いつも困っている子のことは高学年の子たちが教えてあげてくれていたんだけど、それだと高学年の子たちの勉強時間が奪われる上に、その子達には教えてあげられる人がいなかったから」

 夏子の口振りから、この光景が今日だけのものじゃないことがわかった。きっと夕方のこの時間は、子どもたちのための時間なのだ。

「みんなここで宿題をするんだね」

「そうだね。家に帰ると勉強できる環境じゃない子も多くて」

 そういえば、夏子も放課後の教室で宿題をやっていることが多かった気がする。私の家で一緒にやることもあった。あの頃はそこまで考えることはできなかったけれど、もしかすると夏子もこの子たちと同じように居場所がなかったのかもしれない。

「ここはこの子たちにとって素敵な場所だね」

 そう言った私に、夏子は静かに首を振った。

「ここは、この子たちが生きるための場所なの」

「生きるための、場所」

「ご飯だけじゃない。大人は自分たちを見捨ててないんだって、手を伸ばせば差し伸べてくれる人もいるんだって、この子たちには知っててほしい。助けてって声を上げれば、誰かが助けてくれるんだって覚えていてほしい。そんな場所にしたいの」

「助けてって、声を上げれば……」

 思わず復唱してしまった私に、夏子は子どもたちの方を見ながら頷いた。

「声を上げてくれてないと私にはなにもしてあげられない。でも、声を上げてくれた子のことは全力で守りたい。そう思ってる」

 子どもたちに向けられた言葉だってわかっている。わかっているはずなのに、どうしてか夏子の言葉が、私の胸の奥の深い深いところに突き刺さったような気がした。


 翌日もその翌日も、私は会社帰りに夏子の店へと足を運んだ。子どもというのは順応能力のかたまりのようなもので、三日目に私の姿を見るやいなや「お姉さん遅い!」と駆け寄ってきた。

「ココ教えて!」

「あ、俺の方が先だよ!」

「早い者勝ちー!」

「順番に教えるからちょっと待って」

 口々に言い合う姿が可愛く思えて、口角が上がる。その瞬間、自分がふっとわらっていることに気づいて、驚きを隠せなかった。

 ずっと子どもが苦手だった。うるさくて、騒がしくて、遠慮知らずで、暴れ回っていて。苦手だから近寄らなかった。テリトリーに入ることも入れることもしなかった。妹の子どもができてから、ただでさえ帰る予定のなかった実家がさらに縁遠くなった。でも――。

 カウンター席にカバンを置くと、はしゃぐ子どもたちの姿を見つめる。

 実際に接してみると、子どもたちは想像以上に元気で騒がしくて、それから可愛い。無意識のうちに顔がほころんでしまう。こんな感情が自分の中にあったのだと驚いてしまうほどだ。

「すっかり懐いたね」

 おにぎりの準備をしながら夏子は笑う。誰が誰に、なんて聞かなくてもわかる。

「意外でしょ。私が子どもに懐かれるなんて」

 自嘲気味に言うと、夏子は不思議そうに首を傾げた。

「どうして? さっちゃん、昔から小さい子好きだったでしょ」

「え、なにそれ。誰かと勘違いしてない?」

 夏子の言葉に私は眉間に皺を寄せた。子どもが好きだった記憶なんてこれっぽっちもない。でも夏子は「勘違いなんかじゃないよ」と口を尖らせる。

「ほら、よくさっちゃんの妹ちゃんやその友達に宿題教えてあげてたでしょ」

「あれは、仕方なく……」

 母の帰りが遅かったので、自然と私が妹の宿題を見ることになっていた。それがいつの間にか、遊びに来た妹の友達にまでわからないところを教えていただけだ。

「さっちゃん、口では仕方なくっていうけど、楽しそうだったよ」

「面倒くさそうの間違いじゃなくて?」

「ううん、楽しそう。教え方も丁寧だったし、さっちゃんは将来先生になるのかなって思ってたんだ」

「そんなこと……」

 なかった、と否定するには、夏子の記憶はやけに鮮明で、もしかしたらそうだったのかもしれないと私自身にも思わせる説得力があった。

「そっか、私ずっと子どもが苦手だと思ってた」

「んー、子どもって自分がどう思われてるかに凄く敏感なの。だから、もしも本当にさっちゃんが子どもを苦手だと思ってたら、あんなふうに集まってこないと思うなぁ」

 夏子が向けた視線の先には、今か今かと待ち構える子どもたちの姿があった。

「そうなの、かな」

「私はそう思うけど、でも急いで答えを出す必要はないんじゃないかな。今答えを出さなくても、きっといつか自然と自分の中で答えが見つかることもあると思うよ」

 それだけ言うと、夏子は再びおにぎりを握りはじめる。私もそろそろ待ちきれなくなりそうな子どもたちのもとへと向かった。


 子どもたちを送り出し、私も夕食を食べるとマンションへと歩いて帰る。明日の朝には祐大が帰って来る。そうすればなかなか夕方に夏子の店へ訪れることは難しくなってしまう。

 それが寂しいと感じるのは、あの空間が私にとって居心地のいいものだからだろう。

「声を上げる、かぁ」

 毎日とは言わない。週に二回か三回、会社帰りに夏子の店へ寄って帰ってもいいか祐大に相談してみようか。理由をきちんと話して、少し晩ご飯は遅くなるけど一緒に食べるし準備も私がするからと。

 きちんと話をすれば、もしかすると祐大も受け入れてくれるかもしれない。その代わり、他の日は祐大との時間を優先するからと伝えれば――。

「あれ? 鍵が開いてる……?」

 マンションの部屋の前に立ち、鍵を開けようとした私は背筋がヒヤッとするのを感じた。まさか朝、鍵を閉め忘れた? でも、きちんと確認したはず……。

 朝のことを思い出しながら、そんなはずがないと首を振る。

 だとしたら、もしかして。

「……祐大?」

 違ったとき、一目散に逃げられるように玄関のドアを開けっぱなしにしたまま室内に声をかける。けれど返事はない。返事どころか、物音一つしない。

 違った、のだろうか。やっぱり私がうっかりと鍵をかけていくのを忘れただけ?

「誰も、いない?」

 もう一度呼びかけると、恐る恐る室内へと足を踏み入れた。リビングのドアをそっと開けるとそこには――ソファーに座る祐大の姿があった。

「わっ、ビックリした! いるならいるって返事してくれたらいいのに」

「ねえ、どこに行ってたの。なんでいなかったの」

 私の言葉に返事をすることなく、祐大は自分の疑問をぶつけてくる。その言葉の冷たさにビクッとしながら、私は明るく答えた。

「晩ご飯を食べて帰ってきたの。ほら、前に言ってた友達の店。祐大が帰って来るの明日だと思ってから」

「帰って来ちゃいけなかったってこと?」

「そ、そんなこと言ってないよ」

「言っただろ!」

 どこが地雷だったのかわからない。けれど、祐大の機嫌はみるみるうちに悪くなり、ソファーに座ったままローテーブルを思いっきり蹴り飛ばした。

「……っ」

 大きな音が響き、ローテーブルはテレビボードへとぶつかる。

「俺がいないと好き勝手しやがって。何様のつもりだよ!」

「そ、そういうわけじゃ」

「友達って言って実は男と会ってたんじゃねえのか? ふざけんなよ!」

「違うって、ホントに……っ」

 ツカツカと歩いてきたかと思うと、目の前に祐大が立ち、そして――私の頬に衝撃が走った。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。頬がじんじんと熱くて、涙がにじんでくる。私のすぐそばで、祐大はこぶしを握って立っていた。

 そしてようやく気づいた。頬を殴られたのだと。

「お前は俺のものだ。他のやつになんて渡さない。離れていくなんて許さないからな」

 目が血走り、泡を吹くように喋る祐大の姿は、もう私の知っている、私が好きになった祐大ではなかった。


 ふと目覚めると、帰ってから二時間ほど経っていた。身体を起こすとあちこちが痛い。腫れ上がった頬はもちろん、無理矢理乱暴をされた身体もボロボロだった。

 隣でいびきをかいている祐大は酒臭く、酔っていたのだとわかった。酔っていたから仕方ない。普段は優しい。帰ったら私がいなくて不安になっただけ。いろんな理由を並べて自分を納得させようとするけれど、身体の震えは止まらない。怖い。この人が怖い。

「……っ」

 もう限界だった。でも、どうしていいかわからない。別れたいなんて言えばきっともっと殴られなじられる。逃げたい。でも逃げられない。このまま我慢すればいつかは変わってくれるかもしれない。昔みたいに優しい祐大に戻ってくれるかもしれない。

 でも、いつかっていつ? いつまで私は、私を殺しながら生きていかなきゃいけないの?

「たす、けて……」

 いつかの夏子の言葉がよみがえる。

『助けてって声を上げれば、誰かが助けてくれる』

「私、は……私を、諦めたくない……」

 これ以上、自分自身を殺し続けたく、ない。


 祐大を起こさないようにベッドを出ると、最低限のものだけ持って私はマンションを飛び出した。

 迷惑をかけるかもしれない。でも、今の私に頼れる場所はひとつしかなかった。

 暖簾は下ろしてあったけれど、店内に電気はついていた。そっと扉に手をかけると、いつものようにあたたかい場所がそこにはあった。

「夏子……」

「さっちゃん!? どうしたの、その顔……! と、とにかく入って!」

 カウンターの向こうから慌てて飛びだしてきた夏子は、私の身体を支えてくれると中に招き入れてくれる。背中に添えられた手のぬくもりが優しくてあたたかくて、涙があふれてくる。

「酷い……。ちょっと待って、タオル濡らしてくる」

 顔がどうなっているのかわからずにいると、夏子が慌てて濡らしたタオルを持ってきて拭いてくれる。真っ白だったタオルが赤黒くなっていくのを見るに、鼻血が出ていたのかもしれない。

「ほっぺはこれで冷やしてね。口の中は切れてない?」

「口……。わかんない、でも歯がぐらぐらしてる……」

「これ、誰にやられたの?」

「……彼氏。帰ったら殴られて、それで……」

 話をしようとした瞬間、私のスマホがけたたましく鳴り響いた。祐大だ。目が覚めて、私がいないことに気づいたに違いない。

「あ……ど、どうしよう、私……」

 覚悟を決めて飛び出してきたつもりだった。でもいざこうやって電話がかかってくると、震えが止まらない。今すぐにでも祐大のもとに帰って謝ったほうがいいのではないか。今ならまだ許してもらえるのではないか。そんな考えで思考が覆い尽くされていく。

「あ、やまら、ないと……」

 口をついて出た言葉に、手が動く。そうだ、謝って、それで――。

「さっちゃん!」

 ぐちゃぐちゃになった私の思考を引き戻したのは、夏子の鋭い声だった。

「さっちゃんはどうしたいの?」

「わた、し……? 私は……」

 私はどうしたいのだろう。祐大に許してほしいのだろうか。それとも。

「助けてって言ってくれたら、私はいつでもさっちゃんを助ける覚悟はできてる。でも、さっちゃんが望まないと私はなにもすることができないんだよ」

「私、が……」

「さっちゃんはどうしたい? これから先、どうやって生きていきたい?」

 私、は――。

「私らしく、生きたい」

「彼のもとに戻りたい?」

「もど――」

 戻ればきっと、世間のいう幸せが手に入る。結婚して、子どもを産んで、女性の幸せってこういうことだよねって、そう言われるような幸せが。でも。

「り、たく――ない」

 でも、そんな幸せは私の幸せじゃない。私にとっての幸せは、祐大と一緒にいることじゃない。

「うん、じゃあ戻らないでいいよ。さっちゃんの人生はさっちゃんだけのものなんだから。他の誰にも委ねちゃダメだよ」

「夏子……」

「じゃあとりあえず、このうるさい電話、どうにかしなきゃだね」

 そう言ったかと思うと、夏子は受電ボタンを押した。

「おい、佐智! どこ行きやがった! 今すぐ帰って来ないとどうなってもしらねえからな!」

「どうなっても、とはどうなるんですか?」

「んなもん、決まってんだろ。ボコボコにしてもう二度と俺から離れられなく――ってお前誰だ?」

「私はさっちゃん――佐智の友達です。佐智はもうあなたのもとには帰りません」

「はあ? なに言ってんだ。俺達のことに口出すなよ。いいから佐智に替われよ。そこにいるんだろ!」

 まだ酔っているのか語気の強い祐大の声がスピーカーにしていなくても聞こえてくる。なにひとつ喋れない私と違って、夏子は祐大の怒鳴り声なんて気にもならないというかのように話を進めていく。

「それ以上言うのであれば私たちはこれから警察に行きます。佐智の頬の傷、あなたですよね。病院に行って診断書も書いてもらいます」

「はあ!? なに言って……」

 警察という言葉に、少しだけ祐大の声が怯むのがわかった。

「それが嫌なら金輪際、佐智にはつきまとわないでください。迷惑です」

 ここまで友人に言わせて、私はなにも言わないまま夏子の影に隠れていていいのだろうか。自分の人生を自分で生きると決めたんじゃないのか。自分の意思で、祐大から離れることを決めたんじゃないのか。

「……代わって」

 掠れた声で夏子に言うと、少し驚いたような表情のあと、夏子はそっとスマホを手渡した。

「……もしもし」

「佐智!? 警察なんて馬鹿なこと言ってないでさっさと帰っておいで。今ならまだ許してあげるから」

 荒れた口調ではなく、優しいいつも通りの祐大の声が聞こえてくる。いつも箱の声を聞くとホッとした。でも今は、先ほどまで怒鳴り散らしていたのと同一人物だと思うと、その二面性が恐ろしくて仕方がなかった。

「私はもう、あの部屋には帰りません」

「どうして。そんなこと言わないで。俺たち仲良くやってたでしょ」

「仲良くやるために、ずっと祐大の顔色を窺ってた。機嫌を悪くしないように、怒らせないようにって。でもそのたびに私は自分を殺してた」

 自分の感情を消して、祐大のご機嫌だけを取って、そうしてでもふたりでいることが幸せだと思ってた。でも。

「私の人生に、あなたはいらない」

 そう、いらないのだ。私が私らしく生きられない人の隣でいる時間なんて、必要ない。

「今までありがとう。さようなら」

「佐智! ねえ! おい! ふざけ……」

 電話の向こうで祐大が怒鳴っている声が聞こえたけれど、私は通話を切った。

 心臓がドクドクと大きく音を立てて鳴り響いている。スマホを握りしめていた手は汗びっしょりで、震えが止まらなかった。

「さっちゃん……大丈夫……?」

 心配そうに私を覗き込む夏子に、どうにか口角を上げて見せた。

「へへ……私、別れちゃった」

「うん、頑張ったね」

「この年がきて七年も付き合った彼氏と別れるなんて、周りからなんて言われるかそればっかり考えてた。でも、周りなんて関係なかった。私が、私の人生をどうしたいか、それだけだった」

 そんな単純なことにさえ、気づけなかった。

「今さら気づいても、もう遅いのにね」

「そんなことないよ。今までは気づけなかった。でも今は気づけたじゃない。これからまだまだ人生は長いんだよ。その長い人生のたった七年じゃん。八年に、九年にならなくてよかった。そう思えばいいんだよ」

 明るい笑みで夏子は言う。夏子の笑顔を見ていると、そうなのかもしれないと思えてくるから不思議だ。

「でもこれからどうしよう。家を飛び出して来ちゃったし……」

「足りないものは追々揃えていくとして住む場所、だよね」

 ひとまず今日はホテルに泊まって、明日以降はウィークリーマンションにでも――。

 そう考える私に、夏子は「そうだ!」と両手を打った。

「私、ここの二階に住んでるんだけどさっちゃんも一緒に住まない?」

「え、いや、でもそこまで迷惑をかけるのは……」

 いくら同級生で仲がよかったとはいえ、久しぶりに会ってからまだ一か月ぐらいしか経っていないのだ。なのに一緒に暮らすのは甘えすぎもあるし、お互いに気を遣ってしんどくなりそうで怖い。

「でも住むところないと困るでしょ? 二階、一部屋余ってて私ひとりで住むには持て余してたの」

「だけど……」

「じゃあ次の部屋が見つかるまではどう? それまでの間借りってことで」

 それなら、まあ。と、思いつつ私にとってはありがたい話だけれど、夏子にとっては広々と暮らしていたひとり暮らしを壊されたことにならないだろうか。

「えへへ、それでね、お願いがあって」

「お願い?」

「お家賃をね半分お願いできれば嬉しいの。ここ、結構家賃が高くて……」

 そりゃそうだろう。立地もよいこの場所に二階建ての建物を丸々借りていればそこそこの金額が飛んで行くのは想像に難くない。でもそういうことなら少しだけ気が楽になる。

「住まわせてもらうんだもん。家賃はもちろん払わせてもらうよ」

「よかったー! ありがとう! これで子どもたちにもっとたくさん食べさせてあげられる!」

 嬉しそうに言う夏子に、私は少しだけ呆れてしまう。浮いたお金を子ども食堂の資金に回すなんてお人好しというかなんというか。

 でもそんな夏子に私が救われたように、きっと子どもたちも救われているはずだ。

「じゃあ私は、会社から帰ったら子どもたちに勉強を教えてあげようかな」

「あ、それ喜ぶと思うよ! ふふ、なんかふたりで一緒にお店やるみたいでなんだか嬉しいね」

「……そうだね」

 ぴょんと飛び上がる夏子の姿は中学生の頃の姿を思い出させる。あの頃もふたりでいるのが楽しかった。誰かの目を気にすることなく、自分たちのやりたいことをして、笑い合って、そんな日々が私にもたしかにあったのだ。

「夏子と一緒なら、取り戻せるかな」

「なにか言った?」

「なんでも。これからが楽しみって言っただけ」

 私の言葉に夏子が笑う。それにつられて私も笑う。

 思い描いていた人生とは違うけれど、これがきっと私の幸せだから。誰に否定されても馬鹿にされても構わない。

 私は私の人生を生きる。私の人生は私のものだと気づかせてくれた、最高の友人とともに。

 

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おにぎりと豚汁と、私の居場所 望月くらげ @kurage0827

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