雨夜の相宿

ひつじのはね

 雨夜の相宿

止まない雨の中、濡れ鼠の旅人が宿の戸を叩いた。

「おや、こんな時間に。まあ、一部屋なら空いとるよ」

白髪の老婆が、少なくなった歯を覗かせて笑う。


「この年でなあ、もう宿を閉めようと思うとるんじゃけど、次から次から客が来よるもんで。どっちから来なすった? この長雨で、沢近くはよう崩れとるんだと」

老婆は提灯片手に部屋へ案内すると、行灯に火を入れて去っていった。

重くなった三度笠と草履を隅に立てかけ、羽織や脚絆きゃはんを脱いだ宗次は、長い息を吐いて腰を下ろした。

しとしと静かな雨音の中、古宿の黴臭さに、慣れた行灯の臭いが混じり始める。


しばし目を閉じていた宗次が、まぶたを上げた。

打刀に手をやるでもなく、視線だけを向けた時、板戸の向こうから老婆の声が響く。

「お客さん、相宿あいやどにしちゃあくれんかね? 布団はそれきりしかありゃせんが、畳でいいと言うんでな。女の部屋に入れるちゅうわけにもいかんで」

つまり、招かれざる客は男だろう。老婆の声は渋いが、さすがにこの雨、この時刻に追い返せないと踏んだか。致し方あるまい。


雨垂れに紛れるような足音が、廊下を近付いてくる。

「――失礼、入りますよ。相宿、かたじけなく……おや」

部屋へ足を踏み入れた背の高い男が、わずかに口角を上げた。

宗次の手は、既に打刀へ添えられている。

「驚いた。天下無双が、こんな宿で」

「それはこちらの台詞。よもや物の怪と相宿とは」

ちりり、鈴の震えるようなあわいで、男は悠然とあぐらをかいて宗次を眺めた。


「物の怪だと。よくも言う」

「……なら、この雨は」

「察しの通り。奉り事は、伊達ではないよ」

唇を引いて笑う男を睨みつけ、宗次の剣気が滲む。

「悪しき土地神、天下無双の名において成敗してくれる」

「古き約束事を守らぬ方が、悪くはないか。私はただ、雨乞いを聞いてやっただけ。それとも、お前がにえとなるか?」


裾をからげて立ち上がった宗次に合わせ、男もゆっくり立ち上がった。

戯言ざれごとを。ならば俺が水止めの舞をしてみせよう、この刃で」

「それは面白い。お前が勝てばそれでよし。私が勝てば、ふむ。お前を貰おう」


板戸を蹴倒して外へ出た宗次が、切っ先を上げて相手をめ付ける。

ざ、ざあ。

風に煽られた雨が音曲おんぎょくを奏で、二人の男は互いを写すように、円を描いてゆっくり回った。


「では、一曲お相手願おう」

男は、うっそりと笑った。



――暁に髪を染め、老婆が部屋を訪れた時。

そこには、濡れた布団だけが残されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨夜の相宿 ひつじのはね @hitujinohane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ