それぞれの720°

ハヤシダノリカズ

クォーシェたちの観測

「ねぇ、リリ」

「なに?ララ」

 ゆらゆらと不確かな存在が、人には決して聞こえない声で話している。

「人間たちがなにやら言い争っているよ」

 ララに言われてリリは見上げる。ララとリリがそれぞれ担当している男と女が、立って向かい合って大声で互いを責め立てている。

「ほんとだ。ここのところ、会話らしい会話もしていなかったのにね」

 リリは女のくるぶしの辺りをくるりと回りながら言う。

「どうやら、僕とリリの楽しい時間もそろそろ終わりかも知れないよ」

 男の足の甲の緩やかな坂を上っては転がって、ララは言った。

「なにそれ。どういう事?」

 そう言って、リリはピタリと動きを止めて女の足にもたれかかる。

「僕が離れられないこの男と、リリが離れられないその女はこれまで一緒に暮らすくらいに仲良しだったけど、一緒に暮らせないくらいに仲が悪くなったのかも、ってこと」

「えー。ララの近くにいられて楽しかったのになぁ。この人間たちが離れ離れになっちゃったらボクたちも離れ離れになっちゃうんだよねぇ」

「そうだね。でも、しょうがないよね。僕らって担当する人間から離れられないんだもの」

 そう言うとララとリリはふわりと浮き上がり、それぞれが担当する人間の肩にちょこんと乗る。

「あー。ほんとにお別れが近いみたいだね。どっちも引かないって感じだ」

「そっかー。ボクたちには人間の言葉は理解できないけど、たしかに二人の感情のビリビリした感じはなんだかテッペンだなって思うよ。もうこれ以上がないって感じ」

 ララとリリは淡々と話す。それぞれの人間の肩の上で向かい合って、それぞれの怒気の横で。


 ―――


「やぁ、久しぶり」

「うん。しばらくぶりだね、ララ」

「それぞれの引っ越し作業も、お互いが顔を合わせないようにやってたみたいだったしね」

 無表情で向かい合っている男と女の肩の上にそれぞれ収まりながら、ララとリリは語り合う。

「男の方はずっと狭くて汚いホテルに泊まっていたけど、リリ、女の方はどうしてたんだい?」

「えーっとねぇ。なんだかお友達の家に泊めてもらっていたよ。毎晩そのお友達とお酒を飲みながらドロドロとした感じを垂れ流してたよ」

「へぇ。じゃあ、リリはそのお友達の見る妖精クォーシェと仲良くなれたんだね。それは良かったじゃないか」

「んー。まぁね。でも、ララといる時ほどは楽しくなかったなー」

「そうなのかー」

「ララと離れ離れになるのは本当に残念だよ」

「ほんとだよね」

 ララとリリがそう話すのをよそに、男と女は同時に背を向け歩き出した。それぞれにアパートに残っていた最後の荷物を詰め込んだカバンを手に持って。

「それじゃあ、ね。リリ」

「また会えるかなぁ、ララ」

 それぞれの肩の上で、ララとリリは向かい合って言う。ララからはリリと女の背中が見える。リリからはララと男の背中が見える。軽やかとは言えない二人の足取りがその距離を徐々に広げていく。


 その時、男が立ち止まり振り返る。

「あ、立ち止まってこっちを見てるよ!ねえ!ねえってば!あんたも振り返ってみなさいよ!」

 リリが肩の上で女にそう喚く。もちろんリリの声は女に届かない。ララを肩に乗せた男はまた踵を返し歩き出した。

 そのタイミングで、女が立ち止まり振り返る。

「おい!女が立ち止まってオマエを見てるぞ。お前ももう一度振り返ってみろ。このまま離れて本当にいいのか?」

 ララが肩の上で男に言う。もちろんララの声は男に届かない。リリを肩に乗せた女は一度足元に目をやって、それからまた男に背を向け歩き出した。


「あぁー、もう」

「ああ、もうっ」

 ララとリリは同時に吐き出す。


 男と女の距離は少しずつ離れていく。男の横を通り過ぎた自動車が数秒後に女の横を通り過ぎていく。

 その時、再度男が立ち止まり振り返った。

「あ、またこっち見てる。二度目だよ!まだ何かあるんじゃないの?あんただってさっき振り返ったじゃない。今だよ!今!もう一回振り向いてよ!」

 リリが肩から飛び上がり、女の耳元で喚く。女はまっすぐ前を向いたまま歩く。男はさっきよりも長く女の背を見つめていたが、やがて、振り向き歩き出した。

 男の歩みが一定のリズムを刻みだしたその時、女はもう一度振り返る。

「おい!また女がこっちを見たぞ!今だって。今なんだって!今、振り向いて目を合わせてみろよ。なにかあるんじゃないのか?」

 ララも飛び上がって男の耳元で言う。男はため息をついて空を見上げた。ララの声は届かない。足取りは重いがまっすぐに歩みを進める。女から離れていく方向へ。その様を見届けて、女はまた元の方へ歩き出す。


「あぁー」

「もーっ!」

 ララとリリが吐き出す嘆息も当然、男と女には聞こえない。


 そして、ララとリリの真横にある二つの口からは同時に同じ言葉が吐き出された。

『きみは幸せでしたか?』


 ララとリリにその言葉は理解できない。

 ただ、肩の上で、ララとリリはそれぞれ、一筋の涙を観測した。

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それぞれの720° ハヤシダノリカズ @norikyo

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