煙草の匂いと蝉の声

久火天十真

__________

 煙草の煙が上がっている。

 昼休み。喫煙室に集まる男に囲まれて、僕は煙草を取り出す。辺りを見回しながら、慣れない手つきでライターをいじる。スムーズとはとても言えないながらに火が点いて、咥えた煙草にゆっくりと近づける。

 上手く火が点いたのか、燃える音がかすかに響いて、耳をくすぐる。昔よく嗅いだ匂いが鼻の奥に伸びていく。

 深く息を吐く。煙草の煙を吐き出す。煙は立ち上がり、僕の頭上を歩き回る。

 もう一度吸い込むが、今度は上手く吸うことが出来ないまま、思わず僕は咳き込む。煙草の煙が息で強く揺れ動く。霧散する匂いが広がる。

 窓の外の蝉が頭に響くほどにうるさくて仕方がない。

 霧のように広がった煙草の煙。様々な匂いが入り混じりながら僕を包み込む。タバコを上手く吸うことも出来ない自分が少し情けなく思えて、煙草を口から離して指で挟む。

 僕は一体何をやっているんだろうな。

 仕事場の喫煙室で吸ったこともない煙草を持って、吸って。もう何もかもが嫌になってしまう。

 毎日誰かに頭を下げている。

 言いたくもない、思ってもな謝罪の言葉を並べて、灰色の眠らないオフィスで目の下に黒い隈べったりと塗りたくるようにつけて、たまの休みも部屋から出ることなんてないままに眠るだけで浪費して。

 いったい何のために生きているんだろうな。

 金だけが少しずつ貯まっていって、その額だけが僕の最後の命綱になっている気さえする。

 大きくため息をつく。煙は行きどころを失って、ただ上に立ち歩いている。眼前を上るその煙の向こうに、僕はなんだか懐かしい景色が見えた気がした。夏の日差しが頭から降り注いで、蝉の声に耳を貸して、風で髪が揺れる。

 煙草の煙が鼻を通り抜けて、僕の頭の中へとありし日の記憶を呼び覚ましていく。

 暖かい、手の感触がした。

 


 夏休みのこと。木造の古いアパートの通路で、僕はひとりアイスクリームを舐めていた。暑い日差しが照りつけて、汗が首筋を伝う。

 蝉の鳴き声が至る所から聞こえて、そこら中にある木の幹を眺めてみるけれど、ただ蝉がどの木に止まっているかなんてわからなくて。結局ただ流れる入道雲を眺めながら、玄関先で揺れてかすかに音を立てる風鈴の音を聴いていた。

 少し溶けたアイスクリームが木の棒を伝って手に触れる。それを舌で舐め取って、ひんやりとした冷たさと砂糖のベタつきを感じる。

 ゆっくりと食べていたけれど、暑さであっという間に溶けてしまいそうだったから、僕は急いで食べてしまう。

 こんなに暑いのに、頭はいつも通りにキンと痛くなる。どうしたって心地良い痛みなんてとても言えないものなのに、僕はそれが嫌いじゃなかった。

「あれ、坊主。何してんだ、そんなとこで。学校はサボりか」

 僕の後ろから少し寝ぼけたような、間の抜けた低い声が聞こえてきた。振り返ってみれば、寝癖がついて、ヨレヨレのTシャツを着ているおじさんが欠伸をしながらこちらに歩いてきていた。

「あ、おじさん。もう七月も終わるんだよ。夏休みに決まってんじゃん。ここで外眺めながらアイス食べてたの」

「あ、夏休み。ほんほん夏休みか」

 おじさんは欠伸で涙が出た目を擦りながら頷く。そうして僕の横に座って、煙草を取り出す。慣れた手つきで煙草を咥えて、指が滑り走ってライターに火が灯る。火がゆらゆらと揺れていて、なんだかとても綺麗だった。

 煙草の先に火が点いて、一息のうちに口から煙が吐き出される。強い匂いが辺りに充満する。嗅ぎ慣れた匂い。おじさんが纏う匂いだった。

「ねぇ、おじさん。タバコってなんで吸ってるの。体に悪いんでしょ。学校で習ったよ」

 気まずそうな顔をして、おじさんは僕の方を向く。そして下手に口角を上げて笑顔みたいな表情をして「へへへ。こうはなるなよ」なんて言う。

 そんなおじさんの顔がやけに寂しそうで、僕は何も言えなかった。

 夏の風が吹いて、風鈴が静かに鳴った。蝉はいつの間にか鳴き止んでいた。


 おじさんはよく僕の相手をしてくれる、アパートで隣の部屋に住んでいる人だった。普段何をしている人なのか最初は知らなかったけれど、お母さんはおじさんには近づくなと言っていた。それでも僕はおじさんに相手をしてもらいによく部屋に行ったりしていた。

 部屋は散らかっていて、煙草の匂いがした。でもやけに綺麗なところもあって、本棚の本だけは綺麗に詰められていた。床には一冊として落ちていることはなかった。

 特に窓際にある小さな本立てに並べられた本たちは埃のひとつも見当たらなかったのをよく覚えている。

 僕は本をよく読むような本の虫ではなかったけれど、おじさんが嬉々として本を紹介してくれるものだから、よく読むようになって、数か月で立派な本の虫に育てられてしまった。学校でもよく読むようになって、図書館の本を片っ端から読むようになった。四年生の僕の目標は卒業までに図書館の小説本の全制覇になっていた。


 夏休み中は学校の図書館が使えないから、地元の図書館に籠る日も珍しくなくなった。お母さんは夜遅くならないと帰ってこないし、別に遊ぶような友達もいない。図書館に行ったり、アパートの通路で座り込んだり、おじさんの部屋に遊びに行ったり。特に寂しいと思うようなこともなく、僕は僕で楽しく過ごしていた。

 でも、学校の人たちが集まって何かをしているのを見て、少し胸に変な感じがしたのは何でだったんだろう。親と遊びに行くクラスメイト達を見て、少し顔が熱くなったのは何でだったんだろう。

 

 ある日おじさんの部屋を訪れたら、ごみが散乱していた。「ごめんなぁ。すぐ片付けるから」とごみ箱に手早く入れていく。その手つきは見慣れたもので、なら最初からやればよかったのになんて思ったりもした。ふと足元に転がるごみが気になって拾い上げた。そのごみは紙を握りつぶした紙屑で、それがいたるところに散らばっていた。開いてみると、それは原稿用紙だった。文字が達筆に並べられていて、それが小説なんだと気が付くまで時間はそう掛からなかった。

 おじさんは小説家だった。

「俺はな、社会のはみだしもんなのさ。小説家っていったて売れてるわけでもないしな。ほらお母さんにも言われてるだろう、あの人と話しちゃいけませんって」

「う、うん。でも小説家だって知ったらきっと」

 おじさんはひとり立ちあがって、窓際に綺麗に並べられていた数冊の本の内一冊を手に取って、その拍子を撫でながらに言葉をこぼす。

「小説家ってのはね。売れなきゃなんも評価されんのよ。一般人にはね」

 悲しそうな表情だった。それに対して、窓から差し込む日は残酷なほどに明るくて、おじさんに強く影が張り付いていた。「でもまぁ俺は幸せな方なのさ」なんて呟きながら、手に持つ本を僕に差し出してきた。

「こうやって本になって売られているってだけでも、小説家としては上澄みになるんだぜ。本にすらならない小説家志望なんて余るほどいるからね」

「じゃあおじさんはもっと自慢すればいいじゃない」

 僕は疑問に思ってそんなことを聞いてみる。だってそうじゃないか。その凄さをもっといろんな人に知ってもらわなきゃおじさんが報われないじゃないか。

 僕の考えが分かったのか、おじさんは静かに笑ってゆっくりと膝をつく。そして僕の顔を正面から見て、頭を優しく撫でてくれる。細い腕だったけれど、その手は大きくて暖かかった。

「俺はね。別に理解してほしくて小説を書いているわけじゃないんだ」

 僕の頭から手を放して、胡坐をかいて座り込む。僕もそれに倣って座り込む。

「小説家にとって、一番大切なことってなんだろうね」

「大切なこと。それはやっぱり売れることじゃないの。売れればたくさんの人に読んでもらえて、お金も入ってくるんだから」

「そうだね、売れることは大切だ。これは全員に当てはまることではないかもしれないけれどね、売れることっていうのは、案外小説家にとって優先順位は低かったりするんだ」

「なんでさ」

「小説家っていうのはさ、商人とは違うんだ。売ることを考えて小説を書く人ももちろんいないわけじゃないんだけどさ。大半の小説家にとって売れるっていうのは、良い小説を書くという行為の副産物でしかないんだよ」

「小説家っていうのはさ。どうしようもなく良い言葉を書きたいし、どうしようもなく良い小説を残したいと思うものなんだよ」

 おじさんは立ち上がって、窓際に置かれた本たちを全て抱え込んで僕の前に並べる。

「この本はすべて、俺が良い小説を残したいと思って書き上げたものだ。売れたかどうかは知らないけど、それでも一応本として出してもらうことが出来た。これは売れたくて書いたわけじゃないんだ。金が欲しくてやったわけじゃないんだ。本になってそれなりの人達には売れているらしいことを聞いたときは嬉しかったけれどね」

「人間の生きる意味は長生きすることだけじゃないんだ。別に俺は俺が書いた小説が売れなかったとしても良かったんだ。俺の良いと思うものがそれなりに大衆の人たちにも受け入れてもらえたから、慎ましく生きる程度にはお金が入っているけれどね」

 おじさんは表紙を緩く撫でて、愛おしそうに眺めている。

「人間、長生きするだけが良い生き方じゃないんだ。死に場所を自分で選ぶことも、それはまた良い生き方なんだよ」

「うーん。おじさんが何を言っているのかよくわかんない」

「まぁさ。楽しいこと、やりたいことをやらなきゃ、人間生きている意味なんてないんだぜ。俺だってさ、小説を、良い小説を残したいっていうやりたいことをやっているだけだしな。それが出来なくなったなら自分で終わらせりゃいいってだけなんだ」

「死ぬのは駄目だよ。怖いし寂しいし、とにかく駄目なことだよ」

「別に死にたがりってわけじゃないんだ。でもさやりたくもないことをやり続けてまで生き続ける意味ってなんだろうな。嫌なことから逃げることって悪いことじゃないんだ」

 おじさんはまた僕の頭に手を置く。髪が音を立てて揺れる。温かい感触が頭から伝わってくる。

「坊主もさ、友達が集まって遊んでるのを見たら、仲間に入れてもらいに駆け寄ったっていいし、親と遊びに出かけるクラスメイトを見たら、お母さんにねだったっていいんだ。それがだめだったら俺のところに来ればいいし、それも嫌になったら本でも読み続ければいい」

「何でもいいんだ。何でもいいんだよ。生きることがすべてではないし、好きなことやりたいことが何もできない生き方なんて生きてるとは言えないんだから」

 夏の日差しがやけに眩しかった。おじさんの表情は逆光で見ることは出来なかったけれど、なんだか僕はその後ろにあるものを感じ取らなければとだけ思った。

 蝉の声はいつものようにうるさくて、廊下では軽やかな風鈴の音がしている。そんな世界の音が鳴り続けていたことに、僕はそのとき初めて気が付いた。


 おじさんの言葉はなんとなくわかって、何となく心に残った。でも何となく心にとどまり続けるだけで、僕の現状を変えることはなかった。どうしたらいいのか、僕はその術をずっと為すことが出来ないままだった。

 友達は出来なかったし、お母さんに何かをねだることだって出来なかった。それから一年後、おじさんはいきなり部屋を引き払って、何も言わずに消えてしまった。数年後、おじさんの名前をニュースで見るまで、僕はその行方を知ることはなかった。

 おじさんは自ら命を絶っていた。

 でも僕はそれほど悲嘆にくれることもなかった。そんなことをすればきっとおじさんへの侮辱になってしまうと思ったから。おじさんは自分で終わりを決めて先に歩いていっただけなのだから。

 ただその夜はやけに目が乾いて、久しぶりにおじさんの夢を見た。



 僕は目を開ける。

 煙草の匂いがやけに綺麗に頭を回る。

 喫煙室にはいつの間にか僕だけが取り残されていて、時計を見れば昼休みが終わる一分前になっていた。僕は急いで立ち上がろうと思って、重い腰を浮かせた。重力に逆らうようで力が嫌に入ったけれど、そのときおじさんの言葉を思い出した。

「やりたいことが出来なきゃ生きてる意味はないか」

 僕はこの辛い仕事から逃げ出してしまおうと思った。今まで考えたこともなかったけれど、逃げ出してしまおうと思った途端身体が妙に軽くなったような気がした。

 そうだ。金ならある。慎ましく生きていく分にはしばらくは困らないだろう金が僕にはある。

 そうだな。仕事を辞めたらどうしようか。

 読めずにいる小説を読み漁って、そして、おじさんみたいに小説を書いてみるのもいいかもしれない。なんだか昔を思い出したらいろいろと書きたいものが頭に浮かんできた気がする。

 僕は軽くなった身体で、喫煙室を意気揚々と飛び出していった。

 窓の外からは蝉の声が大合唱を起こしている。

 夏の蝉の声を僕は久々に心地よく聞いた気がした。


 

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