終焉の騎士団
すみ
第1話
リーズベントは瀕死の傷を負った身体を引きずりながら、崩れかけた城内に入って行った。あちこちから血が流れているせいで、歩くたび地面に赤い斑点を作り、感覚を失った右足が重くのしかかってくる。
すでに正面の扉が破られた大広間を抜け、右奥にある小窓を開ける。そこから顔を出すと、地下迷宮への入り口が下方五メートルほどのところに見えた。
暗がりの中でそれを見つけるのは、その存在を知っている者でなければ難しいだろう。この城の深部は、かつては王国の中枢を司る場でもあったが、今は大半が落盤によって塞がれてしまっている。
リーズベントは窓枠によじ登ると、壁を蹴り、不恰好ながらもなんとか着地した。
地下迷宮への入り口は、積み上がった瓦礫の山に空いた穴である。リーズベントはマントを裂き、出血の続いている傷口に巻きつけると、身体をよじらせて穴に入った。
すぐに石造りの階段に辿り着き、それを下っていく。
松明はないうえに、段差は不均一である。苔の生えた壁と記憶を頼りに進んでいくしかない。リーズベントは感覚を研ぎ澄ましながら、階段を踏み外さないよう、慎重に歩いた。
十分ほど歩いていくと、巨大な水路が現れた。
長年、放置されていたにも関わらず清潔さが保たれているようで、空気は澄み、獣の匂いどころか気配すらない。
どこからか流れる水音が反響し、辺りの静寂を揺らしている。
奇妙な場所だった。迷路のように複雑に入り組んでいる水路が醸す深遠な空気に呑まれまいと、リーズベントは気を引き締める。
今から彼が向かう場所は、入れば二度と元には戻れないと言われている。
今さらながら全身が痛みに悲鳴を上げ、それに共鳴するかのように、恐怖と嫌悪がない交ぜになった感情が不安を煽る。
熱で意識が朦朧としているのが不幸中の幸いだった。
まともな精神だったら必ず迷いとためらいが生じ、判断が鈍る。
しかし時間はない。
リーズベントが葛藤しているうちに戦況が混乱を極め、さらに悪化すれば、わずかな勝機も見出せずに終わってしまうだろう。
リーズベントは背中を壁にもたれ掛からせ、大きく深呼吸した。
胸元のポケットから一輪の花を取り出し、水路に向かってそれを投げ入れる。祈るような気持ちで何か反応を待ったが、何も起きない。訝しげに水路を覗き込むと、花がたゆたうばかりだった。
ふと、思わず笑いがこみ上げてきた。罵る言葉さえ思い浮かばず、壊れたようにリーズベントは笑い続けた。
あの男が約束を守るわけがない__。
花を持たせ水路に投げ込むように言ったのも、縋るような気持ちでやって来たリーズベントを見て、嘲笑うためか。ぎりぎりと拳を握りしめる。悔しさと絶望と、諦念が溢れた。多くの犠牲を払ったにも関わらず、結果はあまりに悲惨だった。国は滅びる。
何度か咳をすると、手のひらが血で真っ赤に染まっていた。脇腹に受けた剣の傷は、予想よりも深く刺さっていたらしい。
呼吸が徐々に乱れ、視界がぼやけ始める。使命を負った人間はその命を削りすぎてしまうと、どこかで聞いたことがある。強い思いが精神を圧迫し、警告が発されるのを阻害するのだろう。
ぶつぶつ文句を言いながら意識が落ちるのを待っていた時、唐突にひやりとしたものを感じた。わずかに目を開けると、額に冷たいものが乗っている。
腰を抜かすほど驚きながら、くっついてくるそれを引っぺがすと、それは自ら水路に飛び込み、リーズベントにぴちゃぴちゃと水をかけてきた。その水は凍りつくような冷たさだったが、熱を孕んだ今の身体には気持ち良かった。
「…ひどいお怪我です。少し冷たいかもしれませんが、水に入っていただければ、あとは我らが運びます」
「どこへ行くのだ?」
それの正体を問う気にはならず、ただ行き先だけが気がかりだった。
「あなたが会いたいとお思いになられた方のところへ」
「ホテル・ズックソーに?』
それはくすくすと笑うと、さあと言ってリーズベントを促した。もうまもなく尽きる命なのだから、例えこれが水魔の誘惑であったとしても、わずかな望みに賭けようと思った。のろのろ身体起こし、水に触れた瞬間、リーズベントは意識を失った。
リーズベントが目を覚ましたのは、岩肌を穿って造られたと思しき部屋の中の、藁が敷き詰められた布団の中だった。
外套や鎧だけでなく、下の着衣も脱がされているが、それは己の負った傷を手当てしてくれたためなのだと気づいた。部屋には誰もいなかったが、近くから人の声と光が漏れ出している。壁は岩肌と接しており、布団が置いてある床は地面に木を張って作ったもので、細い水路がすぐ横を流れているのは不思議な感覚だった。
もっと冷ややかで薄暗く、陰気なところを想像していたのに、存外に温かさが窺える。それに安心したのか、全身から力がすうっと抜け、リーズベントは再び布団に横たわった。天井にはどこかの地図が描かれていた。
「目が覚めたか」
突然、聞こえてきた何者かの声にリーズベント飛び起きた。
「オンディーヌに運ばれて、こんなに早く目覚める者は珍しい」
部屋に入って来たのは、痩身の女だった。長い髪を背に流し、左の耳に変わった形の耳飾りをつけている。
「オンディーヌ?」
「水の精霊だ」
女がそう言うのと同時に、グオオオオオンという何かの鳴き声と共に、臭気が漂い始めた。先ほどまでの明るさは消え、天井の地図がいかにも怪しげに赤く光っている。不穏という言葉がふさわしい状況であった。
女は眉をひそめると、周囲に誰もいないことを確かめてから、布団のすぐ横にやって来た。
「ここは〈水都〉という」
「水都?」
「左様。とにかく、おまえはここで死ぬべき人間ではないのだから、水路を辿って、ずっと西に進め。そうすれば、レチカという若い娘に会えるはずだ。二日前、最後の荷物を届けに来てくれた」
淡々とした様子の女をぼんやりと見つめながら、リーズベントは言葉を失った。
全くもって、話が分からない。だが困惑するリーズベントに構わず、女はどんどん話を進めていく。
「少し道が複雑だから、水都を抜けるまで、私も一緒に行こう」
「あなたは誰だ? 一体何がどうなっている?」
「私はリタ・シーサ。かつては水都の巫女だった。詳しいことは後で」
渡された服と血が拭き取られた鎧を着た時、身体には驚くほど痛みがなかった。リタに尋ねてみると、煎じ薬を飲ませてくれたらしい。
リーズベントが意識を失いかける遠因となった深い腹部の傷はすでに塞がり、あちこち出血していた部分も治癒し始めている。せいぜい数時間の睡眠と煎じ薬の効果であるなら、違った意味で恐ろしい。何を飲ませたのか大いに気になるところではあるが、リタの様子からして、ぐずぐずしている暇はないようだった。
部屋を出ると、同じような形をした部屋がいくつも並んでいて、どこに繋がるとも知れない通路が何本もあった。リタはそこを迷いない足取りでどんどん進んでいく。
細かな違いはあるのかもしれないが、景色はどこも同じような感じで、リーズベントは次第に混乱してきた。
どれくらい歩いただろうか、狭い通路に出口が見え、そこを抜けると巨大な広場が現れた。
不思議な形をした木がそこかしこに植えられ、地下だというのに光が差し込んでいる。広場は円形で、正面の壁から凄まじい水音を轟かせる滝が水飛沫を上げながら流れ落ち、水路を伝って流れ出ている。
いくつも橋が架けられ、側に建てられている木製の看板には地区らしき名前が書かれていた。水都は、この広場を中心として放射状に広がっているようだった。
広場の北側には煌びやかな飾り付けがなされた建物が軒を連ねていた。看板には『檸檬と石の町』と書かれていて、リタはどうやらそこを目指しているらしかった。
「どこまで行くつもりだ?」
「『檸檬と石の町』を抜けた先に神殿があって、そこの最奥に水路に繋がる道がある。大人ひとりがぎりぎり通れるぐらいのものだ。そこまでは連れて行けるが、その後はおまえさん一人で進むしかない」
「なぜ」
「水都の人間は、水都から出られない。古い契約だ」
リタはやや渋い顔をして言葉を続ける。
「先ほどの咆哮、あれは水都の支配者のものだ。かつては人の姿をした賢き王であったが、今はただの獣に堕ちてしまった。水都で生まれた人間は、王と契約を交わして初めて、水都の人間となる。名前と仕事をもらうんだ。その契約が廃れたのが八年前、水都に流れ込む水の質が変わり、子どもが生まれなくなったのと同じ時期だ」
「……よく分からないが、ここはかつて王宮の中枢を担った場所なのか?」
「残念だが、ここはそんな大それたところじゃない。我々は地上の人間とは根本的に異なる存在だ。『運び屋』を仲介して、生活に必要な物資を地上から得ている。ここは資源が限られているんでね」
「報酬はどうしているんだ?」
「水だ。ここの水には様々な効能がある。地上に湧き出る水にはないものだ」
どういう効能があるんだと訊こうとした時、さっきより一層大きな獣の咆哮と、たまらないほどの臭気が押し寄せてきた。
「さあ、もう行った方がいい。早くて半刻、長くても一刻もつかどうか分からない」
「あなたは」
「言っただろう。私は水都の巫女だ。ここで生まれ、ここで死ぬ」
リタがそう言った途端、辺りの木が一斉に燃え始めた。ガラガラと遠くから煉瓦の落ちる音も聞こえる。足下に目をやれば、澄んでいたはずの水が赤黒く濁り始めている。
「行け、早く!」
広場の中心へとリタが走り去るのと同時に、リーズベントは『檸檬と石の町』から神殿へと続く通りを駆け出した。
グオオオオオン、と身の毛のよだつ恐ろしい唸り声、吐き気を催すおぞましい臭気、それから砂の混じった熱風と、地響きを立てながら駆けてくる獣の足音が背後から追ってくる。いくつもの死戦をくぐり抜けてきたはずなのに、これほどまでの恐怖を感じたことはなかった。湧き上がる恐怖を押し留め、決して振り返るまいと固く心に誓いながら、がむしゃらにリーズベントは走り続けた。
ようやく神殿に辿り着いたのは、リーズベントが息も絶えだえになった頃だった。
白い石造りの比較的大きな建物で、静謐な空気に満ちていた。中に入ってみると、周囲をいくつかの細かな水路に囲まれた祭壇がある。特に目立った像や絵画はなく、花がいくつか供えられるばかりだった。
寂しいところだなと思いつつ、通路を探すが、全く見当たらない。
リタは最奥にあると言ったが、祭壇より先に続く道などない。水路は円を描くように造られており、見事に完結している。
どういうことだとパニックになりかけたが、リーズベントはしかし、冷静だった。もう一度、祭壇を見ると、やはりいくつかの花が供えられていた。
リーズベントは水路を渡って、祭壇に近づいた。そこには、リタの部屋で見たのと同じような地図が描かれていた。何の地図だろうと思いながらも、リーズベントは花を手に取り、深呼吸するとそれを水路に投げ入れた。
しばらくして花がゆっくりと水の中へと沈んでいき、そしてピチャピチャと水をかけられた。
「またお会いできて光栄です。何かご用ですか」
「私を、レチカという女の元へ連れて行って欲しい」
「分かりました。落ちないように、しっかり捕まって下さい」
「ああ、頼む」
はい、とかすかに笑ったオンディーヌの声と共に、リーズベントは水の中へ飛び込んだ。
「リタ・シーサとは知り合いなのか?」
「かつて親交がありました。ここ数日、久しぶりに彼女が姿を見せたので、あなたを助けてくれると思ったのです。ですが、ご一緒ではないようですね。彼女は、どこへ?」
「獣のいる方へ駆けていってしまった。あれは巫女だと言ったが、そうなのか」
「巫女ですか。あの者がそうだと言うのなら、そうでしょう」
「水都にはリタしかいなかったようだが」
「水都に子どもが生まれなくなってから、かれこれ数百年も経ちます。仕方のないことです」
「数百年? リタは八年と言っていたが」
「それは、彼女が意識のある時間が短いからでしょう」
「どういうことだ?」
「あれは獣の『良心』なのです。人の姿を取れなくなった今も、わずかに残った良心が人として姿を表します。それが彼女です。本来、彼女が目覚めている間、獣は姿を現すことができません。ですが、そうでなくなったのだとすれば、水都は本当の意味で終焉を迎えるのでしょう。あなたはまだ死ぬべきではないということでしょうね、王の『良心』に生き延びろと言われたのですから」
「……どういうことか、さっぱりだな」
「地下の世界は地上とは根本的に異なります。地上ではあり得ないことでも、地下ではあり得る。その逆もまた然り、ということです。また一つ、地下の王国が終わりを迎えました。残る王国も数えるばかりとなってしまった」
「水都以外にも、王国があるのか?」
リーズベントは驚いて訊き返した。
「古い話です。さあ、もうお眠りになった方がよろしいでしょう。この水は、あなたには冷たすぎる」
そう言ってオンディーヌは口を閉ざした。
終焉の騎士団 すみ @Sheria
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