episode2.
気がつくと、暗闇に倒れ込んでいた。
なにやら湿っぽい空気を肌に感じるものの、獣の息づかいを近くに感じる事はなかった。どうやら今この場には私一人なんだなと気持ちを落ち着かせる。ふぅと小さく息を吐くとそのままゆっくり体を起こした。
(まさか気を失ってた?あいつは何だったんだろう…なんでこんなに真っ暗なの?)
もし日が沈んでしまったとしたら非常にまずい。さっきの物音が本当に獣だとすればこの洞窟を住処にしていることは間違いないだろう。あいつは必ず戻って来る。しかし小さな光一つ見つけられないのでは動こうにもどちらへ行けばいいのか全く見当がつかない。このまま朝を待つべきか…。
(いや、待てよ…光が届かないほど遠くに連れて来られたんだとしたら……?)
ドッドッドッと心臓の音がうるさい。
ひとり思考を巡らせ絶望の淵に立たされる。最悪の事態ばかり浮かんでじわりと嫌な汗がまとわりつく。うっすらと涙が込み上げて来た。あの時引き返していればこんな事にはならなかったのにと少し前の自分をひどく憎んだ。しかし泣こうが喚こうがこの場に居る事実は変わらない。どうにかして外に出なければ、光を見つけなければ。例えあの獣に運良く出会わなくとも、いずれは腹が減りこの洞穴で息絶えることに変わりはないのだ。ならば出口を探すしか私に生き残る術はない。ぐっと涙をこらえて立ち上がる。そうして私は暗闇の中を岩肌の感触だけを頼りに歩き始めた。
かなりの時間が経ったように思う。休み休みであれ、それなりの距離を歩いてきたはずだ。しかし岩肌はどこまでも続いていて光どころか風のゆらぎ一つ感じられない。本当に随分奥まで来てしまっていたのか、それとも出口は逆方向だったのか…当てもないまま歩き続けるには気力も体力も限界を迎えようとしていた。
体が重い。お腹も減った…。
私は思わずその場にへたり込んだ。
そぼ時初めて鼻腔をくすぐる甘い匂いが漂っていることに気がついたのだ。瑞々しく艶めかしくもある何とも形容しがたいその香りは、私の飢えを加速させる。
何か食べられるものがあるはずだ。この香りが食べ物でなくても香りのもとを辿れば誰かに出会えるかもしれない。助けてもらえるかもしれない。一端の希望を胸に、私は暗闇のなかを更に先へ進む。どんどん香りは強くなっている。もう少し、きっとあと少しだ。
また暫くの間、空腹と戦いながらも歩を進め、少しひらけたような場所に出た。もちろん岩肌の感触のみで感じられることだが、明らかにこの場所は天井が高く道幅も先程の倍以上はありそうな気がする。それにあの香りもこの辺りから漂っているように思う。最初に比べて強烈なほど、甘い。例えるなら熟しきった果実のような香りだ。居ても立っても居られないままゴクリ、と唾を飲み込んだ。
ああ、この果実はどこにある。はやく喉の乾きを癒やしたい。汁を滴らせてかぶりついてしまいたい!はやく…はやく!!
地面を這いずりまわって果実の在処を探す。程なくしてその広場の一番奥にそれはそれは大きな箱を見つけた。例えるなら葛籠のように蓋がついているような箱なのだが、とにもかくにも大きい。大人二人がかりでもこの蓋を押し上げるのは苦労するだろう。子供の姿の私では到底ひらくことができないのは重々分かっている。しかし、この箱から一層強く香るのだ。諦めなどつくはずもなく残りの体力をすべて捧ぐように何度も力を込める。だが本当にびくともしない。
「クソッ!動けよ!!」
何度目かの焦燥感に耐えきれず、大声を荒げて箱を殴りつける。同時に手にはぬるっとした感触が残った。果実の汁が滴っているのだろうか?あるいは箱についたカビや苔の類か。これだけ水分を欲していても、このカビや苔で飢えを補おうという気には全く持ってならなかった。なにせこんなにも美味しそうな匂いがするものが目の前にあるのだ。何としてでもこの果実を喰らいたい。私の頭の中はもうそれだけでいっぱいになっていた。だからこそ気がつかなかったのだ。
ざりざり…ドンッ…ざりざりざり…ドン…
何か重い物を引きずるような音と、大きな足音がもうそこまで来ていた。
(やばい…!隠れなきゃ!)
私はとっさに岩と箱との隙間に挟まって身を隠した。
そいつはハァーーと低く重い息を吐くと、箱の前まで来てドゴン!と大きな音を立てた。
地面が揺れる。座り込んだ…のだろうか。これだけ揺れるんだ、明らかに屈強な大人の男という言葉では済まされない何かがそこに居る…。見つかれば殺されるかもしれない。
そいつは何かカツンカツンと物音を立てていた。3度目で音が変わり、ほぅっと視界がオレンジ色の光に包まれる。
(灯り!?火を使える…!!こいつは獣なんかじゃない……モノノ怪だ!化け物だ!!)
バクバクと心臓が脈打って、乾いていたはずの体から嫌な汗が一気に吹き出た。まずいぞ…こんなことなら暗闇のうちに逃げ出しておくべきだった。こうも視界が鮮明になってしまっては身動きが取れない。
(怖い…誰か助けて………!)
正体のわからないものがどれほど大きな恐怖となるかは言うまでもあるまい。私はしばらくの間ガクガクと震えていた。
それでも急に冷静さを取り戻したのか、はたまた恐怖で頭がおかしくなったのかは分からないが、『確かめたい』と、思い始めたのだ。一体こいつがどんな姿をしているのか。本当にモノノ怪の類なのか。何をするためにここへ来たのか。どうしてもその目で確かめてみたくなった。身動きを取らず息を殺してやり過ごすことが賢明なのも分かっていた。それでも、どうしても、知りたくて仕方がない。こうなるともうダメだ。私は私に従うしかないのだ。
手は汗でじっとりと濡れていた。できるだけ物音を立てぬよう細心の注意を払って、隙間からそっと顔を覗かせる。
(ヒッ……や、やっぱり化け物だ…!!)
まず一番に目を引くのは肌の色だ。明らかにそれは人間のものとは違っていて、ゴツゴツとしていて真っ赤だった。体の大きさも巨漢では済まされないほど人の2倍も3倍も大きい。更には耳の横まで裂けきった大きな口からぬるりと長い舌を垂らしてギラギラと鈍色の歯を光らせている。薄汚れた白髪はまるで老婆のようで、仄暗い灯りでも髪の隙間から覗く真っ黒の目玉がギョロっと動くのが見えた。
のそのそと大きな袋をまさぐる手元には、黒く鋭い爪が伸びていた。あんなので引っかかれたらひとたまりもない。一瞬であの世行きだ…。私はせり上がってくるものを必死に飲み込んだ。ただひたすらに震えが止まらない。
そんな私を知る由もなく、そいつはふと袋から何かを取り出し大きな口に放り込む。グチャグチャと音を立てて咀嚼してからゆっくりと飲み込んだ。ゴクリ、と喉が鳴る。
私の音かあいつの音か。恐怖でかき消されていたあの香りが蘇り、一面に甘い空気が漂う。頭痛を伴うほどの香りに満たされたこの場所で、その化け物は食事をしていた。あの甘い香りの果実を嬉しそうにうっとりと味わっていたのだ。
それから箱の蓋をザザザと簡単に押し上げて、中の物もグチャっと噛み砕いてはジュルジュルとすすったりしてみせた。それが何の果実なのかここからでは確認できないが、この甘美な香りはそこから香っているに違いない。じゅるりと唾液が溜まるのが分かる。
見ろ、あいつの恍惚とした顔を。
こんな化け物が惚けてしまうくらいにその果実は美味いのか。ああ、私もその果実がほしい。あまりに美味そうにそいつを喰らうものだから、私のタガはもう外れてしまっていた。なりふり構わず隙間から這い出し、よたよたとその箱に近づく。
そして、ハッとした。
化け物と目が合う。ぬらぬらと大きな目玉が私を捕らえている。馬鹿なことをしたと血の気が引くのを感じていた。
しかし驚くべきことにその化け物は、私を一瞥して視線をすぐに箱の中へ戻した。こんなガキに構っていられないという風に箱を抱えて一心不乱に食事を続けている。それほどまでにこの果実は美味いのか…?何が何でも食べてみたい!!
しかしあいつが食事を続ける隣で私は指をくわえて見ていることしかできない。迂闊に手を伸ばそうものなら鋭い爪で切り裂かれてしまうかもしれない…。それなら食べ終わった残骸を漁るしか…。化け物の残飯を漁るなどまともな思考ではないことは明らかだった。だがそんな事すら些細に感じるほどに、焦がれてしまう。欲してしまう。あまりにも美味そうで、その果実を喰らいたくて仕方がない。
ふと視線を横にやると、化け物がまさぐっていた袋が広場の片隅に転がっているのが見えた。
(もしかしたら袋の中にまだ残っているかもしれない!でもあいつが……いや、箱の中身に夢中で気づかないか…?)
そろりそろりと側まで近付いて、袋へ静かに手を滑り込ませる。仄暗い空間で手の感触を頼りにゴソゴソ…と模索する。
(うーん……あ、あった!あったぞ!!)
ずっしりと重い感触を確かめるとそのまま一直線に口元へ引き寄せ、歯を立ててガブリ!とかぶりつく。この瞬間、私はもはや獣と変わりなかったように思う。じゅわわと汁が溢れて止まらずたらーっと顎へ滴った。かまわず二口、三口と貪りついて、それからゆったりと咀嚼をした後でごくん!と喉を潤す。
「っ…………!」
私は今まで味わったことのない幸福感に包まれていた。
なんて甘い…!それにこの香り!生まれて一度も口にしたことがない代物だった。
たまらずまた新しい物へかぶりついては汁を啜りゴクゴクと喉を鳴らした。乾ききった体が満たされていくのが分かる。先程までもう一歩も動けないと思っていたのに、今では全身の力が漲るようだ。
しかし飢えが治まるにつれ頭が働くようになってみると、それは果実の食感とはまるで違っている事に気がついた。甘い汁は溢れて止まらないのに、柔らかくふにふにとした弾力がある。本当に不思議な食べ物だ。これはなにかの生き物なんだろうか?
(生き物……………肉……?)
その瞬間、サーっと血の気が引くのが分かった。指先が冷たくなる。私はブルブルと震える手に感じるずっしりとした重みへと、恐る恐る視線を落とした。手の平には確かに赤黒いグチャグチャの肉片が存在している。
「肉だ…私があんなにも焦がれていた香りが血の匂いだったなんて……」
そうだ、私達は幼い頃から村を出ることを禁止されていた。私の暮らす村ではよく人攫いがあったから。
男であろうが狩りにも行かず皆で果物や植物を育てて食べる。当然のごとく肉など一度も口にしたことがなかった。
それが昔からの習わしで不思議に思うこともなかったけれど、今なら分かる。
私達は怪物だ。
血の匂いは甘く甘美な食欲をそそる香りであり、肉は私達を狂わせる。
一度血肉を喰らえば最後、もう人間の真似事など出来まい。私もその匂いに釣られた化け物だったのか。
周囲を見渡すとやはり人間の頭やら指やらが至る所に転がっていた。そして化け物の口や爪には赤黒い液体がべったりと塗りたくられている。
そう、私自身にも。
化け物は親しみを込めて私を呼ぶ。
「オイシイ……?ネ゙?キミチャン」
【第二夜】喰ライシモノ 一色 @ishiki1011
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