第2話 痕跡

 朝の都市は静かだ。

 私はヴィオと並んで歩いていた。


 今日はセンターではなく、都市の外れにある廃墟の視察任務。


「朝から歩くの、面倒」


 ぼんやりと言うと、ヴィオは端末を操作しながら返した。


「適度な運動よ」


「どのくらいが ‘適度’?」


「これくらい」


「 ‘最低限’ ってこと?」


「そうとも言うわね」


 はあ、と息をつくと、ヴィオが端末を閉じた。


「文句言う割に、歩くの速いわね」


「歩かないと終わらないし」


「合理的ね」


「褒めてる?」


「ええ」


 私は肩をすくめた。


 建物の並びが途切れ、視界が開ける。

 目の前には、廃墟になった区域が広がっていた。


「 ‘区域D-7’ に到着」


 ヴィオが端末に記録を入力する。


 私は崩れた建物を見上げた。


「ここって、昔は ‘生活区域’ だったんでしょ?」


「ええ」


「どんな暮らしだったの?」


「今と違うわ」


「それは見ればわかる」


「住居があって、店があって、人がいた。それだけ」


「 ‘普通の暮らし’ ?」


「 ‘普通’ の基準によるけど、少なくとも今とは違うわね」


 私はもう一度、廃墟を見渡した。


「 ‘普通’ って、どこからどこまでを言うんだろう」


「わからないなら、考えても無駄よ」


「ヴィオは ‘普通’ じゃなくなったら、どうする?」


「 ‘異常’ なら、対処するだけ」


「それだけ?」


「それだけ」


 風が吹いた。


 壊れた窓の隙間を通って、金属が軋む音がする。


 ふと、視線を感じた。


 私は足を止めた。


 ヴィオがこちらを見る。


「どうしたの?」


「……誰かいる気がする」


「反応はないわ。誰もいない」


「でも……」


 私はもう一度、周囲を見渡した。


 崩れたビル、ひび割れた道路。

 遠くで鉄が揺れる音。


 けれど、人の気配はない。


「戻る?」


「まだ記録が終わってない」


「じゃあ気のせいね」


「……かもね」


 私は歩き出した。


 ヴィオもそれに続く。


 でも、背中の奥に残る感覚だけは、消えなかった。


 都市の光は、相変わらず白い。


 私は余計なことを考えないように、ただ前を向いた。


 


 崩れた建物の奥へ進むと、足元にひび割れたタイルが見えた。

 私は一歩立ち止まり、瓦礫の間に何か光るものを見つけた。


 透明な小さなカプセル。

 粉塵のせいでうっすら曇っている。


 私はしゃがみ、そっと指先でつまみ上げた。


 カプセルの中には、折りたたまれた紙のようなものが入っていた。


「リナ」


 振り返らずに立ち上がる。


「……足元、確認してた」


「何かあった?」


「ない」


 袖の内側に、カプセルを滑らせる。

 制服の裾を整えながら、歩き出す。


 ヴィオの足音が近づいてきたが、それ以上は何も言わなかった。


 風が抜け、鉄の軋む音が背後で鳴った。


 ◇◇


 センターに戻ると、ヴィオは何も言わずに別室へ向かった。


「任せるわ」


「うん」


 扉が閉まり、音が消える。

 私は端末を開いたまま、しばらく動かなかった。


 誰も見ていない。


 袖からカプセルを取り出し、資料保管室へ向かう。

 この時間帯は誰も使わない。照明は点けずに、扉を閉めた。


 静かな空間。


 私はテーブルに腰を下ろし、カプセルの封を外す。

 中から出てきたのは、小さく折られた紙。


 少し黄ばんだその紙は、手の中でふわりと形を戻していく。

 慎重に開くと、そこには短い言葉が書かれていた。


 『あの子は適合しなかった。

 でも、わたしはあの子を捨てなかった。

 あの子の手は、ちゃんと温かかった。』


 それだけだった。


 誰が書いたのかも、いつのことなのかもわからない。


 意味も、文脈も、残されていない。

 ただの紙。けれど、そこにある言葉だけが、まるで生きているように感じた。


 何も知らないはずなのに、読んだあと、すぐには目を離せなかった。


 私は紙をゆっくりと折りたたみ、カプセルに戻す。

 そして袖へしまう。


 報告はしない。

 その必要も、理由もなかった。


 廊下の外で誰かの足音が通り過ぎていく。


 私は息を殺し、その音が消えるまで動かなかった。




 転送処理を待ちながら、私は廊下をゆっくりと歩いていた。


 途中、隔壁が半開きのままになっている部屋があった。

 内側から漏れる光はやや低く、空気がわずかに揺れている。


 歩き続けようとした足が、一瞬だけ止まった。


 視線を横に流す。


 白い寝台の上、ふたりの個体が触れ合っていた。


 一方が上にのしかかり、もう一方はその腕の中で静かに目を閉じている。

 指先が首筋に触れ、肩を伝い、胸の下に回り込む。


 柔らかく沈む肌。

 そこに、手のひらの熱が移っていくのが見えるようだった。


 触れた瞬間に、わずかに息が吸い込まれる。

 その反応に応えるように、指が慎重に深く沈んでいく。


 額が触れる。

 呼吸が重なる。

 熱が、静かに互いの間に溶けていく。


「……まだ、大丈夫」


 小さな声。

 それは許可でも、安心でもなかった。ただの確認。


 触れる手のひらが、背中をゆっくり撫でる。

 骨の形を確かめるように。温度を感じ取るように。


 ルフの流れが始まっていた。


 目には見えない、けれど確かに存在する熱のやりとり。

 互いの身体がかすかに揺れ、シーツがわずかにきしんだ。


 ふたりの身体から立ちのぼる熱が、あの小さな部屋の空気を満たしていく。


 私は扉の前を通り過ぎ、何も言わずに歩き出した。

 背後で、扉が自動で静かに閉じる音がした。


 これは、ただの交換。

 そうであるはずだった。


 でも、さっきの熱の残像が、なぜか離れなかった。


 制服の内側で、皮膚がわずかに汗ばんでいる。


 端末の前に戻り、更新された巡回ログを開く。

 数字が並ぶ。

 適合率、エネルギー調整値、空調バランス。


 手は動いている。

 けれど、集中はしていない。


 カーソルが止まったまま、私は画面の奥を見ていた。


 ——あの子の手は、ちゃんと温かかった。


 あの紙の言葉が、ふいに浮かんだ。


 なぜ書かれたのかも、誰のことなのかも、何もわからない。

 けれど、それが頭から離れない。


 さっき、目にしてしまったあの二人のことと、

 その言葉が、なぜか重なっていた。


 肌に触れる手の動き。

 かすかな吐息。

 応えるように身体を傾ける仕草。


 熱に覆われて、境目が曖昧になる感触。


 あれは、生きるための交換。

 それだけのはず。


 なのに、あの指の動きには、もっと別のものが滲んでいたように見えた。


 ——ちゃんと温かかった。


 私は、自分の手を見下ろす。

 掌を開いたまま、動かない。

 何度もルフ交換をしてきた。

 繰り返し、正確に。

 決まった手順で。


 でも、その中で、誰かの“温かさ”を意識したことがあっただろうか。


 指先がわずかに熱を求めるように動き、

 私は静かに手を閉じた。


 端末に指を戻し、ログの送信を確定する。

 機械音が小さく鳴った。


 その音が、どこか遠くに感じられた。



 処理済みのログを端末から切り離し、記録送信を終える。


 画面に「完了」の表示が浮かぶ。

 私はタッチパネルから手を離し、立ち上がった。


 指先に、微かに力がこもっている。

 意識しているわけでもないのに。


 補給通路に出て、給水機の前で立ち止まる。

 カップを取り出し、無言でボタンを押す。

 ぬるい水が、静かに注がれていく。


 口に含むと、どこか薄く感じた。

 味が、というより、印象が。


 私はカップを戻し、制服の袖を撫でる。

 内側に隠しているものを、指先がなぞる。

 そこにあることだけが、唯一の感触だった。


 足音が、廊下に溶けていく。

 反響はない。


 私はひとつ呼吸を整え、歩き出す。


 目的地を思い出すまで、数秒かかった。

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