磊落

金沢出流

磊落

 ニンゲンは強いのにボクは弱い。

 ボク個人は弱いというのに、ニンゲン全体が強すぎるモノだからこの地球での生活に於いて、そこらの猫にも勝てないであろう弱いボクであっても強く生きていける。

 この世のニンゲン社会に於ける弱肉強食とはもはや、暴力的にだとか、経済的にだとか、そういう例え話としてしか使われず、現代ではこの地球上にニンゲンの群体以上に強い生物は存しないモノだから、ニンゲンがその他の強い動物によって文字通り捕食されることなど、先進国に於いてはごく僅かの例しかない。つまるところ、弱者であるというのに弱者たるこのボクという個体が、他の生物に喰われるということはほとんどありえない。

 これを、ボクは、なんだかバランスがわるいようにおもった。ニンゲンも、他の動植物同様になんらかのモノに喰われるべきだ。

 だからバランスを取るために、ボクはこの社会に於いて、ニンゲンを喰う役割を担いたいと幼少の頃にそう夢見て、しかしそのことを誰にも言えずにいた。

 とはいえチカラがあるわけでもなければ、アタマがよいわけでもなかった。この社会でニンゲンを喰おうとおもっても、なかなかむつかしい。日常的にニンゲンを喰らう術などほとんどないが、ひとつボクにもできそうな道があった。


   *


 東海道の宿場町のひとつである平塚。上ってゆけば保土ヶ谷、戸塚、藤沢ときての平塚だ。その街にはエンバーマー養成校が在る。

 エンバーマーとはエンバーミングを行う者のことで、エンバーミングとは遺体衛生保全術、死体防腐処理のことだ。

 入学するまで知る由もなかったが、平塚はよい街だった。そこそこ都会であるし、だいたいなんでもある。海水浴場もあれば、お気に入りの、殊に平塚街道沿いに在るラーメン店、平塚家のラーメンの味わいは他の街にもあるようでいて、やはり他の街にはない味わいがあった。つまるところ、平塚独自の文化というようなモノがこの街にはある。神奈川の湘南地区でもあるから、それらの風土も混ざり合っている。

 エンバーマーの実習は我慢の連続だった。目の前に肉があるのに喰えないからだ。

 指導者たちは御遺体の尊厳、尊厳と口煩く、ニンゲンの尊厳というモノのよく判らないボクは内心辟易としていた。異端だと罵られようと、ニンゲンは死んだらただの人肉の肉塊だというのがボクの考えだった。人格や神聖が宿るのは意識や魂と呼ばれるモノであって、肉体は世界からの借り物なのだというのがボクの考えで、それはどうにも変えようがなかった。

 とはいえしかし、指導者たちに倣い、ボクも遺体に対して礼節と遺体生前の尊厳を遵守しているようにみえるであろう風に振舞った。

 エンバーマー養成校二年次に進級し、同時にスチューデントエンバーマーの資格を得た。これは正規のエンバーマーの補助があれば、遺体衛生保全術を行うことができるという資格だ。

 夏の猛暑日であった。

 通常、エンバーマーの作業着はスクラブと呼ばれる、よくドラマなどで看護師が着ている作業着の上にエプロンを着用するのだけれど、ボクは喪服の上にエプロンを着て作業することにしている。だからとても暑い

 遺体を前に合掌し、作業をはじめる。

 老いた男性の遺体だ。その顔貌をひとめみればそこにはもはや生命がないと判る。

 繊維質なマグロの赤身シャーベットのような凍った肉を削ぎ進む。遺体衛生保全は主に大腿動脈から薬液を注入するため、遺体の太腿部分を損壊する必要がある。今回の遺体のように凍っていたら尚更だ。凍っていなければ肉を裂いて大腿動脈に管を刺すのだけれど、凍っていると肉を裂くというより、肉を削ぎ進むことになってしまう。

 掘り当てた大腿動脈に管を刺し、薬液を注ぎ込む。しかしなかなか薬液が全身に回らない。老人の遺体の血管には血栓ができているなんてことが多々ある。大腿動脈に突っ込んだ管をぐりぐりと前後に揺さぶり動かし、むりやり血栓を追いやる。

 薬液の、ホルマリンがマスクを通して気管支を焼くような感覚があった。今回の実習先は作業場の換気性能が粗雑で、ここでもし煙草でも吸おうものなら火事を起こしてしまいそうだった。

 そんなことを考えていたせいか、あるいはホルマリンでアタマがやられていたのか、手元が狂ってしまって、遺体の肉を少し、削ぎ落としてしまった。ボクはそのちいさな肉片をメディカルペールに捨てた。


   *


 実習をはじめてからしばらく、自身から腐臭が漂っているような気がしてならず、通学の電車内ではどうにも縮こまってしまうようになった。車内で不機嫌な表情のヒトをみると、じぶんの匂いのせいなのではないかと、おもってしまう。

 帰宅して、服には消臭剤を噴霧し、身体には香水をつける。それでも腐臭は消えない。


   *


 ある日の実習からの帰り、夕暮れの逢魔時、ひらつかビーチパークへひとり訪れた。海水浴場だ。来る途中に買った水着へと着替え、海に入った。

 冷たい海水を纏うと自身にまとわりついていた腐臭が消えた気がした。洗い流されたようにおもえた。

 ただしばらく、泳ぐでもなく、空を見つめ、波に流された。

 エンバーミングの実習を通して感じたのは、ボクはニンゲンの肉に対して、食欲というモノがまるで湧いていないという事実だ。人肉を喰うという幼き日の夢のためにこのような道を来たというのに、どうしてこんなところにきてしまったのだろうという想いが湧いているのが判る。

 しかし、来年、正規のエンバーマーとなり、ひとりで処置を任される立場となれば、遺体の一部を損壊し、その肉を盗んで、それを喰らうことなど容易にできるようになる。

 ボクは夢を実行するか否かで悩んでいた。それは倫理的問題からではない。食欲の問題だ。食欲もないままに無為に食すというのはなにか、ちがう気がした。

 かといって、これまで、食欲もないのに、口寂しさから食事を摂ったことなどいくらでもある。人肉ではそれがだめだというのも一貫性がない。

 ふいに飛沫が上がって、湘南の海水が口に入った。ボクはその塩辛い水を飲み込んだ。


   *


 エンバーマーになるにあたり、病理、微生物、解剖学、葬祭知識や関連の法規について学ぶにつれ、人肉食などするモノではないと判った。

 当たり前のことだけれど、遺体を損壊し食すなど違法であるし、人肉を食すというコトには病のリスクがある。脳みそを食せばクールー病の恐れがあるし、内臓を食せば肝炎の恐れがある。血液から感染する病もあるから大腿肉を食すのだってそれなりにリスキーだ。

 知識が増えれば増えるほどに食欲が削がれた。


   *


 入浴中に亡くなったという遺体がやってきた。

 ヨーグルトのような甘酸っぱさのある腐臭。合掌する。処置はむつかしかった。肌がでろでろに溶けていて、すこし触っただけで、皮膚がごろっと剥ける。

 こうなっては縫合しようが、薬剤で固めようが、どうしようもない。防腐剤を撒いて、処置を終えた。

 やはり食欲は湧かない。


   *


 それは新鮮で若い人肉だった。

 喰うならこれだろうとかつて夢見た姿そのままの遺体が眼前にあった。しかし、ボクの食指はうごかなかった。食欲が湧かない。

 それでもボクはその肉を盗んだ。夢のためだ。指導者の目を掻い潜って、その新鮮な肉の一部をすこしだけ、メスを用いて切り取り、喪服のポケットに納めた。

 帰り道の駅のそばにあるスーパーマーケットに寄って、冷凍食品を買い、ドライアイスを手にした。トイレに寄って、個室内で盗んだ肉を、ドライアイスの入ったビニール袋で包んだ。

 速足で歩く。電車に乗った。心臓が高鳴る。自身から腐臭が漂っている気がして、誰かに視えられている気がして、この場から逃げ出したかった。とんでもないことをしていると判っているが故に、冷静ではいられなかった。

 自宅に着くと、キッチンに行き、檜のまな板の上に盗んだ肉を取り出した。塩を塗し、ギュッと押して、できるだけ血を抜く。鉄のフライパンをあたためる。水滴をフライパンに垂らし、鉄の表面温度を確認した。

 人肉を鉄に載せた。両面よく焼いた。

 こおばしい匂いがした。

 焼き上がったそれを皿に載せる。

 食欲を感じた。

 合掌する。

「いただきます」そう云って瞼を閉じた。

 喰らった。

 ──不意に腐臭を感じた。それが呼び水となって我慢ならない嘔気が迫ってきた。なんら用意もままならず、その場で嘔吐し、咳き込み、また吐いた。


   *


 それから六日、無断で休み、七日目、ボクは退学を申し出た。

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