第3話 二重
訓練施設の扉が閉まる音が背中に薄く残る。
誰もいないフロア。
壁に沿って配置された訓練ユニットが、淡く光っている。
私は手元の端末に情報を読み込ませ、訓練項目を選択する。
反応制御。加圧機動。動作連携。
思考を介さずに身体を動かせるもの——それを求めて、私は「高負荷動作ルート」を選んだ。
扉が開き、ひとつのユニットが私を迎える。
私は無言で中に入り、補助フレームのロックを外す。
空気がわずかに引き締まる。
床が足裏に触れ、感覚が研ぎ澄まされていく。
スタート音は鳴らない。
一瞬の静寂のあと、床が傾いた。
同時に、視界が白い線で満たされる。
私はその光を踏みつけるように、走った。
壁のラインを蹴る。
バランスを崩さず、着地と同時に反転。
フレームの角を滑るように掴み、腕を引く。
息が浅くなる。
けれど止めない。
背中を丸め、床に触れる直前で跳ね返る。
脚が空を切り、肩が壁に当たり、手の平に冷たい汗がにじむ。
目の奥が熱い。
なぜ選んだのか。
意味はない。考えてはいない。
ただ動く。
速く、正確に、限界まで。
リズムが狂った瞬間、重力がずれた。
壁が傾き床が揺れる。
タイマー音が微かに鳴り、再調整が始まる。
私はブレた足を踏み直し、次の支点を探す。
体重移動。片脚の反転。重心のねじれ。
全身のバランスを、感覚で捉える。
誤差を、身体で押さえつける。
何も見ていないのに、視界は冴えていた。
ひとつ飛んで、転がり、跳ねて着地。
肩で息をしている。
肺が焼けるように熱い。
でも終わらせたくなかった。
再起動された訓練ユニットの壁面が、わずかに角度を変える。
それに合わせて私は重心を調整し、着地の反動を足裏で吸収する。
音は鳴らない。息が荒くなるたび、視界の輪郭だけが微かに揺れていた。
冷静だった。
身体は正確に応えている。
熱はあるが、乱れはない。
壁を蹴り、次のパネルに指をかけて引き寄せ、反転しながら脚を伸ばす。
空間を裂くように走り抜け、補助フレームに身体を預けた瞬間、背後のドアがわずかに開く音がした。
その音は施設内では珍しく、静かすぎてかえって目立つ。
けれど私は振り返らなかった。
視線は保ち呼吸を整え、次のアクションに集中する。
訓練は記録されている。
この数値も、映像も、情報処理されて残る。
視線の端に、誰かが立っているのが見えた。
ガラス越しにこちらを見ている。
スキャン時に見慣れた制服、個体番号のつかない無地のバッジ。
視察か、次期割り当て対象の確認か。
この施設には、訓練以外の目的で出入りする個体も多い。
とくに最近、選抜前段階の見直しが進んでいると通知が出ていた。
関係のある個体が動くのは、不自然ではない。
私は足を戻し反転。
呼吸に合わせて次の連続動作へ移行した。
視線はずっと前を向いている。
ただ、空気の流れが先ほどとは違っていた。
訓練ユニットの中に、外の温度が少しだけ入り込んでくるような、そんな気配だった。
目は逸らさなかった。動きにも乱れはない。
けれど、身体の内部がほんの少しだけ熱を持っている気がした。
汗が喉元を伝い、襟の内側に染みる。
それでも私は淡々と動き続け、記録された数値は基準内に収まっていた。
その個体がいつ視線を外したのか、私は気づかなかった。
ふと壁を蹴った瞬間、ガラスの向こうにあった気配はもうなかった。
◇◇
訓練が終わると空間の照度が少しだけ落ちた。
システムが静かに動作を止め、周囲の音が緩やかに消えていく。
私は補助フレームから手を離し、肩の力を抜く。
身体に疲労はあったが、動きは正確だった。
呼吸は浅く整い、皮膚の上を汗が滑っていくのをただ見送るように感じていた。
ロッカーに戻り静かに扉を開く。
誰の気配もない。廊下にも音はない。
シャワールームのドアが自動で開き、照明が淡く灯る。
制服を脱ぎ、無言でそのまま中へ入った。
水を出す。
勢いは抑えられ、ぬるい感触が肩から背中へ落ちていく。
思考は空白だった。考えようとしていないのか、何も浮かばないのか、自分でもわからない。
手のひらで首筋をなぞり、腕を流し、手首の内側にそっと触れる。
軽い違和感があった。どこかの筋が、まだ微かに張っていた。
それに気づくことで、自分の輪郭を思い出していく。
水を止め、髪の水を絞り、制服に袖を通す。
ロッカーを閉めると、金属の音が静かに室内に響いた。
廊下を歩く。足音が吸い込まれていく。
交差点の先には誰もいない。
照明はいつも通り。空調の音も、淡々と流れている。
出口の前に立ち、端末に識別コードをかざす。
淡い表示が浮かび、数秒の処理ののちにロックが外れる。
私は振り返らず、そのまま施設を出た。
背中に何か残っているような感覚はあった。
でも、立ち止まる理由にはならなかった。
補給ラウンジには人の声がなかった。
時間帯のせいか、各テーブルはまばらにしか埋まっておらず、
白い椅子と透明なパネルの間を、機械の静かな音が通り抜けていた。
私は端末をかざし、自動配膳ユニットから栄養プレートを受け取る。
並んだ三つの容器。主栄養剤、補水ジェル、ミネラル塊。
味覚再現は最低限。彩度も調整されていない。
トレイを持ったまま空いている席を探す。
窓側はすべて避ける。視界に反射が入り、気が散るからだ。
ひとつ、壁際の席に腰を下ろす。
椅子の硬さを確認するように、一度だけ背を預けてから姿勢を正した。
ゆっくり。噛む必要のないものを、確かめるように口に含む。
味はない。
けれど、その無味の中に微かに感じる“わずかに違う”感覚を、私はときどき測る。
隣のテーブルで、誰かがカップを置いた音がした。
私はそちらを見ない。目を合わせる必要も、話す必要もない。
食べ終わった容器を重ね、配膳トレイを端に寄せる。
まだ席は立たない。
背もたれに体を預け目を閉じた。
まばたきのあいだに浮かぶ光の残像が、静かに流れていく。
このラウンジには、何も飾られていない。
壁には時計も、飾りも、通知もない。
無地の空間。色彩のない食事。均一な照明。
でも私はそれが嫌いではなかった。
“感情を揺らすもの”が、ここにはない。
それが今はありがたかった。
身体が食事を受け入れていくのを感じながら、
私は静かに呼吸を整え、目を開けた。
席を立つ。
人の少ない通路をそのまま抜けていく。
何も変わらない、何も起こらない場所が少しだけ身体の重さを軽くしていた。
◇◇
ラウンジを出て、戻るには少し早い気がして、足を自然と横道へ向けた。
何度か通ったことのある通路。だが、今日の足取りは少し違っていた。
壁際に並んだ植え込みのフェイクグリーン。
視線を向けることもなかったそれが、ふと目に入る。
一枚の葉に、わずかな汚れがついていた。
作りものの葉に、本物のような傷がある。
それがなぜか、ひどく静かに感じられた。
足を止めるほどではない。
ただ、一瞬だけ歩みが遅れた。
先を行く照明の影が、床に細く伸びている。
普段なら気にもしないその明るさが、今日は少しまぶしかった。
曲がり角の先、自販機の前にあるベンチに、誰かの忘れ物があった。
ペン型の端末。センターの支給品。
いつもなら、すぐに回収する。
けれど私は立ち止まったまま、それを見つめるだけで手を伸ばさなかった。
無音。誰もいない通路。
制服の袖が手の甲にふれる。
その感触に目を向けることもなく歩く。
さっき誰かがこの施設に来ていたことを、ふと思い出す。
名前も顔もわからないままだった。
◇◇◇
部屋に満ちていた光はやわらかく、沈んだ空気のなかに音はなかった。
彼女はすでにそこにいて、こちらを振り返るでもなく、それでも「待っていた」ことがすぐにわかる空気をまとっていた。
制服を脱ぎながら、ボタンを外す手に不思議な重さを感じた。
日常に組み込まれた動作のはずなのに、今日だけは少し違っていた。
その違いの理由は、最初からわかっている。
思い出していた。
訓練ユニット越しに目を奪った、あの姿を。
振り返らなかったはずなのに、なぜか記憶に焼き付いていた。
真っ直ぐな体の軸と、淡々とした動き。
誰より静かなまなざし。
どこにも向いていないようで、どこまでも深くを見ているような、あの目。
彼女はまだこちらに気づいていなかった。
それでも、目が離せなかった。
今ここにいるこの人とは、まるで別の温度を持っていた。
背後で音もなく立ち上がる気配。
意識をこちらへ引き戻すように、すでに決まった手順の中へ身体が引き込まれていく。
髪に触れられた瞬間、わずかに肩が硬くなった。
その反応すらも見透かしていたかのように、彼女の指は迷いなく輪郭をなぞっていく。
すでに何度も繰り返してきた接触。
拒絶しなかったのは、それが今まで常に必要なことだったから。
けれど今日だけは、その手の触れ方が少し重く感じられた。
彼女の中には、相手の感情に触れるようなやさしさはない。
それでも肌に触れる動きには、抗いがたい確信のようなものが含まれていて、
そこから逃れるには、強い理由が必要だった。
けれど、もうその理由が、自分の中に芽生え始めていることにも気づいていた。
あの子のことを思い出していた。
何も言わず、何も求めないのに、ひとつの動きだけで全部伝えてしまうような。
きっと、今日もあのまなざしで誰かと向き合っていたのだろう。
その姿を見てしまったあとに、誰かの指が首筋に触れてくるのは思っていたよりもずっと冷ややかだった。
けれど、従う。
今はまだ、抗わない。
その手を振りほどいてしまえば、何かを壊してしまいそうで。
そう思っている自分を、少しだけ悔しく思う。
彼女の手が肩に触れる。
指先は慣れた動きで鎖骨の下をなぞり、呼吸の浅さを測るようにゆっくりと下がっていく。
合図はなかった。けれど、それが始まりであることはもう決まっていた。
「こっちを向け」
その声は静かだった。
否応なく身体は従っていた。
顔を向ける瞬間、今日の訓練室で見た横顔を思い出していた。
冷たくも熱くもない、でも心の深いところに入り込んでくるあの視線。
ふと、その残像が胸を締めつけた。
だが、顎を支える指がそれを断ち切る。
顎の下にぬるい感触が差し込み、視線が戻される。
「目を閉じろ」
言葉に逆らえなかったわけではない。
ただ、閉じる方が楽だった。
まぶたの裏で、残っていた面影がぼやけて消えていく。
触れられた皮膚の記憶がそれを上書きしようとしていた。
耳の後ろに湿った吐息がかかり、彼女の背に腕が回る。
もう片方の手が腰に入り込み、ふたりの体が自然に重なっていく。
息を吸い込むと、胸が膨らみ、相手の身体とぴたりと合わさった。
呼吸が交わる。肌が沈む。
温度は確かにあった。動作も整っていた。
ルフは流れ始めている。手順としては何も間違っていない。
それでも、どこかでずれていた。
目を閉じているのに、視界の奥にはまだあの子の姿があった。
まるで見つめられているように、強く残っていた。
今ここにいる相手のぬくもりは、ただの正解で、
それ以上でも、それ以下でもなかった。
自分が何に触れられているのかを確かめようとして、
そのたびに、思考が呼吸の隙間から滑り落ちていくようだった。
◇
脚を引き寄せられ、膝の裏に濡れそぼった指が触れた。
そこに温度はあったけれど、どこかで知覚が追いついていないような感覚があった。
指が腿のさらに内側を撫でていく。
通過した指がぬめりとした雫をすくい取る。
そのたびに、身体が僅かに跳ねる。
その反応は抑えきれなかった。
敏感になっている。そう自覚しながらも、なぜその感覚が“遠い”のかがわからなかった。
彼女の呼吸は安定していた。
狂いもなく、動きに迷いもない。
求めているのは、確かにここにあるもののはずだった。
けれど、その正確さが、どうしても馴染まなかった。
皮膚と皮膚は触れ合っていて、反応は正しく返っているのに、
感情がそこに追いついてこない。
背中に添えられた手がぐっと押し寄せ、腰が固定される。
ふたりのあいだにできたわずかな隙間が、埋められていく。
その密着のなかで、ルフの流れが本格的に移行を始めているのがわかった。
内部がざわつき、神経のどこかがふるえる。
でもその奥に、どうしようもなく別の手の記憶が滲んでいた。
もっと乾いた、けれど確かだった手。
言葉もなく、ただ肌に触れてきたあの感触が、なぜか今、比較のように浮かんでくる。
目を閉じたまま、それを追い払うように呼吸を深くした。
肌の上ではまだ、ぬるりとした指が同じ軌道を辿っている。
それが、あたたかくも、冷たくも感じられない。
この部屋は静かだった。
ただ、彼女の手と、身体の間を流れるものだけが、淡々と正確に続いていた。
交換が終わったあと、部屋は静かだった。
接触の痕跡だけが肌に残っていて、動きはない。
装置の端末が処理を終え、結果を表示する。
適合率:93.4%
セリア・E-0135 / エルナ・E-0192
一瞬だけ画面が点滅し、再計算が行われたが、数値は変わらなかった。
その結果に、誰も何も言わなかった。
ただ、それが事実としてそこにあるだけだった。
Merging into You @Siaru-
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